第七話
春人の部屋のオーディオが、予約された時間通りに、歌劇「セビリアの理髪師」のアリア「今の歌声は」を奏でている。
朝の光が射し込むその部屋に、いたずら心を持った一人の少女が忍び込もうとしていた。
静かにドアを開け、抜き足差し足、まだ眠っている部屋の主の元に近づいて行く。
そして枕元に辿り着くと、両腕をベッドに置いて、その上に頭を乗せた。
「はーるとくん、おっはよう」
春人の耳元にそう囁くと、彼はそれを感じて目を覚ました。
春人が意識を明瞭にすると、すぐに自分の左側にいる由夏に気付いた。
「おわっ、由夏ちゃん」
「おはよう、春人君。驚いた?」
春人の驚いた様子に、してやったりといった風で由夏は笑った。
「そりゃ、起きたら女の子が横にいるんだもん。驚くさ」
春人は上半身を起こしながらそう言った。
由夏は上目遣いに春人を見ながら「でも、わからないもんだね」と、つぶやいた。
「何それ、どういうことさ?」と、髪を手で整えながら春人は尋ねた。
尋ねられた由夏は、ベッドに両手を突いて春人に顔を近付けた。
「昨日の朝、ウチら電話で話したしょや。『明日の朝には、もっと想像できないことが起こるかも』ってさ」
「そう言えば、そうだったね」
アリアを聞きながらする朝の会話は、二人にとって心踊るものだった。
「朝ごはん、もう少ししたら出来るから、準備できたらおいで。綾子さんも、もう起きてるから」
「由夏ちゃんが作ってくれたの? ありがとう。すぐ行くよ」
春人がそう告げると、由夏は部屋を出てキッチンに向かった。
背伸びを一度して、春人はオーディオを止めてベッドから立ち上がろうとした。
その時、机の上に置かれたスマートフォンが鳴ったので、春人は電話を取った。
「はい、もしもし」
「おはよう、ハル。朝早くにごめん。今、大丈夫?」
「絢香か、おはよう。大丈夫だけど」
それは春人のいとこからの電話だった。
「実はさ、俊の奴が今日、暇になったんだって。それで、中学卒業前に三人で時間取れるの今日しかないから、学校でセッションしよって話になったんだ。ハルも確か今日は暇なんだよね?」
予想外の誘いに春人は戸惑った。
「僕が行くのはいいんだけど。えっとさ、実は今、お客さんが家に泊まってるんだよ」
「お客さん? 誰なのさ?」
絢香の質問で、春人の戸惑いは増していった。春人はベッドに腰掛けると、天井を仰ぎ見ながら数秒間黙って考えた。
「実はさ、由夏ちゃんがいるんだよ。今、ここに」
「ゆかちゃんって……えっ、あの由夏ちゃんが!?」
思わず片目を閉じてしまう程の驚きの声が、春人の耳に届いた。
「そ、そう。絢香も北海道に来た時、会ったことあるだろ?」
「なんで? どうしてハルの家にいるの?」
「それは話すと長くなるんだけど、色々あってさ」
そう言うと、春人は立ち上がってカーテンを開けた。紺色に近い朝の青空が、春人の視界に飛び込んでくる。
「それじゃ、ハル。由夏ちゃんも連れておいでよ。由夏ちゃんって確かピアノ習ってたじゃん? 一緒にセッションしようよ。事情はその時、話してくれればいいからさ」
「そんなこと言ったって。由夏ちゃんの予定もあるだろ? それに、絢香だって、その、知ってるだろ? 親戚だったら」
それまで快活な声が聞こえていたのが、途端に静かになった。
「まだ、乗り越えられてないんだ……」
春人はそう話すと、またベッドに腰掛けた。
「『まだ、乗り越えられてない』……ハルが言うと重さが違うね」
「からかうなよ」
「ふふっ、ごめん。でも、私には気後れなんかしなくていいしさ。それに、せっかく由夏ちゃんが横浜に来てるなら、私も久しぶりに会いたいなって話さ」
絢香の言葉を聞いて、春人は穏やかな顔になった。
「わかった。誘ってみるよ。ただ、由夏ちゃんが嫌がったら無理には連れて行けないよ」
「了解。私らは十一時には音楽室にいるから。それじゃね」
春人は返事をして電話を切った。そして、スマートフォンを机に置くと洗面所に向かった。
「ごちそうさまでした」
スーツ姿の綾子は朝食を終えると、立ち上がってハンドバッグを
肩にかけた。
