第九話
由夏と絢香が、ベートーヴェンのヴァイオリンソナタ「春」を演奏していた。
春人はピアノを弾く由夏の傍らに立ち、演奏に合わせて楽譜をめくっていた。
同様に、俊も絢香のヴァイオリンの演奏を手助けしていた。
そうして「春」の演奏が終った。
春人と俊の拍手が音楽室に響いた。
「さすが由夏ちゃんだね。初めてセッションしたのに、きれいに弾けたね」と言って、絢香が尊敬の眼差しを由夏に向けた。
「この曲は有名だから、前に聞いた事があったし。何より、絢香ちゃんの腕が良くて私に合わせてくれたから」と、遠慮がちに言う由夏。
すると、俊がピアノの側に歩み寄った。
「俺はピアノの事は全く知らないけど、それでも由夏ちゃんの技術がすごいってすぐにわかったよ。だよな、春人?」
三人の目が春人に向けられた。
「由夏ちゃんは、小学校に入る前からピアノの教育を受けていたからね。僕らとは別格なのは当然だよ」
春人はそう言って由夏を誉めたが、彼女の表情は寂しげだった。
「確かに教育は受けたけど、自分から好きで受けた訳じゃなかったんだ。だから、あんまりいい思い出なくて。みんなみたいに自由に楽しく演奏できれはよかったな」
由夏の複雑な思いを、三人は理解しようとした。
絢香は立ち上がって由夏に近付いた。そして「これから楽しく演奏すればいいじゃん。だって、私達はもう仲間なんだからね」と由夏に語りかけた。
「ありがとう。それじゃ、次は何を弾こうか?」
「私はシューベルトがいいな。ハル、確か『ます』の楽譜あったよね?」
「あるよ。次はそれにしようか」
その後、彼らはアンサンブルを楽しんだ。
そして、午後に彼らが休憩を取っていた時、俊のスマートフォンが鳴った。
俊は電話に出ると、廊下に出て行った。
「あれは女だな」と春人が呟くと、絢香も首を縦に振った。
「俊君ってそんなにモテるの?」
「それはもう、すごい女ったらしなんだから」と絢香が教えた。
「だって、今日あいつが暇になったのも、どうせデートがなくなったからだろ?」と、春人が絢香に聞いた。
「らしいよ。まあ、悪い奴じゃないんだけど、将来が心配だね」
その時、電話を終えた俊が戻ってきた。
「誰からのお説教?」と、絢香が嫌味に尋ねた。
「いやまあ、昨日、ケンカした娘なんだけど、急に会いたいとか言われてさ」
「それで何て答えたのさ?」
「今、用事があるから無理だって言ったんだけど、聞き入れなくて。それで、仕方ないから会うって伝えたけど……」と、ばつの悪そうな顔で俊が言った。
「えー、何それ? せっかく由夏ちゃんが来てくれてるのに」
文句を言う絢香を由夏がなだめようとする。
「まあ、人それぞれ事情があるから。それに、ウチの事は別にいいから」
「もう四時過ぎてるし、今日はお開きでいいんじゃないか?」と、春人が提案した。
「わかったよ。ハルがそう言うなら」
絢香が納得すると、彼らは片付けを始めた。
「それにしても、今日でここに来るのは最後なんだな」
春人がヴァイオリンを片付けながらそう言うと、皆の手が止まった。
「そうだな」と、俊は窓の景色を見つめながら返事した。
「最初に来た時には、別の世界みたいに思ったけど、いつの間にか馴染みの場所になってたよね」と、絢香も染々とした口調で話した。
「色んな所を渡り歩くのが、成長するって事なのかもな」
春人がヴァイオリンを見つめながら言った言葉に、由夏は共感しつつも、物悲しさを抱いた。
「春人が言うと絵になるよな! このこの!」
俊はそう言って、春人の髪を両手で掻き乱した。
「おい、俊! よせよ!」
二人のふざけ合う様を絢香が笑って見ていた。
由夏も微笑んでいたが、心の底に沈殿したネガティブな物を流し去るには、その光景は力不足であった。
片付けを終えると、彼らは廊下に出た。
最後に音楽室を出た春人がドアを閉めたが、彼らはすぐには動かずにしばらく音楽室を眺めていた。
由夏は三人の表情を見比べながら、それぞれの心中を思い図った。特に、春人がじっとピアノを見つめる姿が、彼女の印象に深く残った。
「それじゃ、行こうか」と、絢香が促した。
