第4話 3時間の「洗脳」と、100万円のヴィトンの鞄
しんちゃんとの本格的な同居が始まる前、お互いの家を行き来していた時期のことだ。
母としんちゃんは、かつて父と母が寝ていた部屋を使うようになった。私と弟、そしておばあちゃんは、六畳間で雑魚寝をする日々だ。
しんちゃんは運送業の仕事をしており、母は彼が「ちゃんとした仕事」に就いていることをひどく喜んでいた。
そして、この家には新しい「日課」ができた。
夕食が終わり、母がワイングラスを傾ける。それがスタートの合図だった。
「お母さんの宝物は、あなたたち三人。お金には代えられない宝物よ」
酔っ払った母は、ニコニコと笑いながら必ずそう言った。
しかし、その甘い言葉の後に続くのは、決まって父への異常なまでの憎悪だった。
父がいかに嫌な人間だったか。
私たちに何もしてくれなかったか。
そして何より、「お金を払うくらいなら、子供たちはいらない」と父が言ったこと。
その愚痴は、深夜になろうと三時間ほど続いた。それをひたすら聞き続けることが、この家での私の「仕事」だった。
十一歳の私には、大人たちの事情などわからないことも多かった。
当時の私は、「へぇー」と思うくらいで、心の中では特に何も感じていなかった。当たり前のBGMのように、適当に聞き流していた。
でも、毎日毎日「お父さんはあなたたちをいらないと言った」と聞かされ続ければ、自然とそう思い込むようになる。父には会っていなかったので、本当の姿など知らない。母の言葉が、私の世界のすべてだった。
頭の中に刷り込まれていく母の言葉によって、父への感情は、いつしか「嫌悪」に近いものへと塗り替えられていった。なぜか私の中で父への嫌悪感がどんどん膨らんでいったのだ。
布団の中で見上げた、オレンジ色の小さな豆電球の光を覚えている。
静まり返った家の中、母としんちゃんのいる部屋から、なんとなく嫌な声が漏れ聞こえてくることがあった。
今になればわかる。あれは夜の営みの声だった。
ある日、母が嬉しそうに通帳を私に見せてきた。
「しんちゃんがちゃんと働いてくれるから、百万円貯まったよ」
「お祝いを買いに行こう」
弾んだ声で母が言い、しんちゃん以外の家族みんなでデパートの高島屋へ向かうことになった。
華やかなデパートの中で、母が迷わず向かった先は、高級ブランド『ルイ・ヴィトン』の店舗だった。
母はそこで自分のお気に入りの鞄をじっくりと選び、ちいさなボストンのようなものを購入して、満面の笑みを浮かべていた。
私たち子供へのプレゼントは、何一つない。
それが、百万円の貯金のご褒美だった。
でも、当時の私にとって「自分たちにプレゼントがないこと」はごく普通のことだった。理不尽だとか、悲しいとか、そんな疑問すら抱かなかった。
ただ、嬉しそうにブランド物の鞄を肩にかけ、上機嫌で帰る母の姿を見て、「今日は母が笑っている。いい日だ」とだけ思っていた。
高島屋からの帰り道の記憶は、そこでプツリと途切れている。
次回行進は月曜の朝8時頃予定です。




