第七話 食卓の灯
——そんな経緯で、今に至った。
回想を終える。此処は、いつもの食堂だ。温かい。人の気配に満ちている。木の卓の表面は磨り減って、沢山の傷がついている。吊るされた灯明が揺れるたびに、食堂全体がほのかに明滅する。この場所だけの空気がある。
ヴィレアが食材を差し出していた。干し芋と、香草と、小さな木の実の盛り合わせ。俺の昼食の皿の隣に、いつの間にか整然と並べられている。並べ方はもう完全に型ができていて、根菜が左、乾物が右、香草が手前。数ヶ月前にはなかった光景が、今日もまた繰り返されている。
俺は手を伸ばし、感謝の聖句を唱えた。
「ムンドゥス・ドーノ——」
続けて聖別。
「センプレア・サクラ——」
掌から光が滲み、食材に沈んでいく。何十回、何百回と繰り返してきた日常の動作。もう体が勝手に動く。祈りと聖別は一体になっていて、指先から光が漏れる前に、もう唇は次の聖句を唱え始めている。
聖別が終わる。光が食材の奥に落ち着いた。干し芋の断面が僅かに透明感を増している。香草の色は心なし鮮やかになった。木の実の殻が微かに艶を帯びている。聖別による食材の変化を——前は気にも留めていなかったが、最近は観察するようになった。
ヴィレアが小さく頭を下げて、聖別された食材を受け取った。
一口食べる。静かに咀嚼する。そして——笑った。
ただ食事が美味いという、それだけの笑み。瞳がわずかに細められて、口元がほんの少し緩んでいる。
最初、この人は食堂に来なかった。人前で食事をしなかった。食事という行為自体が、この人にとっては孤独の象徴だった。一人で、樹液と聖水を、誰にも見られないように。ずっとそうだったのだ。
やがて食堂には来るようになった。だがそれは、食材を受け取るためだけの訪問だった。聖別を受けた食材を丁寧に包み直し、自室に持ち帰って、一人で食べていた。人前で咀嚼することは——まだ、できなかったのだ。
今は違う。この場で、皆と同じ卓について、食べている。干し芋を食べ、木の実を噛み、香草の香りを楽しんでいる。匙を使い、皿に手を伸ばし、笑っている。持ち帰るのではなく——ここで食べている。そんな当たり前のことが、この人にとってどれほどの距離を越えてきたことなのか。俺にはわかるようでわからない。想像はできるが、実感には至れない。ただ、目の前の笑みに繕いが無いことだけは、わかる。
俺も無言で匙を伸ばした。いつも通りの、味のよくわからない配給食。聖別はとうに済んでいる——自分で食べるものに聖別をかけるのは、当たり前のことになった。
*
食堂は賑やかだった。
ヴィレアの周りに人が集まっている。かつて遠巻きにされていた聖者様が、今では浄士や浄僧、果ては年若い浄徒にすら囲まれて、何くれと言葉を交わしている。
「聖者様、東区画の結界の張り直しの件、相談してもいいですか」
「もちろん。午後に現地を見に行きましょう」
「薬の配分なんですけど、前線の第三班が浄瘴丸を多めに欲しいと——」
「わかりました。グラーノ殿と在庫を確認して、今日中に手配します」
「あと、訓練場に淀みやすい角があって——」
「それは浄化の聖句で対応しましょうか。カエルム殿のほうがお得意ですから、お願いしてもいいですか?」
振られた。
「……ああ」
困りごとを持ち込む浄士がいれば丁寧に聞き取り、適切な部署にそれとなく話を通すと約束する。若手には一歩踏み込んで具体的な助言を添え、古参の愚痴には静かに耳を傾ける。結界の件、秘薬の件、訓練場の件。次から次へと。修道院の日常の一部に、いつの間にかすっかり溶け込んでいた。
あの頃が嘘のようだ。食堂に一度も来なかった聖者様が、こうして皆と同じ卓で笑っている。
食事を共にできるようになったからだ。
