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そしてそれは現れた。
沼地の中から
幾つもの半透明な人影が岸へと這い上がってきていた。
どの人影もぼんやりと光っており、
その首には皆一様に同じように光る鎖が繋がれている。
鎖は沼地の中へと伸びていた。
ジャラジャラと鎖を引きずる音を立てながら、
光る人影は口々に何事かをぶつぶつと呟いている。
恐ろしくもどこか幻想的な光景だった。
「ゴーストや……」
カナタが掠れ声で囁いた。
真っ先に目標にされたのは、吹雪と戦い昏倒した男だった。
彼の倒れている位置が一番沼地に近かったのだ。
うつ伏せに倒れたままの男に、
二体のゴーストがゆっくりと覆いかぶさって行く。
「奴らに襲われた者は生気を吸い取られて死ぬ。
あいつはもう助からない。逃げるぞ」
「他の倒れてる人たちは見捨ててくの? 戦わないの?」
マーディの言葉に異を唱える吹雪。
「数が多すぎる。それに奴らに通常の攻撃は効かないんだ」
「さっきの戦いでうちも魔法を使いすぎた。
これだけの数を相手に出来るだけの余力はあらへん」
マーディとカナタが揃って吹雪を納得させようとする。
「そもそも、あいつらが襲ってこなければもっと先へ進めてたはずだ」
「野盗とうちら、どちらの命を優先すべきかは言わんでもわかるやろ?」
「……ごめんなさい。そうだね」
吹雪は納得すると自分の背嚢を拾い上げた。
マーディは敢えて口に出さなかったことがある。
ゴーストは弱っている者や意識を失っている者を優先して襲うという事実を。
野盗たちを生贄にする腹積もりであった。
カナタも自分の荷物を背負い、ドリスに声をかけた。
「立てるか? ドリス」
ゴーストが次々と倒れている野盗たちに襲いかかる様を、
ドリスは座り込んだまま虚ろな目で眺めていた。
現実離れし過ぎていて、危険が迫っているという実感が沸かない。
鎖を引きずったまま、崖の上にまで這い上り
倒れている男に襲いかかるゴーストまでいる。
もはや一刻の猶予もならなかった。
ドリスは気丈に頷いて立ち上がると、自分の荷物を拾い上げ、
左手の指輪に右手を添えて魔法を発動させた。
指輪の魔宝石が白く柔らかな光を放ち始める。
地護魔法『水面月』
魔宝石を発光させる魔法。暗闇を長時間照らすことが出来る。
発光させた魔宝石は術者の身体から離してもその効果を持続させる。
あくまでも灯でしかなく、ゴーストのような亡霊系が
この光を忌避したりダメージを受ける訳ではない。
彼女は薄暗くなり始めた道先を照らす為に発動させたに過ぎない。
見ると立ち塞がるかの如く、進路の先にまでゴーストがうろついている。
四人は全員荷物を背負うと、一箇所に寄り集まった。
「うちが残った気力で、マーディと吹雪の武器に魔法をかける。
二人でなんとか道を切り開いてや。
ドリスも余裕があれば蘆薈での援護攻撃よろしくな」
無言て頷く三人。
ドリスは早速、蘆薈の発動準備にかかった。
極めて発動の遅い治療魔法だが、亡霊等の不死なる存在に対しては
攻撃魔法としての効果もある。
マーディは石縋ではなく、取り回しの効く短刀を腰から引き抜いた。
カナタは腰に戻していた小刀を再び抜き放ち、
逆手に構えたその柄にグローブをはめた左手で触れた。
吹雪の構える木刀が淡い光に包まれる。
天動魔法『エンチャントウェポン』
武器を一時的に魔力によって強化する魔法である。
効果時間は約刻一つ(三十分)。
殺傷力が劇的に上昇する訳ではないものの、マジックミサイル等の
