前編
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この作品はムーンライトノベルズにも掲載されております。
すでに読んだことのある方はご注意ください。
【金子町の信号を右に曲がると長い坂道があって、そこを上ると、見事な河津桜が咲いているんだ。ピンク色の花が咲き乱れて丁度見頃だよ。桜ちゃんにも見せてあげたい】
はっはと息を乱して、自転車から降りずに登坂する。そこはゆるやかな上り道だけれど、あまりに長く脚に負担が掛かるせいか、額に汗がじんわり滲んでくる。
「うへ…キツいな」
ペダルをこぐ脚が震える。
帰宅部ゆえの運動不足が関係しているのだろうか。
【桜の季節になったら逢ってくれるって言ったよね。だから楽しみに君が来るのを待っています。From、キー】
しばらくすると登りきらない頂に綺麗なピンク色を見つけ、高居久史はほうと息をついた。そうしてラストスパートとばかりに足にグッと力を入れる。
登頂したそこには、ため息が出るほど綺麗な河津桜が道沿いに何十本も咲き乱れていた。
「うわぁ……確かにこれは綺麗だ」
桜の代表であるソメイヨシノよりもずっと色の濃い桃色の花びらが溢れんばかりに木々を彩り、散った花びらは地面すらピンク色に彩っている。
ちょうど見頃の日曜日。
物見遊山に来ているお年寄りを中心に、間隔をあけて置いてあるベンチはどこも埋まっていた。
そんなベンチをひとつひとつ確認しながら自転車を走らせていた久史は、見知った顔に気づいてブレーキを握った。
「あれは……」
(隣りのクラスの倉田……か?)
ひと際見事に咲き乱れる桜の下で、倉田優喜が、ベンチに座って文庫本を読んでいる。倉田と久史に交友関係はないが、たぶん彼は久史を待ってそこに居る。
(驚いた…あいつだったんだ)
別のクラスの割に名前まで知っている同級生。
彼は隣のクラスの級長で、その俊英さで他クラスにもファンが多く有名だった。
見目が綺麗なのも理由のひとつだろう。
そんな彼に久史は一年前、救われた。
学校の裏サイトという恐ろしい場所に、久史は名指しでやり玉に挙がったことがあった。
【高居久史、ウザくね】
そんな書き込みに同調されたら、翌日には高居久史の居場所は消えてしまう。
たわいないサイトのくせに恐ろしく影響力のあるそれに、久史は怯えた。
【高居久史はいい奴だろ。なんでウザイ?】
出端についたこのレスポンスで、久史は居場所を失わずにすんだ。
皆が名無しで発言する中、その主は【キー】と名乗っていた。
「あいつが、そのキー」
桜に負けないくらいあざやかな美青年を久史は見つめる。
ずっと留意していた【キー】を、趣味で遊んでいたネットゲームで見つけたときは心臓が痛むほど驚いた。
まさかと思いながら話しかけて、交友関係へ進展していくさなか、自ら学校名を明かし【キー】があの裏サイトで久史を庇った生徒と同一人物だとわかったときには感慨深いものがあった。
でも名乗れなかった。
自分が高居久史だと名乗ることがどうしても出来ず、アクション系のネットゲームで扱っていた女性キャラクターの【桜】を演じ続けてしまった。
恥ずかしがりやのため、名を明かさない【桜】は、名前に因んで桜の季節になったら自らの正体を明かしてもいいと言った。
会話の流れ的にどうにもならず口走った結果、半年後の今日、彼はああやって桜の下で同級生の女の子を待っている。
さわさわと枝を揺らす風が花びらを舞い上げる。
砂ぼこりと一緒にひと際大きく吹いた風が倉田のしおりを巻き上げたのは偶然だろうか。
倉田の手元を離れたしおりはヒラヒラと風に舞い、久史の足元に落ちた。
「あれ? 君……」
しおりを追ってきた倉田は久史の前までやってくると、人懐っこい笑みを浮かべる。
「高居くんだったね。この近くに住んでいるの?」
「や……ぜんぜん遠い、けど……」
腰を沈めてしおりを拾う倉田を眺めながら、久史は戸惑う。
いつも少人数で過ごしている地味系の久史には、何かと頼りにされる倉田は眩しすぎる。
「じゃ、花見?」
「や……あ、まぁ、そんな感じ」
想像よりもずっとすごい人物が【キー】だったことで、久史は動揺して頭がうまく回らない。
「……倉田は、どうしてここに?」
会話の端緒に問うてみれば、倉田は久史がドキリとするほど綺麗な笑みを広げた。
「デートだよ」
「でーと……?」
「でも振られたみたいだけど」
倉田は苦笑する。
「あ、そうだ高居君。お腹へってる? 一緒にお弁当食べない?」
「はぁ?」
いきなりの提言に久史は動揺したまま軽く固まる。
「誘ったのが午前中だったからお弁当を作って来たんだけど、来ないみたいだからさ、良かったら……」
言いながら、倉田はチラリと久史を窺う。憂慮した瞳とカチ合い、久史は慌てて目を逸らした。
