表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わる世界と、聖者の食卓 〜この世で一番戒律の厳しい修道院なのに聖者が飯をたかってくる〜  作者: 藍津改


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/7

第三話 代用聖水の一口

その日の夕刻、俺は敷地の片隅にある薄暗い調合室にいた。


そこは聖水泉にほど近い小さな石造りの小屋だ。壁の石は冷たく、外界の瘴気を遮断していた。壁には長い棚板が何段も据え付けられ、硝子瓶や陶器の壺、乾燥した薬草の束が所狭しと詰め込まれている。棚板は歴代の浄士たちの手で何度も補修がなされており、木材の色が段ごとに違う。天井の灯火は一つだけで、部屋の大半は薄暗い。壁の隅に蜘蛛の巣が張っているのを、誰も片付けない。


偶然か誰にも行き合わず、静かで集中しやすかった。


次回の前線出撃が迫っている。


鉄槌の手入れは終えた。柄を磨き、刃に聖句を乗せ直した。盾の結界も補強した。護りの聖句の刻印が深く馴染んだ盾は、俺の左腕の延長のようなものだ。準備は概ね終わっていたが、聖水の準備が心許なかった。


贅沢を言える身分ではないのだが、それでも強烈な瘴気溜まりに飛び込む際や、深手を即座に塞ぐ必要がある場面では、できるならばただ聖別した水よりも、より高等な手順を踏んだものが好ましい。前線に出れば、何が起きるかわからない。瘴気の濃度が急上昇して結界が揺らぐこともあるし、大型の魔物が不意に出現することもある。先月の哨戒では、結界の隙間から滲み出した瘴気の塊が浄士の足を掠め、皮膚が黒ずんで動けなくなった。あの時も聖性の高い聖水があれば即座に対処できたはずだ。備えは多いに越したことはない。


調合室の棚を探った。聖水作りの要となる星露草が見当たらない。手前の棚、奥の棚、引き出しの中——どこにもない。


「……切らしているのか」


在庫が管理出来ていないのは、薬師の心得があった者がこの間、遂に帰ることはなかったからだ。誰かが引き継いではいるようだが、細かい所には手が回っていないらしい。


星露草は清浄な土地でしか育たない薬草だ。瘴気の影響が薄く、空気が澄んでいる場所——聖盾公国の内陸部や、エルフの森の縁などで採取される。辺境では自生しない。中央からの補給便に頼るしかないが、補給便が瘴気帯を迂回し、荒れた海路を時間をかけて運んでくる間に、普通の薬草は劣化する。星露草は特に瘴気に弱く、乾燥品でかろうじて持ち込めるが、それすらも辺境の瘴気にゆっくりと侵されていく。保管庫に聖別を施しても数ヶ月が限界だ。今の備蓄は半年前に届いたものだから、劣化は当然の結果だった。次の補給は来月の予定だが、予定通りに届いた試しがない。草人の商隊が継いでくれることもあるが、それも海路の安全次第だ。


仕方ない。代用品を使うか。


棚の奥から、硝子瓶を一本引っ張り出した。中身は琥珀色がかった白葡萄酒だ。修道院への支給品で、通常の葡萄酒よりも酒精が強い。辺境への輸送は薬草と同じ事情で、長旅に耐えられる酒でなければ届く前に中身が駄目になる。だから辺境向けの酒は酒精を強化してある。腐敗を防ぎ、長期保存に耐えるようにするためだ。飲用としてはいささか強烈だが、聖水の触媒としてはむしろ都合がいい。酒精の浄化作用と適度な甘みが、星露草の代わりとして機能する。前例がある。先輩浄士から教わった方法だ。「星露草がなければ酒で代用しろ。白葡萄酒が良い。赤は色が残る。安いもので構わない。聖別は丁寧にやれ。それだけだ」四年前に言われたことを今でも覚えている。あくまでも代用であって質はやや落ちるが、明日までに他に手がない。


木製の作業台に瓶を置き、栓を抜く。甘い果実の香りが立つ。薬品と埃の匂いが支配していた部屋に、場違いな芳香が割り込んでくる。葡萄畑のかすかな記憶のような香りだ——辺境にいると、こういう匂いが懐かしくなる。中央にいた頃、訓練の後に先輩たちとはよく安酒を飲んだ。


俺は瓶を両手で包み込むように手をかざし、目を閉じた。呼吸を整える。集中する。調合室の冷たい空気を深く吸い込み、体の中心に意識を落とす。掌に意識を集め、指先が暖かくなるのを感じ取る。


「——センプレア・サクラ、汝に世界の輝きを灯せ」


低く静かに、丁寧に唱える。何度も繰り返してきた日常動作だ。だが、手を抜かない。一回一回が勝負だ。星露草を使えないぶん、聖句の精度で補うしかない。掌から滲み出た光が、酒の液面に沈んでいく。光が液体に触れた瞬間、酒精が研ぎ澄まされ、液体の色がゆっくりと変化していくのを、閉じた目の裏で感じ取る。温度が下がる。瓶の中の光が明滅し、やがて落ち着く。


光が収まって目を開けると、琥珀色だった酒は、澄んだ白銀色になっていた。灯火の光を受けて内側からきらめいている。瓶の中で光が渦を巻いているような、不思議な輝きだ。液面は鏡のように静止し、その奥に光が層を成して沈んでいる。代用聖水としては上出来だろう。


