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断罪ルートを回避した悪役令嬢、よりによって黒幕ルートに突入

作者: えええ
掲載日:2026/05/30

レティシア・アルディアンが人生で初めて「神なんて信用するものではない」と確信したのは、八歳の冬のことである。

その日はアルディアン公爵家が主催する夜会が催されており、王都中の有力貴族が集う華やかな宴の最中だった。それにもかかわらず、公爵家の一人娘であり、本来なら最も美しく着飾って注目の的になるべきレティシアは、盛大に池へ落下した。

理由は極めて単純である。

パーティがつまらなくて抜け出し。

池を散歩した。

何も無いところで躓いた。

以上。


他家に陥れられた政略的な陰謀でもなければ、暗殺未遂の類でもない。

ただの不注意で、躓いた。

そしてそのまま無様に前へのめり、盛大に転んだ。

転んだ先に不運にも池があった。

これですべての説明が終わりである。


真冬の池というものは、恐ろしく冷たい。冷たいという感覚を通り越して、全身に針を突き立てられたような痛みが走り、身体は濡れた生地の重みで底へと沈んでいく。

水が容赦なく口に流れ込んで息はできず、周囲に助けを呼ぶ余裕すらない。

苦しくて、冷たくて、このまま自分は死ぬのだと、ぼんやり遠のく意識の中でそう思った次の瞬間だった。


ぐい、と首の後ろの襟首を強引に掴まれた。


そして。

ものすごく雑に助けられた。

溺れる少女をいたわる優しさなど微塵もなく、まるで網に引っかかった魚でも釣り上げるみたいな勢いで池から引きずり出されたのだ。

レティシアはそのまま、冷たい石畳の上へとべしゃりと乱暴に転がされる。

頭を打って痛いし、氷のように冷たいし、当然ながら全身くまなく濡れた。お気に入りの高級なドレスは石畳で擦れて台無しである。

レティシアは激しく咳き込み、肺に入った水を吐き出しながら、恨めしげに顔を上げた。

そこに仁王立ちしていたのは、全身が黒い少年だった。


夜の闇を溶かしたような黒髪、豪奢な黒い礼服。

病的に白い肌、死んた魚みたいな目。

人間らしさの欠片もない完全な無表情。

少年は、自分が今しがた命を救った相手を心配するでもなく、ただそこに無言で突っ立っている。


その様子を見上げて、レティシアは真っ先に思った。

なんだこの無礼なガキは。


命の恩人に向けられるべき感想ではない。だが、事実は事実なのだから仕方がない。

せめてもう少し地面に叩きつけないように、転がさずに助けるという丁寧な選択肢はなかったのだろうか。

こちらは由緒正しきアルディアン公爵家の令嬢である。

もっとこう、壊れ物を扱うように丁重に扱われても良いと思う。

そんな勝気な八歳児の文句を頭の中で並べ立てているうちに、ようやく遠くから大人たちが青ざめた顔で駆け寄ってきた。


侍女、護衛騎士、そして血相を変えた両親。

周囲がパニックになる中、レティシアはそのまま何重もの毛布に包まれ、屋敷の中へと速やかに回収された。

意識が途切れる直前、ガタガタと震えながら毛布の隙間からちらりと振り返ると、あの黒い少年は相変わらず何も映さない無表情のまま、夜の闇に紛れて立っていた。

顔色は悪いし、雰囲気も暗い、底気味の悪い変な人。


それが彼に対するレティシアの、一番最初の印象だった。


そしてその日の夜、レティシアは予想通りに激しい高熱を出した。

当然である。子供の身空で真冬の凍りつくような池に落ちたのだから。

数日間のあいだ熱は一向に下がらず、寝苦しい夜の中で彼女は何度も何度も、奇妙な夢を見た。

見たこともない高い建物が並ぶ知らない街、自分が長女として面倒を見ていた知らない家族、進んだ科学技

術を持つ知らない世界での人生。けれど、どれも不思議なほど懐かしく、胸にストンと落ちる記憶だった。

そしてようやく熱が綺麗に下がった朝。レティシアはベッドの上で、そのすべてを思い出した。

前世の記憶。

断じて気が狂ったわけではない。



ご存じだろうか。世の中には、不慮の事故で死んだ挙句、生前に触れていた創作物の世界へ転生させられる。

という、だいぶ迷惑な現象が存在することを。

少なくともレティシアは知らなかったし、知りたくもなかった。だが、思い出してしまった以上はどうしようもない。

前世の勝気な自分。生きた人生。

そして、今自分が生きているこの世界の正体。

ここは、前世の妹たちが自分のパソコンを勝手に借りてまで毎日のように狂ったように熱中していた、乙女ゲームの世界だった。なんだっけ、いやまぁ、名前は忘れた。


王太子がいて、高潔な騎士がいて、天才魔法使いがいて、平民出身の聖女がいて、お互いに恋に落ちる。


まぁそんなよくある健全な乙女ゲームだった。

問題は、後から追加された超高難易度の大型アップデートコンテンツにあった。

ファンを恐怖と興奮のどん底に叩き落とした「黒幕ルート」。

その名の通り、ゲーム本編の裏側に存在していたドロドロとした真相ルートである。

当時、追加要素をプレイした妹たちは部屋で大騒ぎしていた。

死神様ルート最高、ヤンデレ度合いがやばい、助けて、やっぱ助けないで彼と幸せになるから、などと支離滅裂な悲鳴を上げていたのだ。

何をそこまで錯乱しているのかと意味が分からず、レティシアは前世で横からそのゲーム画面を覗き込み、

そして本気でドン引きしたのを覚えている。

その黒幕ルートの正体こそが、他ならぬレイスフォート辺境伯家の嫡男、ディートリヒ・レイスフォート。

ゲーム本編では、ただの不気味で影の薄いモブに近い扱いだった男だ。

だが未来編のシナリオでは、すべてがひっくり返る。


悪役令嬢レティシア・アルディアンが断罪され、実家の公爵家が王家によって叩き潰されて没落した数年後。

ディートリヒは若くして辺境伯の地位を継いでいた。しかしその頃には、彼の内に棲む「闇の精霊」が暴走し、辺境伯夫妻は命を落としていた。

人々は彼を『親殺しの死神』と呼び、彼もまた、その罪を背負ったまま誰とも関わらず、辺境に引きこもっていた。

そしてある日、ヒロインである聖女ミリアが突如として誘拐される。

その犯人こそが、闇の精霊を完全に飼い慣らして裏ボスへと変貌を遂げたディートリヒだった。

監禁、逃亡、執拗な追跡、黒幕との絶望的な対決。

他ルートの攻略対象が総動員で挑む救出劇が繰り広げられ、もしプレイヤーがゲームオーバーになれば、ミリアは一生ディートリヒに閉じ込められる監禁エンドを迎える。

いわゆる、ヤンデレルートの体現者。

前世の妹たちはそのダークな顔の良さに狂喜乱舞していたが、妹たちに請われてプレイした、オタク文化を知らないレティシアは引いていた。

普通に考えて怖い。

顔の造形が美術品レベルで良いから許されているだけの、犯罪者である。

そんな未来の誘拐監禁犯が、ついさっき自分を池から引き上げた、あの黒髪の少年だった。

なるほど、改めて思い出せば確かに子供時代から怖そうではある。

無愛想だし、全身真っ黒だし、目付きは獣みたいに据わっていたし、彼を中心に物理的に周りの空気が凍りついていた。


だが。

未来の恐怖よりも先に、現在のレティシアには少しばかりの現実的な恨みがあった。犬みたいに襟首を掴んで引き上げられ、べしゃりと冷たい地面に容赦なく転がされたのだ。


この、アルディアン公爵家のとても可愛らしく、国宝級に高貴な愛娘である、レティシア・アルディアンが。これは淑女の尊厳として、非常に、とても大事な大問題である。


そして、もう一つ、きわめて重大な事実にレティシアは気付いた。

ゲーム内でのレティシア・アルディアンに与えられた役職は、主人公である平民出身の聖女を引き立てるためだけに存在する「悪役令嬢」だった。

シナリオ通りに進めば、一年生の聖女ミリアをいじめたという冤罪を着せられ、卒業パーティーの席で王太子アインスに婚約破棄を突きつけられる。

その後は一文無しで修道院へ永久幽閉か、あるいは実家ごと叩き潰されて完全没落するという、胸糞悪いバッドエンドしか用意されていないキャラクターだ。


あのお調子者の神は、前世の自分が死ぬ直前、「重要人物にしてあげるよ!」などと満面の笑みでほざいていた。

エキストラじゃないだけマシだろう、とでも言いたげな態度だったが、今思い出しても怒りで胃が捩れそうだった。

重要人物という言葉だけ聞けば響きは良いが、その中身は破滅へ向かって秒読みを始めている時限爆弾である。


ただの悪質な嫌がらせに他ならなかった。

最悪だった。本当に最悪だった。

公爵令嬢という立場は素晴らしい。お金持ちなのも良い。そして何より、顔が良いのも最高だ。


実際、アルディアン公爵家は全員の顔面偏差値が天井を突き破っておかしい。

父親は完璧な美丈夫で、兄のジュリアンは父のタレ目を受け継いだ、儚げな美男子、母親も社交界屈指の傾国の美女だ。


その濃すぎる血をこれでもかと受け継いだレティシアも当然、将来を約束された美少女だった。ちょいとばかしつり目でキツそうに見えるが、それもまた可愛い。


しかも、体内に保有している魔力量まで規格外ときた。


公爵家の可愛らしい娘。潤沢な資産。圧倒的な美貌。

親、兄からの過剰な溺愛。

可愛い。天才。素晴らしい。将来有望。

そんな全肯定の甘やかし言葉だけを浴びながら、何不自由なくぬくぬくと育ったのだ。


その結果。

レティシアは、8歳現在で、かなり傲慢で我儘な性格に仕上がっていた。

当然である。

生まれてからこの方、周囲全員から可愛い可愛いとひたすら全肯定され続ければ、多少は性格も歪む。

いや、多少では済まないレベルで高飛車になっていた。

だが、それは不可抗力というものだ。

実際に自分が世界一可愛いのだから仕方がない。そして魔力も知性も誰より多いのだから、事実を事実として受け止めているだけである。

しかし。そんな誰もが羨む恵まれたチート人生にも関わらず。

ゲームのシナリオ通りにいけば、数年後の未来には確実に破滅する。

婚約者であるはずの無能な王太子アインスに夜会中に断罪され、一文無しで修道院送り、王太子ルートなら処刑、最終的には実家まで連座で巻き込まれて完全没落する。


ふざけるな、とレティシアはベッドの中で強く枕を叩いた。

あまりにも理不尽極まりない。

前世の記憶があるからこそ、余計にそのシステムの欠陥っぷりがよく分かる。

ゲームの中の悪役令嬢レティシアは確かに性格が最悪で苛烈だったが、それでも王太子の婚約者としてそれ相応の血の滲むような努力もしていたし、王家のために尽くして振る舞っていた。

