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プロローグ・春人編

 なんて冷たい手なんだろう。


 五歳の冬の終り、僕が初めて由夏ちゃんに会った時に感じたことだ。


 その日、昼寝から目覚めた僕は、家に誰もいないことにパニックになった。泣きながら孤独に耐えていると、外からお母さんの声が聞こえてきた。


 僕は開けられたドアをすり抜けて、そこにいたお母さんに抱き付いた。


 お母さんは僕に謝ったが、感じた恐怖を消し去るには不十分で、僕は悪態をつき続けた。


 そこに、聞いたことのない人の声が聞こえたので、僕はそちらに顔を向けた。


 そこには背の高い大人の女性と、僕と同い年くらいの女の子がいた。


 僕は怖くなって、お母さんの後ろに隠れて二人のことを見た。特に、女の子を注視した。


 その女の子は、ブラウンのミドルロングの髪にワインレッドのボーラーハットを被り、レースが施された白いコートを着ていて、大人びた容姿だった。


 その女の子が僕に近付いてきて、挨拶をしてくれたが、僕にはその女の子が怒っている様に見えて、お母さんの後ろに下がろうとした。


 けれど、お母さんは僕を無理やり女の子の前に立たせて、挨拶する様に促した。


 僕は恐る恐る右手を伸ばした。


 女の子の手が僕の手を握った。


 その感触の冷たさは、いくら冬の終りの札幌を歩いてきたといっても、説明がつかなかった。


 その驚きが僕に頭を上げさせた。


 女の子と視線が重なると、もうそこに怒りの表情はなかった。


 そのことに僕が安心した途端、女の子は僕の顔に両手を添えて顔を近付けてきた。まるで、僕の体で暖を取ろうとするかの様に。


 女の子の唐突な行動に、僕はただ驚くだけで、体を強張らせることしかできなかった。


 そして、女の子は僕にキスをした。


 手とは違ってその唇は温かくて、女の子の体から香るミントの香水が僕の頭を痺れさせた。


 だが次の瞬間、大人の女性が僕たちを引き離し、そして、僕の耳にはっきりと聞こえるほど強く女の子に平手打ちをした。


 なおも折檻しようとするその女性にお母さんが慌てて飛びかかり、諌めた。


 大人同士の荒い声が響いていた。


 それなのに、女の子は涙ひとつ流さず、叩かれた右頬に右手を当てて立ち尽くしていた。そして僕の視線に気づくと、痛みに耐える仕草をしつつも、僕に微笑みを浮かべてくれた。


 そのあまりの光景に、僕は泣き叫んだ。


 一週間後、大人の女性が再び家にやって来た。女の子はいなかった。


 先の一件の後、僕はお母さんから、あの大人の女性は長谷川里香(りか)さんという人で、お母さんの親友だということ。そして、女の子は娘の由夏ちゃんだということを教えられていた。


 里香さんがお母さんに、先週の一件について謝罪した。そして僕にも、怖い思いをさせてごめんなさいと謝った。


 その後、僕は二階の自室にいるようお母さんに指示された。


 下の居間から聞こえるお母さんの声は、子供への暴力を強い口調で非難していた。だがしばらくすると、お母さんの泣き声が聞こえてきた。


 僕にとって、生まれて初めて聞く大人の泣き声だった。


 そしてそれは、僕がこっそり部屋を出て、階段から下の様子を伺おうとした時だった。


「今度そんなことしたら、警察に通報するからね! よく覚えておきなさい!」


 温厚なお母さんの怒号に、戦慄が走った。そして、これから何か尋常ならざる事態が起きるのではと、幼い僕に思わせた。


 それから、僕と由夏ちゃんは月に数回会う機会を持った。


 お互いの家を行き来して、お父さんも交えて家族ぐるみの付き合いをする様になり、時には一緒に遠出することもあった。


 お母さんと里香さんは口論の後、しばらくは二人ともばつの悪い感じが見受けられたが、次第に関係は修復されていった。


 お母さんは、とにかく由夏ちゃんのことを気にかけていた。そして、会う度に由夏ちゃんに異変がないか観察していた。


 由夏ちゃんは東京にいた時から幼稚園には通っていなかった。代わりに、色々な習い事を受けていた。それも里香さんの教育方針の様だった。 


 僕はというと、口には出さなかったが、二人、特に由夏ちゃんのことが苦手だった。


 由夏ちゃんは僕と同い年なのに大人っぽくて、趣味も芸術的だったから、どこか近寄りがたい雰囲気があった。何より、最初に会った日のことが頭から離れなかった。


 一方の由夏ちゃんは、僕に会うのを楽しみにしている様だった。由夏ちゃんはいつも僕に色んなことを話してくれたのだが、それは幼い僕には知的すぎて、相づちを打つので精いっぱいだった。


