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終わる世界と、聖者の食卓 〜この世で一番戒律の厳しい修道院なのに聖者が飯をたかってくる〜  作者: 藍津改


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第五話 拾い食いの聖者

聖別依頼が正式化されてから、俺の日常は微妙に変わった。


いや、正確に言えば「変わった」のではなく「増えた」のだ。聖水を作り、武器を磨き、前線に出る。それに加えて、ヴィレアの食事を聖別する、という業務が一つ。


上官から正式な辞令が来た。「特別聖別業務」書類上はそういう名前だ。聖者様の食事の聖別を専任で担当する。それ自体は務めの一つだと思えばいい。対象が聖水から食材に変わっただけだ。丁寧にやること自体に変わりはない。


最初は大したことはないだろうと思っていた。


甘かった。


    *


朝一番、正式な依頼書が届いた。上官と聖者様の署名つき。紙の質がいい。辺境の配給紙ではなく、中央から持ち込まれた羊皮紙だ。文面は几帳面な筆跡で書かれている。文字の一つ一つが丁寧に形作られていて、筆圧が均一だ。書き慣れている人間の字だった。


「本日分の食材。聖別を依頼いたします」


品目:干し肉(塩漬け)、根菜(品種不問)、香草、木の実。


品目の横に、控えめな書き添えがある。「根菜は蕪が望ましいですが、入手困難であれば代替で構いません」。細かい。ヴィレアは事務仕事も几帳面らしい。


俺は依頼書を確認し、食材の前に手をかざした。「ムンドゥス・ドーノ——」感謝の聖句。「センプレア・サクラ——」聖別の聖句。淡々と、丁寧に。聖水を作るのと何ら変わらない日常動作だ。


聖別された食材は、微かに色が澄む。干し肉の表面にうっすらと光沢が戻り、根菜の断面が瑞々しくなる。香草の葉に張りが戻る。聖別の質によってヴィレアの「食べられるもの」と「食べられないもの」が分かれるのだとすれば、俺の責任は重い。


正式な依頼書は翌日も届いた。そのまた翌日も。毎朝決まった時間に、同じ書式で。品目は日によって微妙に変わるが、几帳面な筆跡は変わらない。


三日目あたりで、俺は「この依頼書を毎日書いているのか」と思い至った。ヴィレアの手で、丁寧な筆跡で。一日も欠かさず。明日の食材リストを前夜に書き起こし、翌朝には白盾派の事務を通して俺の手元に届くようにしている。


……律儀な人だ。そろそろ羊皮紙の無駄遣いだと指摘したほうが良いだろう。


    *


四日目の昼。食堂の席に座って配給食に手を伸ばした瞬間、隣に人がいた。


ヴィレアが無言で座っていた。いつから居たのか全くわからない。風が自然と止んだように、彼がそこにいることに気づかなかった。


卓の上に食材が並べられている。干し芋、乾燥果実、干し肉の切れ端。俺の配給食の皿の隣に、整然と。根菜が左、乾物が右。


「聖別をお願いしてもよいですか」


「……座る前に声をかけろ」


「すみません」


謝罪は丁寧だったが、まったく反省していないことが翌日にわかった。翌日も翌々日も同じことが起きた。ヴィレアは無言で隣に座り、食材を並べ、俺が気づくのを待っている。


五日目。また隣にいた。俺は座った瞬間に気づいた。少しは進歩したと思いたい。あの香りで察した。


「……今日は気づけたな」


「はい。すみません」


「いつから居たんだ」


「あなたが食堂に入ってきた時からです」


つまりずっと座っていたのか。食堂の端の卓で、誰にも気づかれずに。前線から帰還した赤誓派の浄士たちが鎧を鳴らしながら武勇伝を喚き、配給係が飯を叩きつけ、兵站係の怒声が響く。そんな辺境特有の殺伐とした喧騒の中心で、この人だけが幻のように静かに座っていたのだ。