それなのに、後からやってきた新参者の平民に横から男を寝取られ、最後はすべてを奪われてゴミのように捨てられる。


あまりにも胸糞が悪い。

神という存在に対する信頼度が、この瞬間に地の底まで叩き落とされた。

だが、神は一つだけ致命的な計算違いをしていた。彼はレティシアという人間の「中身」を全く理解していなかったのだ。

前世のレティシアは、酸いも甘いも経験し尽くした、一人分の人生を生き切った。


理不尽に対する耐性は嫌というほどついたし、ド根性と口喧嘩のスキルは仕事の中で磨かれ、年を重ねるにつれ、部下の尻拭いもさせられてきた。

面倒事は大嫌いだが、放置して状況が悪化するのを、指をくわえて見ているのはもっと嫌いな、そんな獰猛な女だった。


だからこそ、大人しく「はいそうですか」と神のシナリオの通りに没落する無様な真似、死んでも御免だった。

まぁ、前世の記憶を思い出したからといって、自分が前世の別人に乗っ取られたわけではない。

レティシア・アルディアンという少女の人格はどこにも消えていないのだ。

前世の自分も、この世界で我儘に育てられた公爵令嬢レティシアも、どちらも地続きの自分だった。

レティシアはレティシアのままである。

ただ、人生経験がちょっとばかり増え、頭の回転が少し早くなっただけだ。

元々の高い公爵令嬢としてのプライドもある。

負けず嫌いな根性もある。傲慢さも健在だ。

そこへ前世の胆力と確実な実行力がガッチャンコと加わった。


その結果として。

「何故、この完璧な私が、あんな不良品王子のために負けてやらねばならないのか」

という、極めてシンプルな結論に至った。

誰が大人しく没落するものか。誰が修道院送りになるものか。誰が首チョンパを大人しく受け入れるか。

誰が神の用意したシナリオ通りに、お膳立てされた破滅ルートを歩んでやるものか。

死んでも御免だった。

いや、一回前世で死んでいるのだが、将来的に断頭台が待っているルートもあるのだが、それはさておき。

とにかく絶対に嫌だった。

だから、ゲームのシナリオは力づくで叩き壊す。

利用できるものは、血の一滴、金の一枚にいたるまで全部利用する。

ゲーム知識も、公爵家の圧倒的な権力も、自分の類稀なる魔力も、この美貌も、全部だ。


そんな決意を固めた、ほんの数日後のことだった。

執務室に呼ばれ、父親から驚くべき話を聞かされた。

レイスフォート辺境伯家。その嫡男である、あのディートリヒとの婚約話が内々に舞い込んできた、と。


レティシアは、お気に入りの長椅子に腰掛けながら、小さな顎に手を当ててしばらく考えを巡らせた。

原作ゲームのシナリオでは、我儘なお嬢様だったレティシアが「あんな不気味な奴がいる辺鄙な土地なんて絶対に行きたくない!」と泣き叫んで大暴れし、この縁談は無しとなる。だが、今のレティシアは違った。

未来の知識からすれば、ディートリヒは追加版の黒幕ヤンデレ男という超危険人物である。怖い。非常に怖い。

いずれはヒロインを拉致する誘拐犯になるし、監禁も平気で行う、普通に近づいてはいけない人格破綻者だ。

しかし、鼻の下を伸ばしただけの無能王子よりは、百倍マシでは、という、至極真っ当な結論に至った。


少なくとも、ディートリヒは原作内でもレティシアの公開断罪に関与していない。

しかもディートリヒの狂気は、自身の魔力が闇の精霊に喰い尽くされた結果による暴走だ。自分という魔力タンクさえいれば解決である。

破滅フラグを回避するという意味では、これ以上ないほどに大きな手札。

それに、レイスフォート辺境伯夫人という立場も、冷静に考えれば悪くない。

王妃になってギスギスした宮廷闘争に巻き込まれるよりも、遥かに自由度が高そうだ。

面倒な中央の夜会や社交の回数も激減するし、何より鬱陶しい王宮の人間関係から物理的に距離を置くことができる。


もし上手く立ち回って、彼の体質に必要な魔力供給だけを適当に手配してやり、首輪さえがっちり嵌めておけば。


あとは辺境の広大な領地で、自分の好きなように優雅に生きられるのではないだろうか。

誰にも邪魔されず、好きな本を飽きるまで読んで。

贅沢な趣味を片っ端から楽しんで。

美しい庭園でお茶を飲んで。

何不自由なく悠々自適に暮らす。

最高ではないか。

レティシアは真剣に、計画を組み立てた。

そして、フッと不敵な笑みを浮かべると、深く大きく頷いた。

よし。方針決定である。


「おとうさま、この申し出、ぜお受けしたいですわ」


レッツ、悠々自適な辺境引きこもりスローライフ。

その時のレティシアは、なんともまぁお気楽な考えで、自分が思い描いた輝かしい未来予想図に満足げに思いを馳せていたのである。


新緑の若葉がうららかな春の光にきらめく季節――王立学院に新たな新入生を迎える時期がやってきた。


進級して二年生となったレティシア・アルディアンは、信じがたいほどに機嫌が悪かった。


どれくらい機嫌が悪かったかというと、公爵令嬢として完璧に顔面に貼り付けている淑女の笑顔の下で、三年生になった王太子アインスの頭を分厚い革表紙の教本を思い切り殴りつける妄想を繰り返すくらいには。


一切の手加減なしに、一番硬くて尖った角の部分をピンポイントで脳天へ命中させたら100点。


もちろん実際にはやらない。

最高位の公爵令嬢としての矜持があるし、そんな暴挙に出れば普通に捕まる。王族の地位は伊達ではない。


だが、自分の脳内でどのような軌道を描いて角をぶち当てるかを詳細に想像するだけなら、誰にも咎められる筋合いのない完全な自由だった。


そして現在、レティシアはその爽快な脳内シミュレーションを本日だけで、早くも五回目くらい行っていた。


原因は言うまでもない。ミリア・エルフィード。

原作のシナリオが始まったのだ。


今年入学したばかりの一年生であり、光の精霊に愛された稀有な聖女候補。そして前世の記憶に眠る乙女ゲームの、正真正銘のヒロインである。


学院の緑豊かな中庭では、今日も第一王子のアインスがミリアと楽しそうに笑いあっていた。


それはもう分かりやすく、周囲の目など隠す気もさらさらなく、誰の目から見ても「恋に落ちて盲目になった男の顔」で彼女を見つめていた。鼻の下がこれでもかと伸びきっている。実に見苦しい。

周りの令嬢もチラチラとレティシアに視線をよこしている。

レティシアは、遠目からその光景を眺めながら優雅に微笑んだ。

周囲の令嬢たちから見れば、非の打ち所がない高貴な公爵令嬢の微笑みだった。


あんっのクソ王子、マジでいい加減にしろよ。


王太子妃教育で使っていた分厚い教本が、アインスの側頭部に命中する。角ではなかった。惜しい、76点。


もちろん脳内の妄想である。


しかしまぁ、八歳の冬に池に落ちて前世の記憶を思い出した直後は、多少なりとも複雑な気持ちはあったのだ。


何しろ原作ゲームのレティシアは、アインスを心から愛していた。

婚約者としてふさわしくあるために血の滲むような努力を重ね、厳しい王妃教育にも耐え、すべてを王家のために尽くしていたのだ。


それなのに、その努力の結果が、全校生徒の前での公開断罪である。一文無しの修道院送りである。実家まで巻き込んでの完全没落である。


ふざけるな、の一言に尽きる。


そんな胸糞悪い未来を知ってしまえば、純粋だった恋愛感情など塵一つ残さず綺麗さっぱり吹き飛ぶというものだ。


だから、現在のレティシアはミリアに対してこれっぽっちも恋情などない。

ミリアに王子を取られたキーッ、などとは爪の先ほども思っていなかった。

むしろ感情は真逆である。


差し上げるから、さっさと解消してくれ。


だが、それとは完全に別問題として、腹は立つ。

非常に、かつてないほどに腹が立つ。


何故ならあのクソ王子、八歳の冬に自分の強欲な意思でレティシアを婚約者候補として囲い込んだくせに、今度は別の女へふらふらと鼻の下を伸ばしているからだ。


思い出せば思い出すほど、腹の虫が治まらない。


八歳の頃、レティシアは辺境伯家からの縁談を受ける気満々だったのだ。

レッツ悠々自適な辺境生活、と輝かしい未来予想図を描いていた。


ところが、その最高な話を力づくで潰したのが王家であり、アインス王子だった。


「アルディアン公爵家の令嬢が、俺の婚約者として欲しい」


そう言ったらしい。欲しいとは一体何事だ。

こちらは犬や猫ではない。

レティシア本人の意志はどうでもいいというのか。


しかし、当時の王家の意向は絶対だった。公爵家といえど逆らえず、辺境伯家との縁談は綺麗さっぱり流された。


王家は最初からレティシアを、側妃の子であるアインスの後ろ盾、そして都合の良い魔力タンクとして囲い込んだのだ。それなのに、当の王太子は聖女候補に夢中。

何がしたいのか、本当に理解に苦しむ無能ぶりだった。


王子も好きではないし、王妃なんてなりたくもない。嫉妬する理由もない。

なのに周りはどんどん原作の通りに進んでいく。

だったら最初から、他人の縁談に余計な手を出すな。


レティシアは、顔の筋肉を完璧に統御してゆっくりと微笑み続けた。周囲から見れば優雅極まりない公爵令嬢。

しかし手に持っていた扇子が、みしり、と音を立てる。

扇子の限界が先に来た。残念、気に入ってたのに。


これ以上中庭にいたら、本当に笑顔まで剥がれ落ちてしまう。

少し頭を冷やしたかった。

できれば誰もいない場所で、思う存分前世の言葉で悪態を吐き散らしたい。


そう思ったレティシアは、華やかな中庭を離れ、学院の奥へと向かった。


人気のない場所。静かな場所。自分の毒吐きを誰にも聞かれない場所。


そうして小道を進んだ先、辿り着いたのが古い石壁に囲まれた裏庭だった。学院の敷地でも滅多に人が来ない、忘れ去られたような場所である。古い樹木が生い茂り、昼間でも少し薄暗い。


だから最初はただの木々の影だと思った。


奥にある古びたベンチに、誰かが腰掛けていることに気付いたのは、かなり近付いてからのことだった。


光を吸い込むような漆黒の髪。座っていても分かる引き締まった長身。刃物のように整った美しい横顔。そして、周囲の人間をそれだけで拒絶するような、濃厚で近寄りがたい闇の空気。


レティシアはピタリと足を止めた。

知っている顔だった。実に九年ぶりの再会だった。

ディートリヒ・レイスフォート。


あの日、真冬の池から自分を魚のように雑に引っ張り上げた少年であり、ゲームの大型アップデートで明かされる未来の凶悪な黒幕である。


レティシアの脳裏をゲームの知識がよぎる。

死神。闇の精霊。レイスフォート家の嫡男。

そして、追加パッチで一気に化けた未来のヤンデレ黒幕。

彼は生まれつき、魔力を喰う闇の精霊を内に抱えている。精霊は彼の魔力を吸い尽くし、限界を超えれば生命力まで蝕む。


未来の監禁誘拐犯という物騒な印象よりも先に、現在の彼の姿を見たレティシアの脳裏には、まったく別の現実的な感想が浮かび上がっていた。


「…………死体?」


誇張でも何でもなく、本当に死人みたいだった。


病的なまでに肌は青白く、鋭い目の下には色を塗りたくったかのような色濃い隈が刻まれている。

ただ静かにベンチに座っているだけなのに、周囲の気温を数度下げているかのような、肌を刺す異様な威圧感があった。彼の精霊に、魔力を根こそぎ吸い尽くされかけているのだと直感した。


レティシアは端整な眉をひそめた。

レイスフォート家の嫡男は生まれつき体が弱く、触れるものを呪い殺す「死神」と呼ばれていること。

その原因が、精霊関係の特殊な特異体質によるものだということ。


だが、まさかここまで酷い状態だとは思わなかった。なんというか、強がって表面には出していないが、本当に今すぐ息絶えてもおかしくない。


放っておいてもよかったが、こんなところで野垂れ死なれては非常に面倒だ。

仮にも辺境伯家の嫡男。自分が第一発見者になれば王家への説明も含めて大騒ぎになるし、何より、もし、万が一でも、彼がここで死ぬとゲームのシナリオが狂って、巡り巡って、自分の逃げ道の計算が立たなくなるかもしれない。

レティシアはため息を吐き、ずいっとベンチへ近づいた。


「ちょっと」


声を掛けても返事はない。ただ、ゆっくりと顔だけが上がった。

アメジストブラックの瞳。社交界で誰もが恐れる死神の目が、真っ直ぐにレティシアを射抜く。普通の令嬢なら悲鳴を上げて逃げ出すだろう。


だが、池に落ちたあの日に「神のクソシナリオに喧嘩を売る」と決めたレティシアの図太さは、多少目付きの悪い死にかけの男程度で怯むようなヤワなものではなかった。


「ひどい顔ですわね」


レティシアは率直に言い放った。


「……帰れ」


地を這うような、低い声が返ってくる。


「今にも死にそうな人間に言われましても説得力がありませんわ」

「関係ない」

「大ありですわ」


レティシアは即答した。


「辺境伯家の嫡男が学院の裏庭で変死したとなれば大騒ぎでしょう。目障りですのよ」


ディートリヒが薄い唇を閉ざす。図星のようだ。

レティシアはさらに距離を詰め、彼の魔力の流れを感じ取った。酷い有様だった。まるで底の抜けた器のように、どれだけ魔力を生み出しても、内なる闇の精霊に強欲に喰い尽くされている。