それだけで、こんなにも変わる。食事を共にするということは、同じ空間で、同じ時間を、同じ匂いの中で過ごすということだ。言葉を交わさなくても、隣にいる。飯を食いながら、互いの息遣いを聞いている。それだけで、距離は縮まる。壁は低くなる。人は「食堂にいる人」を仲間だと認識する。来なかった人間は、どれだけ立派でも、遠い存在のままだ。
ヴィレアが先ほどの干し芋と木の実を食べ終えたようだった。香草も綺麗になくなっている。満足げな顔をしていたが、不意に、こちらを向いた。手に見慣れない食材を持っている。
「カエルム殿。もう少し食べたいのですが……せっかくですから、これを」
紫がかった肉厚の葉と、細かい産毛に覆われた小さな実。同じ株から採れたものらしく、葉脈と実の蔓が同じ色をしている。この辺りで採れるものだろうが、見たことがない。
——もっとも、辺境ではそれも珍しくないのだが。瘴気帯に近い土地では、植物も獣も本来あり得ない姿を取ることがある。螺旋を描く枝、不自然に色の変わった葉、角の位置がずれた鹿。瘴気に長く晒された土地の汚染だと言われている。その辺に見たこともない草が生えていたところで、普通は気に留める者はいない。食べようと思うのは、この人くらいだろう。
「……これは何だ」
「新しく手に入った食材です。食べられるか試したくて」
「おい。いきなり試すな。まず——」
手が勝手に動いていた。
俺は自分の皿から、まだ手をつけていなかった干し肉を取って差し出した。こちらは既に聖別済みだ。
「こちらを食べろ。そっちは俺が確認してから聖別する」
ヴィレアは一瞬目を瞬かせた。何か言いかけて、口を閉じた。それから何も言わずに干し肉を受け取り、食べ始めた。
俺は紫の実を手に取り、聖別してみた。が、光の浸透が悪い。少し怪しい。聖別が素材に馴染まない感触があった。
「……馴染まないな。どこで手に入れた? 別の株のものがあれば、取り替えて試してみよう」
「南の巡回路の脇に群生していました。明日、別の株から採ってきます」
「ああ。そうしてくれ」
瘴気帯のすぐ脇に群生している得体の知れない草を「食材」と呼ぶその確信はどこから来るのだろう。食べられるかもしれないものは全て「食材」なのか。いっそ感心する。——最終的にそれを聖別して、この人の口に入れる役目を担っている身としては、こう見えても心配しているのだが。伝わっている気配はない。
「おい、見ろよ。聖者様がまたカエルムに飯をたかっている」
後ろの卓から声が飛んできた。笑い混じりの声だ。
「毎日毎日、よく飽きないもんだ」
「カエルム、お前専属の聖別係かよ」「そうだよ、知らなかったのか?」
「毒見役じゃないか?」
からかいの声が上がる。矛先は俺に向いているが、悪意はない。もうこの食堂では日常の風景として定着している。「聖者様がカエルムに飯をたかっている」。それがこの修道院の合言葉のようになってしまった。からかいの対象はいつも俺であって、聖者様ではない。その線引きは、食堂の全員が暗黙のうちに守っている。
「……毒見役で合っている。否定はしない」
小声で呟いた。実際、さっきやったことはまさにそれだ。得体の知れない食材を預かり、聖別が通るか確かめ、駄目なら別のものを探させる。毒見と呼ばれても、反論の余地がなかった。
*
食堂を出て廊下を歩いていると、声をかけられた。
「カエルム殿」
振り返ると、蒼眼派の修道衣を纏った研究者が立っていた。以前、詰所で「興味深い体質」と言っていた人物だ。手帳を小脇に抱え、彼なりに愛想を良くしようとはしているのか、薄い笑みを浮かべている。
「少しよろしいですか」
「……用か」
「あなたの担当区画の記録を確認していたのですが——瘴気の安定度が、ここ数週間でさらに上がっています。以前から他の浄士の三倍近い数値でしたが、直近の計測では五倍に迫る安定度です」
