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終わる世界と、聖者の食卓 〜この世で一番戒律の厳しい修道院なのに聖者が飯をたかってくる〜  作者: 藍津改


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第四話 これが、私の食事です

なんか記憶にない内に投稿していたので再投稿

葡萄酒事件の翌朝は、気まずかった。


朝の聖水作りを終えて食堂に向かう途中のことだった。廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから歩いてくる影があった。石畳にもかかわらず足音はしない——いつも通り。


ヴィレアだった。


昨夜の醜態が嘘のような、完璧に整った聖者の佇まい。藍色の導師服には酒の染みひとつなく、背筋はまっすぐで、一分の隙もない。あの調合室の床で酒を喇叭飲みして鼾をかいていたのと同一人物とは思えなかった。ずいぶんと酒をかっ食らっていたと記憶していたが、気分を悪くしている様子もないのには、少し驚いた。


ヴィレアは足を止めた。俺も止まった。


数秒の沈黙。廊下には他に人がいなかった。朝日が窓から差し込んで、石の壁に長い影を作っている。埃が光の帯の中でゆっくりと漂っている。


「……昨夜は、大変失礼をいたしました」


深く頭を下げられた。声は穏やかで丁寧——つまり、「聖者様」のほうの声だった。昨晩の砕けた口調の残滓は、きれいさっぱり見当たらない。仮面が元の位置に収まっている。


「……気にしていない」


「重ねてのお詫びを。あのような醜態を。ご迷惑をおかけしました。自室まで運んでいただいたのも——本当に申し訳なく」


「気にしていない」


俺は繰り返した。実際、気にしていないわけではないが、何を気にすべきかがわからないというのが正直なところだった。聖者様を背中に担いで部屋まで運んだこと自体は、まあ、二度とやりたくはないが、過ぎたことだ。


それよりも——昨夜、この人が見せた反応のほうが頭に残っていた。


十八年。


酔った勢いの言葉だったとしても、あの数字には重みがあった。まともな飲み物を口にできなかった、と。聖水と樹液だけで生きてきた、と。


酒を一口飲んだときの、あの震え。歓喜と安堵と、押さえきれない何かが入り混じった——あれは、嬉しくて泣いている人間の反応だった。長い長い間、諦めていたものが突然手に入った瞬間の。


それから——「借り物の名前」という言葉。酔いの底から浮かび上がった本音。あの透き通った声で、力なく笑いながら。


「……一つ聞いてもいいか」


「はい」


「食堂で飯を食わないか。昨夜のこともある。少し話がしたい」


我ながら唐突な誘いだった。だが、口に出してしまった以上は引っ込められない。なぜこんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。食堂に一度も来ないこの人を、食堂に連れ出したかった——その理由を言語化するのは難しい。


ヴィレアは少し驚いたようだった。丸眼鏡の奥で何かを考えている気配があり——それから、穏やかに微笑んだ。仮面越しの笑みだが、その奥に小さな安堵が混じっていた。


「……ありがとうございます。ですが、食堂は——人の少ない時間帯にしていただけますか」


「わかった」


    *


昼食の時間を外して、午後の遅い時間帯。


食堂にはほとんど人がいなかった。奥隅の卓——壁際の凹みに無理やり卓を押し込んで場所を確保したような最も目立たない席——に座す。中央を眺めれば配給食の残りかすを若い浄徒が片付けていて、窓際で居眠りしている老僧が一人。それだけだ。窓から差し込む西日が、石造りの卓に長い影を落としている。埃が光の帯の中で舞っていた。人気がないと実に静かなものだ。


俺はいつも通りの配給食を盆に載せた。味はいつも通りわからないだろうが、それでいい。


ヴィレアの卓には——何もなかった。


いや、正確には二つだけあった。聖水の小瓶と、嫩枝杖。


俺は向かいの席に着いて、改めてヴィレアの手元を見た。深めの木皿もない。使い込まれた木匙もない。硬い黒パンを置くための粗布もない。食器という概念そのものが、その卓の上からすっぽりと抜け落ちている。


