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第八話

 三人は中学校の正門前に到着した。


「今、何時だ? 絢香」と、春人が息を切らしながら尋ねた。


「今はね、十一時五分。ははっ、すっかり遅れちゃった」と、絢香も息を切らしながら答えた。


 一方の由夏は、さほど苦しそうな様子は見せていない。


「由夏ちゃんったらすごいじゃん。足は速いし、体力もあるみたいで。引きこもり気質の私とは違うね」と、絢香はうらやましそうに話しかけた。


「さすがスキーのジュニア大会で入賞する腕前の持ち主だね」と、春人が由夏を称賛した。


「そんなことないよ。ウチは手ぶらで、二人は荷物持ってたからだよ」


 一息つくと、彼らは校舎に向かって歩き始めた。通用口で由夏の入館手続きを済ませてから、彼らは校内に入って行った。


 春休みの校内は人気がまばらで、時折、遠くから聞こえる部活動の声が、ひんやりとした廊下に届いていた。


「やっぱり私立の中学校は雰囲気が独特だね。高貴な印象を感じるな」


 由夏は繁々と校内を見回しながら感想を述べた。


「そんな、大げさだって。普段はバカやって騒いだり、同じ中学生だよ」と絢香が言うと、それを聞いた春人が笑った。


「そのバカやって騒ぐ中学生ってのは、一体誰のことだろうな? 『伊藤絢香』さんっていう人しか思い当たらないぞ」


 その皮肉に「おかしいな。成績優秀で可憐で、男子たちのハートを鷲掴みにしちゃう『伊藤絢香』ちゃんの間違いじゃないかな?」と、絢香は反論した。


 春人と絢香の掛け合い。仲の良いいとこ同士の、中学生らしい会話。


 ただ、それを耳にする内に、由夏は自分の体が一抹の疎外感に包み込まれる感覚に陥った。決して自分に向けられる事のない「軽口」が、そうさせるのかもしれないと由夏は感じた。


 三人が廊下をしばらく歩くと目的の音楽室に差し掛かった。


「そこが私達がいつも使ってる音楽室だよ」と、絢香が由夏に教えた。


「俊は待ってるかな」と、春人が部屋を覗きながら言った。


 絢香がゆっくりと音楽室のドアを開けると、彼らは中に入って行った。そして、室内に誰もいない事に気づいた。


「俊はまだ来てないね」と、春人が言った。


「ちょうど良かった。それじゃ、私達は先に準備しておこうよ。由夏ちゃんも、そこのピアノ使っていいんだよ」


 絢香に促されて由夏もピアノに近寄った。


 そのピアノは壁際に置かれていた。ヨーロッパ製の年季が入ったグランドピアノだったが、保守は行き届いている様で、近寄る者に綺麗な光沢を見せていた。


 絢香はパーカーを脱いでTシャツ姿になると、ケースからヴァイオリンを取り出した。


「由夏ちゃん、調弦するから『ミ』の音ちょうだい」


「わかった」


 絢香の言う通りに、由夏はピアノの鍵盤蓋を開けると『ミ』の音を出した。


 ピアノの音に合わせてA線の開放弦を調弦すると、絢香は他の弦の和音も合わせていった。


「よし、出来た。それじゃ、ハルのも貸して」


 そして、絢香は次に春人のヴァイオリンを調弦し始めた。


「春人君のヴァイオリンも、絢香ちゃんがいつも調弦してるの?」と、由夏が尋ねた。


「僕は細かい調弦がどうしても苦手でね。家にはチューナーがあるから大丈夫なんだけど、外では絢香か俊にしてもらってるんだ」


「私は小さい頃からヴァイオリンを習ってたから慣れてるけど、ハルは小学校五年生になってから始めたからね」と、絢香が言った。


 絢香が春人にヴァイオリンを返すと、自分のヴァイオリンを構えて練習を始めた。


 その演奏を聞いた由夏は、何かを思い出そうとして額に右手を当てた。


「その音階……誰の練習曲だっけ?」


「これ? カール・フレッシュだよ」と、絢香が一旦、弓を止めて答えた。


「そうそう。カール・フレッシュね」


「僕も最初の頃は、カール・フレッシュには手こずったよ」と、春人も言った。そして、春人もヴァイオリンを構えて絢香と同じカール・フレッシュの練習曲を弾き出した。


 二人が練習曲を弾く姿を、由夏はピアノの椅子に座って眺めていた。由夏が初めて見るヴァイオリニストとしての二人の姿は、どこか違和感と新鮮さの入り交じった感覚を彼女に覚えさせた。