研究者が手帳を開いた。蝋燭の灯りでは読みにくいが、数字がびっしりと書き込まれている。区画番号、日付、瘴気濃度の変動値。俺の担当区画の数値だけが、明らかに他と異なる傾向を示したらしい。
「……特別なことは何もしていない」
「はい、それはお聞きしました。ですが——聖別品質も規格外です。聖水の持続時間、魔法鞄の安定度、どれを取っても他の浄士の数倍。あなたが聖別した食材は一週間経っても劣化しない。これは通常の聖別では考えられないことです」
研究者の目が光っている。手帳を持つ手に力が入っている。解き明かしたい。その欲求が隠しきれていない。
「何か特別なことをされていますか? 手順が違うとか、唱える聖句に独自の工夫があるとか——」
「していない。丁寧にやっているだけだ」
同じ応えを繰り返した。実際、それ以上の説明はできない。特別なことなど何もしていない。同じ聖句を、同じ手順で、同じように唱えているだけだ。
——だが、「さらに上がっている」という言葉は、少し引っかかった。三倍という数字は前から言われていた。丁寧にやれば差は出る、それで済ませていた。だが急に五倍と言われると、やり方は何も変えていないのに数字だけが伸びているのが解せない。理由を考え始めると、胸の奥のどこかが妖しくざわめいたような気がした。今まで「丁寧にやっているだけ」で済ませていたものが、済まなくなるかもしれない。そんな予感が、微かにあった。
研究者は納得していない顔で、手帳に何かを書き込んでいた。羽筆の先が紙を引っ掻く音が、石造りの廊下に響く。
「……まあ、今日のところは。ですが、もしよろしければ、いずれ簡単な測定に協力いただけませんか。聖別時の出力を数値化するだけですので——」
「必要ない」
「そうですか。実に残念です」
去っていく背中を黙って見送る。蒼眼派の連中はいつもこうだ。数字と観察結果に執着し、理屈で説明できないものに食いつく。それが彼らなりの信念だ。世界の理を解明することが、彼らの修道なのだ。
だから、別に協力してもよい。だが、ヴィレアとの約束は守らねばならない。蒼眼派に嗅ぎつけられるのは好ましくない。次に接触があったら、もう少し注意したほうがいいのだろうか。いや、変に態度を変えれば逆に怪しまれる。今まで通り、素っ気なく答えておけばいい。
その日の夕方、食堂で別の場面を目にした。
蒼眼派の研究者。さっき俺に質問してきたのとは別の一人が、ヴィレアの卓にやってきた。手に抱えているのは木箱だ。中に、淡く光る石が収まっていた。
「聖者様。お時間をいただけますか。計測器の水晶が限界でして。中央のドワーフ工房に送って再精錬を依頼したいのですが、聖者様の名で書簡を出していただきたくて。工房には、できるだけ優先してもらいたいのです」
研究者の声には切実さがあった。蒼眼派の連中は前線組から煙たがられることが多い。「何が『興味深い数値』だ、お前ら自分で槌を振ってみろ」。そういう声は時々聞こえる。だが、瘴気の変動を数値で読めるのは蒼眼派だけだ。前線の浄士は瘴気を肌で感じるが、それは勘であって数字ではない。計器が壊れれば結界のどこが弱っているかもわからなくなる。
ヴィレアは木箱の中の結晶を丁寧に手に取り、指先に宿した光に透かす。煙水晶を僅かにずらして分析する視線。
「確かに、劣化が進んでいますね。次の補給便に合わせて書簡を用意します。精錬の仕様も、まとめてもらえますか」
「ありがとうございます! ——あと、東区画の結界石も、可能でしたら」
「午後に見に行く予定ですから、確認しておきます。あと水晶の件は時間がかかります……普段、クラーラの光には当てていますか?」
「……陽の光ですか? いえ?」研究者が怪訝な顔をしていた。「確かにこれはクラーラの恵みですが、ただ光に当てたところで、何か変わるとは思えませんが」