この二つだけが、この人の「食卓」なのか。


ヴィレアは席に着くと、まず静かに両手を胸の前で組んだ。背筋を伸ばし、目を閉じ、深く呼吸を整えてから——


「ムンドゥス・ドーノ——」


感謝の聖句だった。


声は穏やかで、丁寧で、心の底からの祈りだった。食前の祈り。卓の上に並んでいるのが味気ない支給品の聖水と杖の樹液だけだとしても——いや、聖水と杖「しか」ないからこそ、その祈りには痛切なほどの重みがあった。世界の恵みに感謝する聖句を、彼以外の何者にとっても食料たり得ないものの前で、嘘偽りなく真摯に唱えている。この人にとってはこれが、紛れもない世界からの「恵み」なのだ。聖水一瓶と、杖から滲む樹液。それだけが、この過酷な世界で彼が唯一口にできる命の糧なのだ。


祈りを終えると、ヴィレアは嫩枝杖の、先端の二股に分かれた部分——新芽のすぐ下のあたりに、そっと指を添えた。

まるで、生き物の喉元を擽るように。


先端から一滴、樹液が滲み出る。食堂のくすんだ灯火の光を受けて、その雫はやがてが琥珀のように凝縮してきらめいた。それを指の腹で受け止め、唇に運ぶ。


ゆっくりと、ひどく丁寧に。一雫も無駄にしない、まるで究極の贅沢を味わうような所作だ。舌の上で転がすように味わい、静かに飲み込む。目を閉じて咀嚼するような仕草——液体なのに咀嚼するのは、その一滴の中にある命を、余すところなく味わい尽くそうとしているからだろう。たった一滴の樹液を、何十秒もかけて大切に嚥下する。


それから聖水の小瓶を両手で包み込むように手に取り、一口だけ口にする。また目を閉じる。


「……これが、私の食事です」


静かな声だった。自嘲でも卑下でもない。事実を述べているだけの、凪いだ水面のような穏やかな声。長年一人きりの部屋で繰り返してきた孤独な日常を、初めて他人の、それも殆ど初対面の者に晒している——その緊張と、おそらくは小さな覚悟が、声の奥に僅かに滲んでいた。


俺は干し肉を加えたまま、何も言えなかった。口の中の肉の味が、今日は何時にもまして砂を噛んでいるようにしか感じられない。


聖水と樹液。卓の上に食器はない。皿もない。匙もない。


十八年間、たったこれだけで生きてきた、とは。


「人前では普段、食事をしません」


ヴィレアが続けた。視線は卓の上の聖水瓶に落とされている。


「私の食事の仕方は……一般的ではありませんので。見た方が驚かれたり、困惑されたり、憐れまれたりすることが多いのです。それが、相手にとっても、私にとっても、良い結果にはなりませんから」


それで食堂に来なかったのか。赴任して以来一度も。


食堂に来られないのではなく、来ることを自分に禁じていたのだ。自分の食事の光景を見た人間が、気まずい思いをすることを避けて。自分のためではなく、周囲のために。


……そうか。


この人は、俺が思っていたよりもずっと、周りを見ている。自分が異質であることを知っていて、その異質さが他者に与える影響のほうを気にしている。


俺は干し肉を飲み込んだ。味は、いつも通りわからなかった。


「……そうか」


それだけ言った。それ以外に言える言葉を、俺は持ち合わせていなかった。


    *


その日の午後、上官に呼び出された。


上官の執務室は修道院の二階にあった。埃っぽい部屋に革張りの椅子が二脚。掛けろと促される。壁には管轄区域の地図と、戦死者名簿が掛けられている。地図には前線の位置を示す赤い印が打たれ、その赤い印は一年前の地図と比べると明らかに後退している。名簿のほうは増え続けている。紙が足りなくなったのか、追加の羊皮紙が貼り足されていた。


上官は古参の浄士で、前線経験も長い男だ。左頬の古い傷痕が、口を動かすたびに引きつる。堅い表情のまま、俺に着席を促した。


「聖者ヴィレア・シグナトゥスの件で呼んだ。昨日、お前の聖別した酒を飲んだそうだな」


密告されたわけではなかった。ヴィレア自身が上官に報告したのだ。「カエルム殿の聖別した飲食物を摂取できた」と。律儀な人だ。いや、あの真面目そうな佇まいからすれば、報告は当然のことなのだろう。


