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その少女は刀のような物で飛び降りざまに怪物に殴りかかった。
マルールと呼ばれた怪物にとって頭上は完全に死角だ。
にも関わらず敏感にその気配を察し、咄嗟に左手の棍棒でそれを防ごうとする。
だが、少女の斬撃の方が早かった。
彼女の武器が怪物の左腕を激しく打ち据える。
少女は地面に片膝を付いて綺麗に着地した。
彼女が手にしていたのは木刀だった。
マルールは苦悶の咆哮を上げながらも、左手に持つ棍棒は離さない。
よく見れば棍棒も骨製の鋭器も蔦で手に縛り付けられているのが分かる。
マルールは少女に向き直りざま、右手の骨で渾身の突きを繰り出した。
少女は予測していたのか、素早く横に飛び退いてそれをかわす。
骨は民家の土壁に深々と突き刺さった。
少女はその機を逃さなかった。
咄嗟に木刀を振り上げ、
二度、伸びきったマルールの右腕をしたたかに打ち付ける。
呆然と見守っていたドリスの思考は、そこでようやく働き始めた。
マルールと互角以上に渡り合っているのは、
ひどくみすぼらしい格好をした年端もいかぬ少女だった。
ドリスよりも確実に年下であろう。年は十三、四くらいだろうか。
青に近い髪はセミロングでぼさぼさな状態だ。
ぼろぼろで薄汚れた薄手の革鎧を上半身に纏い、
下半身は丈夫そうな布製生地の白いホットパンツ。
その下の日焼けした太ももはむき出しで、足には長めの革のブーツ。
少女の小柄な体格に不釣合いな物々しい革の腰ベルトには、
一見して鞘のような物が吊り下げられている。
しかし、木刀を収める鞘など聞いたことがない。
少女の苛烈な攻勢を見て心理的に若干の余裕が生まれ、
ドリスはようやく自分が為すべきことに思い至った。
少女を援護しなければならない。
我に返ったドリスは胸のブローチに左手を添え、強く念じる。
輝き始めた胸のブローチの魔宝石。
彼女は右手をマルールと戦う少女に向かって突き出した。
しかし、それは一歩遅かった。
骨を持つ右手に二度目の殴打を放った少女に、
マルールの前側右腕によるストレートパンチが炸裂した。
少女は吹っ飛ばされ、民家の壁に叩きつけられる。
そこでやっとドリスの発動させた魔法が少女にかかった。
少女の全身が一瞬淡い光に包まれる。
地護魔法『楯無』
地護魔法において治癒の魔法『蘆薈』と並び、
基礎中の基礎と言われる防護の魔法である。
物理魔法問わず対象者の受けるダメージを一定時間軽減する効果がある。
その効果時間はおよそ刻一つ(三十分)。
今一歩早ければ今の攻撃も軽減出来ていた。
マルールは間髪入れず、少女に掴みかかった。
少女は苦痛に顔を歪めつつ、
壁からわずかに身を離して腰の鞘に左手を添える。
鞘口らしき部分から短い矢が射出され、マルールの右手に突き刺さった。
思わず怯んで動きを止めるマルール。
ダメージこそたいしたものではなかったようだが、
少女がマルールの間合いから離れるチャンスを作り出すには充分な効果があった。
マルールは立ち上がって前左手で前右手の短い矢を抜く。
少女の攻撃で背中側の両腕は使えなくなっていたからだ。
少女はよたよたと壁から離れ、ドリスのいる方向に近寄ってきた。
マルールに殴られたダメージが効いているのだろう。
少女の動きは最初の頃の俊敏性を明らかに欠いていた。
しかし、息こそ荒いもののマルールから目を離さず、
まだ闘志は衰えていないようだ。
それを見て、ドリスは再び自分のやるべきことに気がついた。