「確かに、ただ当てるだけでは駄目ですね。なるべく正午きっかりの直射光に晒すようにしてください。長ければいいというものでもありません、正午きっかりです。わずかばかりですが、劣化の進行を遅らせることができます」
研究者が食い下がった。精錬で内部構造は再編されるのだから、原石の刻印など残らないはずだ、と。
「おっしゃる通り、精錬で大部分は均されます。ですが、精錬とはそもそも、原石に宿った正午の刻印を使える形に整え直す工程ではありませんか。整えた後にも芯は残るのではないかと。……もっとも、効果はほんの僅かです。意図的に対照群を置いて長期間観察しなければ、まず気づけない程度の差でしかありませんが」
ヴィレアはそこで一度言葉を切り、木箱に戻した水晶をもう一度見下ろした。
「……ところで、この水晶に限らず、計測器や結界石の状態を一度まとめて確認したほうがよいかもしれません。これまで薬や聖水といった消耗品の補充にばかり目を向けていましたが、設備そのものの劣化を見落としていたのでは、足元を掬われます」
研究者の目が輝いた。
「——願ってもないお言葉です。計測器の整備は以前から要望を出していたのですが、どうしても前線の補給を優先せざるを得ず……」
「前線を優先するのは当然のことです。ですが——私が来てから、物資の流れも変わっています。もっと早く気づくべきだったのは私のほうです。申し訳ありません」
ヴィレアが静かに頭を下げた。研究者が慌てて手を振っている。
「い、いえ、聖者様にそのようなことを——」
「では、設備の一覧と現状をまとめていただけますか。私のほうで整理して、上に掛け合います」
そう言って、話を締め括った。この人にとっては特段大きな話でもないのだろう。だが研究者のほうは、もう完全にこちらの世界に戻って来られない顔をしている。水晶の保守法と設備棚卸しの約束、二つの収穫を抱えて帰ることになった。羽筆が紙を引っ掻く音が再開した。さっきよりも速い。
こういったやり取りが、今の修道院では日常になっている。秘薬の配分、結界の維持、計測器の保守、前線との折衝。ヴィレアがいてこそ回る歯車はいくつもあった。赤誓派も白盾派も蒼眼派も、この人を中心に動くことを学び始めた。赴任当初、聖者様を遠巻きにしていた連中ですら、今では何かあれば真っ先にこの卓に駆け込んでくる。
*
ちなみに数日前、ちょっとした事件があった。食堂では早くも「赤誓派炙り肉事件」と呼ばれている。
昼食時。食堂の入り口に見慣れない浄士が立っていた。赤い修道帯——赤誓派の印だ。日焼けした顔に、分厚い掌。奥地を知る人間の体つきだった。
「聖者様。少々お時間をいただけますか」
ヴィレアが卓から顔を上げた。穏やかな微笑み。
「もちろん。何でしょう」
「うちの派閥に来ませんか」
率直な勧誘だった。赤誓派は前々からヴィレアの結界能力の奥地投入を求めていた。まあ、いつものことだ。ヴィレアはいつもそつなく躱している。
俺は特に気にせず干し肉を噛んでいた。
——が、空気が変わった。
赤誓派の浄士が、卓の上に包みを置いた。大きい籠だ。布が被せられているが、獣脂の甘い匂いが漂ってきた。
布を取り去ると——中から現れたのは、分厚い炙り肉だった。
辺境では見ることのない、上質な肉。脂の乗った赤身に、こんがりと焦げ目がつき、切り口はほんのりと紅い。前線の荒っぽい料理とは明らかに違う、上品に仕上げられた一皿だった。配給食の干し肉とは比べるのもおこがましい品だ。
「副院長の手土産です。今回の大遠征が終わった際に持ち込んだものでして」
赤誓派の浄士が、まるで自分のお手柄のように得意げに言った。