俺は黙って頷いた。処分を覚悟した。


「経緯を話す」


だが、上官の口から出たのは叱責ではなく、報告だった。


上官は机の上で手を組み、淡々と語り始めた。事務的な口調だが、その言葉の一つ一つに重みがある。


ヴィレアの父は浄士だった。前線の浄士で、魔物との戦いで戦死した。ヴィレアの出生直後のことだ。母は中央貴族の乳母として家を離れており、赤ん坊のヴィレアは父方の親族に預けられた。


だが——親族は生活が苦しく、人数も多かった。加えて、その土地で魔物の発生が相次ぎ、避難や移住の混乱の中で不運が重なり、


「親族は死に絶え、ヴィレア・シグナトゥスの存在は、忘れ去られた」


「……忘れ去られた、というのは」


「文字通りの意味だ。途中までの記録は追えたのだがな」


上官は感情を交えずに続けた。


「誰の悪意でもない、不運が重なっただけだ。襲撃の混乱の最中で赤ん坊が取り残された。誰かが世話をしているだろうと思い込み、実際には誰も世話をしていなかった。あるいは生き延びること期待して隠したのやも知れん。そして誰もが生きては帰れなかった。そういうことは、よく起きる」


椅子の肘掛けを握る手に、無意識に力が入った。


忘れ去られた。赤ん坊が。


前線にいれば、孤児の話は珍しくない。魔物の襲撃で身寄りを失った子供が修道院に引き取られてくることは、年に何度もある。だが「忘れられる」のはそれとは質が違う。探して見つからないのではなく、探す対象から外れてしまうのだ。「いる」という記憶そのものが、全員の頭から抜け落ちる。その記憶を取り戻すことすら許されずに総ては戦火に消えた。


俺はフォルティス家の三男だ。家督を継ぐ見込みはなく、幼い頃から教団入りが決まっていた。華やかな期待をかけられたことはない。だが、食卓に俺の席はあった。叙任式の朝、父は黙って背中を叩いた。修道院に送り出されるとき、長兄が門まで見送ってくれた。当たり前すぎて感謝もしなかった記憶だ。だがその「当たり前」すらない人間が、今この修道院にいる。


上官は一瞬だけ、言葉を切った。机の上で組んだ手の指先が白くなっていた。事務的な報告を続けるつもりだろうが、この男も前線で二十年以上戦ってきた人間だ。部下を何人も見送り、戦場の孤児を何人も引き取ってきた。その男が、事実を淡々と伝えるだけの作業に、一呼吸の間を必要としていた。


数ヶ月の間、忘れられた赤ん坊の命を繋いだのは嫩枝杖だった。


「あの杖には名がある。シグナヴィルガ。神託樹イルシグナから折り取られた、唯一の分け枝だ」


折り取られた枝という割には、引っこ抜いた小ぶりの樹木にしか見えなかったのだが。俺は上司の真剣さを見て軽口を叩くのをやめておいた。


神託樹イルシグナ。それは教義の手解きを受けたものならば知らぬ者はない。教団の最奥、聖盾公国の中枢たる星望湖のほとりに今も蒼々と繁り続ける、と伝承される神から賜った聖樹。伝説や宗教画の題材として描かれ、見習い浄徒でさえ祝詞の中で「大いなるイルシグナの葉陰にて」とその名を唱える、世界の恵みの源。あらゆる聖句の力が拠り所とする絶対の信仰対象——。神話によれば、太古の覚知者たちがその巨木の下に座して瞑想し、ついに世界の本質を悟ったと伝えられている。


その途方もない神託樹から、はるか昔、教団創設よりさらに前の時代に折り取られた唯一の若枝。嫩枝杖の異名は知っていたが、シグナヴィルガという正式名称は初めて聞いた。それがあの装飾一つない、不格好な杖だというのか。


待て。あの夜、調合室で泥酔したヴィレアは「俺の名前は杖の名前だ」と言っていた。だが上官は杖の正式名はシグナヴィルガだと言う。ヴィレアとシグナヴィルガ。杖の名前が二つあるのか。いや、それとも。ヴィレアという響きに、何か別の意味が隠されているのか。酔いのせいで彼が混同していたのか。思考が引っ掛かりを覚えたが、上官の淡々とした報告は少しの淀みもなく続いていた。