気配を消すのは意図的ではないらしい。あるいは、銀路派の長い巡礼の旅の中で、不要な厄介事を避けるために身につけた習性なのか。

それとも単にそういう存在の薄さというか、周囲の空気に溶け込む体質なのか。だから、かつて忘れ去られてしまったのか。


六日目にようやく、これが彼なりの定型化された行動だと気づいた。正式な書類を通じた依頼は朝一番。俺の配給食の時間に合わせた待ち伏せは昼。そして夕方、哨戒の任務を終えた後にもう一回、長屋の宿舎の近くの曲がり角で不意に声をかけられることもある。彼なりに、俺の業務の邪魔にならない隙間時間を計算して使い分けているらしい。こうして一日三回、聖者様の個人的な食材の聖別が、俺の殺伐とした前線の日常に奇妙な形で組み込まれつつあった。


同僚の浄士たちが、この光景に慣れ始めたのは七日目からだった。「今日も来てるぞ」「聖者様の専属だな、お前」からかいの言葉だが、悪意はない。食堂で聖者様が一介の浄士の隣に座るという光景は、最初こそ奇異の目で見られたが、日を追うごとに「こうなっているもの」として受け入れられていった。食堂の日常に、聖者様が少しだけ混ざり始めている。


もっとも、ヴィレアは食堂そのもので食事をするわけではない。食材を並べ、聖別を受け、自室に持ち帰る。人前で食べることはまだ避けている。だが、食堂に来るようになっただけでも、進歩だと、俺は思った。


    *


二週間を過ぎた頃から、ヴィレアは見慣れない食材を持ってくるようになった。


「カエルム殿。この食材は食べられると思いますか」


持ってきたのは、見慣れない紫色の根菜だった。辺境の土壌に自生する野草らしい。葉がついたままで、土も落としていない。どこで見つけたのか。いや、聞くまでもないか。結界石の作業の合間に、中庭の隅を探り歩いていたのだろう。聖者様が土まみれの根菜を携えて食堂に現れる。なかなかの珍事だ。


「……知らん。聖別してみるか」


俺が聖別を施す。「センプレア・サクラ——」光が浸透していく。色が変わる。悪くない反応だ。


ヴィレアが手を伸ばしてくる。がっつきすぎだ、土は落としてくれと注意すると、ばつが悪そうに手巾で拭って一口食べる。


数秒の沈黙。ヴィレアが口の中で咀嚼しながら、何かを確かめるように首を傾げている。全身で味わっている。舌の上で、喉で、胃の中で。一口一口に全神経を集中させている。


「……大丈夫です」


安堵の声。笑みが浮かんだ。「食べられるもの」が一つ増えた喜びが、声に滲んでいた。


次の食材が差し出される。


「こちらは?」


緑色の干した葉。聖別する。一口。


「……これも大丈夫です」


声が弾んでいた。次の食材にすぐ手を伸ばす。


翌日は河原で見つけたという小さな淡水魚の干物を持ってきた。死骸を拾ってきたとも言う。指先ほどの小さな魚だ。干からびているが、死んでから日が浅いのか形がしっかり残っている。聖別すると鱗に微かな光沢が戻った。ヴィレアが恐る恐る口に含み——目を閉じて、ゆっくりと咀嚼する。


「あ、これは——良いです。魚は久しぶりに……」


煙水晶越しでもわかるほどに目が輝いていた。食べられるものが一つずつ増えていく。その事実だけで、この人の表情は変わる。頓着せずに拾い食いができるところに、旅の空の下にあることの多い銀路派であったことを思い出した。


またある日は、薬草園の隅に生えていたという茸を持ってきた。傘が小さく、石畳の隙間から生えていたらしい。これにはさすがに俺も眉を寄せた。


「……これは聖別の前に、厨房の誰かに調べてもらったほうがいいのでは」


「大丈夫です。杖が反応しませんでしたから、毒はないはずです」


杖の反応で判断するのは、どうなのだろう。だが反論する材料もない。聖別した。ヴィレアが一口食べて——少し考え込んだ後、「食べられますが、味はありません」と真顔で報告した。食べられるだけでいいのか。それでいいらしい。


