後編
*
『あの騒ぎのおかげで関わった生徒は全部割り出せたが、それとこれとは別だ』
久史を呼びつけた担任は、何とも言い難い顔でため息をついた。そうして屋上の掃除を任命すると、十日間のトイレ掃除を付け足し、久史を解放した。
トイレ掃除は倉田も手伝い、放課後も久史は彼と一緒に過ごすようになる。
そうしてそんな掃除も終わりを告げた頃、学校の裏サイトにひとつの書き込みがあった。
【倉田優喜、ウザい。死ねばいい】
名無しの書き込みはすぐにレスが続いて、倉田の悪口で充ち溢れる。
たぶんあの時に屋上に居た奴らの仕業なのだろう。
人数を思わせる早い書き込みに、久史は途方に暮れた。
こんなにも多くの人間から疎まれているのかと倉田が思ったら、きっと死にたくなるほど辛いはずだ。久史はこの現実を味わうのが嫌で、心の底から恐怖したのだから。
だから初めて久史はコメントを入れるボタンを叩いて【桜】と名乗り、酷いレスを止めにかかった。
【倉田、いい奴じゃん。ウザくないよ】
出し抜けに割って入ったレスは、その場の空気を変転させ【桜】叩きのムードが臭いだす。
それでも、久史はめげずに書き込みを続けた。
【必死w 倉田本人なんじゃね?】
【あ~なるほど。うけるー】
どんどんと【桜】をいたぶって楽しんでいる流れが確立し、久史は止め時を見失う。
容赦ない言葉。
残酷は文章。
誰かの悪意の塊を直に喰らいながら、引くことが出来ない。
(こんなの初めてだ)
争いごとは嫌いなのに。
【もういっそ倉田で名乗ればいいじゃん。自己弁護もそこまで来ると見苦しい】
対話を拒んでいる相手と終結する方法なんてない。
そんなことわかっているのに、どうしたと言うのだろう。
【自己弁護なんかしなくても、倉田を庇うやつは居る。おまえらの正体に気づいて傍観している奴らの中にだって、倉田のこと庇いたいって思ってる奴はいるはずだし、倉田はそういう奴だ】
文字を打ちながら、気づいた。
――そっか。だから自分以外に倉田を庇う奴が出てこないんだ。
みんな倉田が好きだから、言わせとけって思ってる。
こんな攻撃が怖いのは、好かれている自信がない人間だけだ。
気おくれしてボタンを打つ指が止まった時、ふいに【キー】が現れた。
【倉田は俺だよ。桜じゃない。それに、そんなに俺が嫌いなら、直接どうぞ。ちゃんと聞くよ】
【うわ。来た。倉田2】
【ww】
桜を庇うようにしてネットに姿を現したキーは悪意の塊をその身に受けて、倉田優喜として平然と返事をしていた。
だからか、とたんにレスの勢いは弱まって、いつしかプッツリと途絶える。
「そうだよ。ああやって余裕たっぷりに躱せば、相手をつまんなくさせて終わらせられたのに……」
なんで気づかなかったんだろう?
無駄なことしてバカみたいだ。
そう自嘲的な笑みが零れ、サイトから出ようとした時、ポツンとレスが伸びた。
【桜ちゃん。ありがとう】
最後に書き込まれたコメントを見た瞬間、ほろりと自分が倉田を好きだと気づいた。
ありがとう、と、そう言いたかったのは久史だ。
名乗れないから言えなくて、でもずっと伝えたかった。――ずっとずっと。
【桜】として【キー】の恋愛対象でいたせいだろうか。
自覚したら驚くほどストンと現実が落ちてきた。
カァァァと湧き上がって来る苦いような甘い熱と、焦燥感のような虚しさに、久史はいてもたってもいられなくなった。
『顔も見たことないけど、俺は桜ちゃんが好きなんだ』
綺麗なピンク色の花の下でほのかに頬を染めながら、甘い声が耳を打った。
あのときは気恥ずかしくて仕方なかった。だって桜は久史なんだから。
でも恋になったらそれは絶望にも似た苦さに変換される。
(だってその【桜】は、男なんだ……)
***
【河津桜を一緒に見れなかったのは残念だったけど、あれは早咲きの桜だものね。今度はちゃんとソメイヨシノの開花まで待つから、今度こそ逢って欲しい。聞いてもらいたいことがあるんだ】
キーから久しぶりに長文のメールが来た。
いつもはゲームの最中にたわいもないやり取りを楽しむだけだったから、こんなふうに改まって文章を送って来られるのは、待ち合わせに行けなかった旨を久史が送ったとき以来かもしれない。
【桜ちゃん。君がどんな人でも良いんだ。逢って、会話をして、君をちゃんと知りたい】
ソメイヨシノの開花はもうすぐだ。
南の方は開花が始まっていて、直に学校も春休みに入る。
『三年生になったら同じクラスだといいな』
久史に向かって笑んだ倉田の相貌がチラチラと揺れる。
【桜ちゃん。もう一度言うよ。どんな君でもいい。今度こそ、待ってる。今回の待ち合わせ場所は――】
春休みに入った、学校の桜の下。
*
力いっぱいペダルを踏んで、性懲りもなく学校への道を直走る。
到着した学校のフェンスの外側で、カラカラ鳴る自転車を緩やかに走らせていると、頭上から薄桃色の花びらが舞うように降りてくる。
目映いくらい満開の桜の木が並ぶ校庭には、中々の結果を残している野球部が練習をしていた。
久史は誰にも見咎められないように校内には入らず、自転車から降りるとフェンスを握り、倉田の姿を探す。
胴声を上げる野球部の向こうに咲く、大きな桜の木の下で倉田は本を読んでいた。
「また読んでる」
思わず苦笑する。
今日はどれだけ待つ気でいるのだろう。
倉田の横にはいつかの弁当が収まる巾着袋が置いてある。
倉田らしい色とりどりの丁寧な弁当は、味も量も半端なかった。
――声をかけようか?