そして、彼らはゆっくりと廊下を歩き出した。
「三人は同じ高校に進学するの?」と、由夏が聞いた。
「そうだよ。管弦楽部がある学校だから、一緒の部活に入ろうって言ってるんだ」と、春人が答えた。
「そしたら、俺はヴィオラに転向しようかと思ってるんだ。春人と絢香はヴァイオリンで参加するだろうけど」
「そうなんだ。楽しそうだね」
「由夏ちゃんが進む高校には音楽の部活はないの?」と、絢香が尋ねた。
「ウチが入る高校には合唱部しかなくてさ。誘われてるんだけど、ピアノは伴奏くらいしか出番がないんだ。だから、みんなが羨ましい」
「そっか。でも、いつかオーケストラで由夏ちゃんと共演できたらいいな」
絢香が由夏を励ます様に言うと、春人と俊もうなずいた。
「ピアノ協奏曲か。由夏ちゃんならラフマニノフやメトネルが似合うかもな。春人はどう思う?」
「僕はシューマンを共演できたら嬉しいな」
「もう、そんな大作ばっかり、無理言わないでよ」と、由夏は苦笑いを浮かべながら言った。
やがて四人は通用口から外に出て校門前まで歩いた。
「絢香はどうする? もう帰るのか?」と、春人が聞いた。
絢香は腕時計を見ながら「そうだな……今夜は食事に出かけることになってるから、早めに帰ろうかな」と答えた。
「そっか。それじゃ、ここで別れるか」
「うん。それじゃ、由夏ちゃん。今日は会えて嬉しかったよ」
そう言って、絢香は由夏の手を握った。
「俺も今日は楽しかった。また一緒にセッションしよう」と、俊も由夏に声をかけた。
「私も誘ってもらえて嬉しかったよ。また会おうね」
そして、絢香と俊は一緒に歩み去って行った。
二人を見送ると、春人と由夏は顔を見合わせた。
「僕らはどうしようか。どこか行きたい所はあるかい?」
「うんとね、出来れば山下公園に行ってみたいんだ」
「いいよ」
二人は近くのバス停に移動すると、そこからバスに乗った。
「ここに来るのは久しぶりだな」
バスから降りた春人が山下公園を見ながら呟いた。
「地元の人はそんなに来ないのかもね」
「由夏ちゃんは前に来た事あるの?」
「あるよ。小さい頃に何度もね。家族に連れられて……」
「そうだったんだ」
二人は山下公園の中を歩き出した。
平日の山下公園は、観光で来たと思われる人々が疎らにいるだけで、静けさを保っていた。
「ところで、山下公園で何か見たい所があって来たの?」と、春人が尋ねた。
由夏は少し悲しげに笑みを浮かべた。
「そうじゃないのさ。ただ、春人君とゆっくりお話ししたいと思ったんだ。海を見ながら」
「そうか。それなら、あそこのベンチに座って話そうよ」と、春人が指を指して言った。
「海がよく見えるね。あそこにしようか」
二人は岸壁から少し離れた場所に置かれたベンチに腰かけた。そして、しばらく港の景色や飛んでいるカモメを眺めた。
「あのさ、由夏ちゃん」
「何?」
「実はね、さっき買い物から戻って来る時に、廊下で由夏ちゃんが弾くピアノのメロディが聞こえてきたんだ。それを聞いて、僕は思わず立ち尽くしちゃったんだよ」
「そっか……聞こえてたんだ……」
由夏は港を見つめながら呟いた。
「それで、もしかして、俊と絢香が何か言ったのかと思ってさ」
「……うん。教えてもらったよ。ウチが知らなかった春人君のことをね」
「やっぱりか」と言って、春人も港を見つめた。
「二人の事は悪く思わないで。ただ、分かち合いたかったの。春人君の悲しみも、苦しみも、全てをね」
「そんな、由夏ちゃんが背負う必要なんか……」
春人がそう言おうとすると、由夏は頭を振った。
「違うの。そうせずにはいられないの。だって、ウチらは同じ過去を背負ってる……だから……」
由夏は途中まで言うと、両手で口元を覆った。
由夏の様子を見る内に、春人にはある疑問が浮かんだ。それを口に出す事には躊躇いもあったが、春人は尋ねる事にした。
「由夏ちゃんにも、何か悲しい事があったのかい?」
「悲しい……か」
指の隙間からぽつりと呟くと、由夏は両手を下ろした。そして、春人と目を合わせた。