ここでレティシアは得心がいった。

ああ、これが。かつてレイスフォート家が自分との縁談を熱望した本当の理由か、と。

王家は彼女の魔力を独占したくて囲い込み、レイスフォート家は息子を救うための「魔力タンク」として彼女を欲した。


レティシアの頭脳が猛スピードで回転を始める。

王家は信用できないし、アインスはあのザマだ。

今後ミリアを中心に断罪イベントが進むなら、自分と家族を守るための逃げ道は多い方がいい。

使える駒は何でも使う。そして目の前には、王家が最も嫌がりそうな最高級のカードが、死にかけの状態で転がっているではないか。


「ちょっと失礼」


レティシアは躊躇なく、彼の大きな手を両手でガシッと掴み取った。


冷たい。驚くほどに体温が感知できない、まるで氷細工のような冷たさだった。


そして次の瞬間、レティシアは自身の膨大な魔力を一気に、彼の体内へと容赦なく流し込んだ。

遠慮などこれっぽっちもしない。繊細に波長を合わせるようなまどろっこしい儀式も、調整の技術も知らないし、そもそも魔力の流し方も学んでない。

ただ叩きつけてるだけ。吸いたきゃ吸え。


溢れんばかりの魔力を叩き込まれ、ディートリヒの身体が大きく震えた。


周囲の冷気も一気に霧散していくが、レティシアは構わず強気な態度で供給を続けた。

振りほどこうとする手を、さらに強く握る。


「この公爵令嬢たる私が特別に施してやっているのよ、大人しく受け取りなさい」


ダメ押しと言わんばかりに、魔力を濁流のごとく流し込む。


「そんな酷い人相じゃそりゃあ死神とも言われるでしょう。男なら、自分の体調管理くらいシャキッとしなさいな。みっともない」


ディートリヒの青白かった頬に、みるみるうち血の気が戻っていく。獣のようだった眼光が、驚きと戸惑いで丸くなっていた。

そこで、レティシアは繋いだ手を離さないまま、ふと思い出した。


そういえば。昔、八歳の冬に、内々の縁談があった。あの無能な王子のワガママによって、理不尽に横槍を入れられて潰された、あの最高の後ろ盾になるはずだった話。


レティシアは、満面の、これ以上ないほどに不敵でにっこりとした笑みを浮かべた。


「ねえ、レイスフォート様。昔の婚約話――まだ有効だったりしますの?」


初めて、死神の鉄面皮が完璧に固まった。

初めて見るディートリヒの狼狽した表情に、レティシアは内心で大いに満足していた。

九年前、池から自分を引き上げた時も、およそ人を助けたとは思えないほど不機嫌極まる顔をしていた男の、呆けた顔。小気味良い。


「……何を言っている」


数秒の沈黙の後、ディートリヒが掠れた声で拒絶するように絞り出した。


「聞こえませんでしたの?耳まで死にかけていらっしゃるのね」

「聞こえた」

「でしたら話は早いですわ。遅れましたが、私レティシア・アルディアンと申します。

昔の婚約話が、まだ我が公爵家との間で有効かと聞いているのです」

「……アルディアンを、王家が手放すはずがない」

「そうでもなくってよ」


レティシアはふんと鼻で笑い、優雅に肩を竦めた。


「どうせ近いうちに破談になりますわ。王宮に閉じ込められて、あのクソ王子の尻拭いを一生させられる未来なんて御免ですもの」


ディートリヒは何も言わなかったが、否定もしなかった。

学院中の人間が、アインス王子が聖女候補ミリアに夢中であることに気付き始めている。いずれ自分は不要になり、原作通りに進むのなら、断罪される。


「ですので、私は私のために、今のうちに最高の『共犯者』を探しておりますの。私がこの婚約から逃げ………いえ、あのクソ王子を捨てるための、ね」

「本気で言っているのか。普通の令嬢なら、王妃の座に固執する」

「普通の令嬢でしたらそうでしょうね」


レティシアは紅い瞳を妖しく細めた。


「ですが私は私ですわ。誰かのために生きる気も、檻の中で衰退する気もありません。自分の人生の暮らし方は自分で選ぶ。そのためなら、使えるものは何でも合理的に利用します」


王家から切り離され、自分で人生を選び、好きなだけ自堕落に生きる。その逃げ道の足場として、目の前の男は最適だった。


「それで、どうです?取引をしませんこと?」

「取引?」

「ええ。あなた、明らかに魔力が足りなくて死にかけていらっしゃるでしょう。正確には、内の精霊に喰われている。非常に面倒で不便な体質ですこと」

「……慣れた」

「私はそんな不便に慣れたくありませんわね」


レティシアが率直に言い放つと、ほんの少しだけ、ディートリヒの硬い口元が微かに動いた気がした。気のせいということにしておく。


「ディートリヒ様!!」


その時、遠くから慌ただしい足音と共に、必死な男の声が響いた。

裏庭に息を切らせて飛び込んできたのは、茶髪の青年だった。手には怪しげな薬瓶を握り締め、肩で猛烈に息をしている。見るからに苦労の権化のような佇まいだ。


「生きてますか!?」


第一声がそれだった。レティシアは少しだけ引いた。


「失礼な方ですわね。いつもこんな物騒な生存確認をされていらっしゃるの?」


青年は声の主を認めると、今度は別の意味で完全に硬直した。


「あ、アルディアン公爵令嬢……!?なぜ、なぜこのような人気のない場所に……!」

「ご機嫌よう。この方がここで無様に死にかけていましたので、見物していたところですの」


青年はディートリヒを視線で咎めたが、ディートリヒはただ無言で視線を逸らすだけだった。青年は深く天を仰いだ。


「……ダニエル・ケラーです。レイスフォート家で補佐官をしております」

「レティシア・アルディアンですわ。以後お見知り置きを」

ダニエルは胃を押さえながら、恐る恐る尋ねた。


「それで……お二人はここで何をされていたので?」

「恩を売りつけておりました」

「お、恩……?」


ダニエルがディートリヒを見ると、ディートリヒは無表情のまま微塵も否定しない。ダニエルはついに両手で頭を抱えた。完全に、苦労人の顔だった。


「まあ、考える時間くらい差し上げてもよろしくってよ」


レティシアは衣服の皺を伸ばしながら、優雅に立ち上がった。

そろそろ次の授業が始まる。これ以上サボると、厳格な教師の説教を喰らう破目になり、自分の名誉にかかわる。


「待て」


背後から、ディートリヒの低く鋭い声が呼び止めた。

レティシアが振り返ると、数秒の重苦しい沈黙の後、アメジストブラックの瞳が真っ直ぐに彼女を見据えていた。


「……その話、受ける」

レティシアは、これ以上ないほど満足そうに、美しく、そして傲慢に微笑んだ。


「賢明なご判断ですわ、レイスフォート様」


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未来の黒幕との奇妙な取引が成立してから三日後。

レティシア・アルディアンは、自らの人生のあり方について、非常に真剣かつ冷徹に思考を巡らせていた。


「本当に、面倒極まりないですわね」


それが、豪勢な造りの学院のカフェテラスで導き出された最終的な結論だった。

麗らかな昼下がりの木漏れ日を浴びながら、最高級の紅茶を一口すする。


王太子妃教育カリキュラム。王宮内部礼法。周辺諸国との王族外交学。国家予算を紐解く王家会計学。

その他諸々、やるべきことを数え上げればキリがない。

王妃という職業は、どうしてこうも割に合わない労働ばかりを強いるのか。前世の会社員時代ですら、週に二日の休みと、退勤後の自由くらいは担保されていた気がする。いや、それは美化された過去の気のせいかもしれないが、どちらにせよ目の前の現実が面倒の

極みであることに変わりはなかった。


「レティシア様?」


不意に、向かい側に座る令嬢が、心配そうに首を傾げた。


「先ほどから難しいお顔をされて……どうかされましたか?」

「いいえ、なんでもありませんわ」


レティシアは一瞬にして完璧な鉄壁の令嬢スマイルを貼り付け、優雅にカップを傾けた。


「ほんの少し、自らの人生の歩み方について、深く考えていただけですわ」

「人生、ですか」

「ええ」

「……なんだか、とても重みのあるお話ですね」

「そうかしら?誰にとっても大切なことですわよ」


重い。実際のところ、これ以上ないほどに重い。何せ命がかかっているのだ。

前世の記憶にある乙女ゲームのシナリオ通りに進めば、今から約一年後、卒業の祝賀会において自分は全校生徒の前で盛大に断罪される。

婚約候補を不名誉な形で白紙撤回され、薄汚い修道院へ永久幽閉されるか、あるいは激怒した王家によってアルディアン公爵家ごと歴史の闇へと葬り去られる。


最低最悪のバッドエンドだった。そんな無様な人生、プライドが絶対に許さない。

だからこそ、先手を打って対策を講じたのだ。

ディートリヒ・レイスフォート。

王家が最も恐れ、かつ御しきれずにいる最高峰の危険なカード。あの死神を自分の陣営に引き入れ、取引をする。

これで王家からの理不尽な圧力を切り返すための足場を作る。

完璧である。少なくとも、この時のレティシアはそう確信していた。


紅茶のカップに口をつけたその時だった。

カフェテラスへと続く学院の回廊が、にわかに波立つようにざわつき始めた。

レティシアの脳内で、前世から鍛え上げられた危機管理センサーが、明確な嫌な予感を感知する。そして、彼女の勘というものは、こういう時決まって百発百中で当たった。


「ミリア!ちょうど探していたんだ!」


案の定、鼓膜を突き刺してきたのはアインス王太子の脳天気な声だった。彼は今日も今日とて、実に元気そうである。無駄にキラキラとしたオーラを振り撒きながら、平民上がりの聖女候補の元へと駆け寄っていく。


レティシアは一切の感情を排した顔で紅茶を飲み下した。

見ない。聞かない。関わらない。害獣の類が視界に入ったところで、優雅なティータイムを汚される筋合いはない。完全無視が一番である。

しかし、隣の令嬢がそっと声を潜めて囁いてきた。


「レティシア様……また、ですわね」

「そうですわね。よく飽きませんこと」


本当に、また、だった。

最近の学院内では、この光景が日常茶飯事と化していた。大講義室での授業、食堂での昼食、学校行事。

どこを向いてもアインスの隣にはミリアがおり、ミリアの後ろにはアインスが控えている。

自分の立ち位置は一応「王太子の婚約者候補」のはずなのだが、あのクソ王子の中では一体どのようになっているのか、レティシアは真面目に彼の脳味噌の構造を疑い始めていた。


「失礼」


突如として、背後からすべての音をかき消すような、低く冷徹な声音が響いた。

一瞬にしてテラスの喧騒が引き潮のように静まり返る。

レティシアが振り返ると、そこには燦々と降り注ぐ太陽の光すら遮るような、圧倒的な陰影を纏った男が立っていた。

煤けた黒髪、幽霊のように青白い美貌、そして他者を拒絶するアメジストブラックの瞳。

ディートリヒだった。


周囲の令嬢たちが恐怖で息を呑み、彫刻のように固まるのも無理はなかった。学院において「死神」と称される、最も近づいてはならない危険人物がそこにいるのだから。


「レイスフォート様。このような場所で、私に何か御用かしら?」

「少し時間を貰いたい」

「構いませんわ」


レティシアは躊躇うことなく立ち上がった。周囲のざわめきがさらに大きくなる。王太子の婚約候補である筆頭公爵家の令嬢が、あの不吉な死神の呼び出しに平然と応じているのだ。明日には社交界の格好の噂話になるだろう。