出来もしないくせにそんな想いが膨れ上がってきて、笑える。
今日ここに現れない桜に、倉田はきっと失望するだろう。
そうして【桜】と恋愛することを諦める。
「それでいいんだ」
久史には友人としての居場所が倉田の中にある。
あの横に並んで、あの笑顔がずっと続くなら、それでいい。
【桜】が得られるはずだった恋人のポジションは、きっと本物の女の子が継ぐだろう。
「……ハァ」
ひとつため息をついて、フェンスを持つ手に力が入る。
(男の俺があいつを手に入れるには、どうしたらいいんだ?)
遠目にも色あざやかな彼。
この身が本当に女の子なら、迷わずあそこへ躍り出るのに。
ピーといきなり笛の音が鳴り、野球部が休憩に入る。
マネージャーの女子がおしぼりを部員に配っている姿を眺めていたら、ふいに女子の視線が倉田を捉えた。
数秒止どまる彼女の背中に胸騒ぎを覚える。
そうしてそれは即応し、彼女は倉田に向かって歩いて行く。
本を読む倉田の頭上に影を落とし、彼女は倉田に向かっておしぼりを差し出した。
『ありがとう』
聞こえないが、倉田の唇がそんなふうに動いた気がした。
そうして二言三言と言葉を交わし、調子づいて笑う。
楽しそうな笑顔にハラハラと胸が掻き毟られる。
「重症だ……」
マズイ。
こんなことをいちいち苦々しく感じていたら、友人なんてやってられない。
(自覚したてなのがいけないんだ)
久史は天を仰いで深呼吸をする。
ひと息つくと顔を戻し、会話を楽しむ二人を眺めた。
ふわふわのショートカットで可愛い女子だと思う。
野球部の女子マネは世話焼きで男子に人気があると聞いた。
きっと倉田だってタイプだろう。【桜】はあんな娘をイメージして演じていたんだ。
野球部の女子が倉田の傍を離れる。
それにけっきょくホッと息をついたとき、久史の携帯電話が鳴った。
慌ててポケットから取り出すと、メールが届いていて、差し出し人は倉田。
チラリと倉田を掠めながらそれを開くと、件名にピースマークが入っている。
【高居。逢えたよ。桜ちゃん来てくれた。野球部のマネージャーだった!】
「はぁ?」
本文を読んだとたん、久史はわなわなと震えた。
どんな会話の経緯でそんなふうになったのかは知らない。
でも、許せない。
キーとのやり取りは久史にとっては宝物みたいなひと時だった。
出逢った瞬間からキーは特別で、好かれたかった。
だからあらゆる努力をしたんだ。彼に好かれるために。
久史の足が前へ出る。
「クソッ!」
一語を吐いたときには、憤然と走りだしていた。
正門を通り、倉田が座っている桜の木まで全速力で走る。
砂埃を巻き上げながらたどり着いた先で、久史は刺のある声を上げた。
「倉田!」
ハァハァと肩で息をする久史を倉田はポカンと見上げる。
「高居、もしかして近くに居た?」
メールを送ってすぐなだけに驚いたのだろう。
息切れで声が続かない久史を訝り仰いでいる。
「桜、野球部の女子だったって……」
「あ、うん。そうだったんだよ」
あの子。と、倉田は気を取り直したようにさっきまで会話をしていた女子を指差す。
バケツいっぱいのボールを丁寧に磨いている女子が瞳に飛び込んで、一瞬で血の気が引いた。
「あ……」
女の子。
そうだ。女の子だ。
「? ……高居?」
訝る倉田を前に、立ち位置が揺らぐ。
「ごめ……近くまで来てたから、驚いて、走って来ちゃったんだ」
戻るよ。と後退ると、倉田は心底ふしぎそうに「何で?」と問う。
「なんでって、せっかく逢えたんだから、帰りとか、一緒に帰ったりするだろ。俺はまだ近くに用があるし、行かなきゃだから」
