文字ヒカリσ
「つまり橋本くん。君は、世界が全て文字に見えているのか?」
私は机に突っ伏しながら顔だけ彼に向けて尋ねた。
「性格には少し違うね。僕と君が見ている世界はほとんど同じだと思うよ」
顔も人当たりも非の付け所がない野郎に言われても全く説得力のないセリフだが、怒りは静かに胸に秘めておく。
彼は教壇に腰掛けながら話し続けた。
「光は物体に反射して、眼に入る。そこで特定の波長だけが反射されるので、色が付くわけでしょう?」
あぁ、と気のない相槌を打った。理系の高校に入る連中は皆この手の話には興味があり、既知の知識であることが多い。そして話す分には楽しいが耳を傾けるのは退屈である。
「だけど時々、文字が見えるんだよ。見えるというより頭に浮かぶんだけど、目を閉じるとそのイメージもなくなるからやっぱり見えているのさ。人類の脳が眼から入力された電気信号をイメージに変換するように、僕の脳は特定の信号を文字に変更するらしい。」
彼は本を読むように淡々と淀みなく喋っている。
「それは面白いねえ。じゃあ私はどんな文字を発している?三島明神の権化とかオモシロイ事が書いてあるかい?」
「残念ながら常に文字が見えるわけではないんだ。月明かりの夜にしか、それも満月に近くないと見えないんだよ。単純に月明かりが強くなれば見やすいってことなんだろうけどね。」
私は俄然興味がわいた。
「ならば今夜試してみよう。満月とは行かない迄も大分明るい月夜のはずだ。しかし男二人が真夜中に佇んで見えた見えたなどと宣っていてはいかに善良な市民である我々も御縄を掛けられること請け合いである。よって、我々が居るべきところで実験しようではないか。もともと君もそういう腹であろう?」
私はニヤリと笑った。彼もどこか嬉しそうにはにかんでいた。
私の高校では部活動はあまり盛んではなく、強制的に入部させられることもない。
放課後では時間を持て余した連中がカードゲームやパソコンゲームに興じる姿を見ることができる。進学校らしからぬこの雰囲気が私はなかなか気に入っている。
このような状況では必然的に部室棟もオンボロ2階建てが一棟あるだけである。
さらに比較的活発に文武両道を志して活動しているサッカー部や吹奏楽部はそれぞれグラウンド脇のプレハブ小屋や第二音楽室等を拠点にしているため、この棟を使う人数はそう多くない。
私にもこの建築物が"活気"という文字を発していないことくらいは分かるぞ。
私達は狭い廊下を抜け、一番奥の扉を開けた。普通の教室の半分ほどの部屋に望遠鏡などの器具が整然と並んでいる。部屋の中央には大机があり、少女が一人で椅子に腰掛けていた。
「まゆちゃん元気だったか?もうどれだけ会ってないか覚えてないくらいだ」
「この間来てお菓子だけ食べ漁っていったじゃないですか」
そう言うと彼女は読んでいた天文学の本を閉じた。
「今日はお菓子もないし新入生の女の子も居ませんよ。何しに来たんですか?」
「酷い言い様だな今日は真面目に星を見に来たのだ」
「今日は月が明るすぎます。うまく見れないですよ」
「月も星の一種であろう!月を仲間はずれにするのではない。無論、私も外すべきではないぞ」
私は天文部に所属をしているようで、ほとんど名ばかりの部員である。
元々は部員不足で消滅するはずであったが、彼が私を含め3人分の名義を集め、さらに新入生の彼女を含めて辛うじて書類の上では5人が所属していることになっている。
そのために取り潰しは逃れたのだった。普段はおっとりと本を読んでいるような彼が走り回って入部の説得をしている姿を見るのはなかなか胸に来るものがあった。
私に別段そういう趣味はないが、その姿を見て彼のことが好きになった。日本男児の紳士の心を持つものなら彼に好感を持つのは当然であろう。私にそういう趣味はないが。
「橋本先輩もなにか言ってやってくださいよ。こんな幽霊に構っていられません」
目の前の少女は私の紳士の心を全く理解していないようだ。酷い言い様である。
彼は重そうな機材を端に退けながら彼女に答えた。
「たまには月の観測も面白いじゃないか。それに今日は僕が誘ったんだよ。さぁ、機材の準備を始めようか。時間外活動の書類も出さないとね」
「ならば私が出してこよう。そちらの準備は任せたぞ」
私は大机の上に山積みになっていた書類に手早く今日の日付を書き込み、それを持って部屋を出た。私に専門的なセッティングは不向きである。あくまで適材適所というだけで、逃げたわけではない。
天文部は活動の性質上、毎回この書類を提出しなければならない。ただし、人数も少なく問題を起こしたこともないので、教員の引率は必要なくなっている。
今日の計画には最高の条件である。あとは今夜の月が明るく輝いてくれるだけで良いのだ。
書類を出し終わり事務室の扉を閉めた私は、ふと先ほどの彼女の表情を思い浮かべていた。