直接攻撃魔法よりも比較的消費する気力が少ないのが利点。長期戦向き。
また殺傷力を高めるだけでなく、武器の強度を増すという効果も併せ持つ。
そして何といっても最大の利点は、
魔法攻撃しか通用しない相手にも武器によるダメージが通る事だろう。
四人の周りにも徐々にゴーストが集い始めている。
吹雪に続いて、
カナタがマーディの短刀にエンチャントウェポンの魔法をかける。
「うちの魔法はこれで打ち止めや。後は頼んだで」
沼地の中から伸びる鎖を引きずりながら、
両手をこちらに伸ばし、滑るように迫り来るゴーストたち。
ドリスは一番近くまで近づいて来ていたゴーストに蘆薈を発動させた。
見えない力がゴーストに働きかけ、恐ろしい絶叫を発してのたうち回る。
「今や!」
カナタの号令と共に四人は一斉に走り出した。
「助けてくれーっ!」
崖下から叫び声が聞こえ、ドリスは立ち止まった。
最初にカナタに眠らされて崖下に転落した男だ。
意識を取り戻したのだろう。
満足に動けない男は這いずりながら、
こちらに向かって必死に手を伸ばしている。
そのすぐ近くには三体のゴーストが近づいている。
ドリスとその男の目が合った。
「ドリスさん! 早く!」
吹雪に呼ばれ、ドリスは男から目を逸した。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
何度も呟きながら吹雪たちの方へ走り出す。
男の恐怖による叫び声を背後に……。
進路上に立ちはだかるゴーストたちは、
疾走しつつ武器を振るう吹雪とマーディに切りつけられ、
痛みに悶えて道を開けた。
接触して生気を吸い取られる事もあった。
しかし、それが瞬間的なものであれば、まだ致命には至らない。
途中、足をもつれさせて倒れた最後尾のドリス。
その上にゴーストが覆いかぶさるというアクシデントも起こった。
咄嗟に引き返してきたマーディがそのゴーストを追い払う。
四人は死に物狂いで走った。
道にうつ伏せに倒れ伏す野盗頭の死体も目にした。
ゴーストに襲われて絶命したのであろう。
それに対してどうこう言えるだけの余裕すら四人にはなかった。
息も切れ切れになる程、走って走って走り抜いた。
薄暗い沼地のほとりを移動しながら照らすドリスの水面月。
どれたけ走っただろう。
やがて沼地も生い茂る木々も見えなくなり、
四人は草に覆われた小高い丘にたどり着いた。
丘の上でドリスが最初に膝をつき、そのままばたりと倒れ伏す。
他の三人もそれを見て、次々とその場に倒れ込んだ。
誰も一言も発しない。
四人の荒い息遣いだけが聞こえる。
しばらくすると、虫の鳴き声が聞こえ始めてきた。
四人の乱入に驚いて鳴き声を潜めていた虫たちの声だ。
ドリスは呼吸を整えながら、しばしその虫たちの声に聞き入っていた。
横に顔をそむけた視線の先に、ほぼ完全に沈んだ日の名残り。
辺りはすっかり暗くなっていた。
手をつくことすら忘れて倒れ込んだ為、
ドリスの両腕は体にそって伸びきったままだ。
左手を頭の方にたぐり寄せる。
光る水面月の魔宝石が視界に入って眩しかった。
「ここでこのまま一晩過ごす訳にもいかへんし、野宿出来そうな場所探そか」
カナタが気だるそうに体を起こして提案する。
正直動きたくなかったが、ドリスも両手をついて半身を起こした。
虚ろに頷く。
「……うん」
自分の仕事はまだ終わっていないという使命感からだ。
吹雪とマーディも身を起こす。
二人は無言だった。
戦いながら走ってきた分、ドリスやカナタよりさらに疲労が激しそうだ。
四人はドリスの灯を頼りにふらふらと丘を下り、すぐ近くの林に入った。