ダッと走り去ろうとした瞬間、ガッと腕を掴まれ引きとめられた。
「いいのか?」
「な……なにが?」
「俺があの子とつき合って本当にいいのか?」
問う意味がわからない。
「なに言ってんだよ…」
振り返り見つめると、倉田はまっすぐに久史を見上げ、そのままその場を立った。
「桜は高居だろ?」
問われた声が届くまでにずいぶんかかる。
予想外の声にこれ以上ないほど瞠目したら、彼は困ったように笑った。
「あの河津桜を一緒に見た日から、高居が桜ちゃんじゃないかって、当たりを付けてたんだ」
「……は? ちょ、待って…」
「ごめん。驚くよな。俺も驚いた。でも『もしかして』が『たぶん』に変わるのはすぐだったよ。桜ちゃんに惹かれた良さを、高居はギュウギュウに持ってたから、いつからか『そうだったらいいのに』とも思ってた」
「そうだったらいいのに……?」
狼狽えながらオウム返しに問い、懸命に頭を働かせる。
「うん。高居が桜ちゃんだったら、俺ら両想いじゃん」
「は? 両想い?」
ドッドッと鼓動が早鐘を打つ。
(待ってくれ)
すこし気持ちを落ち着かせる時間が欲しい。
「争い事が大嫌いな桜ちゃんが、どうしたことか倉田優喜を必死で擁護してる。いつもの温雅さが欠片もないほど動揺してさ。……そりゃ愛を感じるよ」
「なっ…」
カァァァと顔が熱くなる。
裏サイトのことを言っているのだろう。
見ず知らずの相手より、知っている人間の擁護の方が救われると思った。
ただそれだけで【桜】を名乗ったのに、もしかしたらものすごい失敗だったのかもしれない。
「そ……れは」
「でも俺、桜ちゃんに正体明かしてないしさ。しかも微妙に男言葉だったし、あれはほぼ決め手だったよ」
晴れやかに笑む顔。
完全に断定してる彼をあざむく言葉などもう出てこない。
「よく……わかったな」
手にじっとりと汗をかきながら、精一杯に声を出した。
こんなこと言ったら、正体はもちろん想いすら全て認めることになる。
「ちゃんと確信したのはさっきだけどね」
「へ?」
「俺がフェンスの向こうにいる高居に気づかないはずないだろ」
いたずらっ子みたいに笑われて、あの携帯のメールは自分を誘き寄せるためのウソだった事を察した。とたんにカァァァと訳もわからない想いが滾り、居ても立ってもいられなくなった。
「ずるい。そんなやり方」
「高居に言われたくないけど、……ごめん」
「う…」
久史はずるずるその場にしゃがみ込み、倉田から顔を隠すように頭を抱える。
顔が熱くて仕方ない。
こんなみっともないところ、見られたくない。
ふいに頭上に気配が差してふわりと頭を撫でられる。
「高居、好きだよ」
いつの間にか何よりも欲していた声が久史の身に降りてくる。
「それとも桜ちゃんに言った方がいいかな」
へらっとからかう声。
「べ…別に、どっちも一緒だし……」
喉が渇いて声が掠れる。
それがまた恥ずかしい。
「うん。一緒だよな。一緒で良かったよ。高居に惹かれてる自分に引いたりもしたけど、桜ちゃんに惹かれたんだ。高居を好きになって当たり前だったんだよな」
宝物みたいな言葉だ。
固有名詞なんて関係ない。
「俺で、良いんだ……?」
「うん。高居がいい」
頭を撫でていた手が、するりと滑って頬に触れる。
瞳を閉じてその手に頬擦りすると、久史は彼を真っ直ぐ見つめた。
「俺も倉田がいい」
舞うように降る花びらを背に、倉田が陶然と微笑む。
なんて綺麗な男だろう。
久史はその相貌をうっとり見つめ、何にも代えがたい幸福に瞳を閉じた。
了
最後まで読んでいただきありがとうございました。