「シグナヴィルガは教団の歴史上、長く行方不明とされていた。教団創設の間もなく忽然と姿を消し、以来、杖自身の意思で世界のどこかを放浪していると言い伝えられてきた。その聖遺物が、何百年の時を経て、名も忘れられた赤ん坊の傍に、自ら姿を現したのだ」


杖が、意思を持って自ら動き、見捨てられた赤ん坊を守った。枯れることなく樹液を与え続け、周囲の瘴気を払って生命を維持し、群れなす魔物や野犬の類から結界で守り抜いた。人語を解するわけでもない一本の杖が、独りで人間の赤ん坊を育てた。太古の神秘から滲む清浄な樹液が、母親を失った赤ん坊のための、唯一の乳の代わりになったのだ。


「一歳になる頃、生き延びていることを知った母方の祖父が遠方から探し出し、引き取った。だがその時点で既に、通常の食事を受け付けない体質になっていた。杖……いや、神託樹の力を受けて育った結果だ。体が樹液に適応し、それ以外の食物を拒絶するようになった。聖水でさえも、シグナヴィルガにより聖別されたものしか受け付けなかった」


樹液と聖水しか摂れない。聖水が通るならばと常人が聖別した食事を与えても、体が拒否する。食べようとすれば嘔吐し、飲もうとすれば発熱する。十八年間、一度も。


「お前の聖別した酒を飲めたことは、聖者ヴィレア・シグナトゥスにとって——生まれて初めての出来事だ」


生まれてからずっと。


上官の事務的な語り口は変わらなかったが、そこに刻まれた事実は重かった。俺は椅子に座ったまま、息を吐くことも忘れていた。


遺児。忘れられた赤ん坊。杖に育てられた子。借り物の名前。


「シグナトゥスという姓は、教団がつけたものだ。嫩枝杖シグナヴィルガの養い子、という意味でな」


シグナトゥス。俺はずっと、それは家名だろうと当たり前のように思っていた。しかし——嫩枝杖に守られた者。姓そのものが、あの人の生い立ちを刻んでいたのか。親からもらった名前ではない。教団が、杖との関係からつけた名前だった。


一つずつ、繋がっていく。昨夜の断片が、意味を持ち始める。


「各派を渡り歩いていたのは、どこも彼の力を必要としたからだ。能力は抜きん出ている。だが、いずれにも長居しなかった。請われれば誰にでも手を差し伸べられる御方だからな」


「我々白盾派が聖者ヴィレア・シグナトゥスを要請した理由は二つ。広域結界の核としての力、そして嫩枝杖から精製する秘薬だ」


そこまで聞いて、上官は俺の目をまっすぐに見た。


「カエルム、これは正式な命令だ。聖者ヴィレア・シグナトゥスの食事の聖別を、お前の役目とする」


理由の説明はなかった。なぜ俺の聖別だけが通るのか。上官も知らないのだろう。あるいは、知っていても言う必要がないと判断したのかもしれない。原因不明でも、結果が必要とされている。それだけだ。


「……承知した」


俺はそれだけ答えた。


務めだ。聖別は俺の業務の一つだ。対象が聖水であれ武器であれ食材であれ、丁寧にやること自体に変わりはない。食材が一品増えただけ。そう思うことにした。


    *


食事の聖別が俺の役目に加わったことで、ヴィレアとの接点は否応なく増えた。食材の受け渡しや調合室への出入りを通じて、自然と彼の仕事に帯同する機会が多くなった。薬の調合を手伝うわけではないが、聖別した水や素材を届けに行けば、その場で負傷者の手当てに立ち会うこともある。広域結界の展開時には、護衛の任を受けることも増えた。


それから数日後。


前線帰りの負傷者が運び込まれた。瘴気にやられた若手が二人。意識はあるが、顔色がひどく悪い。瘴気中毒の初期症状だ。肌が灰色がかり、目の下に黒い隈ができている。唇も紫色だ。結界の外で長時間瘴気に晒されると、体内に瘴気が蓄積してこうなる。