「そう言えば、由夏ちゃんとセッションするためには楽譜が必要だったね」と、春人が指摘した。


「ああ、確かにそうだね」と、絢香もその事に気付いた。


「隣の準備室に楽譜があったよな?」


「うん。ソナタやカルテットの楽譜があったはず。ちょっと見てくる」


 絢香はヴァイオリンを机に置いて準備室に入って行った。


 春人もヴァイオリンを持って由夏の近くに歩み寄った。


「由夏ちゃんは家でも毎日ピアノを弾いてるんでしょ?」


「うん。でも今は独学だから、ちっとも上達しないよ」


 そう言って、由夏はピアノの音階を右手で弾いて見せた。


「それに、家にあるのはアップライトだから、グランドピアノとは音色が違う……『お下がり』とは、違うんだよ」と、由夏は伏し目がちに声を溢した。


 春人は持っていたヴァイオリンをピアノの屋根に置くと、自分の両腕もそこに置いた。


「……『お下がり』か。でも僕にとっては、この世に二つとない……美しくて、きらびやかで、心をときめかせてくれる音色だったけどな……」


 春人は囁く様に思いを伝えた。


「……もう、そんな音色は奏でられないや……」


 由夏も囁く様に思いを伝えた。


 二人の間には暫し沈黙が流れた。


 それを破ったのは、廊下を駆けるクレッシェンドな足音だった。


「悪い、悪い。遅くなったわ」と、音楽室のドアを開けながら一人の人物が喋った。


 由夏と春人は視線を声の主に向けた。その先には、ベージュのチノパンに紺のシャツを着て、左手に弦楽器のケースを持った茶髪の少年がいた。


「ははっ、相変わらず時間にはルーズだよな」と、春人が少年に声をかけた。


「今日は違うんだって。学校に来たら俺の担任に鉢合わせしちまって、職員室で説教喰らってたんだ」


「それは普段の行いが悪いからだろうが」


 そこに、準備室から絢香が出てきた。


「おいおい! あんたが暇になったって言うから集まって来たのに、当の本人が遅れてどうすんだよ。ましてや、今日はお客さんも来てくれてるってのにさ」と、絢香が少年に文句を言った。