ここなら夜風も凌げるし、寒さで風邪をひくこともないだろう。
沼地からもう少し離れたい所ではあるが、
これ以上歩きたくなかったというのが四人の率直な思いである。
枯れ木を集めて火を起こす気力すらなく、
一本の木を背後に、四人はドリスが地面に置いた水面月の指輪を囲んで座った。
翡翠亭の用意してくれた弁当を使う。
「初夏とはいえ、明け方は冷え込むだろう、
これ食べたら薪になりそうな枝集めてくるよ。
ドリス、その間、この指輪貸して貰ってもいいかい?」
「うん、いいよ。ごめんね、任せちゃって」
握り飯を頬張りながらそう話しかけるマーディに、
ドリスは申し訳なさそうに答えた。
「便利やなあ、水面月」
カナタが羨ましそうに中央に置かれた指輪を眺めている。
「うち、お金貯まったら、その魔法買う予定だったんや。
灯、どれくらい持つんやっけ?」
「二刻(四時間)くらいかな」
「それならまだ余裕があるな。すまないけど、もう少し休ませて貰うよ」
食事を終えたマーディはそう言って、地面の上にごろりと横になった。
「あたしも薪集め手伝うよ」
吹雪がそんな彼の痛ましい様子を見て申し出る。
「助かるよ」
弱々しく微笑んでマーディは目を閉じた。
マーディが野盗頭と互角に渡り合って傷だらけであった事を
ドリスは思い出した。
ゴーストに接触されて生気を奪われたのも一度や二度ではあるまい。
食事を中断して、マーディの元にひざまずき、蘆薈の魔法を発動させる。
「本当はカナタさんや、吹雪ちゃんにもかけてあげたい所なんだけど、
もうあまり気力が残ってないの。……ごめんなさい」
「うちはほぼ無傷やさかい、気にせんでええよ」
「あたしも大丈夫。一晩眠ればすぐ回復するよ」
「ありがとう、ドリス。だいぶ楽になったよ。君自身は平気なのかい?」
横になりながらマーディが深く息を吐いた。
「私も平気」
ドリスは少し無理に微笑んで見せた。
マーディの傷を癒し終えたドリスは、
おもむろに首の後ろに手を回して首飾りを外した。
「気力が残ってるうちにやらなきゃいけない事もあるし」
首飾りには四つの小さめな魔宝石が紐で吊り下がっている。
魔宝石はそれぞれ上部に小さな輪になった紐、
下部には短い針のような突起物のついた不思議な形の石留に収まっていた。
ドリスは首飾りの紐を滑らせ、そのうちの一つの魔宝石を掌の上に落とすと、
立ち上がって背後の樹木の前へ。白樺だろうか。
大きく手を伸ばして木の幹へ、その魔宝石についた針の部分を食い込ませた。
そのままさらに左手を添えじっとしている。
「何をしてるの?」
そのドリスの不可解な行動に疑問を抱く吹雪。
「あれは、『獣返し』言うてな、魔除けの一種や」
地護魔法に知識のあるカナタが、ドリスに代わって解説する。
「うちらがここで休んどる間、野生の獣や、
さっきみたいな亡霊に襲われんようにしてくれてるんや」
幹に刺さった魔宝石からドリスが手を離すと、
それはぼんやりと薄暗い明かりを放っている。
ドリスは今度は少し離れた場所まで移動し、地面の上にしゃがみこんで、
同じように残り三つの魔宝石を土の上に刺し込んでいく。
地護魔法『獣返し』
最低三つ以上の魔宝石を必要とする結界魔法。
点と点が繋がって線となり、線が三つ繋がれば面となる。
その面には術者を認識したうえで害意を抱くものを阻む力がある。
阻止するだけでなく、その見えない壁に触れた箇所の痛覚に訴えかけ、
追い払う効果も有する。その際の痛みはダメージにはならない。
これにさらにもう一つ点を加えれば、
全方位からの敵を防ぐ三角錐の結界になるというわけだ。