俺は宿舎の片隅で、護りの聖句を唱えた。


「ムンドゥス・テネ——」


結界を薄く張り、瘴気の残滓が負傷者に追い打ちをかけないようにする。結界の中の空気が澄んでいく。外の空気との境界が、微かに光って見える。それから、黙って隣に座った。


言葉をかけるのは得意ではない。ただ、護りの聖句の結界の中にいれば、少しは楽になるはずだ。結界の中は空気が軽い。呼吸が楽になる。胸の圧迫感が消える。


負傷者の一人が目を開けた。俺を見て、安心したような顔をした。何も言わなかった。俺も何も言わなかった。それでいい。


しばらくして、ヴィレアが来た。


廊下を歩く足音はやはりほとんど聞こえなかったが、緑がかった膏薬の匂いで察した。小さな壺を持っている。翠治膏。杖の樹液から精製した傷薬だ。


「失礼します」


穏やかな声で断りを入れてから、負傷者の傍に膝をついた。修道服の裾が石の床に広がる。


「センヴィータ・サナ、損なわれしを書物に還せ——」


癒しの聖句を唱えながら、翠治膏を負傷箇所に塗布していく。翠治膏は薬効のある木の樹液を主原料とし、星露草を合わせて精製される秘薬の類だ。星露草はきっと彼の持ち出しだろう。ヴィレア自身が嫩枝杖から調合したものは特に効果が高く、前線の浄士たちが争うように求める。手つきは正確で、迷いがない。傷口の状態を確認し、瘴気の浸透度合いを見極め、膏薬の量を調整する。一連の動作に無駄がなかった。何百人もの負傷者を診てきた経験が、指先に刻まれている。


同時に、ヴィレアは若手に語りかけていた。


「大丈夫ですよ。瘴気は浅い。表層に留まっています。浄化すれば抜けますから。明日には動けますよ」


声は柔らかい。銀路派で巡礼を重ねた人間特有の、人当たりの良さがあった。相手の不安を汲み取り、適確に言葉を選び、安心させる技術。膏薬で傷を癒しながら、言葉で心を癒す。身体と心を同時に治療している。疲労していた負傷者は、安心したのか眠りに落ちた。


俺にはできない芸当だ。


俺は聖句で結界を張り、黙って隣にいることしかできない。言葉で人をなだめるのは、俺の領分ではない。以前、負傷者に声をかけようとしたことがある。「大丈夫か」と言おうとして、声が出なかった。嘘になると思ったからだ。大丈夫かどうかなんてわからない。前線は大丈夫ではない。


だが——それでいいのだろう、と思った。


やり方は違う。だが、目の前の人間を守りたいという気持ちは同じだ。結界を張る者と、膏薬を塗る者。護る者と、癒す者。黙って隣にいることと、言葉をかけること。方法が違うだけで、向いている方向は同じだ。


「カエルム殿」


ヴィレアが作業の手を止めずに声をかけてきた。翠治膏を塗る指先は動き続けている。


「はい?……いや、何だ」


敬語が出てしまった。慌てて戻す。聖者様に対してなら敬語が当たり前だが、「ヴィレアでいい」と言われてしまった以上、いや、あれは酔って言ったことだから有効なのか。よくわからない。


「あなたの聖句も好きですよ」


……何だそれは。


「静かで、安心します。この結界の中にいると、不思議と落ち着くんです」


ヴィレアは負傷者に翠治膏を塗り終えて、立ち上がった。穏やかな笑みを浮かべているのが、煙水晶の向こうでもわかった。帽子の縁が西日に照らされて、柔らかい影を顔に落としている。


「……そうか」


俺はそれだけ答えた。


聖句が好き、と言われたのは初めてだった。「長持ちする」「安定している」と評価されることはある。上官からは「丁寧だ」と言われることもある。だが、「好き」というのは、何だろう。よくわからない。評価とは違う。もっと個人的な言葉だ。


