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終わる世界と、聖者の食卓 〜この世で一番戒律の厳しい修道院なのに聖者が飯をたかってくる〜  作者: 藍津改


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第六話 紅色の小瓶

瘴気帯の空気は、泥を吸い込んでいるような重さだった。


黄昏辺境区の外縁部。修道院から丸二日の行程にある前線の最奥だ。ここまで来ると空の色が変わる。くすんだ紫ではなく、暗褐色。太陽の光が禄に届かず、昼間でも薄暗い。足元の土は黒く爛れ、草の一本も生えない死地だ。聞けば赤誓派の橋頭堡は更に奥地にあるというから恐れ入る。


朝、修道院を発つ前にヴィレアが浄瘴丸と翠治膏の包みを配布していた。浄士一人あたり三日分と、身体との相性を確かめるための試供品。包みの表面に一つずつ聖句が刻んである。丁寧な仕事だと思った。薬の備蓄は兵站の要だ。前線で戦う者がいなければ意味がないが、薬がなければ前線で戦えない。


俺は鉄槌を握り直し、前方の闇を睨む。瘴気が濃すぎて、十歩先すら霞んでいる。盾を構えた左手に力を込めた。腕の古傷が微かに疼いている。瘴気が濃い日は、過去の傷が反応する。蓄積された体の記憶だ。


遠征三日目。管轄区域の外縁部で魔物の大量発生が報告され、浄士の部隊が駆り出されていた。白盾派の前線組を中心に、赤誓派の遊撃隊も合流している。ヴィレアも珍しく作戦に参加しており、後方で広域結界の維持と薬の配布を担当していた。


周囲の浄士たちの息遣いが荒い。瘴気を吸い続ければ体力は削れる。それでも結界の内側にいるからこそ、この程度で済んでいる。鉄槌を握る手に汗が滲む。乾いた空気のはずなのに、瘴気が肌にまとわりつく湿度だけはある。


「——来るぞ!」


若手の叫び声と同時に、瘴気の壁を突き破って魔物が飛び出してきた。残映獣。古参は「ほどけの影」と呼ぶ。辺境で最も一般的な魔物だ。瘴気が人の形を取ったような姿。顔はない。あるべき場所に赤く濁った光が灯っているだけだ。かつて鎧だったものの残骸を纏い、かつて剣だったものの影を振るう。動くたびに瘴気の残滓が尾を引いている。


「——セニス・ノーマ」


斃撃(へいげき)の聖句を唱えながら、鉄槌を振り下ろした。聖句の力を乗せた一撃が、魔物の頭蓋を砕く。返り血が腕に散った。温度は無い。構っている暇はない。次が来る。


横から二体目が飛びかかってきた。こちらは小型の残映獣だが、動きが速い。斥候のような低い姿勢での突進。盾で受け流す。衝撃が腕を伝って肩に走る。体勢を崩したところに、鉄槌を叩き込む。聖句は乗せない。物理で十分だ。


三体目は足元から。地面の割れ目から這い出てきた、半ば崩れかけた残映だった。形がほとんど残っていない。人の輪郭を保てなくなっている。瘴気が薄く引き伸ばされたような、輪郭のぼやけた塊。踏みつけて、振り上げた鉄槌で砕く。


四体目、五体目——。間を置かずに来る。だが今度は様子が違った。朽鎧兵(くがいへい)だ。残映獣の特異な亜種で、多数の戦死者が出た古戦場の跡地などで集団発生する。かつての防衛部隊が残した朽ちた鉄鎧を纏い、欠けた長剣や折れた槍を構えた兵士の姿。一体ではなく七、八体が、横一列に整然と並んでにじり寄ってくる。陣形だ。個としての意志を持たないはずの魔物が、まるで生前に叩き込まれた隊列行動の記憶を瘴気の底から引きずり出しているかのように、歩調を揃えて攻撃してくる。


「瘴気帯で魔物に殺された者は、魂を縛られて魔物の一部になる」辺境の浄士の間で古くから囁かれる言い伝えだ。蒼眼派の学士たちは迷信だと一蹴する。瘴気が武具の形や死者の想念を模倣しているだけだと。論理としてはそうなのだろう。だが、見慣れた教団支給の錆びた鎧が、かつての僚友たちと同じ足運びで殺意を向けてくるのを前にして、それと割り切れる者は少ない。つい数日前に仲間を失ったばかりの若い浄士たちにとっては、直視に耐えない悪夢だった。