だが、レティシアは鼻で笑った。噂など知ったことか。むしろ利用できるものは全て利用する。高慢な悪役令嬢として、使える駒を有効に盤上で動かすのは当然の権利だ。


人目のない静かな渡り廊下へと移動しながら、レティシアは尋ねた。


「それで、本日はどのようなご用件ですの?改まって」

「礼だ」

「礼?」

「先日の」


ディートリヒの簡潔すぎる言葉に、レティシアは三日前の裏庭での出来事を思い出した。過剰な魔力を注ぎ込んでやった、あの密約のことだ。


「ああ、あの程度のこと、わざわざ気になさる必要はありませんわよ」

「構う」

「おかしな人。私にとっては、飢えた野良犬にちょっとしたおやつを投げ与えた程度の感覚なんですもの。お気になさらないで」


凄まじい沈黙が流れた。

その直後、ディートリヒの斜め後ろから「ぶほっ」と盛大に気管を詰まらせたような奇妙な音が聞こえてきた。

いつの間にか気配を消して追従していた、補佐官のダニエルだった。

彼は今日も今日とて、限界を迎えた中間管理職のような、死んだ魚の目をしている。


「レ、レティシア様……!」


ダニエルは周囲をキョロキョロと見回しながら、声を震わせた。


「助けてくれたことは感謝いたします。しかし、ディートリヒ様は王国最強の武力を誇る辺境伯家の嫡男なんです。その、あまり……」

「あら、事実でしょう?あの時、私の魔力がなければそこの野良犬は裏庭の草むらで無様に野垂れ死んでいらっしゃいましたわ」

「それは、まあ、否定はしませんが……!」


ダニエルは深く頭を抱え、自身の胃を痛ましげに押さえた。相変わらず絵に描いたような苦労人である。

レティシアは心の中で、本当に、一ミリほどの僅かな同情を寄せた。

すると、今まで無表情だったディートリヒが、低く厳かな声でぽつりと言った。


「犬」

「ええ、そうですわよ」

「……そうか」

「は?」


なぜか、妙に納得のいったような顔をされた。拒絶されるでもなく、怒るでもなく、ただ「そうか」と受け入れられたのだ。意味が分からない。

レティシアが怪訝そうに眉をひそめる傍らで、ダニエルだけが「終わった……」とでも言いたげな表情で天を仰いでいた。


レティシアにはその意図が全く理解できなかったが、その日を境に、学院内では奇妙極まる噂が密やかに流れ始めることとなる。

あの孤高の死神が、傲慢なアルディアン公爵令嬢にだけは奇妙に懐いている――という、あまりにも荒唐無稽で意味不明な噂だった。


当然、レティシアはそれを耳にした瞬間、盛大に鼻で笑い飛ばした。あり得ない。どう考えてもあり得ない話だ。

あの男は利害関係だけで動く冷徹な死神であり、自分にとっても将来の自由を掴むための便利な「道具」に過ぎないのだから。

懐くなどという情緒的な現象が起こるはずがなかった。


だが。その噂を耳にした聖女候補ミリアが、そして誰よりもアインス王太子が、ひどく面白くなさそうな、焦燥の混じった歪んだ表情を浮かべていたことだけは、レティシアも見逃さなかった。

そして、その小さな違和感は、数ヶ月の時を経て確実な「歪み」へと変貌していく。


====


最初に明確な違和感を覚えたのは、それからしばらく経った、ある日の昼食の席だった。

いつもであれば、レティシアが姿を現した瞬間に華やかな笑顔で挨拶を競い合っていたはずの令嬢たちが、妙に視線を彷徨わせ、あからさまに目を逸らすのだ。

彼女が輪に加わろうとすると、それまで弾んでいた会話がピタリと途切れ、周囲の空気が急速に冷え込んでいく。


陰湿な無視、あるいは遠巻きの牽制。その程度の足の引っ張り合いなら、ドロドロとした社交界や学院においては珍しくもない退屈な茶番だ。


しかし、それが一週間続き、二週間続き、ついに一ヶ月が経過した。

そこまで執拗に徹底されているとなれば、流石に鈍感な人間でも気付く。何かが決定的に、裏で動いている。


レティシアは自らの「前世の危機察知能力」と「悪役令嬢としての鋭い勘」が大抵の場合、最悪の形で的中することを知っていた。


だからこそ、彼女は即座に行動を起こし、ダニエル・ケラーを呼び出した。

正確には、いつものように放課後の人気のない書庫へディートリヒを引っ張り出し、魔力を供給してやる現場に、当然のように付属してきた苦労人補佐官を捕まえたのだ。最近はもう、この「大型犬の散歩には漏れなく胃痛持ちの飼育員が付いてくる」という構図が様になっていた。


「つまり、こういうことですわね」


レティシアは、音もなく磁器のティーカップをソーサーへと置いた。ルビーレッドの瞳には、冷徹な光が宿っている。


「学院の裏で、私の身に覚えのない悪評が、非常に計画的に広がっていると」

「……左様にございます」


ダニエルは、もはやお馴染みとなった死んだ魚の目で、手元の手帳を見ながら淡々と報告を読み上げた。


「かなり、深刻な規模で浸透しつつあります」

「へえ、おもしろいこと。この私の耳に入らないように流された、噂話なんて」


レティシアは、ふっと妖艶に微笑んだ。ただ笑っただけだった。しかし、その笑顔から放たれる凄まじい威圧感に、ダニエルは本能的な恐怖を感じたのか、無意識のうちに半歩ほど後ろへと後退りした。彼の生存本能は極めて優秀らしい。


「一応、そのくだらない噂の内容を教えてくださる?」


「……まず一つ目は、『平民上がりの無垢な聖女候補ミリア嬢に対し、公爵家の権力を傘に着て、陰湿かつ苛烈な嫌がらせを行っている』というもの」

「身に覚えがありませんわね。あのような尻の青い小娘相手に、私の貴重な時間を割いて嫌がらせをするほど、私は暇ではありませんの。次」

「二つ目は、『次期王妃候補という身分でありながら、不吉な辺境伯令息を我が物顔で誘惑し、不適切な関係を結んでいる』というもの」

「これも事実無根ですわ。私は死にかけの野良犬に正当な対価を求めて、実利の絡んだ取引をしているだけですもの。……で、三つ目は?」

「……『性格が恐ろしく傲慢で、周囲を見下している』」

「そう」

「…………」

「何故そこで黙るのかしら、ダニエル・ケラー?」

「いえ、その辺りに関しては、個人の主観や解釈の差異が多分に含まれているかと愚考いたしまして……」

「言いたいことがあるなら、どうぞはっきりと言いなさい?」

「何もございません!!」


素晴らしい即答ぶりだった。レティシアは心の中で、彼の減点され続けた評価に少しだけ加点してやった。


しかし、問題の本質はそこではない。噂の中身がどれほど事実無根で荒唐無稽だろうと、そんなことはどうでもいいのだ。重要なのは常に一つ。


「この状況において、一体誰が最も得をするのか」である。

レティシアは前世の修羅場をくぐり抜けてきた頭脳を持っている。馬鹿であるはずがなかった。仕掛け人は、王家。あるいはアインス王子そのものか、その腰巾着たる取り巻きの無能どもだ。

彼らの狙いは明快だった。レティシアの評判を少しずつ、しかし確実に削り取り、世論に対して「アルディアン公爵令嬢は王太子妃として著しく不適格である」という印象を植え付けること。そうして外堀を埋め、最終的に彼女を婚約候補の座から引きずり下ろす。それが彼らの描いた青臭い計画書だ。


「本当に、やり方が雑ですわね」


レティシアは心底呆れ果てたように吐き捨てた。


「……雑、ですか?」


ダニエルが何とも言えない複雑な顔をする。


「ええ、雑ですわ。もっと根回しを完璧にして、私に反論の余地すら与えないほどに証拠を捏造すればよろしいのに。稚拙すぎて反吐が出ますわ」


レティシアは本気で不愉快だった。手口の汚さよりも、その中途半端な頭の悪さに腹が立って仕方がなかったのだ。

何せこの九年間、王家は彼女の膨大な魔力を都合よく囲い込み、次期王妃としての過酷な教育や公務をこれでもかと押し付けてきたのだ。散々利用できるだけ利用しておいて、光の聖女という新しい玩具が手に入った途端、ゴミのようにポイ捨てしようという腹積もりらしい。

そのための安っぽい下準備が、この陰湿な噂流しなのだ。


「公爵令嬢たるこの私を、そこまで舐め腐ってくれるとは……本当に腹立たしいわね」


珍しく、激しい怒りを孕んだ本音が言葉となって漏れ出た。すると、その瞬間まで部屋の隅でただの置物のように気配を消していたディートリヒが、静かにアメジストブラックの瞳を持ち上げた。


「怒っているのか」


レティシアは彼を睨み据えた。


「当然でしょう!私は売られた喧嘩を黙って買い殺すほど、お人好しな聖女様ではありませんのよ。誇り高きアルディアンの血を侮辱されたのです、ただで済ませるわけがありません」


公爵家としてのプライドもある。最愛の家族に甘やかされて育った傲慢な自尊心もある。理不尽に見下され、都合よく利用され、最後は悪女として使い捨てられるなど、断じて論外だ。


「お父様やお兄様に伝えて、公爵家の権力で王家を叩き潰すことも容易いですけれど……それをやれば、最悪の場合は国家を揺るがす正面衝突になります。やり方を間違えれば、私の家族を泥沼の政争に巻き込むことになる。それだけは、絶対に避けたいのです」


我が身を省みず自分を溺愛してくれる親馬鹿な父親や、シスコンの兄を、あのクソ王子の自爆の巻き添えにするわけにはいかない。


レティシアは不敵な笑みを浮かべ、ディートリヒを真っ直ぐに見つめた。


「だから、レイスフォート様。私たちの契約に、新たな条項を追加しましょう」


ダニエルが息を詰まらせて固まり、ディートリヒは微動だにせず先を促した。


「追加の内容は?」

「ええ。レイスフォート辺境伯家は、独自の強力な情報網をお持ちでしょう?」

「ある」

「私が欲しいのは、確固たる『証拠』です。アインスやその取り巻きが、いつ、どこで、誰を使ってこの悪質な噂を流させたのか。王家が裏でどのように動いているのか。そのすべての決定的な証拠を掴んでいただきたいのです。……第三者の目線で」


断罪される未来の結末を知っているのなら、いくらでもハメ返すための罠は張れる。やられる前に、相手が用意した舞台ごと木っ端微塵に爆破してやればいい。ただそれだけのことだ。


「私はこれまで通り、あなたの底の抜けた器に純魔力を注ぎ込み続ける」


レティシアは美しく整えられた人差し指を一本、ディートリヒの目の前に立てた。


「あなたは裏で、王家の動向と醜聞の証拠を完全に集め切る」


二本目の指が立つ。


「そして、然るべき場所で必要となった場合、私の正当性を証明する完璧な『証人』として、泥を被っていただきますわ。……どうかしら?」


水を打ったような静寂の中、ダニエルが恐る恐る、震える声で口を開いた。


「れ、レティシア様……それ、はつまり……」

「お互いの利害が一致した、極めて合理的な『取引』ですわよ?」

「王家を相手に、真っ向から喧嘩を売るための罠を仕掛けると……?」

「今さら驚くようなことかしら?」


レティシアは優雅に肩を竦めた。

九年前、池に落ちて前世を思い出したあの日から、神の定めたクソシナリオに喧嘩を売ることは決定事項なのだ。今さら王太子ごときを怖がる理由など、どこを探しても見当たらなかった。


「受けよう」


ディートリヒの返答は、あまりにも短く、そして一瞬の躊躇いもない即答だった。

流石のレティシアも、その拍子抜けするほどの決断の早さに少しだけ目を丸くした。


「……随分と話が早いですのね。一応、国家を敵に回しかねない危険な賭けですのよ?」

「俺にとっては、確実に利益がある。それだけだ」


レティシアはフッと満足げな笑みを漏らした。

その通りだ。感情ではなく、明確なメリットがあるからこそ手を組む。これこそが、貴族として最も信頼できる、実利で結ばれた健全なビジネスパートナーの在り方だ。

だからこそ、彼女は全く気付いていなかった。

そのすぐ隣で、補佐官のダニエルだけが、すべてを悟ったかのような酷く遠い目をしていたことに。これから訪れるであろう、己の胃壁が完全に崩壊するレベルの未曾有の大暴風雨を予見し、絶望に打ちひしがれていたことに。


