プロローグ・由夏編
私が春人君に初めて会ったのは、五歳の春のことだった。
父の転勤で、私は生まれ育った東京を離れて札幌で暮らすことになった。
札幌には、母の中学時代からの親友の女性が暮らしていて、母は彼女に会えることを喜んでいた。
私は、気候や習慣が東京とは全く違う環境に少し戸惑いを感じながらも、これからの生活を楽しみにしていた。
引っ越しが終った翌日、私は母に連れられて親友の女性のお宅へ挨拶に伺った。
母は事前に、その女性から住所と地図をもらっていた。けれど、母は札幌の地理にくわしくなかったので、私たちは地下鉄の駅から動けなくなってしまい、結局、その女性に駅まで来てもらうことになった。
その女性は、小走りで構内にやって来た。小柄で長い黒髪の女性は、ついさっきまで家事に励んでいたと想像できる普段着の上から緑色のジャンパーを羽織り、赤い長靴を履いていた。
一方の母は長身で、ブラウンのショートヘアーに青いトレンチコートと黒のロングブーツ姿で、端から見れば二人が親友などとは思えないコントラストだった。
二人はお互いの姿を見て、十代の少女の様に笑いながら再会の言葉を交わし、続いて私がその女性に挨拶した。
私は被っていた帽子を取って「はじめまして。私の名前は長谷川由夏です」と名乗り、お辞儀をした。
「あら、お利口さんね。はじめまして。お母さんの友達の斎藤綾子っていいます。なかよくしようね」
そう言うと、綾子さんは私を抱き締めてくれた。
私は心底驚いた。そんな風に人に抱き締められたことがなかったからだ。私は体を強張らせたが、彼女の服から微かに漂う洗剤の香りが彼女の人と成りを私に想像させ、また安心させた。
駅の階段を登って外に出ると、雪が日の光を乱反射させる街並みと、そのせいで東京より薄い水色に見える空が広がっていた。
母と綾子さんは、なおも青春時代に戻った様に話しながら歩いていた。そんな母の姿に、私は意外さを感じていた。
私が知っている母は寡黙な人だった。決して内向的ではなかったが、好き好んで人の輪に加わろうとはしなかった。そして私の教育に熱心だった。まるで、自分のコンプレックスを私に経験させたくないかの様に。
「由夏ちゃんは今、五歳なんだって? じゃ、うちの春人と同い年だ」と、綾子さんが私に微笑みながら問いかけた。
ちゃん付けで名前を呼ばれるのもほとんど経験がなくて、唐突な親しい呼び掛けに「はい、そうです」と教科書の様な返事しかできず、男の子のことは頭に入らなかった。
駅から数分歩くと、一軒家が連なる住宅街に入った。黄緑やベージュ色の木造家屋が立ち並び、どの家にも庭が設けられていて、雪を被った常緑樹に施された冬囲いが異文化を感じさせた。
歩道と車道の間では、除雪によってうず高く積もった雪が春の日射しを受けて水滴を垂らしていた。そのせいで、歩道にはちょっとした池くらいの水溜まりができていたので、私たちはその前で立ち止まった。
「さっきは反対側の道から来たからな、この季節はこれがあるから、長靴が欠かせないんだ」と綾子さんがつぶやいた。
「回り道はないの?」と母が綾子さんに尋ねた。
「いや、私の家、次の角右曲がったところだし、横に雪積もってるから、迂回も出来ないし」と綾子さんが困った顔で答えた。
だが、しばらくすると綾子さんは「私がおんぶしてあげる」と私たちに楽しそうに言った。
それを聞いて母は「バカ言わないでよ、綾子小柄なくせに」と抗議したのだが、そうしなければ母も私もびしょ濡れになってしまうと諭され、結局、母は恐る恐る綾子さんの背中につかまった。
「それでは綾子号出発進行、由夏ちゃん、ちょっと待っててね」
「ちょっと綾子ったら、昔と本当変わってないわね」と母は笑いながら指摘した。
二人の笑い声が耳に響いた。そして、あの寡黙な母がまるで子供の様にはしゃいでいる姿は、親友という存在がいかに重要であるかを幼い私に知らしめた。ふと自分にもそんな親友ができるのかなと、足元に寄せる波紋を見つめながら思った。
二人が水溜まりの向こう側に着いて母が歩道に降りると、次は私の番だ。