考えている場合ではない。呼吸を整える暇がない。盾で弾き、返す鎚頭で打つ。盾で弾き、踏み込んで打つ。体捌きは体に染みついている。前線四年の型だ。考えるより先に体が動く。足場を確認し、間合いを測り、打点を定める。その繰り返し。朽鎧兵の隊列を正面から崩す。先頭を得物で叩き潰し、左右の連携を断ち切る。崩れた隊列はただの残映だ。一体ずつ片付ける。


「浄士カエルム、右です!」


仲間の声。振り向きざまに——大型の残映獣が来ていた。他の残映獣より一回り大きく、瘴気を凝縮した巨体は肩の高さが俺の胸ほどもある。崩れた兜の影が頭部を覆い、かつて戦旗だったものの切れ端が腕に巻きついている。将だったのかもしれない。腐臭が鼻を突く。

斃撃の聖句では通せない。


「——セニス・ヴァリダ!」


猛撃の聖句。全身の力を込めた渾身の一撃。朝凪が唸りを上げて、大型の魔物の胴体に叩き込まれた。骨の砕ける感触が柄を通じて伝わる。魔物の体がくの字に折れ、地面に叩きつけられた。鉄槌を突き立てる。動かなくなるまで、押さえつけた。


息が荒い。汗が目に染みる。だが、戦場に立って四年。体は動く。まだ動ける。けれども、打撃の余波で手が震え武器を取り落とした。


一息ついた隙に、傍にいた若手の浄士が朝凪を拾おうとした。戦闘の合間に武器を渡そうとしてくれたのだ。


「浄士カエルム、鉄槌を——」


若手の手が柄を握り、持ち上げようとして、止まった。


「……重っ……」


渾身の力で引き上げようとしているが、地面から数寸も持ち上がらない。両手で構え直し、腰を入れて、それでも駄目だった。顔が赤くなっている。


「何だこれ……たかが鉄槌一本で……浄士カエルム、これを片手で振ってるんですか」


「ああ、それはいい。自分で持つ」


朝凪を拾い上げた。いつもの重さだ。ずっと使い続けてきた。使い慣れた道具は手に馴染む。それだけのことだ。


若手が唖然とした顔でこちらを見ていた。信じられないものを見た、という目だ。そんな顔をしなくたって、生き延びてさえいれば、お前の錫杖だってじきに誰にも持てないほど重くなる。


後方から結界の脈動が伝わってくる。ヴィレアが護りの聖句で広域結界を維持している。以前ならば五人は必要だった働きを一人でこなしている。結界の波動は心音のように規則正しく、その律動の中にいる限り、瘴気の侵食は抑えられる。事前に調合された薬が前線の浄士たちに配布されている。翠治膏を塗った浄士の傷が塞がり、浄瘴丸を服用した者の灰色だった顔に血の気が戻っていく。


結界と薬。その二つが前線の生命線だ。どちらが欠けても、部隊は持たない。


不意に——前衛で連続して瘴気に晒されすぎた若手が、突然糸が切れたように泥の上に膝をついた。瞳の焦点が完全に合わなくなり、虚空を彷徨っている。瘴気中毒の急性症状だ。斃した敵からほどけた瘴気が意識の防壁を突破し、脳の奥深くまで浸食し始めている。放っておけば数分で意識を完全に奪われ、最悪の場合は心臓の鼓動すら瘴気の冷気に凍りつかされて止まる——。


「——センルクス・エヴィジラ」


ヴィレアの言葉は、後方の陣から瘴気の粘り気を切り裂くように鋭く響いた。覚醒のそれ。原語の字義通りなら『光で満たし、目覚めさせよ』という意味を持つその聖句は、距離を無視して、膝をついた若手の耳ではなく、頭の芯に直接叩き込まれた。暗黒の海に突き立てられた一条の銛のように、聖句の力が若手の内側に侵入した瘴気を強制的に弾き飛ばす。若手は大きく息を吸い込み、弾かれたように瞳に正気を取り戻した。激しく咳き込み、がくりと頭を振って残った昏い妄念を振り払うと、泥だらけの鉄杖を握り直してなんとか立ち上がった。