しかし、レティシアはそんな部下の様子など一顧だにしなかった。

今、彼女が求めているのは、王家の檻から脱出するための確実な手札であり、自由への逃げ道だ。ディートリヒはその計画を遂行するための、便利な手札の一枚に過ぎない。


そう――少なくともレティシアは、本気で、心の底からそう思い込んでいたのである。


そして数ヶ月の時が流れ。

運命の、そして彼女にとっては待ちに待った「卒業パーティー」の日が、ついにやって来る。

====


卒業パーティー当日。

王立学院が誇る特設大舞踏会場は、目が眩むほどの圧倒的な光と熱気に満ち溢れていた。

天井で燦然と輝く巨大なシャンデリア。鏡面のように磨き上げられた純白の大理石。


壁面を精緻に彩る、学院の歴史を物語る気品ある金細工。そして、この日のために招かれた宮廷楽団が奏でる、優雅でどこか厳かな管弦楽の調べ。


この国の未来を担う卒業生や在校生、そして彼らを見守る高位貴族の保護者たち――まさに貴族社会の縮図とも言える華やかな顔ぶれが、今まさにこの空間に一堂に会している。


そんなきらびやかな喧騒の渦中で、レティシア・アルディアンは、ドレスの裾を軽く整えながら心底からこう思った。


本当に、本当に面倒くさい。人生最高峰に面倒くさい空間だ。


ドレスの重みも、同級生たちとの中身のない社交辞令の応酬も、すべてが苦痛でしかない。だが、それも今日この時を以てすべてが終わるのだ。

そう思えば、心なしか胸に溜まった澱も軽くなるというものだ。


アインス王太子は間違いなく、今日、この学院の晴れ舞台で動く。

レティシアにはその確信があった。


この一年間の彼の行動は、あまりにも分かりやすすぎたのだ。

平民出身の聖女候補ミリアへの異常なまでの執着、婚約候補である自分に対するあからさまな冷遇、学院内に広められた悪質な噂の数々、そして王太子妃候補としての待遇の急激な格下げ。


すべての線が一つの結末へと繋がっている。

王子はどうしても自分を不名誉な形で追い落としたいのだ。

理由はあまりにも単純、ただミリアを新たな妃の座へと据えたいから。

だからこそ今日、この晴れ舞台で決定的な暴挙に出る。レティシアはむしろ、その瞬間を今か今かと待ち構えていた。


ちなみに、現在の彼女の隣に本来いるべきエスコート役の姿はない。

本来ならば王太子アインスがその役目を全うすべき義務があるが、当の王子はパーティーの開始直後から、当然のようにミリアの隣にべったりと寄り添っていた。今さらその程度の不義理に怒るほど、レティシアは子供ではない。

最初から何も期待していなかった。


「レティシア」


背後から、低く硬質な、しかし聞き慣れた声音が響いた。

振り返ると、そこにいたのは煤けた黒髪、幽霊のように青白い肌、相変わらず死神そのものの圧倒的な陰影を纏った、ディートリヒ・レイスフォートだった。


「ご機嫌よう、レイスフォート様」

「迎えに来た」

「ええ、知っておりますわ」

「……お前は、一人だろう」

「ええ、見ての通りですわ」

「だから、俺が来た」


レティシアはほんの少しだけ思考を巡らせた。瞬時に周囲の貴族たちの視線が、痛いほどの好奇と警戒を孕んで自分たちへと集中するのが分かる。当然だ。筆頭公爵令嬢と、王家すら恐れる「辺境伯家の死神」。

学院内を騒がせていた妙な噂の主たちが、エスコートなしの会場で堂々と合流したのだから。

だが、今さら何を恐れる必要があるだろうか。もうどうでもいいのだ。


「では、お願いしてもよろしいかしら?」


レティシアは優雅な所作で、ディートリヒが静かに差し出してきた腕へと手を添えた。

一際大きく、周囲のざわめきが波紋のように広がっていく。

構うものか。どうせ今日で何もかもが完全に終わるのだ。

あのクソ王子との薄汚い縁も、おぞましい王太子妃教育の呪縛も、すべてが。


だからこそ、レティシアは背筋を極限まで伸ばし、堂々と大広間の中心へと足を踏み入れた。

会場の空気が一変する。視線が集まり、扇の陰から無数の囁き声が漏れる。

レティシアはそれらをすべて心地よいBGM代わりに聞き流した。

むしろ、これで舞台の主役がすべて出揃った、という清々しい気分すらある。


そして、彼女の予想は一点の狂いもなく的中する。

大広間の最奥、一段高くなった壇上で、愚かな王太子は獲物を待つ獣のような歪んだ笑みを浮かべて待ち構えていた。


「レティシア・アルディアン!!」


大広間の天井を震わせるような、激しい怒号が響き渡った。

その瞬間、宮廷楽団の演奏がピタリと途絶える。

何事かと、数百人の貴族たちが一斉に振り返り、全ての視線が壇上へと釘付けになった。


憤怒に顔を歪ませるアインス王太子。そのすぐ後ろで、怯えたように彼の服の袖を掴むミリア。そして、勝ち誇ったような薄汚い笑みを浮かべる第一王子の取り巻きたち。


レティシアは内心で、深い深い、底なしのため息を吐き出した。


「何かしら、アインス殿下。祝賀の席で、そのような大声を張り上げられて」


レティシアは微塵も動じることなく、完璧な公爵令嬢の礼法で問い返した。


アインスは激昂していた。本当に、心の底から理不尽なことに、自分自身が他の女に入れ込んで婚約者を放置してきたくせに、何故か被害者のような面をして怒り狂っているのだ。救いようのない傲慢だった。


「貴様という女には、底の底から失望した!」


始まった。レティシアは冷ややかに確信した。前世の記憶にある、あの「断罪イベント」が、ついに幕を開けたのだ。


「この一年もの間、己の権力を笠に着て、無辜なるミリアを陰湿に虐げ続け!」

「あら、そのような事実、一切ございませんわね」

「黙れ!さらに、あろうことかそこのレイスフォートと不適切な関係を公然と結び!」

「ただの合法的な商業・魔力契約ですわね」

「王家を、そしてこの俺を愚弄し続けた!」

「愚弄などしておりませんわ。事実を事実として指摘しているだけでしてよ?」

「黙れと言っている!!」


レティシアは言われた通りに口を閉じ、どうぞご自由に続きを、という優雅な笑みを崩さなかった。アインスは挑発されたと受け取ったのか、さらに顔を真っ赤にして声を張り上げる。


「貴様はそこの薄汚い辺境伯令息を、公爵家の財力で誘惑し!」


誘惑などしていない。


「お前のその悍ましい魅了魔法で、彼を誑かし!」


そんな小細工魔法、使ったこともない。レティシアの好みは純粋な攻撃魔法である。力こそすべて。


「挙句の果てに、我が婚約候補の身でありながら不貞を働いた!これ以上の大罪があろうか!」

「……なるほど」


レティシアは深く頷いた。そして、凍てつくような静寂の中で、極めて冷静に、しかし大広間の隅々にまで通る、鈴を転がすような声で尋ねた。


「では、殿下。一つお伺いしてもよろしいかしら?殿下と、そちらの隣にいらっしゃるミリア嬢の関係は、一体どのようなものなのでしょう?」


一瞬、会場の空気が凍りついたように静まり返った。

アインスの顔が、想定外の反撃にピキリと引き攣る。レティシアは容赦なく言葉を重ねた。


「客観的に見つめ直してみましょう。婚約者候補である私を九年間も都合よく囲い込みながら、この一年間は完全に放置し、常にそちらの女性と行動を共にされ、このような格式高い公式のパーティーの場にすら、私ではなくその方を隣に立たせている。……殿下、周囲の皆様の目から見て、本当に『不貞』を働いているのは、私と殿下のどちらかしら?」


ざわり、と会場全体の空気が大きく波打った。

学生たちが一斉に顔を見合わせ、目配せを交わし始める。当然だった。誰の目から見ても、この一年のアインスのミリアへの入れ込みようは異常であり、周知の事実だったのだから。

王子の顔が、怒りと恥辱で見る見るうちに土気色から紅蓮へと染まっていく。

「き、貴様のような悪女と、ミリアを一緒にするな!」

「何が違いますの?具体的な説明を求めますわ」

「ミリアは心優しく、清らかな光の女性だ!」

「では、私は?」

「お前は――」

そこで、アインスは完全に理性を失い、政治的に「絶対に言ってはならない一線」を怒りに任せて踏み越えた。


「お前のような、血のように禍々しい赤い目をした、底意地の悪い不吉な女と一緒にするなと言っているんだ!!」


レティシアの顔から、完全に笑みが消え失せた。

会場が、今度こそ完全に、静まり返った。針一本落ちても聞こえるほどの、圧倒的な拒絶の静寂が空間を支配する。


アインスは、自分が今、何を口走ったのか理解していない様子だった。


「……殿下」


それは、地を這うような、極めて静かな声音だった。

だが、その声に含まれた絶対的な冷徹さに、会場の誰もが背筋を凍らせて息を呑んだ。


「何だ!」

「そのお言葉は」


レティシアのルビーレッドの瞳が、爛々と輝きながら真っ直ぐに王子を射抜く。


「――我が、アルディアン公爵家全体への、明確な宣戦布告と受け取ってよろしいのかしら?」


アインスの顔色から、一瞬にして血の気が引いた。

その「血のような赤い目」が、レティシア個人のものではないということに。彼はようやく気付いた。

それは、王国の建国以来、幾多の戦場を駆け抜けて王家を支え続けてきた、誇り高きアルディアン公爵家の血統そのものの証。


彼女の父であり現公爵である男の目も、次期公爵である兄の目も、すべて同じルビーレッドなのだ。

それを「禍々しい」「不吉」と公衆の面前で罵倒した意味を。


「私個人がどのように罵られようと、寛大な心で受け流して差し上げましたわ」


レティシアは一歩、壇上へ向かって歩を進めた。その姿は、悪役令嬢などという安っぽい言葉を遥かに凌駕する、絶対的な支配者の風格を纏っていた。


「ですが。我が公爵家の歴史と、私の最愛の家族の誇りを侮辱されて黙っているほど――私は、出来た娘ではありませんの」


大広間の空気が、完全に反転した。

数分前まで、衆目の中で無様に断罪される哀れな生贄であったはずの少女は。

いつの間にか、愚かな王太子を奈落へと突き落とす、冷酷な「断罪者」へと回っていた。

会場を支配する空気が、急速に重苦しく変貌していく。


先ほどまで王太子の威勢のいい言葉に、お調子者よろしく同調していた周囲の取り巻きの貴族たちも、今は完全に青ざめて口を閉ざしていた。


王太子が感情に任せて侮辱したのは、レティシア個人ではない。国内有数の経済力を誇り、王家を除けばこの国で最も強い影響力を持つ筆頭大貴族、アルディアン公爵家そのものだ。

それをただの恨みで侮辱するなど、政治的自殺行為としか言いようがない。


「ミ、ミリア!」


アインスは慌てたように背後を振り返り、縋るように叫んだ。


「お前からも証言しろ!貴様がこの女から受けた、悍ましい仕打ちの数々を、皆の前で明らかにするんだ!」


ミリアは、激しい恐怖にその小さな肩を大きく震わせた。

視線が一斉に、まだ十五歳の平民上がりの少女へと突き刺さる。

学生の夜会とはいえど、ここは彼女のような小娘が生きていけるほど甘い世界ではない。空気の重圧だけで押し潰されそうになりながらも、彼女は泣き出しそうな顔で一歩前へ出た。


「わ、私は……っ」


震える声を必死に絞り出す。それでも、彼女なりに覚悟を決めていたのか、視線を逸らさなかった。


「私は、本当に……レティシア様に、酷い虐めを受けたと思っています……!」


会場が、再び微かにざわついた。

アインスが、それ見たことかとばかりに勝ち誇った歪んだ笑みを浮かべる。


「聞いたか!これが聖女の証言だ!」

「具体的には、どのようなことですの?」


レティシアの冷徹な問いに、ミリアは涙目を拭いながら訴えた。


「私の……大切にしていた教科書や私物が、いつの間にか、ズタズタに破られていて……。それに、学院の廊下でレティシア様とすれ違うたび、いつも睨まれて、怖くて……」

「……」

「いつも、私を見下している気がして……本当に、辛かったんです……!」


ミリアの声は小さく、今にも消え入りそうだった。だが、前世の修羅場を見てきたレティシアには分かった

。彼女は「嘘」を吐いているのではない。本当に、本気でそう感じ、傷ついていたのだろう。


レティシアはフゥ、と小さくため息を吐き出した。


「なるほど、事情はよく分かりましたわ」


レティシアは静かに頷いた。


「ではミリア嬢、念のためにいくつか確認をさせていただきますわね」


ミリアが、怯えながらも涙の溜まった顔を上げる。


「その、あなたの大切な教科書がズタズタに破り捨てられた現場を、あなたご自身の目で直接ご覧になりましたの?」

「え……?それは、見てません、けど……」

「では、私が誰か他の者に命じて、あなたの私物を壊させたという、明確な証拠や目撃証言はございますの?」

「それは……分かりません……」


答えられるはずがなかった。何せ、そんな事実は存在しないのだから。


「言い訳は見苦しいぞ!」


アインスが横から割って入るように怒鳴り散らした。


「貴様が主犯であることは明白だ!」

「あら。殿下、証拠も無しにそのようにおっしゃるのですか?」

「状況証拠なら山ほどある!貴様は最初から、ミリアのことを激しく嫌っていただろう!」

「いいえ、嫌ってなどおりませんわ」

「嘘を吐くな!」

「本当ですわよ。私は、あなたのことに『一ミリの興味もございません』もの」


ぷっ、と会場のあちこちから、堪えきれずに吹き出すような無作法な音が漏れ聞こえた。

ミリアが、あまりの衝撃に鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まる。

アインスもまた、言葉を失って口を金魚のように開閉させていた。


「興味が……ない?」

「ええ、そうですわ」


レティシアは、至極当然のことを説明するように淡々と告げた。


「私は由緒正しき公爵家の令嬢です。対して、あなたは急に現れた聖女の候補生。立場も、受けてきた教育も、育った環境も、見ている世界も何もかもが違いますの。そんな私があえて、あなたをわざわざ『敵視』してやる理由が、一体どこにあるとお思いかしら?」