 そんな関係が一変したのは、僕らが小学校一年生の五月のことだった。


 五月下旬の日曜日、僕たち家族は、由夏ちゃんが通っていたバレエ教室の発表会に招待された。


 僕は小学校の入学式で着た黒いスーツを着せられて、正装した両親と一緒に会場のホールに向かった。


 バレエ教室の発表会ということで、僕たちはてっきりどこかの小さなホールで開かれるものとばっかり思っていた。


 ところが、地下鉄の駅から五分ほど歩いたところにあった会場は、両親も驚くほどの綺麗で立派な建物だった。


 明るい吹き抜けのエントランスホールに入ると、招待客や生徒の父兄と思われる人たちが数十人いて、挨拶を交わしていた。そこに着飾った里香さんとご主人の(ひろし)さんがいて、場馴れしていない僕たちを迎えてくれた。


 由夏ちゃんは既に控え室に入って準備していた。


 発表会の会場は、その建物で最も大きい四百席はあるホールで、僕たち五人は舞台正面の前方に座って開演を待った。座席は僕が真ん中で、右側が僕の両親、左側が由夏ちゃんの両親だった。


 発表会は、コンクールと同じくソロで演技する形式で、子供の発表会としては珍しいとのことだった。


 弘さんは、着席すると高級そうなビデオカメラを用意し始めた。その表情は、愛娘の晴れ舞台に緊張している様だった。


 里香さんは、鼻高々という気持ちが言葉や仕草から見て取れた。


 大人たちの会話が周囲を飛び交う中、僕はというと、ただ気だるさの中にいた。そして、次の日までにやらなければいけない算数の宿題があったことを思い出して、さらに嫌な気持ちになっていた。


 しばらくすると、開演のアナウンスが流れ、場内の照明が落とされた。次に幕が上がり、まぶしさを放つ舞台が現れた。


 アナウンスが生徒の名前と演じる曲目を読み上げると、生徒が舞台に現れ、音楽に合わせて演技が行われる。


 こういった場所に来るのが初めての僕にとって、目の前で演じられるバレエは、美しいとは思っても心踊らないものだった。けれど、大人たちの都合や面目もあるので、一応、全ての演技は見ていた。それでも、まだ幼かった僕の集中力は次第にすり減り、姿勢も少しだらしなくなっていった。


 早く終って帰りたい。ふと首もとで僕を圧迫するネクタイをいじりながら、そんなことを思った。


「春くん、次が由夏ちゃんの番だよ」と、お母さんが横から教えてくれた。


 その直後に「十三番、長谷川由夏『ジゼル』のヴァリエーション」というアナウンスが流れ、弘さんがビデオカメラを舞台に向けた。


 また、僕のお母さんも携帯電話で舞台の撮影を始めた。


 そして、軽やかなピアノの音色に合わせて、白のロマンティック・チュチュを着て、シニョンにした髪にティアラを戴いた由夏ちゃんが舞台袖から現れた。


 演技が始まると、周りの雰囲気が変わったのを感じた。その訳はすぐにわかった。


 バレエに詳しくない僕にも、由夏ちゃんの演技がそれまでとは別格であることが容易に認識できた。余裕を持っているが、決して稚拙ではない、高い次元の体力、集中力、そして表現力を必須とする舞踏がそこにあった。


 由夏ちゃんの演技は、時間にすれば二分と少し。たったそれだけだ。たったそれだけの時間で、僕の由夏ちゃんへの感情は一変した。


 普段の大人びた由夏ちゃんを知っている僕にとって、白い妖精の様な由夏ちゃんは、年相応の可愛らしい女の子に見えた。そして、途端に由夏ちゃんが遠い存在に思えてきて、僕は焦燥感に駆られた。


 その後の生徒の演技は、心ここにあらずでほとんど記憶に残らなかった。


 発表会が終って、僕たちはホールをあとにした。


 里香さんは、由夏ちゃんの着替えを手伝うために控え室に行き、僕たち四人は、エントランスホールで二人が出てくるのを待った。


 その間、僕の頭の中は由夏ちゃんのことでいっぱいになった。


 おしゃれな由夏ちゃん。


 物知りな由夏ちゃん。


 音楽が好きな由夏ちゃん。


 辛いものが苦手な由夏ちゃん。


 そして、その純真無垢な笑顔をいつも僕に向けてくれた由夏ちゃん。


 なのに、僕は誠意の欠けた態度で由夏ちゃんに接していた。それも、ついさっきまで。


 会いたい。


 でも、会いたくない。


 それ以前に、会ってくれるかわからない。


 夕暮れの気配が漂いはじめたエントランスホールで、僕は由夏ちゃんへの矛盾に満ちた感情に陥っていた。


 その時、弘さんが「春人君、ジュースでも飲まないかい? おじさんは喉が渇いちゃってね。買ってあげるよ」と僕に話しかけた。


 僕は遠慮したが、わざわざ見に来てくれたお礼とのことで、ごちそうになることにした。


 僕の両親は弘さんにお礼を言うと、控え室の方に様子を見に行くと弘さんに伝え、その場を離れた。


 大人たちのその行動に少し違和感を感じつつも、僕と弘さんはエントランスホールの端にある自販機に向かった。


「遠慮しないで、好きなもの選んでいいよ。あれ、ちょっと待ってね。財布はどこだ、どこだ?」と、弘さんの仕草にやはりどこか芝居じみたものを僕は感じたが、表情には出さず、何にしようかと自販機に目を向けた。背後の気配には気づかなかった。