ヴィレアは広域結界の要として後方支援に徹してはいるが——その俯瞰的な視野と、一瞬の澱みもない聖句の投射技術が、前線部隊の生存率を当初の想定以上に確実に引き上げている。どんなに深い瘴気の中でも、あの声が届くという絶対の保証。彼が維持する結界が揺れない限り、俺たちは一切の背後の憂いなく、ただ眼前の敵を砕くためだけに前に出られる。本当の意味で背中を預けられる存在だった。


結界が揺れた。


強力な魔物の接近。地面が震えるほどの足音。瘴気が渦を巻いて、視界が真っ黒になりかけた。


ヴィレアが傲然と声を張った。


「——全員後退! 結界のなるたけ内側に!」


穏やかで丁寧な声しか聞いたことがなかった浄士たちが、一瞬呆気に取られる。彼は指揮権を持たない。だがその声には有無を言わさぬ撤退指示の重みがあった。経験の厚みが言葉に乗っていた。


後退する浄士たちの列を、俺は盾で守りながら下がった。


——その時だった。


結界線の際で、濃密な瘴気の渦の中から獣型の残映獣が三体、弾かれたように同時に飛び出した。これまで相手にしていたものよりも大型で、素早い。狙われたのは、後退行動のさなかにあった若い浄士たちの、完全に無防備な側面だ。俺の位置からでは盾が絶対に間に合わない致死の距離。


その絶望的な間合いに、ヴィレアが動いた。


安全な後方にいたはずの聖者様が、無音の歩法——あれは銀路派の奥義に違いない——で瞬時に距離を詰め、杖を振るった。一体目を横薙ぎで粉砕し、返す杖で二体目の頭部を突き貫く。三体目の足元を杖の根元で払い、倒れたところを叩き潰した。


わずか二呼吸ほどか。振り向いた浄士たちが言葉を失った。一切の躊躇なく魔物を叩き潰している。幾多の死線をくぐり抜けてきた人間の体捌きだった。何かしら身体強化の魔法を施しているのだろう。前線の浄士ですら目を見張る程の膂力だ。


だが魔物の残滓が消え去る次の瞬間にはもう、ヴィレアは滑らかに杖を元の位置に収め、乱れた呼吸を一つ整えるだけで、何事もなかったかのように広域結界の維持作業に戻っていった。その横顔には、戦闘の高揚も焦りも浮かんでいない。いつもの、凪いだ水面のような静謐な表情のままだった。


ふと——ヴィレアの髪が目に入った。前線では帽子を外すようになったあの髪。きつく編み込んだ三つ編みが、杖を振るった動作の余韻で揺れている。戦闘が始まった頃は藍色が濃かったが、今は白銀の割合が増している。毛先から半ばまで白が広がっている。結界の維持と覚醒の聖句と杖術——同時にこなしているのだ。消耗が進んでいる。


まだ持つ。だが、長くはない。


俺は振り返り、突進してくる大型を正面から盾で受け止めた。腕に衝撃が走り、足が地面に数寸めり込んだ。盾の表面で聖句が弾け、火花が散った。


「——セニス・ヴァリダ!」


結界の内側から鉄槌を叩き込む。猛撃の聖句が乗った一撃が、魔物の顎を打ち砕いた。顎がひしゃげ、牙が宙を舞う。倒れた魔物の上から、さらにもう一撃。確実に斃す。半端に残すな。


戦闘が収まった。


俺は鉄槌の澱を拭い、膝をついた。息が整うまで待ってから、立ち上がる。


「レクイエス・センス、汝は世界に帰る——」


鎮魂の聖句を唱える。散らばった魔物の骸に、最後の祈りを。倒した命への敬意は、浄士の務めだ。鎮魂を捧げることで、魔物の骸から散逸する瘴気が穏やかに世界へと還る。鎮魂なしでも自然に回復するが、祈りを捧げることで回復が安定し、残骸から新たな魔物が生まれる危険を下げる。斃撃が「戦い」の聖句なら、鎮魂は「修道の完結」の聖句だ。残映獣も朽鎧兵も、かつては瘴気に侵される前のこの世界の一部だった。朽鎧兵の錆びた鎧の下に、かつて生きた誰かの記憶があるのかは——俺にはわからない。わからないが、祈る。それが浄士の務めだから。


それから、戦場の後始末にかかった。


「センティア・ファクト——」


浄化の聖句で残留瘴気を浄化する。土壌に染み込んだ黒い澱を、一区画ずつ清めていく。地道な作業だ。派手さはないが、これをやらなければ次にここを通る部隊が危険に晒される。黒い土が少しずつ褐色を取り戻していく。何区画か清め終わる頃には、日が傾き始めていた。