「朝ごはんおいしくて、ちょっと遅くなっちゃった。先に行くから、悪いけど後片付けお願いね。それじゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃいませ」
由夏と春人は揃って綾子を見送った。
廊下の奥でドアが閉まる音が聞こえた春人は、紅茶を一口飲むと、食卓の向かいに座る由夏に話を切り出す。
「由夏ちゃん、僕のいとこの絢香のこと覚えてるかい?」
由夏はコーヒーカップを左手に持ちながら「うん。一度、北海道で会ったよね」と返事すると、カップに口をつけた。
「さっき絢香から電話があってね。僕らが通ってる中学校で、室内楽のセッションしないかって誘われたんだ」
「セッション?」
由夏はカップをテーブルに置いて、興味深そうに耳を傾けた。
「前に、僕と絢香、それに俊っていう友達の三人で、普段は室内楽やってるって話したこと覚えてる?」
「ああ、そう言えば聞いた、聞いた」
「それで絢香に、由夏ちゃんが家に来てるって話したら、会いたいって言うんだ」
「会いたい……ウチに?」
由夏は目を丸くして驚いた。
「そう。それで、もし良かったら由夏ちゃんも一緒に来てみないかな? 学校にはピアノもあるよ」
両手をカップに添えながら、由夏はしばらく考えた。
「誘ってもらえるのは嬉しいけど、ウチなんかがお邪魔していいの? 部外者だよ」
「大丈夫だよ。正式な部活動じゃないし、前にも外部の人と演奏したことあったから」
「そうなんだ。それなら、行ってみるよ」
「わかった。絢香に後で電話して伝えるよ」
春人は楽しそうに笑って、また紅茶を口にした。
ーーーーーー
電車から降りた由夏と春人は、横浜の中心街の駅を出て中学校に向かっていた。
由夏は白いワンピースにパステルグリーンのスプリングコートを着ていた。
隣を歩く春人は、グレーのジーンズに黒いジャケットを羽織り、ヴァイオリンケースを左肩にかけていた。
「春人君が私立の中学校に通ってるってのは聞いてたけど、こんなに遠いとは思わなかった」
「最初は僕も遠いなって思ったけど、慣れれば気にならないよ」
二人は大通りの広い歩道を並んで歩いていた。
「そっか。こうやって通ってたんだね。三年間」
由夏が、緩衝帯のいちょう並木を見上げながらつぶやいた。
「そうだよ。色んな事を考えながらね」
それを聞いて由夏は「ウチの事も?」と、春人を覗き込む様にして尋ねた。
「……思ったさ。毎日……」
由夏の予想に反して、春人は過ぎ去った日々を告白した。
「……ごめんね。ふざけた口利いて……」と、下を向いて詫びる由夏。
春人は「あっ、いや、いいんだよ……気にしないで」と、由夏を気遣ったが、それ以上の言葉は彼にはためらわれた。
そうして、二人は無言で歩道を歩き続けた。
春人は何か話したいと思ったが、ただ正面を向いて歩く由夏は、どこか話しかけがたい雰囲気を漂わせていた。
だがしばらくすると、由夏はふいに立ち止まり、春人に顔を向けた。
「……ウチも、一日だって、思わなかった日はなかったよ。春人君のこと……」
春人の瞳を見つめながら、由夏も過ぎ去った日々を告白した。
その言葉を聞いて、春人は微笑んだ。
「似た者同士だね……僕達って」
「ふふっ、何さ? 今頃気付いたの?」
澄ました表情を浮かべて、右肘で春人の胸を突っつく由夏。
「ははっ、由夏ちゃん、よしてよ」
「止めてなんかやんないよ~だ」
由夏と春人は笑いながらふざけていた。その時。
「イエーイ、イチャラブリア充! ヒューヒュー」
突然、由夏と春人をからかう声が聞こえてきたので、二人は辺りを見回した。
すると春人が「あっ!」と、足をすくわれる様な声を出した。
由夏が春人の視線を追うと、そこにはオレンジ色のパーカーと赤いレギンスを着て、左手に弦楽器のケースを持った少女が立っていた。
「あの子、絢香ちゃんだよね?」
「うん。絢香だよ」
由夏と春人が視線を絢香に向けながら話すと、彼女がいそいそと二人に近づいて来た。
由夏は五年ぶりに見る絢香の姿に驚いていた。由夏が記憶する絢香は、セミロングの黒髪の清楚な容姿だったが、今では赤みがかったロングヘアーの、快活な印象を与える容姿になっていた。
「由夏ちゃん、お久しぶり!」と、絢香が声をかけた。
「久しぶりだね、絢香ちゃん」