だが、悪い気はしなかった。


ふと、さっきから引っかかっていたことを口にした。


「一つ訊いてもいいか」


「はい」


「あの夜、ヴィレアというのは杖の名前だと言っていたが——杖の名前はシグナヴィルガだと聞いた。どちらが杖の名前なんだ」


ヴィレアの手が一瞬止まった。それから、少しだけ力みがとれたような——苦笑に近い穏やかな笑みを浮かべた。


「確かに、シグナヴィルガが杖の正式名称です。ですがヴィレアは——杖が、何も知らない私に名乗ったもの。神の言葉で『芽吹く命』。まぁシグナヴィルガは人がつけたものですからね、本当の名前があったということです」


声は穏やかだったが、その奥に深いものがあった。杖が赤ん坊に伝えた名前——それは杖自身の名前だったのだ。だが何も知らない赤ん坊は、それを自分の名前だと思った。ヴィレアという名前は、杖のものだ。この人は杖の名前を、自分の名前として生きてきた。「借り物の名前」と呟いていたのは——文字通りの意味だったのか。


「……そうか」


俺はそれだけ答えた。


ふと、もう一つ——到着の日のやり取りが頭を過ぎった。


「船着き場への出迎えを断ったと聞いた。なぜだ」


ヴィレアは少し意外そうな顔をし、それからゆるく首を傾けた。


「補給船はよく遅れますから。天候次第で一日二日は簡単にずれます。出迎えの方々を船着き場にいつまでも待たせてしまうのは、申し訳ないと思いまして」


なるほど。確かに補給船の遅延は日常茶飯事だ。出迎えの隊を瘴気帯の船着き場に張りつかせれば、その間の人員は前線から削られる。辺境の薄い戦力をいたずらに拘束するのは避けたい——という判断か。


慢心ではなかった。気遣いだった。


会話が途切れ、宿舎に再び静かな時間が戻った。負傷者は翠治膏の効果で穏やかな寝息を立て始めている。


ヴィレアが小さく息を吐いた。ここ数日の広域結界の絶え間ない維持に加え、多数の負傷者の手当てが重なり、流石に彼にも疲労が滲んでいるようだった。少し休んだほうがいい、と声を掛けようとした時だった。


彼の手元から離れた嫩枝杖が、ひとりでに動き出した。


俺は我が目を疑った。床に置かれていたはずの装飾もない無骨な木の杖が、まるで生き物のように蠢き、自ら太い根を張るように石畳の隙間に固定される。そこから幹が幾重にも枝分かれし、滑らかに絡み合って——瞬きをするわずかな間に、背もたれと肘掛けのついた立派な木椅子へと形を変えたのだ。


背筋が粟立った。上官の執務室で聞いた報告が脳裏に蘇る。太古の聖遺物が時を経て赤ん坊の傍に現れ、命を繋いだという話。あのときは遠い国の神話のように聞いていた。だが今、この杖は俺の目の前で動いている。養い子が疲れていることを察し、自ら形を変え、倒れる前にその体を支えようとしている。神話ではない。これは今この瞬間に起きている現実だった。


ヴィレアは驚く様子もなく、当たり前のようにその椅子に深く腰掛けた。背中を預けると、椅子の背もたれが彼の体格に合わせて微かに形を調整したように見えた。


「……それが、杖の機能か」


俺が呆然と問うと、ヴィレアは木の肘掛けにそっと指先で触れた。


「機能、というより——気遣い、でしょうか。昔から、私が疲れているとこうして休ませてくれるんです」


ヴィレアは木の背もたれに身を預けながら、思い出すように続けた。


「寒いときなんか、枝をわさっと広げて包んでくれるんですよ。毛布みたいに。だから部屋に毛布が一枚しかなくても全然困らないんです」


……。


あの夜。毛布が一枚しかない部屋を見て、不平も言わずに寒さに耐えているのかと胸を痛め、自分の上着を脱いでかけてやったのは——何だったのか。


毛布は要らなかった。杖が全部やってくれていた。


「あ、でも——あの夜、上着を掛けて下さってましたよね」


ヴィレアは何の衒いもなく口にした。


「温かかったです。ありがとうございました」


……礼を言われるようなことはしていない。杖がいるなら、俺の上着など余計な世話だった。


だが——そうか。毛布は要らなかったのか。


上官が淡々と語っていた報告が、突然生々しい実感を伴って胸の奥で蘇った。『杖が自ら動いて、見捨てられた赤ん坊を守り育てた』——あの時はどこか遠い国の神話やおとぎ話のように聞こえていたその事実が、今文字通り俺の目の前にある。