「てか、もう三時近いんだけど、食べずに待ってたのか?」
「そうだよ」
倉田が座っていたベンチには青色の巾着袋がポツンと置いてある。
たぶんあれが弁当なのだろう。
「どんだけ待ってんだよ」
四時間は優に待っている倉田を眺め、ギュッと胸が詰まる。
「や、そんなに待ってないけど、確かにこんな時間だしね。お腹いっぱいなら良いんだ。じゃ……」
はにかみ、踵を返そうとした倉田の腕を、久史は咄嗟に取っていた。
「食べるよ。……もらう」
「ほんと? 良かった」
パッと弾むように笑った顔にキュンと強い感懐が過ぎった気がしたが、久史はその動揺には気づかないフリをした。
***
「高居くん。お昼、一緒しよう?」
河津桜の下で弁当を食べた日を境に、倉田は久史をお昼に誘うようになった。
あのむせ返るようなピンクの下で、倉田は久史に向かってよく喋った。
初対面なのにそこまで明かすか? と驚くほど多弁し、特にデートの相手だった【桜】との経緯を、出逢いから今に至るまで克明に語ってくれた。
『ネットゲームなんかしているとトラブルもそこそこあったりするんだけど、フレンドが多い割に彼女の周りには一切それがないんだ。彼女、平和主義でさ、喧嘩の仲裁が趣味なんじゃないかと思うくらい争い事を沈めるのが巧いんだよ。俺はけっこう力でねじ伏せる癖があるから、彼女のそんなとこが大好きなんだ。誰もが渋々でも納得できる道が作れるってすごい事だよ』
誇らしそうに頬を染める倉田に、久史は見てくれだけ平静を装いながら、内心は面映くて仕方なかった。
平和主義は当たっているけど、別にすごいことは何もしていない。弱いだけだ。
『でもその彼女、来なかったんだろ?』
くすぐったい面持ちを隠したくて飛び出してしまった言葉は、倉田の表情を曇らせて、久史の心を揺らす。
『……だよな。やっぱ俺に逢うのが嫌なのかな? そう思うよな。同じ学校なのに名乗り合えもしないしさ、俺の正体も聞かなくていいとか言うんだ』
そう言うのを無関心って言うんだよな。と、続く寂しそうな声に、なんとも胸中複雑だ。
(それは聞いたら自分も明かさなきゃならないから聞かなかったんだけど)
『けっこうアプローチ仕掛けてたんだけど全然効果なかったしさ』
(うん。好意を持たれてるのは知ってた。……自分が本当に女だったらって、幾度思ったかしれない)
「今日は屋上へ行こうか?」
不意に、耳に低い声が飛び込んできて、久史はハッと我に返った。
「さ、寒くない?」
今は教室に昼食を誘いに来た倉田の後ろについて歩いている最中だ。
あの花見の日のみに留まらなかったふたりの関係は学校内でも続き、久史はしがな倉田のことばかり考えている。
「大丈夫じゃないかな。今日はけっこう小春日和だよ」
「いや、もう春だし」
クスッと倉田に突っ込むと、彼はニヤリと笑む。
こういう悪戯っ子みたいな顔は遠くからでは決して見られない相貌だ。
(てか倉田、けっこう友達だって多いはずなのに、何で俺なんかと昼飯食いたがるんだろ)
先に立って階段を上る背中を眺め、久史はぼんやり考える。
どう思い巡らしてみても、久史には自分といることで得る彼のメリットがわからない。
倉田が屋上の重い扉に手をかける。
ギィッと開くと眩い光が射し込み、目が痛んだ。だんだんと目が慣れていく中、それより早く、せせら笑う不快な声が耳を打った。
久史は倉田と顔を合わせて、声のする方を窺う。
すると奥まった端のフェンスに小さな一年生の男子が数人の上級生に囲まれ追い詰められているのが見えた。
(あいつらは、ヤバい……)
よくない噂、よくない場面ばかりを見かける奴らだ。
「倉田……戻ろう」
申し訳ないが、今あれは助けてやれない。
そう瞬時に判断した久史は、倉田の腕を引っ張る。
「冗談じゃない。あれを見過ごせって言うのか?」
目を剥く倉田に、久史は唖然とする。
「おま……あいつら知らないのかよ?」
「知ってるさ。いつもネチネチと弱い者イジメを楽しんでいる輩だろう。教師も気づかないし、誰も助けない」
ムッと吐き捨てるように倉田は言う。
「だから、今先生呼んでくるから手ェ出すなよ。目をつけられたら本当にヤバイ」
自分たちだと知られずにそっと、教師を行かせるのがいい。
あんな奴らにひとたび目をつけられたら、あざとく立ち回りながら、こちらの学校生活に日々介入してくるようになるだろう。
「職員室まで行って呼んで来ている時間があれば、十分あいつらはあの学生から金を取って解放出来る。現場を見たからには見過ごせない。高居は帰っていいよ」
戻れと言った声に侮蔑の色が滲んでいる。
完全に頭に血が昇っている倉田にひくりと足が凍る。
倉田は振り返りもせず歩きだし、ずんずん背中が遠ざかる。
久史はあまりのことに半歩遅れて、倉田の腕を取りそこなった。
(あいつ、頭も顔もよくて、喧嘩も強かったりするのか?)