 春人は少年を紹介しようと由夏に近付いた。


「由夏ちゃん、紹介するよ。彼が僕らの演奏仲間の俊だよ」


 由夏は立ち上がると、ピアノの横に移って一礼した。


「初めまして。春人君の友人の『長谷川由夏』と申します」


「こちらこそ、初めまして。春人と絢香の友達の『小早川俊』って言います」


 挨拶を済ませると、俊は由夏に歩み寄って二人は握手した。


「春人や絢香から、由夏ちゃんのことは聞いてたよ」


 それを聞いた絢香が「『由夏ちゃん』だなんて初対面から馴れ馴れしい。それに、由夏ちゃんと春人は固い絆で結ばれた仲なんだからね」と、俊に注意した。


「絢香、茶化す様な事を言うなや」と、春人は困り顔で言った。


「別にウチのことは、どう呼んでもらっても構わないから」と、由夏も戸惑い口調で言った。


「ははっ、それくらい俺でも察しますよ」と、俊は自分を肯定して見せた。


「ところで絢香、楽譜はどうだった?」と、春人が尋ねた。


「ああ、探したら色々見つかったよ。室内楽の楽譜が」


 絢香は準備室から楽譜を音楽室に運んで、ピアノの屋根の上に並べた。


 四人はピアノを囲んで、それぞれが楽譜を見ながらどんな演奏が出来るか話し合った。


「ヴァイオリンソナタは結構あるな。そっちは?」と、俊が春人に聞いた。


「ピアノトリオやカルテットだな」


「由夏ちゃんが弾いたことある曲はこの中にありそう?」と、絢香が由夏に質問した。


「ウチはピアノソロしか弾いたことなくて。もちろん楽譜は読めるから、練習すればセッションできると思うんだけど」


「そうか。いきなりは無理だよね」と、春人が呟いた。


 四人は黙ってしばらくの間、考え込んだ。


「あのね。ウチは部外者だから、まずは三人が普段通り演奏するのを見せてほしいの。その後で、ウチも加わる形式にするのはどうかな?」


 由夏がそう提案すると、他の面々も納得した表情になった。


「よし、決まった。それじゃ、始めるか」と、俊が号令をかけた。


 彼らはピアノの側の机を後ろにずらしてスペースを作ると、椅子と譜面台を置いて演奏場所を設けた。


 次に、俊は自分のケースからヴァイオリンを取り出すと、すぐに調弦を済ませた。


「みんなはいつもはどんな曲を演奏してるの?」と、由夏が質問した。


「そうね。カルテットやトリオをアレンジして演奏する事が多いかな。あと、バロック。例えばバッハやヴィヴァルディを演奏する事もよくあるよ」と、絢香が答えた。


「そうなんだ」


 すると、俊がそっと春人に耳打ちした。


「今日は春人が第一ヴァイオリンやれよ」


「えっ?」


 俊の予想外の提案に春人は驚いた。


「俊、なんで急にそんな事言うんだよ」


 俊は春人の肩を引き寄せた。そして「せっかく由夏ちゃんが来てくれてるんだから、いい所見せてやれよ」と囁いた。


「……いいのか?」


「俺も男だぜ? それくらいの気遣いはできるさ」と、俊は春人の肩を軽く叩きながら言った。


「恩に着るよ」


 春人の言葉に笑みを浮かべて、俊は立ち上がった。


「えっと絢香、最初の曲はバッハのゴルトベルク変奏曲でいいか? "いつもの様に"春人が第一ヴァイオリンでな」


 絢香は少し驚いた様子で俊の顔を見たが、すぐに意図を察した様だ。


「もちろんいいよ。"いつもの様に"ハルが第一ヴァイオリンでね」


 由夏はそのやり取りをどこか不思議に思った。けれど同時に、春人が第一ヴァイオリンを弾く事には嬉しさを感じた。


 三人は椅子に座ると楽譜を譜面台に据え、ヴァイオリンを構えた。そして、春人の合図に合わせて演奏を始めた。