一辺の長さは最長でおよそ七メスラー(約六メートル半)。
持続効果時間は約六刻(十二時間)。但し、日の出と共に効果は失われる。
魔法を完成させるまでに長い準備時間が必要。消費する気力も大きい。
飛び道具等、結界外からの攻撃には無力。
状況如何によっては術者の存在に気づかず(術者を認識せず)、
侵入を許してしまうケースも有り得る。
陽の光のある場所では効果を発揮しない。
等、数多い欠点を持つが、様々な局面で役に立つ優れた術の一つ。
獣返しが完成し、一息ついたところで、
マーディと吹雪が拾い集めてきた薪によって焚火も起こされた。
獣返しと焚火によって安心感が得られると、
四人は会話もそこそこに眠りについた。
本来なら誰か一人は見張り番として起きているべきであったが、
今の四人は疲労困憊の極みに有り、そのような余裕はなかった。
獣返しの魔宝石が光る樹木と焚火の間で、
四人は木に頭を向け、横に並んで密着して眠る。
左からマーディ、カナタ、吹雪、ドリスの順だ。
それぞれマントや持参した毛布にくるまっている。
一番最初に寝息を立てたのは、やはり吹雪であった。
その安らかな寝息を真横で聞きながら、
ドリスはなかなか寝付けないでいた。
マントにくるまり、背嚢を枕に満天の星空を見上げる。
くたくたに疲れてはいた。
魔法で気力もほぼ使いきり、体力的にも一日歩きづめの上に
度重なる戦闘、その上さらに全力疾走で限界だ。
初めての野宿で寝付けないというのもあったろうが、
それ以上に色々な事が起こりすぎて感情が昂ぶっていた。
こうしてやることもなく眠れないでいると、
今日一日の出来事が次々と思い出されていく。
吹雪だけでなく、カナタやマーディらとおぼしき寝息が聞こえ始めた時、
夜空を見上げるドリスの視界が唐突に歪んだ。
それが自分の涙のせいだと悟った彼女は慌てて寝返りをうち、
真横で眠る吹雪に背を向けた。
固く目を瞑る。
何故自分が泣いているのかわからなかった。
なのに次から次へ、とめどなく涙が溢れてくる。
ついには嗚咽まで漏らして泣き出してしまった。
野盗に襲われた恐怖。
自分や吹雪が好色な目で見られたことによるショックと怒り。
命のやり取りをしているという緊張感。
華々しい活躍直後の負傷と、それに対する言い知れぬ悔しさ。
ゴーストに襲われ、必死に助けを求めてきた男の目。
何も出来なかった自分の無力感。
そうしたあらゆる感情が一気に押し寄せてきて、ごちゃまぜになっていた。
肩を震わせ、嗚咽を必死に噛み殺して泣くドリス。
そっとその肩に手が置かれた。
と思いきや、いきなり強引に仰向けにされる。
さらにそのまま反対の肩を掴まれ、無理やり反対方向に向かされた。
吹雪の寝ている方へ。
「う~ん、うるさいなあ……」
「ご、ごめんなさい……」
びっくりして小声で謝るドリス。
驚いて目を見開く彼女の顔の正面に吹雪の顔があった。
焚火の灯に照らされたその顔は、明らかに眠ったままだ。
吹雪はそのままドリスの頭を両手で抱えると、優しく自分の胸元に抱き寄せた。
そして静かにドリスの黒髪を撫で始める。
何度も何度も。
ドリスは吹雪の小さな胸に抱きしめられ、
頭を優しく撫でられながら、身を強ばらせていた。
しかし、それも束の間
少しずつ緊張はほぐれていき、ドリスは吹雪の胸の中で体を丸くしながら
安らぎとまどろみの中へ落ちていった。
自分より三つ四つも年下の少女に慰められているというのに、
不思議と悪い気はしなかった。
吹雪が寝ぼけているのだろうという安心感もあったかも知れない。
ドリスが完全に寝入るまで、吹雪はひたすら彼女の頭を撫で続けていた。