「で、でも……私は本当に、怖くて……」

「ええ、あなたが私を恐れていた、という点に関しては事実でしょうね。否定はいたしませんわ。私はあいにく、身分も弁えない平民の小娘に対して、わざわざ安売りしてやるほどの愛想は持ち合わせておりませんので」


そもそも、関わる時間すら惜しかったのだ。


「ですが」


レティシアの声の温度が、一気に氷点下へと叩き落とされる。


「私があなたを好いていなかったということと、私があなたの私物をわざわざ壊すという『教養のない愚行』に及んだということの間には、何の因果関係も証明も成り立ちませんわ」


ざわり、と貴族たちの間で納得の混じった空気が動く。


「百歩譲って、私があなたのことを不快に思っていたと仮定しましょう。だとして、それが何故、あなたの教

科書を破った犯人が私であるという『証拠』になるのかしら?論理が破綻していますわよ」


ミリアは完全に言葉を失い、一歩も動けなくなった。

その時、レティシアはフッと、実に見事な大輪の薔薇のような笑みを浮かべた。完璧なる公爵令嬢の、洗練された美しい微笑みだ。


「あらまぁ」


その笑顔のまま、彼女は周囲の参列者に向けて、楽しげに語りかけた。


「光の精霊に深く愛された、次期聖女と誉れ高い方の私物をズタズタに引き裂くなんて……随分と、大胆で命知らずな不届き者が学院内にはいらっしゃるのねぇ」


会場の生徒たちが、ハッと何かに気付いたように顔を見合わせる。


「そのような大罪人、王家の憲兵を使ってでも早急に徹底調査された方がよろしいのではなくて?――真の『主犯』を、ね」


アインスの顔色から、今度こそ完全に余裕が消え失せた。

何故なら、レティシアは容疑を否定も肯定もしていない。ただ、話を全く別の「王国の治安問題」という国家規模の方向へとすり替えたのだ。

こうなれば、王家としてもただの学院内の痴話喧嘩として片付けるわけにはいかなくなる。


「き、貴様が主犯に決まっているだろう!!」


アインスが、半ば理性を失った形相で怒鳴り散らす。


「では、その証拠は?」

「そ、それは……これから見つけるのだ!」

「まさか」


レティシアは、憐れみの混じった歪んだ微笑みを王子へと向けた。


「アインス殿下は。我が国の次期最高権力者となるべき御身でありながら、明確な『証拠』のただの一つすら揃えることもなく、公爵家の令嬢を、個人の感情だけで断罪しようとなさっているのですか……?」


ぐっ、と王太子の喉が完全に詰まった。

大広間の空気は、今や完全に、レティシアの手によって支配されていた。

ほんの少し前まで、この場で一方的に糾弾されていたのは彼女だったはずだ。だが今は違う。王太子が、

自らの浅はかで愚鈍な言葉によって、自らの首を極限まで締め上げ、蟻地獄の底へと転がり落ちていっている。

そして。その無様な自爆劇の様子を。

大広間の薄暗い奥深くから、冷徹な一対の瞳で見つめる、もう一人の人影があった。


第二王子、エドヴァルト。

彼はまだ、一言も発していない。ただ、静かにその「決定的な瞬間」が訪れるのを、虎視眈々と待ち構えていた。


第二王子エドヴァルトは、まだ動かない。なぜなら、完全に相手の息の根を止めるための「その時」は、今この瞬間ではないことを熟知しているからだ。


レティシアもまた、彼のその冷徹な政治的判断を完全に理解していた。エドヴァルトは、あの脳無し王太子とは違い、ドロドロとした王宮の権力闘争を自らの頭脳だけで生き残ってきた本物の傑物だ。

相手が勝手に底なしの泥沼の穴を掘り進めているのなら、一番深いところまで掘り進めさせてから蓋をすればいい。


今まさにアインスは、自らの手で自らの墓穴を全力で掘っている最中だった。


「証拠なら、今ここでいくらでも証明してやる!」


アインスが、狂ったように叫ぶ。

レティシアは内心で、もはや可哀想なものを見るような目で呆れ果てていた。先ほどまで


「これから見つける」と言っていた口で、よくもまあそんな矛盾したセリフが吐けるものだ。


「どのような証拠がおありで?」

「学院の全生徒が、お前のその醜悪な評判を知っている!それ自体が動かぬ証拠だ!」

「評判、ですか」

「そうだ!貴様が裏でミリアを陰湿に虐めていたという、共通の認識だ!」

「なるほど」


レティシアは深く頷き、わざとらしくため息を吐いた。


「つまり、ただの『根拠のない噂話』ですのね」


再び、会場で、失笑を孕んだざわめきが広がっていく。

噂。そんなものは証拠でも何でもない。特に、謀略と嘘が日常茶飯事の貴族社会において、噂など金と人手さえあれば誰でもいくらでも捏造できる、最も信用に値しない代物だ。


「皆が、そう言っているんだ!」

「皆様、とは具体的にどなたのことかしら?」

「……っ!」

「さあ、お答えになって?この場で、私を告発した者の名前を一人残らず正確に挙げてみせなさいな」


アインスが、完全に言葉を失って沈黙した。レティシアは容赦なく、冷徹な追撃の一撃を打ち込む。


「私物が壊された、その現場を目撃した者は?」

「う……」

「私からの明確な指示の証拠は?」

「それは……」

「では、その破られたという私物そのものの現物、および魔術的解析の証拠品は?」


凄まじい沈黙が流れた。

会場中が完全に理解し始めていた。

まずいのは、レティシアの立場ではない。王太子の方だ。

公開の場での断罪とは本来、覆しようのない鉄壁の証拠と証人を完璧に揃えた上で行われる、厳粛な手続きであるはずだ。

だが今のアインスは、ただの個人的な感情と、お粗末な噂話だけで突っ走っている。これ

ではただの「王太子のヒステリー」だ。

「殿下」


レティシアは、優雅に微笑んだ。


「まさかとは思いますけれど……」


言い知れぬ嫌な予感に、アインスの顔が恐怖で引き攣る。


「――『ご自身がそう思ったからお前は有罪だ』などという、子供の我が儘のようなお話ではございませんわよね?」


それは、致命傷だった。レティシアは決して、直接的に王太子を「無能な馬鹿」とは罵っていない。だが、この場にいる全員の脳内に、その言葉が明確に刷り込まれたのだ。


「黙れ、黙れ、黙れ!!」


アインスの、理性を失った怒声が大広間に虚しく響き渡る。


「レティシア・アルディアン!お前の罪はそれだけではない!」

「何かしら、まだ何かおありで?」

「貴様は、我が目を盗んでそこの辺境伯令息と不適切な関係を持った!それこそが、王家に対する明白な裏切りであり、不貞の証拠だ!」


レティシアは一瞬だけ、思考の海に沈んだ。


なるほど。ミリアの虐め問題が破綻したから、今度は『不貞』の方へ話を逸らして逃げるつもりなのか。

確かに、それなら少しは体裁が保てる。


王太子の第一婚約候補という身分でありながら、他の有力貴族の令息と懇意になる。

普通であれば、それは重大なスキャンダルであり、婚約破棄の正当な理由になり得る。

……普通であれば、の話だが。


「では、それも確認させていただきますわね」


レティシアはゆっくりと、楽しげに口を開く。


「殿下は、私とレイスフォート様が、男女の不適切な恋人関係にあると主張なさるのですね?」

「そうだ!間違いない!」

「ではお伺いしますが、私と彼が不適切に接吻でもしているところをご覧になりまして?」

「なっ……何をお前はっ……!?」

「あるいは、夜陰に乗じて二人きりで不適切な密会でも?それとも、公衆の面前で熱烈な愛の言葉でも囁き合いましたの?」


アインスの顔が、今度は羞恥で真っ赤に染まる。

会場のあちこちから、今度は隠そうともしない明確な笑い声が漏れ始めた

。レティシアがあまりにも涼しい顔で、破廉恥な単語を淡々と口にするものだから、聞い

ている周囲の方が恥ずかしくなってきたのだ。


「違いますわよね」


レティシアは、冷ややかに結論を突きつけた。


「私とレイスフォート様の間にあるのは、ただの極めて健全な『契約関係』ですもの」

「契約だと!?そんな言い訳、誰が信じるか!」

「では――」


レティシアは、そっと自らのエスコート役を振り返った。


「レイスフォート様。直接、ご説明していただけますかしら?」


すべての視線が、一斉にディートリヒへと集中した。

これまで一切の気配を消し、静かにレティシアの隣に佇んでいた死神。学院最強の問題児であり、王国最高の武力を秘めた黒髪の青年が、静かに一歩前へ出た。


その瞬間、大広間の空気が物理的な圧力を伴って一変する。アインスですら、その圧倒的な強者の威圧感に一瞬、呼吸を忘れて言葉を失った。


ディートリヒはアインスを冷徹に見下ろした。そのアメジストブラックの瞳は、万年雪の積もる極北の氷山よりも冷たかった。


「事実だ」


短い。ただそれだけだった。だが、その言葉の持つ重みは、王太子の怒声よりも重かった。


「我々は、正当な契約関係にある」

「う、嘘だ!そんなもの、その場しのぎの出鱈目に決まっている!」

「証拠なら、ここにある」


ディートリヒの言葉に、アインスの顔色が変わった。レティシアは内心で大爆笑していた。

もちろん、証拠はある。何故なら、あの胃痛持ちの補佐官ダニエルを極限までこき使って、事前にきっちりと法的効力を持つ「正式な契約書」を作成し、しかるべき公的機関に登録を済ませておいたのだから。


「契約内容は、レティシア嬢からの定期的な魔力供給、および我がレイスフォート家からの情報提供。双方の明確な実利に基づく、正当なビジネス取引だ」

「そんな、他家同士の怪しげな取引など……!」

「殿下」


レティシアが、王太子の言葉を鋭く遮った。


「他家同士の合法的かつ、何一つ法に抵触していない公式の契約に対し、王家が私情で介入し、無効化なさるおつもりですの?」


またしても、会場が水を打ったように静まり返る。だが、今度の静寂は先ほどまでのものとは質が違った。参列していた、学生、その家族の目が、明確な「警戒」と「敵意」を孕んで王太子へと向けられたのだ。


もしも王家が「気に入らないから」という理由だけで、大貴族同士の正当な商業契約を否定し、介入することを許してしまえば、それは貴族社会全体の基盤を揺るがす大問題になる。誰もが日々、商売をし、契約を結んでいるのだ。

それが王太子の我が儘一つでひっくり返されるとなれば、明日は我が身である。


アインスはそこまでの政治的波及効果を全く考えていなかった。だからこそ、完全に全貴族を敵に回す形で追い詰められていく。


「それに」


レティシアは、追い打ちをかけるように静かに続けた。


「殿下は、まさかお忘れではございませんわよね?」

「何をだ!」

「私とレイスフォート様の婚約話は」


アインスが、完全に固まった。


「――今から九年前、一度正式に持ち上がっていた話ですわよ?」


会場中が、大きくどよめいた。

九年も前の古い話だ。だが、この場にいる上位貴族たちの記憶には確かに残っている。アルディアン公爵家とレイスフォート辺境伯家。王家を左右する二大巨頭の結びつきを恐れた王家が、慌てて介入して握り潰した、あの曰く付きの婚約話だ。


「最終的には王家の強い意向によって流れてしまいましたけれど」


レティシアは、勝ち誇ったように妖艶に微笑む。


「婚姻を結んでの魔力提供は白紙になりましたので、今度はしっかりと、別の条件で契約を結んだだけのこと。一体何の問題がございますの?」


逃げ道が、また一つ完全に塞がれた。アインスの額から、滝のような冷や汗が流れ落ちる。

そして、その絶対的な絶望の最中に。


「兄上」


大広間の静寂を切り裂くように、極めて理知的で、静かな、しかし最も重い声音が響き渡った。第二王子、エドヴァルト。ついに、真の主役が動き出す。


「私からも、よろしいでしょうか」


その声には、怒りも、嘲りも、一切の無駄な感情が含まれていなかった。だからこそ、この場にいる全員にとって、それは絶対的な冷徹さを持って響いた。


第二王子エドヴァルトがゆっくりと歩を進め、壇上のアインスの前へと立つ。視線が、完全に彼へと集中した。アインスは、己を脅かす優秀な弟の登場に、あからさまに怯えの混じった表情を浮かべた。


「エ、エドヴァルト……!貴様、……」

「兄上」


エドヴァルトは、淡々とした口調で問いかけた。


「本日、この卒業式典で輝かしい先輩方の行われている、レティシア嬢に対する『断罪』は、一体どこの誰の権限で行われているものですか?