どうにも愛想がない彼女だが、彼と居る時だけは口元が綻ぶことが多いように思える。
一方私に対しては目も合わせず文句を言うばかりだ。私が天文部を救ったのだぞと叫びたいところだが、酷く矮小な人間に思われる恐れがあるため実行には移していない。
ついでに彼女にけちょんけちょんに言い返されるのがオチであるのは目に見えている。そんな蜂の巣を輪ゴム鉄砲で弾くような真似をするほど私は愚かではない。
しかし彼には随分と懐いているようだがあの二人が交際している様子はない。あくまで先輩後輩の仲なのであろうが、見てる側としてはもどかしさを感じる。
私が名目上入部してから何回か部室に顔を出したが、あの二人の間の雰囲気が生じさせる、交際相手の居ない男子高校生に容赦なく襲い掛かる圧力にいつも這々の体で逃げ出すことになる。
私は彼の恋路を邪魔するつもりなどないのだ。しかしこれだけ気を使っているのにいつまでただの部員同士でいるつもりだ。私の青春ガイガーカウンターが過熱爆発することになるぞ。
恋愛小説でも差し入れてやろうか。しかしセクハラで訴えられそうなので思いとどまった。
本校舎を一度外に出て部室棟へ向かう途中、ふと思い立って正門から学校の敷地外にあるコンビニを目指した。確かお菓子がもうないとさっき彼女が言っていたはずである。
適当にスナック菓子とジュースをカゴに放り込む。シュークリームとブラウンサンダーも幾つか放り込む。こういう買い出しはつい楽しくなって買いすぎてしまう。
お弁当コーナーで月見うどんを見つけたので3人分購入することにする。月見をしながら月見うどんを喰うとはなかなか粋ではないか。
「おかえり、こっちの準備はできたよ」
「こっちも準備万端だ。見ろ、これだけ食料があれば一晩中戦えるぞ」
机にビニール袋を置き、中身をばら撒いた。
「また随分と買い込みましたね。何ですかこのうどん」
私は胸を張って彼女の問いに答えた。
「月見うどんに決まっているだろう。流石に月見酒というわけにもいかないからな。全員分あるぞ、おごりだおごり。あぁこれは橋本の分のブラウンサンダーだ」
彼はけたけたと笑いながら、ありがとうわかってるねと受け取った。彼女はシュークリームを凝視している。
「それは君の分だ。シュークリームはよく食べていただろう?」
「よく覚えてましたね、ありがとうございます。大好物です」
彼女が私の方を向いて笑った。なんと珍しいこともあるものだ、普段の彼女からは想像もつかない。
急激な温度差によって物体はダメージを受けるというが、冷静沈着と定評がある我が心もかなりの衝撃を受けた。
どういうことだ?
私が恋に落ちてどうするのだ、私は彼らの結婚披露宴で仲人をやるはずなのだ!こんなところで青春ガイガーカウンターを爆発させる訳にはいかない!
早く暗がりへ行って頭を冷やさねば。私は彼をけしかけた。
「さぁさぁさっさと屋上へ行こう!日が暮れてしまうぞ!」
「日が暮れなきゃ観測は無理だよ。ていうかもう暮れてるし」
至極まっとうな意見であるが、今はそんな些細なことを気にしている場合ではない。私は食料を再びビニール袋にかき集め部室を飛び出した。彼女はその間シュークリームをじっと見つめていた。
私が入部した頃の事はぼんやりと覚えている。書類は出しておくから、いつでも部室に来ていいと言われ初めて足を運んだ時の話だ。別に行ったところで星を見るつもりはなかったのだが、人出が足りない時くらいは手伝ってやろうと思っていた。吹奏楽部に仮入部してすぐにやめた以来の部室棟は懐かしかったが、部外者は寄せ付けない排他的な気配を放っていた。
天文部の部室は鍵が開いていたが誰もいなかった。私は適当に地球儀を回して眺めたり、望遠鏡に触らないように全方位から覗き見たりしていた。こういうものにうかつに触るとろくな事にならないことは経験と財布が知っていた。そこで机の上に乗っていた一冊の天文学の本に気がついた。なるほど橋本の私物かと思い、ペラペラとめくっていると部室のドアが突然開いた。
橋本が戻ってきたかと振り向くと、小柄な少女が立っていた。上履きの色を見るに新入生のようだ。
「誰ですか」
はて、新入生がいたとは聞いていなかった。しかし口調がキツいし恐ろしい眼光でこちらを睨んでいる。ここは動揺を隠し、紳士的に対応しなくてはいけない。
「私は新入部員だ」
「私もです。とりあえずその本は私のなので返してください」
そう言い放つとつかつかと近寄ってくる。非常に怖い。
「それは済まなかった。少し中を見せてもらっただけだ。しかし星座というものは本当に神話と繋がりが深いのだな」
私から本をひったくった彼女の動きが一瞬止まった。この凍りついた雰囲気をどうにかするべく必死で口を回す。