次の日はまた別の食材を持ってきた。今度は——瘴気に長く晒された干し肉だった。倉庫の奥に忘れられていた備蓄品だ。変色が進み、表面が黒ずんでいる。


俺は聖別を施した。だが、食材の色がどこか濁っている。聖別の光が浸透しきれなかった。瘴気が深く染み込んでいるのだ。光が食材の表面で跳ね返されるような手応えがあった。中まで届いていない。


ヴィレアが一口食べて——すぐに顔をしかめた。


「……駄目です。これは——」


ヴィレアは残念そうに食材を片付けた。動作は丁寧だ。失敗した食材を包み直し、革袋に戻す。捨てるのではない。後で別の用途に回すのかもしれない。あるいは、瘴気の浸透度合いを記録するのか。いずれにせよ、無駄にはしない。そういう姿勢が体に染みついている。


「……次のを試そう」


俺は別の食材を手に取った。


実験は続いた。新しい食材が見つかる度に、帳面に記録している。「聖別後:摂取可。食感は良好。味は薄い」「聖別後:摂取不可。喉が痺れる。瘴気の残留あり」几帳面な字で、一品一品の結果が書き連ねてあった。成功と失敗の一覧表。十八年分の空白を、一つずつ埋めていく作業。一口ずつ、世界を広げている。


俺にできることは聖別だけだ。一つずつ、丁寧に。


ヴィレアが帳面に書き込みを終え、ふと手を止めた。


「……不思議ですね」


独り言のように呟く。


「何がだ」


「聖別は浄士なら誰でもできます。私も勿論。でも、結果が同じとは限らない。あなたの聖別には——何か、奥の方に通じている感じがあるんです。うまく言えませんが」


返答に困った。俺にはわからないことを言われている。聖別の出来は集中力と体調次第だ、と思っている。それ以上のものがあるのかは知らない。


「……丁寧にやっているだけだ」


「ええ。丁寧だから、なのかもしれません」


ヴィレアはそれ以上何も言わず、帳面を閉じた。だが、最後に呟いた言葉が煙水晶の丸眼鏡の向こうで消える前に——一瞬だけ、何か別のことを考えている顔を見せた。考え込むというよりも、畏れるような。ずっと確かめたかったことを、確かめてしまいそうになって、怖くなったような。


気のせいだろう。


    *


ある朝、自室の前に小さな袋が置いてあった。


麻布の袋で、口を紐で結んである。中身は食材。干した木の実、香草の束、小さな根菜が二つ。添えられた紙切れには、丁寧な筆跡でこう書いてあった。


「聖別お願いします。——V」


「V」の一文字だけで十分に差出人がわかる。修道院でこんなことをする人間は一人しかいない。


俺は袋を開け、食材を並べ、一つずつ聖別した。丁寧に。それから元の袋に戻し、同じ場所に置いておいた。


翌朝、紙切れだけが置かれていた。誰を寄越したのだろうか、全く気づかなかった。


「ありがとうございます。とても美味しかったです。——V」


文字の端が少し跳ねている。嬉しかったのだろう。「美味しかった」の「美」の字だけ、筆圧が強い。


……これは日課になるのか。


なった。毎朝、宿舎の前に袋が置いてある。中身は日替わりだ。紙切れの内容も日替わりだった。「木の実が特に良かったです」「根菜は少し苦みがありましたが食べられました」「今日の香草は初めて試す種類です」「鮭の切り身を干したものです。昨日よりも少し大きいです」毎回、食材の感想が一行添えてある。


日を追うごとに、メモの内容が変わっていった。最初は食材の報告だけだったが、やがて一言が加わるようになった。


「今日の聖別は特に冴えていた気がします」


何がどう冴えているのか、俺にはわからない。味で聖別の出来を判断できるものか? だが、ヴィレアにはわかるらしい。俺が朝から調子が良かった日は「味が澄んでいた」と書いてあり、前線帰りで疲労が溜まっていた日は何も書いてない。