乳の代わりに樹液を与え、冷たい夜には枝を広げて包み込み、危険が迫れば結界を張ったのだろう。人語を解さない一本の古の聖遺物が、小さな命を繋ぐために自ら形を変え、寄り添い続けた十八年間。彼がこの杖の本来の名前を自分のものとして名乗るのも、しごく当然のことだった。彼にとってこの不格好な木の杖は、唯一の絶対的な保護者であり、揺るぎない家族だったのだ。


俺は目の前の、椅子に姿を変えた杖を改めて見つめた。ただの木切れだと思っていたそれが、今はひどく頼もしく、温かいものに見えた。木肌は節くれだっているが、ヴィレアの背が触れる面だけが滑らかに磨かれている。何千回と体を預けてきた年月の証なのだろう。


    *


それからまた数日が経った。


ある日、前線部隊に合流して結界の再展開を手伝った時のことだ。ヴィレアが広域結界を張り直す作業を後方で行っていた。杖を両手で構え、低い声で護りの聖句を唱えている。声は安定しているし、結界も揺らいでいない。作業としては順調だった。


だが——帽子の縁から覗く髪の色に、違和感があった。


——白い。


気のせいか。いや、結界展開を始める前と今では、明らかに白い部分が増えている。藍色が褪せているのではない。ここからは想像するほかないが、きっと白銀が根元に向かって広がっているのだ。結界の維持が長引くにつれ、少しずつ。


俺は数日間、黙って観察した。前線に出る日も、修道院にいる日も。ヴィレアの帽子の縁から覗く髪の色に注意を払った。結界を展開した後は白銀の割合が増える。休息を取った翌日は藍色が広い。連日の結界業務の後は、帽子の奥まで白くなっているようだ。


確信した。


あの髪の色は、消耗の指標だ。魔力の状態がそのまま髪色に表れている。


だからこそ、帽子で隠している。この人は——自分の状態を、周囲に知られたくないのだ。異常な体質を衆目に晒すことを避けるのと同じ理由で。


だが、前線ではそれは許されない。


俺は回廊でヴィレアを呼び止めた。午後の、人が少ない時間帯を選んだ。西日が回廊の柱の間から差し込んで、石の床に縞模様を描いている。ヴィレアは精製に向かっているらしく、素材の入った革袋を手にしていた。


「……少し、いいか」


「はい、もちろん。何でしょう」


穏やかな声。いつもの佇まい。


俺は単刀直入に言った。回りくどいのは性に合わない。


「帽子は取った方がいい」


ヴィレアの動きが止まった。


穏やかな表情は崩れなかったが、一瞬——ほんの一瞬、帽子の縁に触れる手が強張ったのがわかった。木の香りが微かに強まった気がする。杖の新芽がわずかに揺れた。


「……何か、ございましたか」


声も落ち着いていた。だが、その静けさの奥に——薄い警戒が混じっていた。何の話だ、と問い返す前に、まず防壁を立てている。


「髪の色が変わる。消耗すると白くなるだろう」


沈黙が落ちた。


「前線では、隠していたら周りが状態を把握できない」


俺は間髪入れずに続けた。


「お前が広域の結界を一手に引き受けている以上、その結界がいつ崩れるか——要であるお前がどれだけ消耗しているか——それが戦っている味方にわからなければ、判断が絶対的に遅れる。撤退の判断も、交代の間合いもすべて狂う」


ヴィレアはしばらく何も言わなかった。追い打ちを掛けたいわけではないが、理解してくれないと困る。


「自分の限界を味方に隠すことは美徳じゃない。それは部隊全体を巻き込む命取りの欠陥だ」


その指が、帽子の縁にゆっくりと触れる。表情は読めない。視線も読めないから、何を考えているのかわからない。


「……見えていたんですね」


「隊の状態を確認するのは当然だ」


ヴィレアは微かに目を伏せた。


おそらく——この人は、自分の体質を「異常」として扱われることに慣れている。髪の色が変わること、瞳の色が変わること、食事が摂れないこと。全てが「人と違う」ものとして、隠すべき対象だった。帽子も、眼鏡も、人前で食事をしないことも、全て同じ線上にある。