「帰還の度に、私費を投じて上等な肉や酒を差し入れてくれるんです。部隊の士気を限界まで引き上げるためにと。今回は特に極上の肉が手に入ったということで、聖者様にもぜひ味わっていただきたいと、副院長自ら腕を振るいまして」
ヴィレアの表情がわずかに動いた。
「失礼、副院長というと……」
赤誓派は胸を張って答える。「浄士ルベア・アルデンスです」
先日、赤誓派の浄士から聞いた名前だ。あの結界運用の話し合いの折に「副院長が戻ったら具体的な話をしたい」と言っていた——その副院長が、戻ってきたのか。
「アルデンス嬢……いえ失礼、アルデンス殿が戻られたとは……」
ヴィレアの声に、珍しく動揺の色が混じった。もっとも、この辺境の修道院で凱旋式のような華々しい式典が催されるはずもない。前線から帰還した浄士は静かに門をくぐり、静かに荷を解き、静かに配給食の列に並ぶ。副院長であっても、それは同じだ。ヴィレアが帰還に気づかなかったのも無理はなかった。何しろ副院長の存在を知ったこと自体が今この瞬間なのだ。知らない人間の帰還に気づけるはずがない。
「聖者様、副院長とお知り合いで?」
赤誓派の浄士が目を丸くした。ヴィレアは小さく頷いた。
「以前、双橋派の席をお借りして中央に滞在していた頃に、何度かお会いしたことがあります。……副院長になられていたとは、存じませんでした」
最後のほうで、わずかに声が揺れた。驚きだろうか。
「ああ、それは無理もありません」赤誓派の浄士が頷いた。「副院長はここ半年以上、大規模遠征で辺境の奥地に出ずっぱりでしたから。修道院にほとんど戻ってきていなかったんです。聖者様がお見えになった頃には、とうに前線の向こう側ですよ」
なるほど、と俺は納得した。ヴィレアが白盾派に招聘されてこの修道院に着任したのは数ヶ月前のことだ。副院長がそれ以前から辺境奥地の長期遠征に出ていたのなら、二人が修道院で顔を合わせる機会はなかったことになる。副院長という要職にありながらヴィレアがその存在を知らなかったのも、仕方ない話だった。——まあ、俺自身も人のことは言えない。むしろ俺は反省するべきかもしれない。
副院長が炙り肉を送り込んでくる真の狙いは火を見るより明らかである。赤誓派はヴィレアの奥地投入を渇望している。外交や理屈で籠絡するのは不可能だと悟ったのだろう。だから胃袋に来た。『美味い飯』という、今のヴィレアにとって一番効く急所を、的確に突いてきたのだ。
「副院長の聖句の腕が確かなのは、いくらでも奥地に留まれることからお分かりになると思います。そしてこれは、副院長自ら聖別を施した炙り肉です。是非とも、お試しいただけますか」
その一言に、ヴィレアの体がわずかに反応した。
視線が炙り肉に吸い寄せられている。目が——泳いでいる。明らかに。いつもの表情は確実に崩れかけている。口元がかすかに動いた。戦場で結界が揺れても動じなかった人間が——炙り肉の前で動揺している。
ヴィレアは取り繕おうと一度目を閉じた。だが、再び開いた目は、真っ直ぐに炙り肉を見ていた。俺以外の聖別で食べられるものがあるかもしれない——その好奇心がありありと見て取れる。
「……折角ですので、頂きましょう」
声は落ち着いていたが、手を伸ばす速度が普段と違った。ヴィレアが一口食べた。
咀嚼する。飲み込む。一瞬、動きが止まった。
——そして、顔が変わった。
驚愕。困惑。そして——歓喜に近い何か。
食べられたのだ。
俺の聖別以外で、ヴィレアが普通に食事を摂れたのは——初めてのことだった。
「……これは」
ヴィレアの声が弾んでいた。抑えようとしているが、隠しきれていない。帽子の縁から覗く耳の先が赤い。突き匙を握る手に力が入り、穏やかな聖者の顔はどこへやら、目が炙り肉に釘付けだ。
「赤誓派の前線は、食事が充実しておりますよ」
赤誓派の浄士がたたみかけた。間が完璧だ。計算された勧誘だった。