ある日のメモには、こう書いてあった。


「食材を見つけるのが楽しくなっています。——V」


    *


聖別の依頼が日常に溶け込んでいく中で、俺はある光景を目撃した。


中庭の木陰で、ヴィレアが背を預けていた。


そこには大木が根を張っている。辺境の痩せた土壌でよくぞここまで育ったものである。幹が太く逞しい。枝ぶりが立派で、建物の二階の窓に届くほどだ。ヴィレアが来てから、葉の色がいっそう濃くなった気がする。以前はくすんでいたものが、今は濃緑に変わっている。幹に苔が増えた。根元から新しい枝が伸び始めている。


その木陰で、藍色の導師服が休んでいる。帽子は被ったままだが、少しずれて額が見えている。杖を両手で持ち上げ、顔の上に掲げるように構えている。


それ自体は別にいい。聖者様だろうが人間だ。木陰で休むこともあるだろう。広域結界の維持と秘薬精製で疲労が溜まっているはずだ。


問題は、杖を直接舐めている、ということだった。


杖の先端から滲み出してくる樹液を、丁寧に、一滴も無駄にしないように舌先で掬い取っている。杖を少し傾けて液の流れを調整し、唇で受け止め、ゆっくり飲み込む。真剣な表情だ。杖の角度を微妙に変えては流れを確認し、樹液が枝を伝って余計なところに垂れないよう、指先で道を作っている。職人のような精密さだった。


俺は足を止めた。


……兜虫、だろうか。


そう思ってしまった。夏の日の木に張り付いて樹液を舐めている甲虫の姿を、ふと思い出したのだ。


そういえば、中央で修練を積んでいた頃、訓練場の裏手の大木に、夏になると兜虫が群がっていた。太い幹に滲み出す樹液に集まる黒い甲殻。訓練の合間に、それを柵に腰かけてぼんやり眺めていたことがある。あの頃の空は青かった。瘴気を通していない、どこまでも透き通った青空。息を深く吸えば肺の底まで満たされる。食事は補給品ではなく炊事場から出てくる新鮮な飯で、修練仲間は味の良し悪しで一喜一憂していた。その頃は俺もその輪に加わっていた覚えがある。


世界の縁がこんなことになっているとは、あの頃の俺は知りもしなかった。瘴気という言葉は教本の中にしかなく、魔物は叙任試験の一項目として存在しているだけだった。


少し捲れた袖口からちらりと木目のような模様。手首から肘にかけて、木の皮のような模様が見えた。


ちょうどその時、ヴィレアが俺に気づいた。


動きが止まった。


杖を口元につけたまま、ゆっくりと視線だけがこちらに向く。目が合った。数秒の静寂。木の葉が風に揺れる音だけが聞こえる。ちぎられた葉が一枚、石畳の上に落ちた。


それから、ヴィレアは慌てて姿勢を正した。布帽子を直し、丸眼鏡を押し上げ、杖を地に突いて立ち上がる。導師服の裾についた草を払い、襟を正す。一連の動作が忙しない。普段の落ち着いた所作とはかけ離れていて、取り繕おうとすればするほど取り繕えていない。


「……見ましたか」


声が微かに上ずっていた。


「……何がだ」


「あの、杖は毎回きちんと清めていますので。薬も清潔ですから。あと、樹液は新鮮な状態で摂取するのが最も効率的で、時間が経つと成分が劣化しますから直接摂取のほうが——いえ、これは精製の観点からも合理的な方法であって——」


「……聞いていない」


誰もそこは心配していない。


俺はそれ以上何も言わずに離れた。言うべきことが何もないからだ。


立ち去りぎわに、木の根元が目に入った。ヴィレアが座っていた場所の草が、周囲より一段濃い緑をしていた。光の加減だろう。そう思うことにした。


    *


数日後、俺はヴィレアの作業場である精製室を訪ねることになった。用件は魔法鞄の聖別である。


そこはヴィレアの部屋の隣でもあり、彼はここで嫩枝杖の樹液から各種の秘薬を精製していた。


翠治膏、傷口を塞ぐ膏薬。琥珀露、体力回復の薬液。浄瘴丸、瘴気の毒を中和する丸薬。これまでは中央からの補給に頼るしかなかった薬類が、自家精製できるようになった。前線の生存率に直接影響する変化だ。「樹液の聖者」という異名が付いたのも道理だ。