チラリと期待したが、一年生の前に立ちはだかり、口論の末にぶん殴られて吹っ飛んだ倉田に久史は意識が真っ暗になった。
(どうすんだ、あれ!)
何を言ったら殴られるほどの怒りを買うのか。
素行が悪いとは言え、証拠を残さないようあまり暴力は振るわず、恫喝だけで渡り歩いている奴らなのに、彼らはよってたかって倉田をいたぶり始めた。
そんな中、一年がこちらに向かって逃げてくる。
必死な顔で振り返りもせず走り、久史の横を通り抜ける。
まるで尻尾を切り離したトカゲのようだ。
地面に伏した尻尾の倉田が今度は男たちに囲まれている。
このままひとりで戻り、教師を呼びに行けばいい。
あれだけ派手に倉田を傷つけていれば言い逃れも出来ず奴らは罰を受けるだろう。
久史の所から倉田の場所は遠く、ただ嫌な笑い声だけが響いてくる。
たぶんあいつらは久史に気づいてないし、このままなら自分だけは奴らに気づかれずに済むだろう。
ガっと大きな殴る音がして、またしても倉田が顔から地面を滑る。
(うわ……痛そう)
スタイルは良いが細長い体格の倉田はおもしろいほど地面をすべって、顔や体に裂傷を幾つも作る。
痛みで顔は歪むのに、瞳が死なない。どうしてあいつが目立つ存在なのかを実感するような瞳だった。
ダメだ。――戻れない。
呼ぶまでの時間が惜しい。
カッとそう思ってしまった久史は咄嗟に階段を駆け下り、廊下にあった消火器を手に屋上へ舞い戻る。
夢中になって彼らに近づき安全栓を抜いた。
ノズルを握る手に付加がかかり、真っ白な霧が勢い良く飛び出す。
「うわぁぁぁ何だ~~~」
いきなり視界が真っ白になった奴らが慌てふためいているのを横目に、久史は消火器を屋上から投げ落とす。ちょうど職員室のある二階のベランダを狙って落とすと、すぐに窓が開いた。
「誰だぁ!」
教師の叫び声がこだまして、あたりは当然パニック状態。
騒ぎに教師がやってくる前にと、不良どもが久史が居た入り口とは反対の出口からあたふた逃げだす。
喧噪が遠くなって行くのを感じながら、久史は倉田に近づいた。
「大丈夫か?」
真っ白けで呆然としている倉田が、呆けた顔で久史を見る。
「なに? 今の……君が?」
不謹慎だが全身白い姿はコントみたいで笑ってしまう。
「笑うな! 君がやったんだろう。てか、いくらなんでもやり過ぎだ。君、バカだろう」
ほとほと呆れる倉田に内心自分でも同意した。
本当に何をやっているのだろう。
「真っ白じゃないか」
悪態をつきながら倉田は制服の袖で顔を拭う。
ぐいっと白い薬が袖に付着して、顔全体の肌が浮き彫りになる。
同時に酷い創傷も目に飛び込んできた。
「痛い?」
見るからに痛々しい口元をそっと拭う。
手につく消火剤と一緒に、ふにゃっと唇の感触が指に伝わり、わきまえもなくドキリと胸が騒ぐ。
「痛い。けど、助かった」
あははと倉田が笑う。
「もう本当に痛かった! はぁ~頭に血が昇ったなぁ。よく考えたら俺の行動じゃあ誰も救われないよなぁ」
真っ白で酷い顔の倉田。
あんな目に遭ったあとにケロッと笑って自分の非を認められるのは凄いと思う。
「その点、やっぱ高居は凄いな」
「なにが?」
バタバタと階段を駆け上がって来る音が響く。
「今まで教師にバレずにやってきたあいつらも、この消火剤で御用だろ」
「あぁ…」
「これはさすがにやり過ぎだとは思うけど、凄い」
高居は凄い。
もう聞いたのに同じことを呟いて、倉田は久史が居心地の悪くなるほど眩しそうな視線を向けて来る。
「高居。顔、赤い」
倉田が笑う。
「うるさいな。……ンなことないよ」
ガンと屋上の扉が開いて、騒がしい野次馬と共に教師が外へ出てくる。
地面は真っ白。
倉田も真っ白。
ただ久史だけが綺麗なままで、犯人だとありありと訴えていた。