「副院長が帰還のたびに食材を持ち帰ってきます。前線組は良い肉にありつけるんです。うちに来れば、こういう食事がもっと——」
ヴィレアが身を乗り出しかけた。
俺は静止した。
「待て」
声が出ていた。自分でも驚くほど素早く。
「聖者様。落ち着いて」
「落ち着いています」
落ち着け、と俺は念じた。だが無駄だった。目が炙り肉から離れていない。正気を失いかけている。
——ふと、あの夜のことが脳裏をよぎった。調合室で酔い潰れたヴィレアが、盛大に鬱憤を吐き出した時の。あの罵声が食堂で再現されたら——想像するだけで肝が冷えた。共通語であれば修道院の品位が終わる。神聖語に切り替えられたらもっとまずい。聖句と同じ旋律で冒涜的な言葉を並べる技を、この人は持っている。そして食の話になれば外聞など歯牙にもかけないだろう、という確信もある。これ以上止めるのは得策ではない。
「カエルム殿。私は落ち着いています。ただ——赤誓派の前線の食事事情について、もう少し詳しくお聞きしたいだけです」
「……飯で派閥を変えるのか」
我ながら情けない言葉が出た。だが、ヴィレアの反応を見る限り、冗談ではなく本気で迷っている。——そうなるのも、わかる。わかるが。
食堂が静まり返った。周囲の浄士たちの視線が炙り肉に集まった。干し肉をかじりかけたまま固まっている者がいる。煮物の匙を止めた者がいる。食堂の空気が、一枚の肉に吸い寄せられていた。
そして騒然とする。笑い声がどこからか上がった。
「おいおい、どうするカエルム。炙り肉に負けそうだぞ」
「謀反だ! 赤誓派の食の奇襲だ!」
「白盾派の切り札は干し肉と根菜だからな……まあ、勝てないよな……」
「待てカエルム、お前も何か出せ! 聖別で対抗するんだよ!」
浄士たちが囃し立てている。もはや食堂全体の見世物になっていた。赤誓派と白盾派の派閥対立が、聖者様の胃袋を巡る争いにすり替わっている。
すったもんだの末——ヴィレアは現状の維持を選択した。
正確には、ヴィレアがすっと袖の下から結界石を取り出して赤誓派の浄士に握らせたので、相手は炙り肉の皿を残した。よって、ヴィレアは白盾派の体面を保ちつつ、大いに肉を堪能した。外交的解決というやつだった。
「やっぱりカエルム殿の聖別のほうが、慣れていますからね」
理由がそれか。
「つまり、飯の問題か」
「飯の問題です」
ヴィレアは真面目な顔をして答えた。
赤誓派の浄士は苦笑して帰っていった。「次も上等な肉を持ってきますよ」と捨て台詞を残して。赤誓派のやつらも、悔しいというより面白がっている風だった。派閥は違えど、共に戦う仲間だ。炙り肉の一枚が、場の空気を柔らかくしていた。
俺は卓に肘をつき、深く息を吐いた。
「……結局、飯か」
ヴィレアは何も言わず、残りの炙り肉を幸せそうに頬張っていた。注意深く目を凝らせば、瞳が周囲の光を映している——炙り肉の上で揺れる灯明の光が、瞳の中でちらちらと踊っていた。
*
夕暮れが来た。
修道院の鐘楼から、鎮魂の鐘音がした。低く、重く、辺境区全体に染み渡るように。一度鳴り、二度鳴り、余韻が長い尾を引いて消えていく。その振動は石壁を伝い、地面を伝い、骨の奥まで届く。鐘の音は毎日聞こえるのに、毎日違う響きがある。今日は少し近い。前線が押されているのかもしれない。
鎮魂の回廊をゆっくりと通り抜けた。百歩ほどの長さの冷たい石の廊下。その両側の壁面にびっしりと刻まれた戦死者たちの名前が、沈みゆく血のような陽に照らされて浮かび上がっていた。視線を這わせれば、知っている名前がいくつもある。共に配給食をすすり、肩を並べて前線に立った仲間たち。俺の盾の隣で魔物に引き裂かれ、もうこの空の下にはいない人たち。