「それじゃ、サイダーを」と僕が言いかけた時だった。


 突然、後ろから誰かが僕に抱きついて、両手で僕の視界をふさいだ。


 予想外の出来事に僕は驚愕し、情けない声を出して身じろいだ。


「だぁ~れだ」


 耳元に吐息と共にささやかれた、オカリナの様に澄んだ甘い声音には聞き覚えがあった。そして、鼻に香るミントの香水が、あの日のことを鮮やかに思い出させた。


 僕は体を静止させて、上ずった声で「由夏ちゃんでしょ?」と答えた。


 すると、僕の視界をふさいでいた両手は離され、柔らかい重さから背中が解放された。


 僕が振り向くと、そこには由夏ちゃんがいた。


 由夏ちゃんは「パチパチパチ~正解で~す」とはしゃぎ、小さく手をたたきながら純真無垢な笑顔を僕に向けた。


 僕の視線は由夏ちゃんに釘付けになった。


 由夏ちゃんは、さっきの純白の姿とは正反対の、首もとと襟袖にフリルのついた半袖の黒いワンピースを着て、髪型はいつものミドルロングに戻っていた。そして、大人物の黒い小さなハンドバッグを腕にかけていた。


「春人君、今日は見に来てくれてありがとう。春人君が見てくれてると思うと緊張しちゃったけど、がんばって踊ったんだよ」と、由夏ちゃんは少し照れながら言った。


 その言葉は、さっき感じていた僕の不安を拭い去ってくれた。そして、胸が苦しくなる様な感覚が僕を襲った。


 由夏ちゃんは「私のバレエ、どうだった?」と、指を組み合わせて、うつむき加減で少し不安そうな口調で僕に感想を求めた。


 舞台の上の白い姿と、目の前の黒い姿のコントラストの違いに、僕は思わず「本当に由夏ちゃんだったの?」などと口にしてしまった。


 それを聞いた由夏ちゃんは、顔を上げるとほっぺたを膨らませて拗ねてしまった。


 すると、由夏ちゃんは姿勢を正し、片足を後ろに引いて、お辞儀をした。


 その姿を見ていると、横にいた弘さんが「これは『レヴェランス』といって、バレリーナが先生や観客にするお辞儀だよ」と教えてくれた。


 それを聞いて向き直った由夏ちゃんは「これで信じてくれたかしら?」と、すました顔で僕に尋ねてきた。


 僕は「疑ったわけじゃないんだ。すごく綺麗で、見とれちゃったんだ」と弁解した。


 由夏ちゃんは「あ、ありがとう」と小声で答えた。


 そこに、エントランスホールの反対側から僕の両親と里香さんが歩いてくるのが見えた。


 それに気づいた由夏ちゃんは「パパ、協力してくれてありがとう」と弘さんに言った。


 弘さんは「実はね、春人君を驚かせたいって由夏から頼まれて一芝居打ったんだ。妻が知ったら怒るから、春人君のご両親にも協力してもらって、時間稼ぎしてもらったんだ」と僕に説明してくれた。


「春人君、今のことママには秘密だからね」と念押しされ、僕も了承した。


 戻ってきた僕の両親は、口には出さなかったが、ニンマリとした顔で僕のことを見ていた。


 里香さんが「何かあったの?」と尋ねると、みんなして「何も」と声を合わせて答えたのが面白かった。


 僕たちは外に出て駅に向かって歩きはじめた。


 外に出て気づいたが、由夏ちゃんのワンピースの胸元にはスパンコールが施されていて、夕陽に反射して由夏ちゃんをきらめかせた。


 その姿に、僕の鼓動が速まった。


 外は少し肌寒かった。五月の下旬、北海道に短い夏がやってくる前、冬が別れを告げるように振り返す寒さ。リラ(ライラック)の花が咲く時期と重なることから、地元の人が「リラ冷え」と呼ぶ気候だ。


 由夏ちゃんは寒さを感じたのか、やや身を縮こませた。


 僕が「寒くない?」と心配すると、由夏ちゃんは「大丈夫。それよりみんなで歌おうよ」と僕たちに提案した。


 そして、由夏ちゃんは英語の歌を歌いはじめた。


 それに続いて僕のお母さん、次に弘さんが歌い、最後には全員で歌った。


 僕は、その曲を聞いたことはあったけれど、歌詞は知らなかったのでラララと歌った。


 すると、左隣を歩いていた由夏ちゃんが僕の左手をそっと握ってきた。


 僕はドキッとしたが、その手を握り返した。


 リラ冷えのする夕暮れの街で、みんなで歌を歌いながら感じたその感触は、前より温かくて柔らかかった。


 もう戻ることのできない、遠い日の記憶。


本編に続く。

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