第2話】迫る「殺処分」の影と、農民たちの悲劇と和解
「こんにちは! 下町訪問看護ステーションの橘です。長屋の戸を開けて、風を通させてください!」
透とアリアの【全戸訪問・トリアージ班】による巡回が始まっていた。
二人は消毒用のクロスとORS(経口補水液)が入った木筒、そして羊皮紙のアセスメントシートを抱え、下民街に立ち並ぶ狭く薄暗い長屋を一軒一軒ノックして回った。
ギィと重い音を立てて戸を開けると、室内には汚物と汗の臭いが立ち込め、横たわった人々が荒い息を吐いていた。透は素早く部屋の奥にある小さな窓を開け放ち、溜まった死気を外へ押し出すと、倒れている住民の頸動脈に手早く指をあてた。
「顔色は土気色だが、脈拍の触知は良好……意識もハッキリしている。重症度は『黄色(中等症)』だ。アリア、ORSを!」
「はいっ!」
アリアは手際よくスプーンを取り出し、震える患者の頭を優しく支え上げると、唇の隙間からORSを少しずつ流し込んだ。
「焦らず、ゆっくり飲んでくださいね。体から抜けてしまった大切な水と塩分ですよ」
「あ……あぁ……温けぇ……。女神様みたいな綺麗な方が、俺みたいな下民に……」
患者の目からポロポロと感謝の涙がこぼれ落ちる。アリアは優しく微笑み、患者の手を温かく包み込んだ。
「私は女神などではありません。橘様のもとで看護を学ぶ、アリアという名の助手です。大丈夫、部屋を換気して、このお水を正しく飲み続ければ、必ず良くなりますからね」
アリアは家族にもスプーンを渡し、「1分おきにスプーン一杯ずつ、根気強く飲ませてあげてください。一度にたくさん飲ませると吐いてしまうので、ゆっくりですよ」と、丁寧な指導を繰り返した。
その姿を見つめながら、透は頼もしそうに目を細めた。
(すごい成長スピードだな……。最初は魔法だけに頼っていたアリアが、今じゃ立派に患者と家族へ『セルフケアの指導』を行っている……)
前世の病院では、忙しさに追われて家族指導がおざなりになり、再入院を繰り返す患者を何人も見てきた。だが、こうして地域の中で家族自身に手当ての知識を渡していくことこそが、訪問看護の本当の価値なのだ。
アリアはふと透の視線に気づくと、頬をほんのり桜色に染め、照れくさそうに姿勢を正した。
(橘様に……褒めていただけているかしら。橘様が教えてくださった看護の温もりを、私はもっとたくさんの人に届けるのだわ……!)
巡回は順調に進み、一戸、また一戸と閉ざされていた長屋に新鮮な風が吹き込み、住民たちの表情に希望が戻り始めていた。
——だが。その平穏は、街の境界線から響き渡った激しい悲鳴によって、無残にも破り捨てられた。
ドォォォン……ッ!!
「火だ……! 火が上がったぞーっ!!」 「助けてくれ! 兵士たちが集落を燃やしているんだ!!」
突如として下民街の北側、農民たちの集落との境界線付近から、黒煙と激しい炎が天を突いた。馬蹄の響きと、甲冑を打ち鳴らす冷酷な足音が近づいてくる。
「何ごとだ!?」
透とアリアが長屋を飛び出し、現場へ急行すると、そこには目を疑う光景が広がっていた。
王都の正規兵と、豪華な法衣を纏った【王都魔法術医ギルド】の処刑魔術士たちが、農民の集落と下民街の境界に押し寄せていたのだ。彼らは手に掲げた松明を、病人が出た農民の藁葺き屋根や長屋へ容赦なく投げ込んでいた。
『燃やせ! 燃やし尽くせ!』 『病原体ごと穢れた平民を焼き払い、世界創世の本山へ生贄として捧げるのだ! これぞ神の祟りを鎮める唯一の救済ぞ!!』
「やめてぇぇっ! 私の子どもが……子どもがまだ中にいるのよ!!」 「俺たちは病気にかかっただけだ! なんで殺されなきゃならないんだ!!」
泣き叫び、燃え盛る家から逃げ出そうとする農民や下民たち。だが、兵士たちは冷酷に長槍を突きつけ、彼らを炎の中へと押し戻そうとしていた。
「な……なんてことを……! 人間を……生きている人間を焼き払うなんて……っ!!」
アリアが激しいショックと激怒に全身を震わせた。
「やめろーーーーーっ!!」
透は自分の身の危険も顧みず、怒号をあげて兵士と民衆の間に割って入った。
「何をしているんだ、お前たちは!! 病気は火で燃やしても、人を殺しても止まらない! 原因は水と衛生環境なんだ! 正しい手当てを行えば、みんな助かるんだよ!!」
処刑部隊の隊長が、冷ややかな蔑みの視線を透へ向けた。
「不審な男め。貴様が噂の胡散臭い手当て屋か。戯言を抜かすな! 貧民や農民に高価な魔法医療など提供できるか! 治せぬ病人を殺処分し、本山へ生贄として捧げることこそが、我が国の法であり最上の解決策なのだ!」
隊長が剣を抜き、殺気とともに振り下ろそうとしたその瞬間——。
「橘様に……手を出すなーーーっ!!」
アリアが躍り出た。彼女は手にした杖をかかげ、溢れんばかりの魔力を解き放った。
カァァァッ……!