――それは、我が王家の『総意』ですか?」


アインスが、言葉に詰まる。


「な、何だと……っ」


「国王陛下からの正式な裁可状は?

公爵令嬢を告発するための、正式な証拠書類は?

アルディアン公爵家に対する、騎士団を動かすための正式な手続きは?」


重苦しい沈黙が、大広間を埋め尽くす。エドヴァルトは、冷酷に結論を突きつけた。


「……何一つ、無いのですね」


その一言で、勝負は完全に決した。

会場にいるすべての貴族が、明確に理解した。これは王家の正当な裁きでも何でもない。ただの王太子アインス個人の、私怨と我が儘による「暴走」だ。王位継承者たる者が、公式の場で感情に任せて暴れているだけという、最も醜悪な茶番劇だった。


「兄上」


エドヴァルトの、兄を見下す目がさらに冷徹さを増す。


「アルディアン公爵家は、我が王国の建国以来、幾多の危機から国を救ってきた最大の功臣です。その公爵家の令嬢を、何一つ法的根拠も証拠も無く、個人の感情だけで断罪するなど……正気の沙汰とは思えません」


「だ、だが!ミリアが実際に被害を受けたと言って、証言しているんだぞ!」

「『被害を受けた、と本人が主観的に思った』ということと、『その犯人がレティシア嬢であるという客観的な証明』は、全くの別問題です」


アインスは、ぐうの音も出なくなっていた。完全に詰んでいた。


レティシアは、ディートリヒの腕に手を預けたまま、内心で大満足していた。

本当に楽である。相手が勝手に自滅してくれる、というのは。


「そして」


エドヴァルトは、視線をアインスの後ろで震えるミリアへと向けた。


「ミリア嬢」

「は、はい……っ」

「あなたは、レティシア嬢があなたの教科書を直接破り捨てる瞬間を、その目で見ましたか?」

「……見て、いません」

「では、レティシア嬢が誰かにそれを命じている現場の声を、直接聞きましたか?」

「……聞いて、いません」

「つまり、彼女が犯人であるという確たる証拠は、あなたの中にも存在しない。そうですね?」

「……はい」


ミリアは、完全にうなだれて俯いた。どうやら彼女は、愚かではあっても、全貴族の前で決定的な嘘の証言を突き通せるほどの悪党にはなりきれなかったらしい。

レティシアは心の中で、彼女への評価をほんの一ミリだけ上方修正してやった。

つまらない女、という方向に。


「兄上」


エドヴァルトは再び、完全に生気を失ったアインスを見据えた。


「これ以上、この醜悪な茶番を続けますか?」


返事はなかった。だが、追い詰められたネズミが最後に狂暴化するように、アインスは最後の最後で、本当に取り返しのつかない最悪の暴挙へと打って出た。


「だが、しかし!!」


狂ったように叫ぶ。それは、自らのプライドを守るためだけの、哀れな最後の足掻きだった。


「ミリアは、光の精霊に愛された真の『聖女』なのだぞ!その価値は、何物にも代え難い!」


大広間の空気が、またしても凍りついた。嫌な予感が、会場中を駆け巡る。レティシアは、心底不快そうに美しい眉をひそめた。


「だから、それが何だと言うのです、兄上」

「だから!我が王家の未来には、レティシア、お前ではなく、ミリアのような聖女こそが必要なのだ!!」


――あ、終わった。

その場にいた、王宮の政治やパワーバランスを理解しているまともな大人全員の脳裏に、その言葉が明確に浮かんだ。

それは、絶対に、何があっても口にしてはならない「最悪の禁句」だった。


「兄上」


エドヴァルトの声から、ついにすべての温度が消え失せた。


「……それは今、どのような意味でおっしゃいましたか?」

「言葉の通りだ!ミリアこそが我が王家の未来であり、繁栄の象徴だ!レティシアのような、古臭い公爵家の女よりも、遥かに価値がある!!」


終わった。本当に、完全に、終わったのだ。

アインスは今、この公衆の面前で「王家はアルディアン公爵家を正式に切り捨てる」と宣言した。九年もの長きにわたり、彼女の強大な魔力を都合よく囲い込み、利用し、過酷な王太子妃教育を施して未来を縛り付け、都合よくこき使っておいて――光の聖女という新しい、より都合のいい玩具が手に入ったから、不要になったのでポイ捨てする、と。

それを、自らの口で、全貴族の前で公式に認めたのだ。


レティシアは、あまりの綺麗すぎる自爆ぶりに、思わず拍手を送りたくなった。ここまで見事に自らの政治的な立場を木っ端微塵に爆破できるとは、ある種の一等星レベルの才能かもしれない。


「アインス殿下」


レティシアが口を開いた。その声は、驚くほど穏やかで、慈悲深いものだった。だが、だからこそ、大広間の誰もがその言葉の一言一句を、聞き漏らすまいと耳を澄ませた。


「つまり……我がアルディアン公爵家は、もはや王家にとって『不要』であると、そうおっしゃるのですね?」

「そ、それは……そこまでは言っていない!貴様個人の話だ!」

「ですが殿下、たった今『レティシアよりも聖女の方が価値がある』と、はっきりとおっしゃいましたわ。九年間も私を縛り付け、王家のために都合よく動かしておいて、不要になったらゴミのように捨てる。……それが、王家の気高き方針なのですか?」


沈黙。アインスは、金魚のように口を動かすだけで、何一つ反論の言葉を紡げなかった。

会場の貴族たちの目が、完全に「敵意」へと変わった。これはレティシアだけの問題ではない。

王家が「気に入らなくなったら、どれほどの功臣であっても平然と切り捨てる」という前例を作ってしまったのだ。そんな身勝手な王家に、誰が命を賭けて仕えようと思うだろうか。


「兄上」


エドヴァルトが、冷酷に最後の一撃。


「あなたは、次期国王たる王太子としての、自覚がありますか」


完全なる静寂。


「本日、この公式の場におけるあなたのすべての発言、並びに行動は、一言一句正確に記録されました。国王陛下への事態の報告、およびあなたの王位継承権剥奪に関する手続きは、この後すぐに私が執り行います」


アインスの顔から、完全に血の気が引いて真っ白になった。彼はようやく、本当にようやく理解したのだ。己の頭の悪さと、感情に任せた暴挙が、一体どれほど破滅的な結末を招いたのかを。


レティシアは、今すぐにでも上質な紅茶をお供に、この極上の勝利の余韻に浸りたい気分だった。あいにく手元にカップはないが。


「それから」


エドヴァルトは、レティシアの正面へと向き直り、深く頭を下げた。


「レティシア嬢。我が愚兄の、公爵家に対する計り知れない不敬と非礼に対し、王家を代表して心から謝罪いたします」

「結構ですわ、エドヴァルト殿下」


レティシアは、極上の笑みを浮かべて即答した。


「もう、すべてが終わったことですもの。気になさらないで?」


そして。彼女は会場全体の貴族たちに、その美しい声を響かせるように、高慢で、優雅で、完璧な悪役令嬢としての最後の微笑みを湛えた。


「アルディアン公爵家、長女レティシア。

公爵家を代表して、ベルンシュタイン第一王子アインス殿下と、レティシア・アルディアンとの、婚約破棄を申し出ます」




=====


あの波乱に満ちた卒業祝賀会から三日後。

レティシア・アルディアンは、これまでの人生において五本の指に入るほど最高に機嫌が良かった。


朝、目覚めた瞬間から素晴らしい。

カーテンの隙間から差し込む日差しはどこまでも心地よく、見上げる空は抜けるように青い。庭園の木々からは小鳥たちの愛らしいさえずりが聞こえ、公爵家お抱えの茶葉職人が淹れた淹れたての紅茶は完璧な温度と香りを湛えている。


そして何より。

長年、彼女の肩に重くのしかかっていた、あの忌々しい『王太子妃教育』のスケジュールがすべて白紙となり、綺麗さっぱり消滅したのだ。


素晴らしい。本当に、言葉にできないほど素晴らしい。

レティシアは公爵邸の広大な庭園に設えられた、白いアイアンワークのテーブルへ優雅に頬杖をつきながら、極上の紅茶を口へと運んだ。


心の底から、ジュワリと湧き上がるような幸福感に浸る。


考えてもみてほしい。今までレティシアは、将来の王妃候補、ひいては次期国母となるための英才教育を容赦なく叩き込まれてきた。


退屈な割に覚えることの多い大陸の歴史。複雑怪奇な国内の政治構造。他国との神経を削るような外交の駆け引き。一挙手一投足に厳しい制約がつく宮廷礼法。淑女の嗜みとしての舞踏。最低でも三ヶ国語の習得を義務付けられた外国語。

さらには、気難しい王族たちとの付き合い方や、派閥同士のドロドロとしたやり合い、傲慢な貴族同士の諍いの仲裁方法にいたるまで、そのすべてを網羅させられていたのだ。


正直に告白しよう。面倒極まりなかった。

もちろん、知識を蓄えることや勉強そのものは決して嫌いではない。レティシアはそのプライドから、中途半端が何よりも嫌いだった。

だからこそ、余計に腹が立って仕方がなかったのだ。なぜ自分が、あの無能極まるクソ王子のやらかすであろう未来の尻拭いを大前提として、自らの貴重な人生設計を構築しなければならないのか。全くもって意味が分からなかった。


だが、それももう全て終わったのだ。

婚約候補の話は王室からの使者を突っぱねて、白紙撤回。王妃ルートは永久に消滅。これによって、かつて恐れていた没落や修道院送り、ましてや断頭台で首と胴体が泣き別れになるような破滅フラグは一文字残らず霧散した。


人生の本番は、まさにこれからだった。

学院の生活は、まだあと二年ほど残っている。

今までは「次期王妃候補」というあまりにも目立つ立場上、日々の行動や交友関係にがんじがらめの制約が課せられていた。


だが、今の彼女はただの一公爵令嬢だ。

気の合うお好みの令嬢たちを誘って気楽なお茶会に繰り出したっていいし、王都の裏通りで流行している最先端のお菓子を食べ歩いたっていい。

新進気鋭のデザイナーが仕立てた美しいドレスやレティシアの大好きな宝石まで、気の済むまで買い物を楽しんでも、未来の王妃が浪費だなんて、のような陰口も言われない。


天気のいい昼下がりに、何にも急かされることなくベッドで二度寝をしたって誰からも文句は言われない。


最高ではないか。これ以上の贅沢があるだろうか。


レティシアは満足げに深く頷いた。

前世の記憶を取り戻してからというもの、九年間もの長い間、ずっと頭の片隅にこびりついて離れなかった底冷えするような不安が、ようやく綺麗さっぱり消え去ったのだ。


誰が没落などするものか。誰が悲惨な末路を迎えるものか。そんな強い決意と反骨精神だけでここまで駆け抜けてきた。そして、見事に勝ったのだ。文句なしの完全勝利である。


今のレティシアは、冗談抜きで自分を勝者だと確信していた。

実際、結果としては大勝利だった。

少なくともアインス王子は王位継承の最前線から完全に脱落し、その政治的生涯を終えた。聖女候補のミリアも、蓋を開けてみれば単に小心者で気弱なだけで、悪意を持ってレティシアを陥れようとした黒幕ではなかった。誤解やすれ違いは多々あったが、レティシアを引きずり降ろそうとする政敵でないのなら、もうどうでもいい。