だが俺は——そんなことには興味がなかった。


俺が見ているのはこの人の異質さではない。前線で結界を張る仲間の消耗度合いだ。それが髪の色でわかるなら——隠されては困る。味方が適切に判断できなければ、死人が出る。それだけの話だ。


「……わかりました」


静かな声だった。仮面越しの声とも、素の声とも、少し違うもの。何と言えばいいのか——覚悟を決めた声、だろうか。小さいが、確かな決意がある。


「前線に出る時は、外します」


「そうしてくれ」


ふと、もう一つ引っかかっていたことが口をついた。


「——切らないのか。髪」


ヴィレアが小さく首を傾げた。


「切ってしまえば、隠す手間もなくなるだろう」


我ながら無遠慮な話だった。だが、真剣に話をしている以上、聞いておくべきだと思った。帽子を外すことに抵抗があるなら、いっそ短くしてしまえばいい。ここには短髪の者が多い。兜や頭巾の下に収まりやすく、瘴気帯で視界を塞がない。実用面だけを考えれば、あの長い髪は邪魔なはずだ。目を抉り出せとは流石に言えないが、髪を切るくらいならば造作もないだろう。


ヴィレアは一瞬だけ黙り、それから穏やかに——だが、はっきりと首を横に振った。


「髪には、魔力を貯めているんですよ」


「……魔力を?」


「ええ。多くの広域結界を長期間維持するには、体内の魔力だけでは心許ない。髪に余剰分を蓄えて、必要な時に引き出すんです。長ければ長いほど貯蔵量は増えますから——切るわけにはいかないんです」


声は落ち着いていた。事実を述べているだけの、いつもの穏やかな口調。


髪に魔力を貯蔵する。言葉にすれば単純だが、身体の一部を貯蔵庫として転用するには、局所的な魔力操作の技術が相当に高くなければならないだろう。しかしなるほど、この件に関しては体質の異常ではなく、単純に魔力を絞り尽くされた身体の色が死んでいたから、髪が白くなっていたのか。


……ぎょっとした。


前線で結界を維持する際、魔力枯渇は最も警戒すべき事態だ。限界を超えれば意識を失い、結界は崩壊する。だが普通、魔力が尽きる前に体が動かなくなる。意識が霞み、手足が痺れ、立っていられなくなる。身体が先に駄目になることで、致命的な消耗は出来ないようになっている。


だがこの人は——その仕組みを無視している。体内の魔力が尽きても、なお髪に蓄えた分を引き出せる。その代わり、髪が白くなる。末端から体を壊死させながら力を絞り出す。だから——常人には真似の出来ない規模で結界を張り続けられる。


そして休息を取れば、癒やしの力で再び魔力を蓄える。壊して、治して、また壊す。自らの身体を消耗品のように使い捨てるその循環を、この人は周りの誰に言うでもなく、淡々と繰り返していたわけだ。


「なんなら此処に来てから、少し伸ばしたくらいです」


ヴィレアはそう付け加えた。まるで日用品の備蓄を増やしたとでも言うような、何でもない口調で。


俺は黙って頷いて、そのまま話を打ち切った。


——翌日から、前線での結界展開時にヴィレアが帽子を外すようになった。


藍色から白銀へと移ろう流れが、瘴気帯の薄暗い光の中に露わになった。きつく編み込んだ三つ編みが背中に落ちている。帽子の中に収めていたときとは違い、戦場向けにしっかりとまとめ直していた。初めて見る者は驚いていたが、何日かすれば慣れた。「白が増えたら結界の限界」という情報が、前線の浄士たちの間で自然と共有されるようになった。


修道院の中では、依然として帽子を被っている。だが前線では——この人は、もう隠さなかった。

髪に魔力を貯めるという発想は小数派

 → 切った髪を触媒にするような発想はある

 → 髪の色素を魔力貯蔵の用途に見立てるのは割と変態的な研究者しかやらない

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