ヴィレアは静かに精製作業を続けていた。嫩枝杖から樹液をゆっくりと抽出し、蒸留器具で精製し、調合している。蒸留器の管から滴る液体が、ぽたり、ぽたりと受け皿に落ちる規則的な音が響いている。


調合を終えていた数日分の薬が、卓の上に整然と並んでいた。瘴気帯へ持ち出すための魔法鞄に格納する準備だ。内部の空間拡張を固定する鞄の聖別。それが今日の俺の役目だった。


「カエルム殿、こちらの鞄をお願いできますか。新しいので、まだ聖別が施されていません」


「ああ」


俺は鞄に手をかざし、聖別の聖句を唱えた。光が染み込み、鞄の内部空間が安定していく。空間の揺らぎが収まり、物資を安全に収容できる状態に固定される。


ヴィレアが首を傾げた。精製作業の手を完全に止めて、鞄を凝視していた。


「……今、少し広がりませんでしたか」


「何がだ」


「鞄の容量です。聖別の前後で、空間が広がった気が——」


「……気のせいだろう」


ヴィレアはしばらく鞄を眺めていたが、やがて「そうですか」と呟いて作業に戻った。何かを考えているようだったが、それ以上は何も言わなかった。


ヴィレアが聖別済みの鞄に薬を一つずつ慎重に格納していく最中、精製室の入口に人影が立った。


金穂派の浄僧、グラーノ・メッサ。修道院の兵站を取り仕切る堅実な男だ。小柄だが頑丈な体躯で、帳簿を小脇に抱えている。いつも帳簿を持っている。食堂でも持っている。港から帰還した直後でさえ、泥を拭う前に不在中の帳簿を確認するくらいだ。


「カエルム、ちょうどよかった。頼みがある」


ちょうどよかったとは言うが、ヴィレアの近くに俺がいると踏んでいたのだろう。最近はそういうことが多いからな。グラーノは帳簿を開きながら、入室はせずに足を止めた。聖者様の作業場に無遠慮に踏み込むほど無神経ではない。