レティシアにとって最も重要なのは、自分自身と、自分を愛してくれる大切な家族が無事であること、それだけだ。それ以外の人間の行く末など、関心の埒外である。


そのため、今の彼女の胸中を占めているのは、天にも昇るような凄まじい解放感だけだった。油断すると、はしたなくもふふんと鼻歌まで飛び出してしまいそうだ。


まさにその時だった。

芝生を微かに踏み締める、規則正しい足音が近づいてきた。それと同時に、遠くからレティシアを呼ぶ侍女のどこか慌てたような声が響く。


レティシアが紅茶のカップをソーサーに置き、顔を上げる。

そこに立っていたのは、案の定というか、想定の範囲内というか、黒い礼装に身を包んだ男だった。


ディートリヒ・レイスフォート。

レティシアから一年以上にわたって純度の高い魔力を定期補給されたおかげだろう。今の彼は、あの裏庭のような、かつての病弱で幽霊のようだった青白い肌は影を潜め、健康的な色艶を取り戻している。

卒業パーティーの時もそうだったが、この男、悔しいほどに顔だけは抜群に良い。


そして相変わらず、何を考えているのか全く読めない鉄面皮だった。


「ご機嫌よう、レイスフォート様」

「ああ」 


ディートリヒは特に断りを入れることもなく、レティシアの向かいの席へと流れるような動作で腰を下ろした。

レティシアは気にせず紅茶を一口含む。

今の彼女は世界で一番と言っていいほど機嫌が良いのだ。この程度の無作法や突然の訪問くらい、寛大な心で受け流してやるだけの余裕がある。


「本日は一体どうなさいましたの?事前の連絡もなしに、随分と急な訪問ですけれど」

「報告だ」


レティシアは小さく頷いた。

報告、というからには、おそらく二人の間で交わされている「魔力供給」に関する事務的な連絡か、あるいは祝賀会での一件を受けた辺境伯家側の事後処理についての話だろう。


だが、それも実質的に今日で終わりのはずだ。

あの公開断罪劇は見事に瓦解し、レティシアは王妃候補の座から降りた。

つまり、もう表立って彼に協力を仰いだりする必要はどこにもない。

今後は、お互いのビジネスの範疇で、必要な時にだけひっそりと魔力の取引を行えば良いのだ。


それだけだ。これ以上なくドライで、実に健全なビジネスパートナーである。


「ええ、お聞きしましょう」

「俺の父上と母上が、現在、全速力で王都へ向かっている」


レティシアはパチリと瞬きをした。


「……レイスフォート辺境伯夫妻が、ですか?」

「ああ」


なるほど、そういうことか、とレティシアは納得した。

ディートリヒの命の危機を救い、狂いかけていた闇の精霊を宥めるための魔力を供給し続けたのだ。彼らの最愛の息子の命の恩人として、両親が直々にお礼を言いにわざわざ辺境から足を運んでくるのだろう。


「そうですの。それはまた、ご丁寧なことですわね」


レティシアは極めて社交的な笑みを浮かべた。

レイスフォート辺境伯夫妻に対しては、特に悪い印象は持っていない。

むしろ、過去の記憶を遡っても好印象な記憶の方が多い。

かつて九年前、王家が横槍を入れてくる前に一度持ち上がった彼との婚約話も、今思えば彼ら夫妻は、まだ八歳の小娘だった自分の意見を尊重してくれたのだ。


あの時、アインス王子が横から無理やり首を突っ込んで婚約を内定させたりしなければ、今頃辺境伯家の婚約者として平和な人生を送れていた可能性すらある。


まあ、それは今さら何を言っても始まらない、とっくに終わった過去の話だ。

レティシアは完全にそう結論づけていた。


だからこそ、ディートリヒの口から淡々と紡がれた次の言葉に対して、脳の処理が一瞬だけ遅れた。


「それから、例の婚約の件もある」

「ありませんわ」


それは、恐ろしいほどの即答だった。思考を挟む余地のない、純粋な条件反射だった。

ディートリヒが、その言葉に僅かだけアメジストの瞳を細めて沈黙する。

レティシアはすかさず、言葉を畳み掛けた。


「祝賀会での騒動は、殿下の自爆によって完璧に終わったでしょう?」

「ああ」

「魔力の提供は貴方の体調が完全に落ち着くまでさせていただきますわ」

「ああ」

「私は晴れて自由の身。これからは誰にも縛られず、独身生活を謳歌するのです」

「ああ」


よし、話は終了だ。完璧な論理展開だった。

レティシアは満足げに、再び紅茶を優雅に口へと運んだ。


しかし、どういうわけかディートリヒは一向に席を立とうとしない。帰る気配すら見せず、端整な顔を崩さないまま、じっとこちらの様子を観察するように見つめてきている。その視線の重さに、レティシアは僅かながらの居心地の悪さを感じ始めた。


「……何ですの、先ほどから。人の顔を凝視して」

「お前の兄、ジュリアンはすでに了承した」


レティシアは首を傾げた。


「お兄様が?一体何を?」

「それから、第二王子のエドヴァルト殿下も了承済みだ」


レティシアは徐々に、美しい眉を不機嫌そうにひそめ始める。


「ですから、だから何を了承したというのです?」

「お前の父親である、アルディアン公爵もだ」


その瞬間、レティシアの背筋を、得体の知れない冷たい不気味な悪寒が駆け抜けた。凄まじく嫌な予感がする。


「だから……何を、と聞いているのですけれど?」


ディートリヒは、数秒の間、言葉を止めて沈黙した。

そして、どこまでも平然とした、いつも通りの静かな声で、とんでもない爆弾を投下した。


「お前との、これからの婚姻についてだ」


レティシアは、完全に固まった。

手にしたティーカップが、指先の中で微かにカタカタと音を立てる。

沈黙。

数秒。

さらに、十数秒。

大広間での断罪劇の時ですら保たれていた彼女の冷静な思考回路が、今、完全に機能を停止していた。

そして。


「……は?」


およそ、王国最高峰の格式を誇る公爵令嬢のものとは思えない、地を這うような素っ頓狂な声が漏れ出た。

対するディートリヒは、冗談を言っている様子など微塵もない、完璧な真顔だった。

レティシアは、ようやく事態の異常性を理解し始めた。この男、一体裏で何を企んでいる。想像を遥かに絶する、破滅的なまでに嫌な予感が全身の細胞を警鐘となって駆け巡る。


だが、まだ大丈夫だ。自分にそう言い聞かせる。王太子との婚約候補は完全に白紙になったのだ。彼との契約も、目的を達した時点で終了している。今の自分を縛る法的根拠は何一つない。自分は自由だ。そう、何よりも求めていた自由を手に入れたのだ。

だから問題ない。何も問題はないはずだ。

レティシアは必死にそう自分に言い聞かせ、平静を装おうとした。しかし、どうしてなのか、額からはほんのりと嫌な冷や汗が滲み出ていた。


「だから、レティシア」


不意に、テーブルの上に置いていた彼女の白く細い手が、ディートリヒの大きくて温かい手によって、そっと包み込まれるように取られた。


レティシアが驚きに目を見開く。その視線の先にあるディートリヒの表情は、彼女がこの一年以上の付き合いの中で、ただの一度も見たことがないものだった。


いつも冷徹で無表情、もしくは不機嫌そうに周りを睨んでいたその顔が、今は信じられないほどふんわりと、優しく微笑んでいる。

アメジストの瞳が、まるで宝物を慈しむかのように柔らかく細められていた。


「俺と、結婚しよう」

「……へ?」


間抜けな声が、再びレティシアの唇からこぼれ落ちた。

ディートリヒのアメジストも瞳が、至近距離でさらに輝きを増したような気がする。

しかし、レティシアの脳内はそれどころではなかった。


「い、いや……お待ちになって!私は、私はようやく手に入れた自由を……!」


必死に拒絶の言葉を紡ごうとするレティシアに対し、ディートリヒは逃がさないと言わんばかりに、畳み掛けるような流暢さで言葉を繋いだ。


「レイスフォートの領地での生活は、お前が考えている以上に自由だぞ。俺はお前の行動を特に制限するつもりはない。王都のように、窮屈な貴族たちの派閥争いに目を光らせる必要もない。お前が望むなら、毎日好きなだけ起きたい時間に起き、一日中誰にも邪魔されずに自堕落に過ごしてもいい。家族から離れたくないのであれば、王都に滞在してもいい」

「なっ……」

「お前が欲しいと言うものは、宝飾品でもドレスでも、あるいは土地そのものであっても、何でも買い与えてやる。もし、辺境伯夫人としての煩わしい公務や事務仕事が嫌だと言うなら、優秀な部下たちをすべてお前の専属としてつけてやろう。お前はただ、そこにいて笑っているだけでいい」


あまりにも甘く、そしてこちらの「本音」を完璧に狙い澄ましたような好条件の羅列に、レティシアは息を呑んだ。

確かに、魅力的な話ではある。自堕落な生活、無限の金銭、優秀な丸投げ先の部下。どれも彼女の理想とする「お気楽な生活」そのものだ。だが、おかしい。何かが致命的におかしい。


「貴方……どうしてそれを……!?私がそんな生活を望んでいるなんて、一言も言ったことはありませんわよね……!?」


レティシアが戦慄を交えて問い詰めると、ディートリヒはただ、にっこりと底知れない笑みを浮かべるだけだった。言葉では何も答えない。


その沈黙に、レティシアの脳裏に最悪の仮説が浮かび上がった。彼女が恐怖に駆られて自らの足元、白いテーブルの影をちらりと見下ろすと、そこには日の光に紛れて、ゆらり、と何かが不自然に蠢いたような気がした。


その視線に気付いたディートリヒが、何気ない風を装って、とんでもないことを口にする。


「闇の精霊というのは、案外、使い勝手がいいものだな。主の命令に忠実で、影に潜ませておけば、どれほど離れていようとも対象の呟きや、好みの傾向を正確にこちらへ伝えてくれる」


ディートリヒは、精霊に対してなかなかに失礼で、なおかつ犯罪極まりない発言を淡々とのたまった。

レティシアは、全身の血が引いていくのを感じた。


つまり、この男。

ディートリヒは、レティシアが魔力を大量に与えてやったおかげで、闇の精霊が昔より落ち着いて、身体的、魔力操作的に余裕ができた。

それをこれ幸いと利用し、その卓越した能力をフル活用して、レティシアの私生活を徹底的にストーカーしていたということか。


レティシアの記憶にある前世の知識――原作ゲームの追加パッチにおける設定では、ディートリヒというキャラクターが物語の後半で恐るべき「ヤンデレ黒幕」へと変貌するのは、ひとえに闇の精霊の狂気に精神を蝕まれ、その結果として実の両親を手に掛け、絶望のあまり狂気に落ちてしまったから、とばかり思っていた。

精霊の暴走さえ止めれば、彼はただの人相の悪い、無口で無害な辺境伯令息に戻るのだと、本気でそう信じ込んでいた。


まさか。

まさか、精霊の狂気など全く関係なく、この男の本人の気質そのものが、生まれつき最初からドロドロに歪んでいたとは、そんなこと誰が想像できるだろうか。


「……っ、この、人格破綻者……!」


レティシアは、握られた手を引き抜こうとしたが、ディートリヒの力強い指先はびくともしなかった。それどころか、彼はさらに愛おしそうに、レティシアのルビーレッドの瞳を見つめてくる。

自由を求めて完璧に立ち回ったはずの悪役令嬢は、王太子の婚約者という断罪ルートから抜け出した瞬間、さらに逃げ場のない黒幕ルートに、自ら飛び込んでしまっていたことに、ようやく気付いたのだった。

ちまちま書き溜めてた物です。

馬鹿みたいに長くなりました。

ここまで読んでくれた皆様、本当にありがとうございます。

すんごい忍耐力です。


強気なヒロインと、性格がやべぇ終わり方してるヒーロー物が好き。

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続きをお願いします! 辺境伯領での溺愛生活なんかを、是非に!
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