壁のとある場所で、足が止まった。二年前に刻まれた名前——その名前を見れば、あの人を思い出す。俺が初めて前線に出て、瘴気の壁に潰されて膝が折れかけたとき、無言で肩を叩いてくれた古参の先輩。巨体で寡黙で、口を開けば説教くさいことしか言わない男だった。食堂では俺の隣に座ることが多かった。会話はほとんどなかった。干し肉を黙って齧り、雑炊を黙ってすすり、黙って先に席を立つ。ただの日常だった。その日常が終わったのは、ある防衛戦の日だった。いつもと同じように干し肉を齧り、いつもと同じように席を立ち——その背中が門の向こうに消えて、それきりだった。翌日の食堂で、空いた隣の席を見た。あの一瞬が、俺にとって食堂の意味を永遠に変えた。
その名前の上にも下にも、知っている名前が並んでいる。辺境に赴任してからのこの四年の間に、一体何人の同僚の名前がこの冷たい石肌に刻まれたのか。正確な数を数えたことはないし、これからも数えたくはない。
去年の冬の入り口、闇月が巡ってきた時、この回廊で『偲びの灯の祭』を執り行った。回廊の端から端まで小さな灯明が隙間なく並べられ、普段はいがみ合っている派閥の者たちも、あの日ばかりは静かに寄り添い、全ての死者に向けて「——センパクス・ヴァレ、穏やかに世界の腕へ還れ」と、送別の聖句を唱和した。死者の恐怖や未練が瘴気に絡め取られて朽鎧兵となるのを拒み、残された魂の波長が穏やかに『世界』という大きな織物へ溶け込んでいくようにと祈る、魔物として果てた者「以外」の全ての死者のための、哀悼の祈りだった。
この回廊を通るたびに、壁から滲み出すような名前の波の重みが、直接骨に圧しかかってくるように感じる。名前は回廊の入り口左側の壁から始まって、歴史を辿るように奥へ進み、折り返して右側の壁に向かって年代順に並んでいる。古い名前の溝には土が詰まり苔がむし始めているが、最近の名前は鑿の跡が鋭く、内側の石の生々しい白さがそのまま残っている。そして——名前と名前の間隔は、年を追うごとに明らかに狭くなっている。
俺は新しく刻まれた石の白さを指でなぞることはしなかった。ただ、足音を殺して通り過ぎた。
中庭から辺境の空を見上げた。星はまだ見えない。地平線の際に瘴気の帯が低く横たわっている。あの向こうが前線だ。明日はあそこに行く。
世界は緩やかに、だが確実に壊れていっている。結界の要石は弱まり、瘴気の濃度は年々上がり、俺たちの前衛線は少しずつ後退を余儀なくされている。この修道院が守れるのは、せいぜいがこの見渡せる範囲だけだ。
別の辺境にも、同じように瘴気と向き合っている拠点がある。顔も知らない戦士たちが、きっと同じように結界を張り直し、同じように配給食を口に運び、同じように鎮魂の鐘を聞いている。副院長のように、私費を投じてまで仲間の士気を繋ぎ止めようとする者が——きっと、どこかにいる。そう信じなければ、この前線を支え続ける意味がわからなくなる。
問題は何一つ解決していない。ヴィレアの体質が治ったわけではない。俺の聖別がなぜ通るのかも、依然としてわからない。蒼眼派の連中は数値を追い続けているし、赤誓派はヴィレアの助力を諦めていない。結界の維持は日ごとに厳しくなっている。
あの石壁に刻まれた名前の列。年を追うごとに狭くなっていく間隔。俺の名前が、いつかあそこに刻まれる日が来る。それは覚悟の上だ。辺境に来た時から、わかっていた。
だが——俺が死んだら、ヴィレアはどうなる。
考えたくはなかった。だが、鎮魂の回廊を通った後では、考えずにはいられなかった。俺の聖別がなぜ通るのか、理由はわからない。わからないが、今のところ、あの人が普通に食事を摂れるのは俺の聖別と、副院長の聖別だけだ。俺がいなくなれば——あの人は赤誓派に近づくのか、また、樹液と聖水だけの食事に戻るのか。人前で食べられなくなるのか。食堂に来なくなるのか。やっと手に入れた「皆と同じ卓で食べる」という、ただそれだけの日常が、また消えるのか。