    *


戦闘後のことだった。


野営地で、俺は肩の裂傷の手当てを受けていた。大型の魔物の爪が、盾の防御の隙間を抜けて肩甲骨の辺りを裂いたのだ。深くはないが、瘴気に晒された傷は放置すると悪化する。傷口が黒ずみ始めており、瘴気が傷から体内に侵入しかけている。黒い筋が傷口の周囲に広がっていた。


ヴィレアが傍に来て、翠治膏の壺を開けた。緑がかった膏薬の匂いが鼻に届く。


「手当てをさせてください」


「ああ」


上衣をめくり、背中を向けた。ヴィレアの指が傷口に触れ、膏薬を塗り始めた。


瞬間——俺の体が激しく反応した。


熱い。


皮膚の内側が焼けるような発熱。胃の底から吐き気がこみ上げてくる。視界が白く飛んだ。耳鳴りが頭蓋の中で反響し、膝の力が抜ける。


「——っ」


思わず前のめりに崩れた。地面に手をつく。指が土を掴む。体の奥から、得体の知れない何かが膏薬を拒んでいる。発熱。嘔吐の前兆。翠治膏を塗った箇所を中心に、皮膚が赤く腫れ上がり、膏薬を押し出すように水疱が浮かび始めていた。


ヴィレアが手を止めた。即座に清潔な布で膏薬を拭い取り、傷口を確認している。手の動きに迷いがない。細かな変化を見るには邪魔な丸眼鏡を外すと、俺の顔を覗き込んできて瞳孔を確認する。


「カエルム殿。樹液に拒絶反応をお持ちですか?」


「いや……これまでに翠治膏は使ったことがあるが、そんなことはなかった。何だ、これは」


翠治膏は薬効を持つ木の樹液を基材とする薬だ。ヴィレアが作るものが特殊であるとはいえ、一般的なものはこれまで戦場で何度か使用してきた。

これほどまでに薬が潤沢に使える状況ではなかったから、回数はそこまで多くなかったけれども。


「なるほど。ならば原因はシグナヴィルガの樹液、と」


ヴィレアの動きに迷いがなかった。拭い取った膏薬の反応を指先で確認し、一瞬だけ目を閉じた。考えている。迅速に、冷静に。判断を下すまでの間が短い。


野営天幕の薄暗い灯りの下で、聖者の表情が切り替わるのが見えた。


腰の革袋に手を伸ばし、奥から別の小瓶を取り出した。薄い琥珀がかった桃色の液体が入っている。革袋の奥に隠すように収められていたもので、通常の秘薬とは明らかに保管の仕方が違った。小瓶の蓋を開けると、かすかに甘い香りが漂う。


「こちらを」


俺の傷口に、その液体を数滴垂らした。


冷たい。最初は冷たかった。それが傷口に染み込むと、痛みが引いていく。発熱が嘘のように収まった。視界が元に戻る。耳鳴りが消える。傷口の赤い腫れが引き、水疱が平らになり、代わりに健康的な肉色が戻ってくる。傷口自体も塞がり始めていた。


「これは、何だ?」


「……事後承諾になって申し訳ありませんが、これは樹液の代わりに私の血液を使用した……血代秘薬とでも言いましょうか。シグナヴィルガは親木である神託樹の強い力を持つ。その薬は、いわばその聖性を叩きむようなものなのです」


ヴィレアの声は冷静だったが、その視線は俺の傷口を注視していた。薬の浸透具合を確認しているのだ。指先で傷口の周囲の皮膚を軽く押し、腫れの引き具合を見ている。馴れた手つきだった。


「ところが……元から聖性の高い人間には、ごく稀に拒絶反応が出ることがあるんですよ」


そこで、ヴィレアはじろりと俺を見遣った。「……あなた、事前に試さなかったでしょう。普段とは成分が異なるからこその試供品だったというのに」


「……面目ない。薬を入手する機会は少ないからな、つい惜しんだ」


「この様子だと、他にも同じような方がいらっしゃいそうですね……まぁ、あなたの聖別の精度が高いことも、関係しているのかもしれません。私の血は、いわばその樹液が人間に順応したもの。効果は数段落ちますが、あなたの体質には、こちらのほうが合うようです」