発動に時間はかかるものの、
受けたダメージを回復させる蘆薈を少女にかけるべきだと。
ある程度マルールから離れた少女は右手に木刀を、左手は腰の鞘に添え
怪物に体ごと向き直った。
ドリスは蘆薈を発動させるべく今度は右手の腕輪に左手を添えた。
しかし
そのまま動きが止まってしまった。
額にどっと汗が滲む。
彼女は極度の緊張状態のあまり、
頭の中で描くべき蘆薈発動の手順を思い出せなくなっていた。
その間にも二足歩行のままマルールはゆっくりと少女とドリスに近づいてくる。
マルールの方も満身創痍で動きが緩慢になっていた。
少女の鞘から再び矢が飛び出す。
矢は今度はマルールの胴体に突き刺さった。
少女は左手で木刀を逆手に持ち、顔の右側面まで持ち上げる。
木刀の切っ先は怪物に向けられている。
右掌を柄頭に添えると、
その突きの構えのまま前傾姿勢で猛然とマルールに向かって走り出した。
マルールと距離を取ったのは助走をつけて突きを行う為であった。
矢に気を取られていたマルールは少女の突進突きに対応出来なかった。
木刀がマルールの腹に突き刺さる。
だが、しかし弱った少女の力では怪物に致命傷を与えるまでには至らなかった。
怪物に突き刺さった木刀の切っ先は浅いものだった。
さらに怒り狂ったマルールの右腕が、
渾身の突きによって動きの止まった少女を薙ぎ払った。
少女は地面を滑るように吹き飛ばされ、
ドリスの足元に倒れたままぴくりとも動かない。
気を失ってはいるが、まだ息はあるようだ。
楯無の加護が無ければ、どうなっていたかわからない。
それを見下ろすドリスは、
青ざめた顔で必死に魔法の発動手順を思い出そうとする。
なのに、そんな状況下でも彼女の蘆薈は発動することがなかった。
少女にとどめを刺すべくマルールが近づく。
突如、その背後に炎が炸裂した。
強烈な炎は一瞬で消え、マルールは前方に大きくよろめいた。
次の瞬間
裂帛の気合と共に一人の男が猛然と突進してきた。
振り返ろうとしたマルールの胴体を、男は足を止めず横薙ぎに刀で切り裂く。
マルールは雄叫びを上げることもなく、
腹から血飛沫を飛び散らせながら横向きに倒れた。
男はすかさず倒れたマルールに軽く蹴りを入れ、
仰向けにさせてその胸に刀を突き立てた。
マルールはそれで完全に動かなくなった。
その壮年の男は、膠で固めた厚手革の白染鎧を身に纏っていた。
男は哀れみに似た一瞥を絶命したマルールに向けると、
抜き身の刀を手にしたまま、ドリスたちに駆け寄った。
ドリスの足元で気を失い横たわる少女の傍にしゃがみ込む。
「小隊長!」
同じような鎧に身を包んだ若い女性がいつの間にかその後ろにいた。
女性は木塀に寄りかかって息絶えた男の傍らで膝をついている。
「見覚えのある顔です。
防衛依頼に売り込みに来ていたソロのマーセナリーだったかと」
「そうか……功を焦ったな……」
小隊長と呼ばれたその男は沈痛な面持ちで掠れた声を出した。
「そちらの旅装束の娘さんは怪我はないか?」
「は、はい」
顔を上げた小隊長に問われ、ドリスはぎこちなく頷いた。
「無事で何よりだ」
小隊長は立ち上がって、女性隊員に向き直った。
「すぐに救護班を呼んでくれ。遺体を運ぶ人員も必要だ」
「了解しました」
女性隊員も立ち上がる。
彼女は手にしたワンドに黒いグローブをはめた左手を添えた。
短いワンドの先端には小さな水晶。そしてグローブは左手のみ。
彼女は天動魔法の使い手であった。