十八年かけて閉じた殻を、数ヶ月かけてようやく開け始めたのに——また独りに戻る。そう想像しただけで、うっすらとした焦りを覚える。
だが——食堂の窓から灯りが漏れていた。
歩み寄って覗くと、ヴィレアが席に着いていた。聖水を前にして、丁寧に感謝の聖句を唱えている。椀は無い。匙も無い。聖別された食事がなくても、あの人はここに来ている。祈りを終えて顔を上げたヴィレアに、誰かが話しかけている。笑い声が上がったようだった。隣の席の浄士が何か冗談を言って、ヴィレアが小さく肩を揺らしている。
——ああ、そうか。
あの人は、自分の力でここに辿り着いたのだ。
食べられるものがなくても。聖水の一杯と、人の声と、隣の席の温もり。俺の聖別がなくても、ヴィレアはもうこの場所にいる理由を見つけている。
食堂には他の浄士たちもいて、いつもの喧騒がある。笑い声と、食器の音と、愚痴と、冗談。泥だらけの修道服と、擦り切れた手袋と、干し肉の匂い。前線帰りの浄士が配給食の皿を持って席についている。隣の席の若手は、きっと今日の戦闘の話をしている。奥の卓で赤誓派が白盾派と何かの配分について揉めている。いつもの光景だ。
あの人は今、あの喧騒の中にいる。
数ヶ月前まで、食堂に一度も来なかった人間が。人前で食事をすることができなかった人間が。一人で樹液と聖水を摂っていた人間が。
灯りの中で座っている。
世界は滅びに向かっている。鎮魂の鐘は日ごとに近く聞こえる。名前は壁に刻まれ続ける。
けれども——食卓には、まだ灯がある。
だから、俺はこの灯を消すわけにはいかない。
あの人がせっかく見つけたこの席を、空にしてはならない。明日も、前線に立って、帰ってこなければならない。この食堂に。この卓に。あの人が笑って飯を食っている、この場所に。
*
俺は中庭から食堂に戻った。扉を開けると、温かい空気と食事の匂いが包んでくる。飯を取り、匙を二つ取り、自分の席に着き、祈って、干し肉と根菜の煮物を手に取る。聖別は済んでいる。
ヴィレアが顔を上げてこちらを見た。何も言わない。俺も何も言わない。
ただ、手に取った椀と匙を渡してやる。ヴィレアは嬉しそうに受け取る。「今日もだな!」と誰かが笑う。
そして、飯を食う。
しばらくして、ふと——ヴィレアが、匙を置いた。食堂の喧騒に紛れるような小声で、何かを呟いた。
「……世界に聖別された人が、二人。こんな辺境の果てに、同じ屋根の下に。これを奇跡と呼ばずに何と呼ぶのだろう」
独り言だった。俺に聞かせたつもりはなさそうだった。だが、食堂の騒音の切れ間に、その声だけが妙にはっきり耳に届いた。
「世界に聖別された」——何のことだ。聖別するのは浄士だ。世界が聖別するとは、どういう意味だ。二人、とは誰のことだろう。
以前の俺なら、聞き流していただろう。踏み込んで、わからない応えが返ってきて、それで今の日常が壊れるのが怖かった。
だが——鎮魂の回廊で、あの名前の列を見た後では。この食卓の灯を守ると、そう決めた後では。
「ヴィレア」
匙を置いて、隣を見た。食堂の喧騒が遠い。
「さっきの……『世界に聖別された人』……それは——どういう意味だ」
ヴィレアの手が、椀の縁の上で止まった。わずかに目を見開いて、こちらを見る。聞こえていたのか、という驚きと、聞いてくれたのか、という——ほんの一瞬だけ見えた、安堵のような色。
ヴィレアは長い睫毛を伏せ、少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「それは——」
——匙を握る掌が、微かに温かかった。
終
お読み頂きありがとうございました。
いちおう世界は多分、悪役令嬢とかが救うかもしれないです。今度こそコメディをば。