透き通るような青い光の障壁が透と民衆の前で展開され、兵士の剣と、魔術士たちが放った火炎弾を完璧に弾き返した。
「なっ……エルフの魔法障壁だと!? なぜエルフが貧民どもを庇う!?」
「リク! 今だ、みんなを避難させろ!!」
透の叫びに呼応し、路地裏から棍棒を構えたリクとゴブリンの若者たち、そして下民の若者たちが雪崩れ込んできた。
『お前たちの好きにはさせないッス! 橘先生、アリアさん、こっちへ!』
リクたちは炎の包囲網を破り、煙に巻かれて倒れていた農民や下民の患者たちを次々と担ぎ上げた。兵士たちが追撃しようとするが、アリアの展開する光の壁に阻まれ、手出しができない。
「撤退だ! 全員、ステーションの地下へ入れ!!」
透たちの命がけの救出劇により、間一髪のところで、数十人の農民と下民たちが火の海から救い出されたのだった。
『下町訪問看護ステーション』の広々とした地下保管庫。
そこは、煮沸した水とORSが備蓄され、風が通り抜ける清潔な避難所となっていた。
助け出された農民たちは、呼吸を荒らげ、恐怖に全身をガタガタと震わせていた。彼らは、自分たちを燃やそうとした国の兵士たちの残虐さと、死の恐怖に打ちひしがれていた。
そこへ、スプーンとORSの入った木筒を持った下民の若者たちと、アリアが近づいてきた。
「さあ、落ち着いてこれを飲んでください。喉が乾いているでしょう」
下民たちが、優しく農民たちの背中をさすり、ORSを口元へ運んでいく。
農民たちは目を見開いた。
彼らはほんの数日前まで、この下民たちを「病気や呪いを持ち込む穢れた存在」として差別し、境界線に深い溝を掘り、杭を打ち立てて追い払っていたのだ。自分たちが冷酷に突っぱねたはずの相手が、今、自分たちの命を救うために泥まみれになって看病してくれている。
「あ……あぁ……っ」
一人の老農民が、膝から崩れ落ち、床に額を擦り付けた。
「すまない……すまない……っ!! 俺たちは……俺たちはなんて愚かだったんだ……!!」
老農民の叫びを皮切りに、助け出された農民たちが一斉に激しい悔し涙を流し始めた。
「下民のせいにして……呪いが移るなんて嘘をついて……お前たちを暗い長屋に閉じ込めたのに……! なのにどうして……どうして俺たちを助けてくれるんだ……っ!?」
「神の祟りなんかじゃなかった……! 俺たちが無知で、恐れて、お前たちを排除したから……バチが当たったんだ……っ!!」
自分たちの差別と過ちを心から恥じ、声を上げて泣く農民たち。
その姿を、アリアは愛おしそうに、そして優しく見つめ、老農民の汚れきった手を両手でそっと包み込んだ。
「顔をお上げください、農民の皆様」
アリアの澄んだ声が、地下室に静かに響き渡った。
「誰だって、正体不明の病気が恐ろしいのは当たり前です。知識がないばかりに、互いを遠ざけてしまった過去を……どうか自分だけで責めないでください」
アリアは振り向き、地下室の入口で温かな眼差しで見守っている透を示した。
「橘様は教えてくださいました。病気は悪魔の呪いなどではなく、正しく原因を突き止めれば防ぐことができるのだと。そして……看護とは、命の前に身分や種族の差など作らないものなのだと」
下民のクラックも笑みを浮かべ、農民の肩を叩いた。
「そうだぞ、農民の親父さん。過去のことはもういいんだ。これからは、農民も下民も手を取り合って、一緒にこの街と畑の衛生を守っていこうじゃないか!」
「お前たち……っ、ありがとう……! 本当に、ありがとう……っ!!」
農民と下民が、号泣しながら互いの手を固く握り締め、抱き合った。
かつて無知と恐怖によって作られた深く巨大な差別の溝。それが今、橘透の持ち込んだ「看護の手当て」と「公衆衛生の知恵」によって、完全に埋め合わされた瞬間だった。
地下室の隅でその光景を見届けながら、透はマイ聴診器を握り締め、深く頷いた。
(よし……これで下民街と農民の連帯は完了した。地域全体が一つになって衛生を守る体制が整ったぞ)
透の視線は、王都の中心へと向けられた。