「さあ、由夏ちゃん、後ろ向いて」と綾子さんが私を促したので、私は不思議に思ったがその通りにした。すると綾子さんの両手が私を抱え上げ、あっという間に私は綾子さんに肩車された。
私は取り乱した。その高さにもだが、何よりも肩車という行為それ自体にだ。それまで肩車という行為は、男親が息子にするものだと私は思っていた。
綾子さんは私を肩に乗せると、ゆっくり歩き始めた。
長靴が水をかき分ける音を聞きながら、私は内心、怯えていた。母がどんな顔をして私を見ているか、不安で目を開けられなかった。
それを察したのか、綾子さんは突然、英語の歌を歌い始めた。知らない歌だったが、とても陽気なリズムだった。
私はそのリズムに促される様にゆっくり目を開けた。すると、水色の高い空、鏡の様に輝く雪、日の光きらめく水面、そして、純真無垢な少女の様な笑顔をたたえた母の姿が鮮烈に目に飛び込んできた。
その光景は、私の心に優しくて温かいものをもたらしてくれた。
初春の札幌の住宅街で、水溜まりを渡るために女性に肩車される。ただそれだけのこと。ただそれだけのことが、私にとって色あせることのない記憶になった。
水溜まりを渡った後も、綾子さんは私を降ろさずに家まで歩き続けた。その間、私たち三人はさっきの歌を一緒に歌った。
水溜まりから三分程歩いた所に綾子さんの家はあった。紺色の外壁に三角屋根の二階建ての家は、まだ新築の様だった。
綾子さんが家の前で私を降ろすと、私たちは玄関前に進んだ。
そしてそれは、綾子さんがドアを開けて私たちを招き入れようとした時のことだった。中からパジャマ姿の小さな男の子が大泣きしながら飛び出して、綾子さんに抱きついたのだ。
「あらあら、起きちゃったの? ごめんね。怖かったね」と綾子さんが謝ると、しゃがんでその子を抱き締めてあやした。
それでも、その男の子は泣き止まずに悪態をつき続けた。
その姿に、私は愕然とした。
もし、私が母に同じ様なことをすれば、母はためらいなく平手打ちをするはずだ。事実、私は何度もそれを経験してきたし、それが普通なのだと思ってきた。
それなのに、この男の子は思いのままに泣き、喚き、そして甘えている。
また綾子さんも、思いのままに泣かせ、喚かせ、そして甘えさせている。
私の中で、今まで信じてきたものが崩れ去るのを感じた。そして、この聡明な女性を母親に持ち、その愛を一身に受ける目の前の男の子に対する嫉妬がわき上がった。
「ごめんなさい、二人とも。お見苦しいところを」と綾子さんは私たちに詫びた。
「いえいえ、私たちのために迎えに来てくれたんだから。ごめんね、春人君」と母は語りかけた。
男の子は私たちの姿を認めると、何も言わずに綾子さんの後ろに隠れ、涙で真っ赤になった目でこちらを注視した。
その言動に、私の不快感が増した。
「二人ともごめんなさい。春人は人見知りがすごくてね。ほら、春くん、ご挨拶するんだよ」と、綾子さんが促しても、男の子は頑として動こうとしなかった。
業を煮やした私は男の子に歩み寄り、左手で帽子を取って「はじめまして。私の名前は長谷川由夏です」と挨拶し、右手を差し出した。
だが、男の子はさらに怖がって綾子さんの後ろに完全に隠れようとした。
その態度に、綾子さんもさすがに容認できなかった様で「春くん、女の子が挨拶してくれてるのよ。ちゃんと挨拶しないと失礼でしょ」と注意し、男の子をやや強引に私の前に立たせた。
男の子は下を向いたまま右手をゆっくりと私に差し出した。よく見るとその手は震えていた。
私は手を伸ばして、男の子の手を握った。その感触はとても温かく、そして柔らかかった。
握手したことに男の子も何かを感じたらしく、顔を上げた。
私たちの視線が重なった。
その刹那、私の心にあった一切の不快感が消え失せた。代わりに、息苦しさを感じる程の愛しさが胸に込み上げてきた。
この男の子は、私の大切な人になる。
そう直感すると、私は左手に持っていた帽子を落とし、男の子の両頬に両手を添えた。そして、その澄んだ瞳が驚きの色に染まるのを薄目で見ながら、私はキスをした。
もう戻ることのできない、遠い日の記憶。
プロローグ・春人編に続く。