第十一話
二人を乗せたタクシーが病院に到着したのは、午後二時過ぎだった。
料金を支払ってタクシーを降りると、二人は正面玄関から館内に入った。
館内は診察の順番を待つ外来患者や、見舞い客と見られる人々が行き交っていた。
「それじゃ、面会の仕方を聞いてくるから少し待っててね」
春人にそう告げると、由夏は窓口に向かい、係員に面会について尋ねた。
由夏から説明を受けた係員は、パソコンで情報を検索し始めた。そして、その検索結果を由夏に伝えた。
由夏は係員に礼を言うと、春人の所に戻って来た。
「入院してる部屋がわかったよ。三階の個室だって。三階のナースステーションで記帳すれば面会できるんだって」
由夏は不安が一つ消えた事に、やや安堵している様だった。
それを聞いて春人も「面会できるんだ。それは良かったね」と喜んだ。
しかしその後、二人の間でどこか気まずい空気が流れた。これからどうするのか、あまり考えていなかった二人の間で、先に口を開きづらい気持ちが存在していた。
「……えっとさ、春人君、ロビーの奥に休憩スペースがあるみたいたがら、そこで少し休まない?」
「ああ、そうだね。そうしようか」
二人は、外来患者で混雑した場所を離れて休憩スペースまでやって来た。
休憩スペースはガラス張りの中庭に面していて、入院患者や見舞い客らが新聞や雑誌を読んだり、歓談したりしていた。
二人は休憩スペースの中央置かれた長椅子に並んで座った。
「春人君、ウチから話していいかな?」
春人は無言で頷いた。
「これから病室に行って、ウチのひいおばあさんに会いに行くんだけど……その、今日のひいおばあさんがどういう健康状態なのかがわからなくて。だから、ウチだけでどんな様子なのか見てきた方が良いと思うんだ」
「そうだよね。それに、僕は親族ではないから、ひいおばあさんにとって急に来られても迷惑になるかもしれないね」
春人が曾祖母を気遣う言葉を述べると、由夏はゆっくりと春人の手を握った。
「わざわざ遠くまで一緒に来てくれたのに、邪険に扱う様な事して、ごめんね」
握られた手の感触から、由夏が緊張しているのを春人は感じ取った。
「由夏ちゃんが一歩前に進む事は、僕にとっても良い事なんだよ。だから、僕の事は気にしないで、時間をかけてゆっくり会っておいでよ」
春人の手を握る由夏の手の力が、少し強くなった。
「……こんな時にまで、人の心に響く様な事言うなや」
口では意地悪く言っていた由夏だが、メガネのレンズの奥には優しげな瞳が光っていた。
「それじゃ、行ってくるね」
由夏はそう言うと、立ち上がって病室に歩き出した。
三十分近くが過ぎた頃、ふと、春人は外に目を向けた。
春の雨が尚も降り続いていた。
春人は徐に立ち上がると、ガラス窓に近づいた。そして、そっとガラスに右手を置いた。
冷たさがすぐに右手に伝わる。春の雨の温度。
うっすら曇ったガラスを透して、中庭に小さな桜の木が生えているのが見えた。
春の雨は、ちらほらと咲き始めた花にも例外なく降り注ぐ。
「『花時雨』か」と呟く春人。
健気に咲こうとする花に降る雨は、何と酷な仕打ちだろう。
だが、それは同時に植物の健全な成長には欠かせない自然の摂理なのだ。
誰かが幼い頃に教えてくれた事を、春人は思い返した。
「春人君!」
突然の若い女性の呼び声は、穏やかな空間に若干の喧騒をもたらした。
春人は辺りを見回した。そして、「その人」を見つけ出す。
春人から数メートル離れた所に、由夏が一人で立っていた。だが、その姿は、先程までとは変わっていた。メガネはなく、目は泣き腫らしていた。
春人は周囲に詫びながら、由夏に歩み寄った。
「由夏ちゃん、どうしたのさ? 何かあったのかい?」
そう尋ねられても、由夏は首を振り、口を手で覆うだけだった。
「落ち着いて」
「……ごめんね。もう大丈夫」と、由夏が答えた。
「ひいおばあさんには会えたの?」
「……会えたよ」
「それで、何か問題でもあったの?」
それに対しては首を横に振る由夏。そして、春人の腕の袖を掴むと、赤くなった瞳を春人に向けた。
「病室まで……一緒に来て」
「僕が一緒に? 僕は構わないけど、ひいおばあさんには断ったのかい?」
「それは心配いらない。春人君が下にいるって教えたら、ひいおばあちゃんが連れておいでって仕草をしたから」
『仕草』という表現が引っ掛かったが、春人は敢えてそれには触れない事にした。
「勝手ばっかり言ってごめんね」と、由夏が謝った。
「なんもさ」
「ふふっ、その言い方、春人君らしいや」
「それじゃ、案内して」
そして、二人は病室に向かった。
第十二話に続く。