言葉を交わして握手する由夏と絢香。
「それにしても、驚いたな。ハルから由夏ちゃんが横浜にいるって聞いてさ」と、絢香が言った。
「まさか絢香ちゃんに会えるとは思わなかった。しかも大人っぽくなって」
「そんなことないよ。私なんか小柄でガキっぽいし」
すると、絢香は目を細めて春人に視線を向けた。
「それに~、素敵なステディがいらっしゃる様で~うらやましゅうございますな~」
絢香がからかう様な声色で話すと、春人は気まずそうな表情になった。
「何を言い出すんだよ。絢香はそういう『からかい癖』を治さないとだめだぞ」
「嫌ですよ~だ!」と、絢香は舌を出してまたからかった。
そんな二人のやり取りを、由夏は微笑ましく見ていた。
「いいな。いとこ同士仲が良いのは」
由夏が言った事に、二人は思わず動きを止めた。
「あっ、まあね」と、春人が答えた。
一方の絢香は、神妙な面持ちになっていた。そして、絢香は徐に由夏に姿勢を向けて、右手を彼女の左肩に添えた。
「今の言葉には、大事な人が抜けているよ。仲良しなのは、私達三人じゃん」
「……絢香ちゃん……」
絢香の言葉をすぐに受け入れていいのか、由夏は戸惑っていた。
「……それにしても……」と絢香がつぶやくと、唐突に由夏の胸元に顔を埋めた。
「きゃあ」と由夏が驚き声を出した。
「背丈だけじゃなく"ここ"もお育ちになられて。しかも由夏ちゃん、めっちゃいい匂いするし」
まるで飼い慣れた猫の様に由夏に甘える絢香。
「だめ、絢香ちゃん。はうっ、胸の谷間で深呼吸なんかしないで」と、由夏は乱れた声を出した。
由夏に甘える絢香の姿を、春人は呆れ返って、右手を額に当てながら見ていた。
やがて春人が「ほれ、絢香! いい加減やめれや!」と、両手を威嚇する様に叩いて彼女を抑えようとした。
「えー、いいじゃん。減るもんじゃないじゃん」
絢香は顔を春人に向けると、唇を尖らせて文句を言ったが、すぐににやけ顔に変わった。
「はっは~、そう言う事ですな。まだ自分も触った事ないのに、私が由夏ちゃんの"ここ"を……」
「そこまでにしておけ」と、春人が恐い顔をして絢香に警告すると、彼女は素直に従った。
「うっ、ハルがマジで怒ってる。私はこの顔が苦手なんだよね」と、少し怯えた様子の絢香が由夏に囁いた。
「春人君、怒らないであげて。ウチは何とも思ってないからさ。絢香ちゃんも、ちょっとしたスキンシップのつもりだったんだよね」
由夏は二人を交互に見ながら諭した。
「由夏ちゃんがそう言うなら」と、春人は矛を下ろした。
「私も謝る。由夏ちゃんに会ったの久しぶりだったのに、失礼なことしちゃったね」
「気にしないでいいよ。それに、絢香ちゃんが前より明るく人に接せられる様になって安心した」と、優しく語りかけた。
その言葉に、絢香は意表を突かれたといった表情になった。そして、左指で頬をかきながら「そうかな? 変わったかな?」とつぶやいた。
その時、春人が「うわ、もう十一時になるぞ」とスマートフォンを見ながら言った。
「えっウソでしよ? もうそんな時間?」と、絢香も左手の腕時計を確かめた。
「俊が待ってるぞ。急ごう!」
春人が促して、三人は走り始めた。春人と絢香が並んで前を走り、後ろに由夏が付いて走った。
春人と絢香が走りながら互いに文句を言い合っているのを、由夏は聞いていた。そうしている内に、由夏は不思議と心が透き通ってゆく様な感覚を覚えていた。
「こんな晴れた素敵な日に文句なんか言っちゃって。それなら追い越しちゃおっと」
由夏はそう叫ぶと、春人と絢香を追い越した。
「えっ、ちょっと由夏ちゃん?」と、春人が声を上げた。
絢香も「由夏ちゃん、私らの学校の場所知らないでしょ?」と、由夏に叫んだ。
「知らないよ! それでも走りたいの!」
後ろの二人に振り向いて、春の風にありのままの答えを乗せる由夏。
その風を感じると、春人と絢香の顔には、もうつまらないこだわりは消え失せていた。
「よーし、負けないぞ!」と、春人が由夏に挑戦する。
「うぎゃー、私だって負けるもんか!」と、絢香も足を速める。
ゴールを知らない子供たちは、思いのままに笑い、走り、そして輝いていた。
第八話に続く。