無言で見つめ合う二人を、少し冷たさをたたえた海風が撫でる様に吹き付け、由夏の髪がなびいた。
由夏は両手を上げて、メガネのつるに指をかけた。そして、ゆっくりとメガネを外して素顔を見せた。
春人は息を呑んだ。そして、グラスコードで胸元に垂れ下がったメガネの真の意味を悟った。
「どう思う? 春人君」
「……美しいよ。誰にも渡したくないくらいに……」
「そう……春人君に言ってもらえて嬉しいわ……」
由夏は伏し目がちに答えた。
「去年の事よ。父方の親戚が亡くなって、ウチとパパの二人で葬儀に参列するために、パパの地元に行ったの。パパの一族は昔の大地主で、今でも地域の有力者が多くいる家柄なのさ」
「昔、少し教えてもらった覚えがあるよ」
「パパの性格からはかけ離れてるけど、そこは保守的な土地柄なんだ。それで当然、ウチらの家庭の事もみんなが知っていてね」
そう言うと、由夏はため息をついてベンチの背にもたれた。
「お寺に着いて、ウチらが中に入った時、辺りが静まり返ったの。そしたらね、親戚達が厄介者を見る様な顔でウチの事を見たのさ。理由は単純。『うり二つ』なこの顔のせいだよ」
由夏が受けた仕打ちに顔が曇る春人。
「『針のむしろ』とはよく言ったものだね。葬儀の間は、まさにそれだったよ。でも、ウチさえ耐えていれば済む事だと思ってたんだ。なのにさ……それなのにさ……」
口が止まった由夏に、春人がそっと目を呉れた。そして、由夏の様子を見た春人は、胸を刺された様な痛みを感じた。
由夏は真っ赤になった目で、唇を噛み締めながら、込み上げる感情を必死に抑えようとしていた。
春人は自然と由夏の手を取って擦った。
「大丈夫かい?」
「……ありがとう。まだ聞いてくれる?」
春人は優しく頷いた。
「それでさ、ウチへの親戚達の態度に、普段は温厚なパパが怒り狂ってね。親戚達と凄まじい口論になって、ついには『あんたらとは金輪際、縁を切る』って宣言したんだ」
「……そんな事が……」
自分の理解力を超えた出来事に、春人は言葉を失ってしまった。
「さっき言った様に、そこは保守的な土地柄だから、元々、その親戚達は『あの人』の事を良く思っていなかったらしいの。都会的な印象を抱かせる女性だったから。その挙げ句、家族を捨てたから尚更なのさ」
「だからって、なんで由夏ちゃんまで理不尽な扱いをされなくちゃいけないんだい? 母親と娘は別の人格じゃないか」
「……この世間は、春人君みたいに優しい人ばっかりじゃないんだよ。最近、理解した事だけどさ」
由夏の言葉を、春人は悲しみと共に受け止めた。そして、じっと由夏のメガネを見つめた。
「その伊達メガネも、それからかける様になったんだね」
由夏は上半身を起こして胸元に目をやった。
「そうだよ。これは仮面なの……醜い自分を覆い隠すためのね。ただ、警察署で綾子さんに会った時は恐かった。素顔を見透かされるかもって」
「そうだったんだ。そこまで思い詰めて……」
春人は改めて由夏の顔を見つめた。
「僕も、自分の事を変えたいと思う時があるよ。小さい頃にはなかったのに、成長するに従って、父親の特徴が現れてくる。嫌で仕方ないけど」
由夏は春人と目を合わせると、唇を一度噛み締めた。
「ウチは春人君の全てを受け入れている……そのつもりだったの
。でもね、正直に言うと、驚いたのさ。羽田空港で五年ぶりに春人君を見た時、そこにお父様の姿が重なって見えたから」
「やっぱり、そう思うかい?」
「否定的に思わせたらごめんなさい。だけどね、一歩また一歩と近づいて行くうちに、そこにいるのは紛れもなく春人君なんだってわかったよ」
春人は数日前の空港での再会を思い返した。
「あの時はドラマティックだったね」と、春人は港を見ながら言った。
「そうだったね……」
由夏はそう呟くと、春人の肩にそっと寄り掛かり、彼と同じく港を見つめた。
「でも、グラスコードのおしゃれは忘れないんだね」
「ふふっ、転んでもただでは起きないのさ」
海辺のカモメ達が、淡い夕陽を浴びながら翼を広げていた。
その景色を、二人は寄り添いながら見つめ続けた。
第十話に続く。