「備蓄の干し肉と塩漬け魚を、長期保存用に聖別してほしい。今日中に」


「急ぎか」


「補給船が遅れる。穀物は切り詰めて五日分、根菜はもう底が見えている」


帳簿の数字を指先で叩きながら、淡々と。だが、この男が自ら足を運んで頼みに来る時点で、事態の深刻さが窺える。普段なら伝令を一本寄越すだけで済ませる男だ。


「倉庫に残っている分を全部回す。お前が聖別したものは保ちが段違いだからな。数字で出ている」


数字で出ている、というのがこの男らしい。感情でも義理でもなく、廃棄率で人を評価する。


「……わかった。この後でいいか」


「助かる」


グラーノは短く頷いて帳簿を閉じる。用件が済めば長居しないのも、この男らしい。


グラーノの足音が廊下に消えた後、ヴィレアが鞄に最後の薬瓶を格納しながら口を開いた。


「カエルム殿。倉庫に向かう前に、一つだけお願いしてもよいですか」


卓の端に、小さな麻袋が置いてあった。中身は見慣れた食材。干し芋と香草の束。今日の分の聖別依頼だ。いつの間に用意していたのか。


「……先に言え」


「すみません。グラーノ殿の話を遮るのも悪いかと思いまして」


俺は手をかざし、いつも通りに聖別を施した。光が食材に沁み込んでいく。ヴィレアが小さく頷いて麻袋を受け取った。


「ありがとうございます。——備蓄が厳しいのなら、私の分はしばらく無くしましょう。嗜好品のようなものですから」


嗜好品。その言葉に、俺は少し引っかかった。


この数週間、様々な食材を聖別し、ヴィレアはその一つ一つを試してきた。食べられるものの幅は確かに広がった。だが、それと同時にわかったこともある。聖別した食材をどれだけ摂っても、樹液の代わりにはならないのだ。食材だけで過ごした日は明らかに体調を崩していた——帽子の陰で顔色が悪くなり、杖を握る手に力がなくなっていた。特に顕著だったのは魔力の回復だ。結界石への補充が目に見えて遅くなり、精製作業の効率も落ちていた。結局、身体も魔力も維持しているのは嫩枝杖の樹液であり、俺が聖別した干し芋や香草は——味を楽しめるだけで、生きるには足りない。


だからヴィレアは「嗜好品」と言い切った。事実としてはそうなのだろう。だが、ここまであっさりと手放すのか。


「……お前の分は減らさん」


ぶっきらぼうに返すと、ヴィレアは少し驚いたように顔を上げ、それから小さく微笑んだ。


    *


翌日の昼。


食堂で聖別を終えて、いつものように食材を包み直そうとしたヴィレアの手が、止まった。


麻袋の口を結ぶ手が、数秒動かない。何かを考えている。あるいは、何かに抗おうとしている。


「……カエルム殿」


「どうした」


「ここで——食べてもいいですか」


声は穏やかだったが、かすかに震えていた。ヴィレアの指先が麻袋の紐を握ったまま白くなっている。こんな小さなことを言い出すのに、これほどの覚悟が要るのか。


「好きにしろ。お前の飯だ」


ヴィレアは一瞬黙り、それから——麻袋ではなく、聖別したばかりの干し芋を手に取った。


ゆっくりと口に運ぶ。噛む。飲み込む。


人前で食事をする。ただそれだけのことに、この人がどれだけ長い時間を必要としたのか。


周囲の浄士は誰も気づいていなかった。食堂のいつもの喧騒に紛れて、その瞬間は静かに過ぎた。だが俺は見ていた。ヴィレアの口元がわずかに綻んだのを。食堂の、この卓の上で、初めて物を食べた瞬間の顔を。


何も言わなかった。言う必要はない。


ただ、自分の皿の干し肉に手を伸ばした。いつもの味だ。いつもの食堂だ。隣に一人、食べる人が増えた。それだけのことだった。

■星文字

星座を構成する星同士を線で結ぶと、ある種の幾何学パターンが浮かび上がる。

初期の学者たちはこのパターンを文字の基礎とした。

星文字の各文字は、元となった星座の一部または星の配置を様式化したもの。


■大星座(7種)

・神託樹座(8星)— 天頂から地平線に伸びる縦長の星の連なり。「世界の中心に立つ聖なる樹」と伝わる最も古い星座

・鍛冶座(6星)— 金槌と炉の形。「最初の鍛冶師が蒼い炎を灯した夜」の伝承を持つ

・銀翼座(8星)— 四枚翼を広げた姿。「星を渡る翼」と呼ばれ、天翼人が最も神聖視する星座

・双月座(7星)— 二つの弧が寄り添う形。「兄弟月の誓い」の伝承を持つ

・狩人座(6星)— 弓を引く人影。「最初に魔物を斃した者」の伝承を持つ

・航路座(6星)— 内海を結ぶ曲線。「星の導きで帰港した船乗り」の伝承を持つ

・揺籃座(7星)— 籠のような丸い形。「生命が最初に目覚めた揺りかご」の伝承を持つ


■小星座(5種)

・守人座(4星)— 盾を構えた人影。「狩人の傍らに立つ守り手」と伝わる

・灯影座(3星)— 灯火が揺れる影。「消えずの灯影」と呼ばれ、死者を送る夜に仰ぎ見る星座

・宴座(5星)— 杯を掲げた手。「最初の祝宴の夜」の伝承を持つ

・天冠座(6星)— 天の頂に載った冠の円環。「天頂に置かれた見えざる王の冠」と伝わる

・星詠座(6星)— 空を見上げる目の形。「夜空を詠む者の目」と呼ばれ、蒼眼派の紋章の着想源とされる

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