天動魔法は地護魔法と違い、魔法の種類ごとに触媒を必要としない代わりに、
その発動には水晶石のついたワンドと魔法の糸で織り込まれた黒いグローブ
という二つの特定の触媒を必要とする。
また、水晶石の大きさによって記憶させておける魔法の種類にも限度がある。
無論、これらの品は専門の魔法職人が作った物に限られた。
女性隊員が目を閉じて念じると、
瞬く間にそのワンドは光り輝く鷹のような鳥に変わる。
「しかし、怪我人はここだけではないので、
救護班がすぐに駆けつけるのは難しいと思われます……」
女性は掌から肩に、光る鷹を乗り換えさせた。
「わかった。だが、出来るだけ急ぐよう伝えてくれ」
「あ、あの、私、地護魔法使えます!」
ドリスは言いながら倒れて動かない少女の前に慌てて屈んだ。
腕輪に手をかざし、再び蘆薈の発動を試みる。
今度は上手く行ったようだ。
しばらくして、少女の全身を優しい光が包み込む。
地護魔法『蘆薈』
地護魔法の象徴とも言うべき治療魔法。
肉体の自然治癒力に働きかけ、怪我や軽い病気、
亡霊系から奪われた生命力等を回復させる。
自然には完治しない重い病気や毒、肉体の欠損には効果が無い。
消費する気力もそれなりであり、発動までに時間がかかる、
という欠点を補って余りある有用性の高い魔法だ。
「使えるのなら何故もっと早く使わなかったの?」
肩に鷹を止まらせたまま女性隊員が詰問してきた。
ドリスは答えられずに座ったまま、
ただじっと気を失った少女の顔を見つめていた。
驚くほど勇敢な少女だが、近くで見ると可愛い顔をしている。
小隊長は血糊のついた抜き身の刀を懐から取り出した布で拭い、
腰の鞘に収めた。
「済んだことはもういい。
そもそも我ら警備隊が街へのマルールの侵入を許しさえしなければ、
こんなことにはならなかったのだ。分をわきまえよ」
言いながら、マルールの死体から少女の木刀を引き抜き、
自分の刀と同じように布で丁寧に拭っている。
「それより人を寄越すよう早く伝えてくれないか。
救護班はもはや必要ないが、
街の安全が確保されたことを早く皆に伝えてやらねばな。
あの男の遺体も早く葬ってやりたい」
「……了解です。失礼いたしました」
女性隊員は少女の傍らで黙って俯くドリスをひと睨みすると、
肩に止まらせた鷹に二言三言何かを伝え、右手に飛び移らせた。
その手を大きく天に掲げ、鷹を飛び立たせる。
鷹は大空高く舞い上がると、街の入口へと向かって羽ばたいていった。
天動魔法『スピリットファルコンリー』
触媒であるワンドを鷹に変化させ、自在に操る魔法。
情報伝達だけでなく、鷹と術者は視覚を共有出来るため、
上空からの探索にも広く用いられる。
天動魔法を代表する重要かつ貴重な魔法である。習得難度も魔法の値段も高い。
当然の事ながら、ワンドを一本しか持たぬ場合、
鷹を使役している間は他の天動魔法が使えないという欠点もある。
やがて横たわっていた少女がゆっくりと目を開いた。
体を起こそうとして苦痛に顔をしかめる。
「まだ、どこか痛む?」
気遣わしげに尋ねるドリスに少女は仰向けになったままぽつりと答えた。
「全身……」
「やはり、一回の蘆薈だけじゃ不足だったわね」
再び蘆薈の魔法を発動させるドリス。
「ありがとう」
礼を言いながら少女は静かに半身を起こした。
だいぶ楽になったようで表情が和らいでいる。
「ううん、お礼を言うのはこっち」
ドリスは少女の身体を支えながら微笑みかけた。
「助けてくれて、ありがとう。あなたが戦ってくれなかったら、
私、どうなっていたか……」