ヴィレアはさらにもう一本、今度は薄い紅色の軟膏が入った小瓶も取り出し、俺の手に握らせた。こちらは先ほどのものとわずかに色味が違う。


「予備です。万一のときに。血液が原料とは気味が悪いでしょうが、命には代えられないでしょう。翠治膏の代わりにこちらを使ってください」


俺は小瓶を見つめた。


沈黙が落ちた。天幕の布が風に揺れ、外の篝火が忙しない影を伸ばす。


「カエルム殿」


低い声だった。静かだが、石のように硬い声。


「このことは、誰にも言わないでください」


普段の穏やかさも、泥酔したときの砕けた笑顔も、そこにはなかった。これまで見たことのない真剣な厳しさがある。


「あなたの体質のことも、この秘薬のことも。大切なことです」


「……わかった」


俺はそれだけ答えた。


ヴィレアの厳しい表情が緩み、いつもの顔に戻った。しかし、一度見てしまった冷厳な顔は、もう忘れられない。


何を知っていて、何を隠しているのか、俺にはわからない。ただ、この人が秘密を抱えていること、俺に秘密があること、秘密を守ることが俺の務めに加わったこと。それを理解した。


紅色の小瓶を腰の袋にしまった。重さは無い。だが、中身の重みは別だった。


その夜、野営地の見張りに立った。篝火の向こうで、ヴィレアが結界の微調整をしている。杖を地面に突き立て、かすかに聖句を唱えている声が風に乗って聞こえる。結界の波動が一瞬強まり、瘴気が押し戻される。夜の瘴気帯は昼間より濃い。結界が弱まれば、寝ている浄士たちが瘴気に侵される。それを防ぐために、ヴィレアは夜通し結界を維持している。


腰の袋に触れた。紅色の小瓶がある。


どうして彼はこんなものを作製したのだろう。だが何なのかは聞かない。聞く必要もない。効いた。それで十分だ。


    *


遠征から帰還して、日常が戻った。修道院の門をくぐったとき、正門の結界が体を包んだ。帰ってきた、という実感はいつもこの瞬間に来る。外の瘴気帯と隔てられた空気。石壁の冷たさ。通路の先から漂う薄い香の匂い。


食堂で、ヴィレアが皿を持ってきた。


「カエルム殿。これを聖別して返してください」


皿の上には——手の込んだ料理が載っていた。薄切りの根菜を何層にも重ねて焼いたものに、木の実を潰して作ったソースがかけてある。ソースの上に香草の葉が散らしてあった。根菜の焦げ目が均一で、焼き加減が絶妙だ。辺境の配給食材でここまでのものを作れるのか。配給食の残りを使ったものだろうが、見た目は食堂の他のどの皿よりも美しかった。


「……どこでこんな調理を」


「本で読みました」


「……辺境にそんな本があるのか」


「昔の話ですよ」


「そうか」


俺は皿に手をかざし、聖別を施した。光が指先から食材に沈んでいく。浸透がいい。素材の質が良いのだろう——あるいは、調理した本人の手が良いのか。


聖別した皿を返す。ヴィレアが一切れ口に運び、静かに咀嚼した。目が細くなった。


「うまくできました」


器用なものだ。


    *


赤誓派の浄士が食堂に来た日があった。


「聖者様。結界能力の最前線投入を検討いただきたい」


赤い修道帯を締めた、日焼けした浄士だ。赤誓派は奥地で前線の押し上げを担う攻撃部隊で、白盾派とは方針が異なる。白盾派は防衛と維持、赤誓派は突破と奪還。両者は往々にしてぶつかるが、共に瘴気と戦っていることに変わりはない。


白盾派の浄僧が即座に守りに入る。


「聖者様の結界は修道院全体の防衛の要だ。奥地に出せば手薄になる。修道院の結界が崩壊したら全てが終わる」


「このまま前線が後退すれば修道院もない。赤誓派に結界石を一つ融通してもらえれば——」


「修道院には子供も老人もいる。結界が薄くなれば夜間の瘴気侵食が——」


「このまま魔物が迫ってくれば、いくら結界があったところで防げはしない! 魔物を遠ざけることが最も効果的なのだ!」


議論が白熱していく。食堂の他の浄士たちが、飯を食いながら聞き耳を立てている。派閥間の摩擦は珍しいことではない。方針が違うだけで、どちらも間違ってはいない。積極的に前線を修道院から遠ざけるのが重要なのは事実だ。修道院の結界が薄くなれば後方も危険になるのも事実だ。正解が一つではない問題を、限られた人手で解決しなければならない——それが辺境だ。