「私は12星座で言えば魚座なのだが、星座に二匹の魚がいることも知らなかった。それがアフロディーテとエロスの変身した姿だということも知らなかったな。巨人から逃げるときに離れないように繋がって一つの星座になっているとは、太古から人類というものは想像力豊かだと感じるよ」
彼女はじっとこちらを見ている。魚になって逃げたい。いや、逃げよう。冷たい視線に耐えられない。
「では私は失礼するよ。勝手に本を見て済まなかったな」
そそくさと部室を出ていこうとすると背後から声がかかった。
「それなら、こっちの本のほうが面白いと思いますよ」
彼女は本棚から神話とか星座とかキーワードが散りばめられた本を机に山のように積み始めた。
「私は登坂まゆです。よろしくお願いします」
逃げられなかった私の頬を冷や汗が伝う。それから橋本が来るまでの間、私が持ちうる限りの神話の知識を振り絞り間をつないでいた。彼女はじっと私の目を見ながら話を聞いているだけだった。
暦の上では秋分を少し過ぎたくらいで、屋上は肌寒かった。私は自分の中に渦巻いている思いを振り払うように荷物を運んでいた。重い望遠鏡は橋本と登坂二人がかりで慎重に運んでもらい、私は細かいノートや食料、参考書やハンドライト等々を必死の階段往復ダッシュで運び込んだ。適材適所である。
運び終わると二人は機材のセッティングに入った。私はスナック菓子を頬張りながらその様子を見ていたが、思ったより寒いですねという声が聞こえてきたので着ていたコートを彼女に放り投げた。
私は階段ダッシュで既に体温が恒星のようになっていたため寒さは既に感じなくなっていた。彼女が体調を崩して帰宅ムードになったら今日私が残っている意味が全くなくなるではないか!
セッティングが終わったのか、彼女が望遠鏡を覗き始めた。橋本はしばらくダイヤルを弄っていたが、ふとこちらへやって来た。
「いい感じの月明かりだ。よく見えるよ」
「ようやくか、待っていたぞ。さぁ、私はどんな文字を発している?」
私は期待に満ち溢れていた。究極の才能とか、孤高の紳士とかを希望する。ネガティブな単語が出たら、彼の口から罵倒の言葉が出ることは非常に稀なのでそれはそれで面白いから良しとする。
「まぁまぁ、お楽しみは取っておこうよ。先に彼女の文字を知りたくないかい?」
そう来るとは思わなかったが、確かに一理ある。私が頷くと彼は望遠鏡を覗いている登坂の方を見て呟いた。
「寂寞、寂寥、相愛、喋喋喃喃…」
「ちょっと待て、何言ってるかわからないぞ。漢字が浮かんでこない、書いてくれ」
彼はノートに書き綴った。最後の中国語みたいなやつなんてよく読めたなと感心する。しかし大凡の意味は分かる。
「これは明らかに君を欲しているだろう。私はうどんを温めてくるからその隙に告白でもしたらどうだ」
私はうどんが入った袋を掴んで立ち上がった。何たる茶番だろうか。しかし彼はうどんを私の手から奪って、爽やかな笑顔を浮かべた。
「残念ながら彼女を見ると君の名前が一番多く映り込むのさ。さぁ、僕はうどんを温めてくるよ。三人分だから時間がかかるなぁ」
そのまま彼は階段に去っていった。私は予想外の事態に完全に硬直している。気配を感じて振り向くと、彼女がすぐ側に立っていた。
そういうことか、橋本は文字なんて見えてなかった。私はなにか話さなければと思ったが緊張で震えるだけだったので大人しく黙った。私のコートを羽織った彼女はいつもの様に、私の目を見て喋る。
「私はこれからも、先輩と一緒に星を見たいです」
彼女の目は涙で潤んでいた。私は震える唇を必死に制御する。
「ならば一緒にいよう。君となら何を見ても楽しいだろうからな」
もはや頭の中は真っ白である。ミルキーウェイもかくやと思わせるほどの純白である。この沈黙はどうしたら良いのか。もっとストレートに愛してると伝えたほうが良いのか。いや、そんな言葉を口に出せるわけがない。そんな葛藤のさなか、彼女は私の手を握った。
「私も魚座なんです。これでずっと一緒ですね」
二匹の魚はしばらく一つの星座となって屋上に佇んでいた。
その後うどんを持って現れた橋本にとりあえず一発蹴りを入れた。なんたる周りくどい事をしてくれたのだ。橋本は登坂の頼みを聞き、このような三文芝居を思いついたのだそうだ。すっかり騙された私が言うのも何だが、大したやつである。てっきり二人は相思相愛の関係にあると思っていたとを伝えると、どうやら橋本は幼なじみのお姉さんに淡い恋をしているらしい。登坂もそのことを知っていて、よく相談に乗っていたそうだ。それは傍目から見れば二人が付き合っているようにしか見えないわけである。なれば、私の出番であろう。超能力は何がいい、その幼なじみに一芝居打ってやろう。台本は私が書きます。実行会場を決めなければいけないな。というか台本まであったのかよ。待ってくれ、そんな勇気はまだないんだ。軽い恩返しだ、任せておけ。全力で手伝いますよ先輩。
3人の声は夜更けまで響いていた。