「マルールは?」
辺りを見回し、その死体を確認する少女。
ほっと安堵してドリスに微笑み返した。
「気にしないで。仕事だから」
警備隊の小隊長である壮年の男が少女に話しかけた。
「相変わらず無茶が過ぎるぞ、吹雪」
厳しい表情で歩み寄り、木刀を少女に手渡す。
吹雪と呼ばれた少女は黙って立ち上がり、それを受け取った。
「お前は恐れを知らなすぎる。
そんな事ではいつか必ず命を落とすことになるぞ。
あそこの男のようにな……」
小隊長はマーセナリーの遺体を振り返る。
「生きていく為には仕方のない事なんです」
吹雪の反論に小隊長は厳しい眼差しを向けた。
「嘘をつくな。酒場の夫妻から自分たちの元で働かないかと誘われているだろう。
お前がどうしてもこの道で生きたいと思うのならば、もう少し戦い方を考えろ。
一人では到底立ち向かえない相手にすら闇雲に攻撃を仕掛けるのは愚の骨頂だ」
「お言葉ですが……」
それまで黙って二人のやり取りを見ていたドリスがおずおずと口を挟んだ。
「この子が助けに来なければ、私も確実に殺されていました。
この子を責めるのは、どうかやめて下さい……」
「責めている訳ではないのだが……」
小隊長は困ったような顔でドリスを見た。
「この少女はこれで金を稼いでいる。いわば我々の同業者だ。
まだまだ半人前ではあるがな。しかし、あなたのおっしゃる事も確かだ」
そして彼は腰嚢から矢立(携帯筆と墨壷のセット)と一枚の麻紙を取り出し、
立ったまま器用に筆を走らせ始めた。
「ともかく我々の不手際の尻拭いをしてくれた事には感謝している」
しばらく時間を置いて墨を乾かした後、筒状に丸めて吹雪に手渡す。
「いつもの証文だ。ついでにあいつによろしく言っておいてくれ」
待っている間、彼女は小まめにも鞘から射出された短い矢を拾い集めていた。
マルールの死体に刺さっていた一本も躊躇なく抜き取る。
「ありがとうございます」
吹雪は麻紙の証文を受けとって頭を下げた。
「それと危ないところを助けて頂いたことも」
「その礼は私ではなく、彼女に言ってくれ」
隊長は表情を和らげ、背後の女性隊員を振り返った。
「彼女は魔法の攻撃でお前の危急を救った。
マルールの居場所を突き止めたのも彼女だ。私はただ、とどめを刺したに過ぎぬ」
「私は任務を遂行したまでです」
女性隊員は生真面目に答えた。
ドリスも慌てて二人の警備隊員に頭を下げる。
「ありがとうございました」
「あなたもありがとう。治癒魔法だけじゃなく、
戦いの最中、あたしを助ける魔法もかけてくれてたよね?」
吹雪に微笑みかけられてドリスは曖昧な笑顔を返した。
「いえ、そんな、私の方こそ……」
ふと気づくと路地裏の前後には、
四人と怪物の死体を遠巻きに眺める街の人々の壁が出来ていた。
その人ごみを掻き分けて、
白い革鎧に身を包んだ数人の警備隊員たちが四人の元にたどり着いた。
荷運びの為の大きな手押し車を引いている者たちもいる。
マルールや最初に殺された男の亡骸を運搬するための物であろう。
小隊長がてきぱきと隊員らに指示を飛ばすのを横目に、
吹雪がドリスに話しかけた。
「稼ぎも入ったし、ぜひお礼がしたいの。
この後予定がなければ、もう少し私に付き合って貰えないかな?」
「いやいや、お礼をするのはむしろ、こっちの方なんだけど」
「いいから、いいから。あれは仕事だって言ったでしょ?」
気さくに笑いかける吹雪。
ドリスは折れざるを得なかった。
どのみちこの後の予定もない。
日は沈みかけ、辺りは赤く染まり始めていた。