ヴィレアが穏やかに口を開いた。


「お気持ちはわかります。奥地の状況は私も認識しています。直近の遠征でも瘴気の濃度が増しているのは実感しました」


一拍置いてから——


「結界の運用については、白盾派と赤誓派の双方が納得できる形を考えましょう。具体的には——修道院の結界の監視を正式に交代制とし、私が前線に出るのを現在の不定期から原則、週に二日設けるように変える。その間の修道院は副結界で補強する。交代要員は私が赴任する前に結界を担当していた者たちとする。再配置に伴う人の調整にはみなさまのお力が必要ですが、これなら前線の増強と後方の安全を安定して両立できます。二日あれば、早馬で奥地の結界まで手が届きます」


柔らかいが、有無を言わさない言葉だった。具体的な数字を出し、双方の利害を踏まえた提案だ。赤誓派の浄士も、白盾派の浄僧も、それ以上追及しなかった。


……うまい。一言で場を収めた上に、建設的な提案にまで持っていった。


巡礼と外交で培った交渉術だろう。俺には逆立ちしてもできない。鉄槌で何かを解決するのは得意だが、人と人の間に立つのは苦手だ。


赤誓派の浄士が食堂を出ていく時、俺の横を通りがかった。


「カエルム殿」


無言で視線を向けた。


「聖者殿の提案、悪くないと思いました。仮に月に一回でも、奥地を視察してもらえるだけで、俺たちは助かる。……あんたのお陰で、こうやって話ができる」


何が言いたいのかわからなかったが、悪意はなさそうだった。


「副院長が戻ったら、もっと具体的な話をしたいと思います。あの人も聖者様のことは気にかけているので」


「……副院長というのは」


赤誓派の浄士が一瞬驚いた顔をした。だが、すぐに合点したように頷く。


「浄士ルベア・アルデンスです。ご存じなかったですか。まあ、赤誓派の繰り上がりですからね。上層部が壊滅してからまだ一年も経っていません。他派閥の方が興味を持たなくても無理はないですが」


赤誓派上層部の壊滅。それは前線で断片的に耳にしたことがある。大規模遠征中の壊滅的損害。中央の公爵家から冤罪で送り込まれた令嬢が、結果的に指揮を引き継いだ。帰還のたびに私費で上等な飯を差し入れるという疑わしい噂。どれも深くは追わなかった。俺には関係のない話だと思っていた。


だが今は少し事情が違う。聖者の食事に関わっている以上、修道院の人事くらいは把握しておくべきだったのかもしれない。


「……覚えておく。すまなかった」


「いやいや、気にしないでください。今は奥地に出ずっぱりですが、帰ったらきっと挨拶に来るでしょう」


「……その時はよろしく頼む」


相手は少し驚いたように目を丸くし、それから笑って去っていった。


    *


別の遠征。


本来は一日で戻る予定の小遠征とも呼べないほどの視察だった。赤誓派に要請された奥地寄りの結界拠点の補強。だが、帰路の途中で瘴気帯から大規模な魔物の群れが押し寄せ、動けなくなった。群れが散るのを待つ間、ヴィレアが広域結界を張って野営地を確保し、その場で持ちこたえるしかなかった。修道院の結界は別の者が維持しているはずだが、だからといってヴィレアが抜けてよいわけがない。向こうも帰還しないヴィレアに気が気ではないだろうから、少しでも早く帰還したい。


結局、都合五日間前線を張り続けることになった。誰もが泥と瘴気にまみれている。革鎧は黒ずみ、手袋は擦り切れ、聖水の備蓄は底をつきかけている。


野営天幕での状況確認。帰路の瘴気濃度、魔物の群れの動向、薬と聖水の残量報告。蝋燭の灯りだけが照らす暗い天幕の中で、疲弊した顔が並んでいた。


赤誓派の遊撃班長が偵察結果を報告する。


「帰路方面の瘴気濃度は依然として高いまま。群れの密度もほとんど変わっていません。今朝方、東寄りの間道を試しましたが、昨日よりむしろ魔物の数が増えています。聖水の備蓄も残り二日分を切りました」


「修道院へ戻る別の道は」


白盾派の指揮官が険しい顔で問う。だが全員がわかっている。この瘴気帯で安全な迂回路など存在しない。正面の群れが散るのを待つか、消耗を覚悟で突っ切るか——その二択しかなく、どちらにしても博打だ。五日目の疲労が、判断そのものを鈍らせている。