 ピアノを学ぶ者にとって馴染み深い旋律が、傍らの由夏の耳を撫でる様に響いた。その眠気にも似た心地よさに、彼女は自然と目を細めてしまう。


 基本のアリアが終って変奏曲(ヴァリエーション)に入ると、曲のテンポが一気に上がった。


 この曲の難しさを知っている由夏は、誰かがミスをしてしまうのではと思った。


 だが、三人の息が乱れる事はなかった。メロディを奏でる春人を、俊と絢香が、時には共に螺旋を描く様に、時には互いに問い掛け合う様にして伴奏を奏でた。


 その様が、三人の関係性を表している様に由夏には思われた。






 ゴルトベルク変奏曲の演奏が終った。


 由夏は立ち上がって彼らに称賛の拍手を捧げた。


 三人も立ち上がると由夏に一礼した。


「ゴルトベルク変奏曲はウチもピアノで弾いた事あるけど、かなり難しい曲なんだよね。素晴らしい演奏だったよ」


「どうもありがとう」と、春人が答えた。


「それにしても、ハルったら緊張してたんじゃない? いつも弾いてる曲なのに」と、絢香が笑いながら指摘した。


「確かにな。俺もそう感じた」


 自分に注がれる全員の視線が、心の内を覗いている様に感じられ、春人は気恥ずかしさを堪えた。


「からかうなよ。それより、少し休憩しよう。もう昼食時だぞ」


 音楽室の時計は正午を少し過ぎていた。


「お昼ご飯はコンビニで買って来て、ここで食べようか?」と、絢香が言った。


 すると俊が「ジャンケンで負けた奴が行くことにしようぜ」と、提案した。


「えっ? 何よそれ」


「だって一人が行けばいい事だろ? それに、みんなで行ったら由夏ちゃんはどうなるんだ?」


「まあ、確かに」と、春人も納得した。


「ウチの事は構わなくて大丈夫だよ?」


「いや、由夏ちゃんはお客さんだから、外まで歩かせるのは悪いよ」と、絢香が説得した。


「それじゃ、決めようぜ」と言って、俊が春人と絢香を集めた。


『せーの、ジャンケンポン!』


 そして、三人がジャンケンをした結果、春人が負けて買い出しに行く事になった。


「やりー! 俺は弁当とお茶でよろしく」


「私は惣菜パンとコーラお願いね、ハル」


「はいはい。由夏ちゃんは何にする?」と、春人が尋ねた。


「そうだな……サンドイッチとコーヒーをお願い」


「わかった。それじゃ、買って来るよ」


 そう言い残して、春人は音楽室を出て行った。


「由夏ちゃん、座ってお話ししようよ」と、絢香が持ちかけた。


「そうだね」


 由夏は絢香と俊の前に椅子を置いて座った。


「それにしても、ハルから由夏ちゃんがこっちに来てるって聞いた時は本当に驚いたよ」


「うん。実はパパが出張に行ってて、その間に一人で春人君に会いに来たの」


「お父さんには知らせずに?」と、俊が驚いた様子で聞いた。


「そう。最初は綾子さんにも秘密だったんだけど、警察に見つかっちゃってね。それで、綾子さんに身元を引き受けてもらったの」


「そんな事があったんだ。大変だったね」と、絢香が同情する様に言った。


 すると、由夏は窓の景色を見つめながら「でも、久しぶりに綾子さんに会えて良かった……ウチの事、嫌ってると思ってたから」と言った。


 由夏の複雑な心情を察したのか、絢香と俊はお互いの顔を見合わせた。


「あっ、ごめんね。変な事を口走っちゃって」


「あっ、いや。気にしないで」と、絢香が言った。


「それにしても、三人ともヴァイオリン上手だよね。春人君がヴァイオリンを始めたのは二人の影響なの?」


「元々、俺と絢香は小学校一年生の頃から同じヴァイオリン教室に通ってたんだ。それで春人が横浜に引っ越して来て、五年生の時に、絢香が春人を俺らのヴァイオリン教室に誘ったんだ」


