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【奈津乃】1.

「月が綺麗ですね。」

勇気を出して口に出して言ってみた。

他の誰に言っても緊張もしないし他意なんて持たないけれど。貴方はその言葉のもうひとつの意味を知ってることも、あたしが知ってるであろうこともわかってるから、こんなにも緊張する。

満月から横にいる貴方に目線を移動する。貴方は少し驚いた顔をして、柔らかく微笑んだ。

その笑みが、どんなにあたしの胸を痛ませてるか、知ってますか?


【奈津乃】


一人暮らしを始めて早4ヶ月、菜津乃はひどく後悔している。

大学卒業と同時に実家を出ることは在学中から決めていた。家賃の予算やら条件は前々から決めていたし、内定をもらってすぐに物件探しに取りかかった。

不動産を周ること数件、内覧した数なら更に数倍。時間帯も天気も違う時に同じ部屋を見に行って吟味に吟味を重ね、後半は不動産の社員の迷惑そうな顔も気づかない振りをした。

そしてやっとこさ理想の部屋を見つけて契約した。

間取りも近所の環境も申し分ない。最初の数週間は初めての自分だけの生活、自分だけの時間に酔いしれた。

誤算はただひとつ、新しく越してきた上の住人がドタバタ五月蝿いことだけ。しかも夜に…。

内覧した時住んでいた夫婦が春になると同時に引っ越して、次の住人がどんな人かなんてどうしたって分かるわけない。

風呂から上がって髪を乾かしていると、今夜もまた上からガッタンゴットン何かを動かす音が響き、小さなため息が出る。気になると思うが、かと言ってチャイムを鳴らして「もう少し静かにしてもらえますか」と言いに行くのも煩わしい。

仕方がないので、昼間に書店で購入した大好きな作家の新作を脇に抱えてベランダに出る。サンダルに足を入れたと同時に生温い風がおでこを掠める。ベランダの隅に置いたチェアに腰掛け、サイドテーブル上のランタンに火を灯す。

夏の晴れた星月夜はこれで本を読むのに十分だ。外に出れば上の階の音も聞こえない。

菜津乃がこの新居で一番気に入ってるのがこのベランダだった。

近所に学校や学生がたむろするようなお店も無く、夜になるとひどく静か。虫の声や近くの公園の木々が風でざわめく音も心地よく、蝋が燃え尽きてランタンの火が消えたことで3時間近く読書に夢中になることも度々だった。


…あ、帰ってきた。


窓と網戸をカラカラと開ける音と共に、クラシックが聞こえてくる。少しして隣とこちらのベランダを隔てる壁向こうから煙草の煙が見えてくる。


…今日はトロイメライかぁ。昨日はラインだったし、今週はシューマン多いなぁ。


隣にいることがバレないよう、息を潜める。

なにかやましい気持ちがある訳ではないが、

自分のテリトリーに他人が入ってくるのが嫌いな菜津乃にとって、相手のそれに自分が入ることも同じく嫌った。

最初の頃は隣のベランダに人の気配を感じる度部屋に戻っていた。でも夏になってからは部屋のむし暑さのほうが我慢ならず諦めて気配を消すことを選んだ。すると、流れてくる音楽がいつも違うのにどれも菜津乃の好みだった。おそらく煙草だと思われる、隣から漂ってくる煙の香りが普通のものと違うお香のような甘い香り。それも菜津乃が好きなものだった。

あんなに鬱陶しく思っていた人の気配が、隣の住人に限っては帰宅を心待ちにするようになっていた。

だからと言って関わりたいと思うようになったかはまた別の話だけれども。


トロイメライの演奏が終盤にさしかかる。

新刊も一旦きりの良い所まで読んだことだし、夕飯の準備でもしようかとそっと立ち上がろうとした時だった。

にゃあっと、いつもは部屋の中にいるはずの飼い猫 琥珀の鳴き声が足元からした。予想外の位置からの声に、予想外に驚いて「ひぎゃっ!」と、これまた予想外に大きな声が自分の口から出てしまった。自分の声に驚いて足をサイドテーブルの脚にぶつけてガランガラーンッとランタンが床のコンクリートに落ちる音が反響する。

…なんでこのタイミングで隣の演奏が終わる!琥珀、あんたいつの間に網戸開けれるようになったの!?


「あの、大丈夫ですか?」


落ち着いた、父と同じぐらいの大人の男性の声が背中に投げかけられる。


「…だい、じょうぶです…。」


動揺が声に出ないように頑張ったが、頭の中はパニック状態だった。誰もいないと思った場所に、物音も立てず人がそこにいたとか…気持ち悪すぎる。自分だったらドン引きだ!


「クラシック!」


「…はい?」


語尾上がりの嫌味な言い方ではなく、相槌の「はい」が返ってきた。


「クラシック、お好きなんですか?」


「…あぁ、そちらにまで音が響いてましたか?ご迷惑おかけしてすみません。」


「いえ!とんでもないです!いつも違う曲聴けて、いつも楽しみにしてます!」


…なんだって自分から毎日盗み聴きしてることバラしてんのよ私!!