ヴィレアの消耗は昼夜を問わない広域結界の維持で極まっていた。顔色が悪い。目の下の隈が濃い。当たり前だ、この五日間、彼はまとまった睡眠を取れないままでいる。帽子を外した髪は——ほぼ白銀に変わっていた。きつく編んでいたはずの三つ編みが、連日の戦闘でほつれかけ、毛先が肩に掛かっている。色の移ろいなどなく、今は根元のわずかな藍を残して、ほとんどが白銀だ。魔力の限界が一目でわかる。


彼が座っているのは、野営用の粗末な丸太椅子ではない。床に置かれた嫩枝杖が自律的に根を張り、背もたれと肘掛けを備えた木椅子へと変形して、倒れそうな彼の身体を背後からしっかりと支え込んでいるのだ。卓越しに座っている浄士たちも、ヴィレアの白銀の髪と、主を庇うように形を変えた異様な椅子の姿を見て表情を引き締めていた。結界の核がこの状態だということは——全員が理解している。


もう限界なのだろう。ヴィレアが外聞を気にする余裕もなく樹液を摂取し始めた。作戦会議の最中に。椅子へと姿を変えている嫩枝杖から、ひときわ長い一本の枝が彼の顔の横までするすると伸びてきており、その枝の先端から滲む透明な液体を、彼が舌先で受け取っているのだ。表情は変えない。報告を聞きながら、淡々と。限界の身体を杖と樹液で無理やり動かしている。


卓の向かいで赤誓派の浄士たちが凝視した。


目が合った赤誓派の若手が、隣の先輩浄士に小声で何か囁いている。先輩格は無言で首を横に振った。聞くな、という意味だろう。あるいは——聞いても答えられない、か。


だが——若手の視線が、主を支える異形な椅子から、ヴィレアの髪に移った。静かな驚きが、別の種類の沈黙に変わるのが見えた。異能の杖が自ら椅子になって主を休ませ、枝を伸ばして樹液を飲ませている異様さではなく、それほどまでに杖が庇わねばならないほど、彼の消耗が致死の淵にあるということに気づいたのだ。


誰も何も言わなかった。前線で共に戦っている以上、この髪が何を意味するかは——派閥が違っても、わかる。


俺は黙って自分の聖水——聖別済みの——を、ヴィレアの前に差し出した。聖水の小瓶を卓の上に滑らせる。音を立てないように。作戦会議の妨げにならないように。


ヴィレアがわずかに顔を上げた。口元に伸びていた杖の枝が、自らするりと短く縮んで元の背もたれの一部に戻っていく。ヴィレアは聖水の小瓶を受け取った。手がわずかに震えていた。消耗のせいだろう。


「……ありがとうございます」


静かな声だった。疲弊の底の底から絞り出すような、だが確かに温かい声。小瓶を両手で包むように持って、一口飲んだ。それからもう一口。


何も言わなかった。言う必要がなかった。


ヴィレアが聖水を口にした。俺は卓の略図に目を戻した。


それだけのことだ。


作戦会議が終わった後、天幕の外に出た。


夜の瘴気帯は黒い。空も地面も、区別がつかないほど暗い。星は見えない。瘴気が空を覆っているからだ。


修道院の中庭から見上げれば、たまには星座が見えることもあるのだが。それすらも最近は「狩人座の弓弦の星が薄くなった」と古参の浄僧が不吉なことを言っているほどではあるけれども。


瘴気帯の中では、どこを見ても壊れかけの光景が広がっている。


振り返ると、天幕の中でヴィレアがまだ卓に広げた区域図を見つめているのが見えた。手元の聖水の小瓶は空になっている。俺が渡したものだ。


明日もここで耐える。明後日も。帰れるまで、ずっと。


腰の袋に、紅色の小瓶が入っている。翠治膏の代わりに使えと言われたもの。次に怪我をしたら、これを使う。ヴィレアとの約束だ。


約束——というほど大袈裟なものでもない。「わかった」と一言答えただけだ。だが、一言でも約束は約束だ。

悪役令嬢ルベアは辺境で魔物をぶっ斃し隊・赤誓派の最先鋒を務めています。

赤誓派が奥地も奥地まで食い込んでるのは、この人のとんでもチートの産物。

あと多分きっと悪役令嬢を嵌めようとした聖女は、この最々最前線でこき使われている。

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