「ハルは私らより始めるの遅かったけど、ヴァイオリンの素質があってね。すぐに私らに追い付いたんだよ」


「春人君は努力家タイプだったからね」と、由夏は昔を思い返しながら言った。


 だが、由夏の言葉を聞いた途端、それまで明るかった二人の態度が変わった。


「……努力家……か」


 そう呟いた絢香の表情は、過去の辛苦に心を傷めている様だった。


 絢香の声を聞いた俊も、椅子に前屈みに座って同様の表情を浮かべていた。


 二人の様子を見て、由夏は不安に駆られた。自分が知らない時期の春人の身に、悪いことが起こっていたのではと感じたからだ。


「由夏ちゃんに、聞いてほしい事があるの。誰よりもハルを大切に思ってくれている……由夏ちゃんにね」


「おい絢香、勝手に話していいのかよ」


「きっとハルは自分からは言わないよ。そうすれば癒されるとわかっていても」


「だけどさ」


「あの、いいかな」と、由夏が声を出した。由夏は両手で両腿を掴んで、震えそうになる体を支えていた。


「知りたいの。春人君がどんな経験をしたのか。それが耐え難い事であっても、ウチは分かち合いたいの」


 その強い思いを、俊と絢香は理解した様だった。二人は目を合わせると、俊は深く頷いた。


 絢香は一度、深呼吸をしてから由夏に顔を向けた。


「ハルはね、横浜に引っ越して来てから、綾子さんを支えるために必死に努力したの。家事全般をこなして、勉強もして。小学生らしく遊ぶ事もせずに」


 絢香が語る春人の姿が、由夏には痛々しさを伴って想像出来た。


「私とハルは違う小学校に通ってたから、実際に見た訳じゃないんだけど……ほら、ハルは転校生でしょ? しかも、ちょっと大人びてるから……それを気に食わない連中もいたらしいの」


「それは、つまり……」と、由夏が言った。胸に痛みが走るのを感じながら。


「……そう。ハルは……いじめられていたの」と、絢香はやや震えを感じさせる声で言った。


『いじめられていたの』


 由夏の頭の中で、春人が経験したであろう事が残酷に想像された。それと同時に、吐き気にも似た怒りと嫌悪感が沸き上がり、由夏は痺れる両手で口を覆った。


「由夏ちゃん、大丈夫か?」と、俊が由夏に近寄って声をかけた。


 だが、由夏には自分で自分がわからなくなっていた。瞳はただ空を見るだけで、瞬きも忘れている。


「由夏ちゃん、ごめん。私の言い方が下手だったね」


 絢香も由夏の側に屈んで、背中を擦りながら言った。


「どうする? 少し横にさせるか?」と、俊が絢香に提案した。


「そうだね。由夏ちゃん、ちょっと横になろうか」


「…………大丈夫だよ。心配かけて、ごめんね」


 由夏は返事をしながら、ゆっくりと両手を下ろした。そして、現実を受け止めようとしていた。


「……そんな時だよ。俺が春人に初めて会ったのは」


 俊は切々と語り始めた。


「春人は心と体のバランスを崩して、しばらく学校を休んでいたんだ。それで、絢香が何か打ち込める物があれば、春人も元気になってくれるんじゃないかって。その読みは当たりだった。春人はヴァイオリンが上達するのに合わせて、元気を取り戻していったんだ」


 絢香も続いて口を開いた。


「ハルが元気を取り戻した頃、新学年のクラス替えがあって、いじめてた連中は違うクラスになったから、ハルはまた学校に行ける様になったの。それからは、いじめられる事もなく無事に卒業できたんだよ。そして、私達は同じ中学校に通う様になったんだ。もちろん、ここではいじめなんてなかったよ」


 二人の言葉を聞いて、由夏は次第に落ち着きを取り戻していった。


「……俺は他人だから、春人の家庭の事には踏み込めないけどさ……でも、これだけは言える。春人は俺の親友だ。親友だから、絶対に守ってやる」と、俊は拳を握りながら言った。


「……私も、ハルの事は守ってみせる。でも……きっとハルを一番守ってあげられるのは、由夏ちゃんだと思うんだ」と、涙目の絢香が由夏を見つめながら言った。


「そうだな。由夏ちゃんが一番だな」


「……一番……」


 そう呟くと、由夏は立ち上がってゆっくりとピアノに向かって歩き出した。そして、ピアノの椅子に座ると、鍵盤蓋に手をかけた。







「……ブラームスの『子守唄』……」


 春人が買い物を終えて廊下を歩いていると、その先の音楽室からピアノの調べが彼の耳に届いた。その事に、春人の足が自然と止まった。


 ひんやりとした廊下の空気を伝うその音色は、音符の一つ一つをゆっくりと噛み締める様に奏でられ、ピアノよりもまるでオルゴールを思わせる物だった。


 春人には、これを誰が弾いているのかが瞬時にわかった。そして、これを誰のために弾いているのかも悟った。


 曲が後半に差し掛かると、廊下の壁にもたれ掛かり、目を閉じて聞き入る春人。


 そして、伸びやかなピアノの高音が物悲しげに余韻を残して、演奏が終った。


「……おしゃべりだな……二人とも……」

第九話に続く。

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