「そうですか。良かったです。」


語尾に笑いを含んだ、優しい返事。そっと後ろを振り向く。ベランダとベランダを隔てる壁があるから、勿論相手の姿は見えない。壁の奥から、煙草の煙が空に溶けて行く様と、煙草を指で挟んだ左手が辛うじて視界に入る。

…どんな人なんだろう、不意に好奇心が湧いた。最初はお父さんぐらいの年齢なのだろうと思ったが、落ち着いた口調からして、もう少し年配なんだろうか?

柵から身を乗り出せば、簡単に姿を見られるが…。

柵に手をかけようとした直後、琥珀がまた にゃあっと鳴いて足元にじゃれついてくる。


「猫ちゃん、ベランダから落ちないように気をつけてくださいね。」


言葉の後にカラカラと網戸の音がして、人の気配が消える。甘い煙草の香りが夏の空気に溶けて、奈津乃はしばらく無人の隣のベランダを見つめていた。





…最悪だ、最悪過ぎる。

玄関の前で奈津乃は呆然と立ち尽くしていた。寝る前に携帯電話の充電を忘れたのは昨日のベランダでの失態で頭が惚けていたせいであり。仕事から帰宅して充電をして聞いた、取り寄せた本が届いたという書店からの留守電に明日の出勤まで我慢出来ないのは自分の我慢弱い性格のせいであり。挙句、スキップ混じりで帰宅したは良いものの、鍵を掛け忘れた。すなわち鍵は家の中でオートロックの我が家は他の居住者が帰らない限り入ることが出来ない。…間抜け過ぎる。奈津乃は取り寄せほやほやの本を脇に抱えて心の中でごちた。

誰かが帰ってくるまで外で待つには全く支障が無い夏夜だ、と諦めがついた直後。帰宅してすぐに居間の窓を網戸だけの状態にしたことを思い出す。と、同時に琥珀が昨夜網戸を開ける技能を習得していることも思い出した。

さぁ、っと顔の血の気が引く。琥珀は起きていただろうか?ご飯寄こせとばかりに玄関で足にじゃれついてきたではないか。

しばらくここで待つ、という発想は却下され、ソワソワと早く誰か帰ってこないかと周りを見渡す。マンションの住人どころか、人ひとりいない空間が広がるばかりだった。

実家から連れてきた琥珀の顔が浮かんで涙目になる。頭が真っ白になりそうになった時、ベランダの奥から微かに聴こえるクラシック。聴く度に泣いてしまう、奈津乃が一番大好きな曲。

急いでオートロックの前に戻り、部屋の番号を押す。「呼出」と書かれたボタンを押す時に少し指が震え、ピンポーンとチャイムの音と同時や自分の鼓動が早くなったのがわかった。数秒の間の後、インターホンから昨日聞いたばかりの声が聞こえた。


「はい。」


「あ、あの…昨日はご迷惑おかけしました。隣の者です。」


他人と話すのは苦手だ。少し声が上ずったのが恥ずかしくて頬が熱くなる。


「…あぁ、こんばんは。どうかなさいましたか?」


昨夜と同じ、嫌みが全く感じられない柔らかな落ち着いた声が問う。


「あの…すごくお恥ずかしい話なんですが…鍵を家の中に忘れてしまって。夜分に呼び鈴鳴らして申し訳ないのですが、その…」


「どうぞ。」


声と同時にオートロック解除の音がエントランスに響いた。


「っあ、ありがとうございます!」


インターホン越しに礼を伝えて扉を開けた。

予想通り家の鍵は開いていて、急いで中に入る。

肝心の琥珀は あたしの心配を他所にネズミの玩具にじゃれついて遊んでいた。安堵と共に脱力して床にへたりついた所で、お隣の人のことを思い出す。

昨日から、散々怪しい行動ばかり見せている。きっと変な奴だと思われているだろうなと思うと、そんな人間でも訝しむこともなく鍵を開けるだなんて。


「とんだお人好しなんだろうな…。」


失礼なひとり言にはっとして、頭を振る。すっくと立ち上がり、窓に鍵を閉めてから玄関に向かう。


自分の隣の部屋、402号室のドアの前に立つ。インターホンの少し上には「冨樫」と書かれた札がある。教科書に書かれているような、癖の無い綺麗な文字だった。

指を近づけて、奈津乃は自分の心臓が早く脈打ってることに気が付いた。一言お礼を言うだけなのに、何を緊張してるんだと自嘲してインターホンを鳴らす。


オートロック前と区別する為にチャイムが2

度、ドア越しに響く。

鍵を開ける音の後、奈津乃が「え?」と呟くのとドアが開くのがほぼ同時であった。


「こんばんは。」


部屋の主の挨拶に小さく「…こんばんは」と返す。




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