第7話:墨壺のシェンロンと、深夜のドライブ
年子の弟は、底抜けに明るい普通の子だった。
スポーツが得意で、サッカー部の部長を務め、いじめがあれば笑って吹き飛ばすような少年だった。
手先が器用で、夜中にテレビを見て母にコンセントの線をハサミで切られても、翌日にはビニールテープで直して平然とテレビを見ていた。
夏場、エアコンを切られて暑さに耐えかね、玄関の冷たい床の上でパンツ一丁で転がっているのを見て、「犯罪現場だ!」と妹と二人で腹を抱えて笑った。
彼の部屋に足を踏み入れると、飲み残しのコップの底で青カビが養殖されていたりして、「これやばい!」と笑いながら一緒に片付けた。
タンスの上にこっそりエロ本を隠しているのも、私は知っていた。
私たちは、どこにでもいる普通の姉と弟だった。
しかし、しんちゃんのビール片手の理不尽な虐待が日常化するにつれ、弟は変わっていった。
家に帰らなくなり、今までとは違う不良たちとつるむようになった。
気づけば、我が家には入れ替わり立ち替わり、見た目の悪い見知らぬ少年たちが出入りするようになっていた。
中には、遠く離れた地域に住む私の同級生の弟まで混ざっていた。
噂を聞きつけて、わざわざ遠くからやって来ていたのだ。
彼らの目的は、弟に「タトゥー」を彫ってもらうことだった。
弟は、電動歯ブラシの先に三本の細い針を差し込み、釣り糸で縛ってライターで炙った手製のタトゥーペンと「墨壺」を使って、彼らの体に自らの手で絵を刻み込んでいたのだ。
私たち姉弟には、なぜか絵の才能があった。
父親譲りの透き通るような白い肌。
そこに刻み込まれた群青色の線は、プロの彫り師が描いたように美しかった。
ファイヤーパターンや、見事な龍。
ただ、その龍がアニメの「シェンロン」だったことだけが、彼がまだただの少年であることを物語っていて、私の胸を締め付けた。
十八歳になり、私はすぐに車の免許を取った。
時折、弟に頼まれて、深夜にスケボーができる港まで彼を送っていくことがあった。
暗い車内。
ポツポツと短い言葉を交わす中で、彼は決まって小さな声でこう呟いた。
「どうせ言ったところで、何も変わらない」
白い肌に痛みを刻み込み、他人の体にも痛みを共有するように絵を描き続けていた彼の、それが唯一のSOSだったのかもしれない。
その頃から、家に弟宛ての電話が時折かかってくるようになった。
「私、〇〇会社の××と申します。弟さんはいらっしゃいますか?」
信じられないほど丁寧な口調だった。いつの間にか電話を繋いでしまう、それが本物の「闇金」の取り立てだった。
当時の彼女の中絶費用として借りた十五万円が、雪だるま式に二百万円に膨れ上がっていたのだ。
そしてある昼下がり。
明るい陽射しが差し込むリビングの食器棚の前で、母が狂乱していた。受話器の向こうにいるのは、暴力団幹部である父だ。
家から消えたヴィトンのバッグと指輪。
その質札が、弟のズボンから出てきたことが引き金だった。
「弟はもういらない! あんたに親権をあげるから、どうしてもあのカバンと指輪だけは取り返して!」
母の絶叫が、私の世界に響き渡る。
「あんたからすれば、たった百万くらいでしょう! それでその子が手に入るんだから、なんとかして!」
百万。
ああ、弟の価値は、ヴィトンのカバンと同等の「たった百万」だったのか。私はぼんやりとそう思った。
その日を境に、百万円で父に売られた弟の苗字は変った。
家から弟の存在だけが家から姿を消した。
深夜の車内で「何も変わらない」と呟いた弟は、十七歳でいなくなった。
私と言えば、この時も何もできない、ただの役立たずだった。
基本
月曜朝、木曜夜の更新予定です。