こんなものか。


俺はいつも通りの出来栄えに満足して、さっそく小瓶に移し替え始める。


「……これは」


不意に、調合室の入り口から声がかけられた。


静かな声。前線帰りの浄士が血の匂いと共に調合室に怒鳴り込んでくるのとは、根本的に質の異なるものだった。薬品臭の中に、木の香りが滑り込んでくる。扉の隙間から流れ込むそれは、この数日で覚えた匂いだった。ただし、これほど近くで嗅ぐのは初めてだ。遠目に感じていたときの何倍も濃い。深い森の底にいるような匂い。苔と樹液と、古い幹の香り。それが調合室に流れ込んでくると、薬品の匂いが押し返されるように薄れた。それだけではない——匂いと共に、調合室の空気が微かに澄んだ気がした。瘴気を遮断しているはずの石壁の内側で、さらに空気が清浄になっている。聖水泉に近いからだけではない——この人が近づいたからだ。いや、そんなことがあり得るのか。


「失礼ですが、どなたが聖別を?」


誰に声を掛けられたのか。確信を抱いて振り返ると、そこに立っていたのは聖者様だった。


到着してから数日。遠目に姿を見たことはあるが、言葉を交わすのは初めてだった。薄暗い調合室の入り口に立つ姿は、周囲から浮かび上がるように見えた。灯火の光を受けて、藍色の導師服が淡く光る。入り口の枠に手をかけたまま、身を乗り出すようにして——調合室の中の何かに、引き寄せられているようだった。


近くで見ると、今までとは違う印象があった。——若い。年齢は聞いていないが、俺より年下だろう。帽子の下の顎の線は細く、喉元は白い。前線で日に焼けた俺たちとは肌の色が違う。瘴気に晒されていない人間の肌だ。手の甲に浮かぶ紋様——木の節のような模様が、灯火の光に照らされて薄い翳りを帯びている。杖を持つ指は長く、細い。戦う手ではない。聖句を紡ぎ、薬を調合し、結界を張る——そういう手だ。


手には小さな革袋を持っている。薬の素材を運ぶ途中だったのか、聖水泉に立ち寄っていたのか。いずれにせよ、足が止まっている。それも不自然に。歩いていたのが、急に引き留められたような止まり方だった。杖を握る手に力が入っている——何かに気づいた人間の、無意識の緊張だ。


「……私がしました」


俺は、失礼が無いようにと言葉を選ぼうとして、結局短く答えた。聖者様と関わるつもりはなかった。そろそろと会釈をして、小瓶への移し替え作業に戻ろうとした。


だが、聖者様は引き下がらなかった。


作業台の酒に近づいてくる。足音がほとんどしない。革袋を持った手が下ろされ、視線が瓶の中の液体を食い入るように見つめていた。視線はわからないが、状況的にはそうだったろう。近くに来ると、調合室の薬品と埃の臭いがいっそう押しのけられるように薄まった。


足が止まっている。一歩も動かない。


何か——言葉にはならないが、彼の全身から、強い動揺が滲んでいる。それは興奮にも似ていて、しかし必死に抑えようとしている類の感情だった。呼吸が少し速くなっている。杖を握る手に力が入っているのが、指の白さでわかった。杖の新芽が、ぴくりと動いた——風はないのに。杖が主人の動揺を感じ取っているのか。


「……驚きました。これほどの精度は初めて見ました」


彼は譫言のように呟いた。丁寧な口調はそのままだったが、声がわずかに震えている。普段の穏やかさの下に、何か大きなものが渦巻いている。声を出すこと自体に、意志の力を注いでいるように見えた。


俺は何がそこまで驚くことなのかわからなかった。普通に聖別しただけだ。いつも通り、丁寧に。星露草の代わりに葡萄酒を使っただけで、聖句も手順も変えていない。


「……丁寧にやっただけです」


「浄士殿」


聖者様が俺の言葉を遮り向き直った。丁重に、しかし明確な意志を持って。穏やかな物腰の奥に、何か切実なものが覗いていた。声の奥に、長く押さえ込まれてきた何かの重みがある。堰き止められた水が、壁の隙間を探しているような——


「これを——一口だけ、頂けませんか」


俺は面食らった。飲む気か? 正気だろうか、これは代用聖水だ。聖者様が嗜むような上品な酒ではない。酒精は飛んでいないから酒として飲めないことはないが、味は雑だ。そもそも飲み物ではない。


「構わないですが……きっと不味いと。代用聖水です」


忠告したつもりだった。だが、俺が止める間もなく、聖者様は小瓶の一つを手に取り——躊躇なく口に含んだ。


その一瞬、調合室の空気が変わった。錯覚だったのかもしれない。だが、杖の新芽が揺れた。灯火の炎が一瞬明るくなり、次の瞬間には元に戻った。瓶の底に残る白銀色の液体が、漣を立てた気がした。


彼の動きが止まった。


「あ——」


喉が小さく鳴った。


普通の反応ではなかった。酒を飲んでむせるとか、顔をしかめるとか、そういう類のものではない。もっと根源的な何か。もっと深い場所で起きている反応。


膝が折れかけた。杖にしがみつくようにして、かろうじて立っている。新芽が微かに光を帯びた——杖が主人の異変に応じているのか。灯火の光の中で、杖の表面を覆う樹皮の割れ目がわずかに明滅したように見えた。


静止している。それから空になった小瓶と、自分の手と、もう一度小瓶を見比べている。指先がかすかに震えていた。小瓶を持つ手に——握り潰しそうなほど力が入り、次の瞬間にはふっと力が抜ける。全身がわずかに硬直し、それから——ゆっくりと弛緩していく。まるで、骨の髄まで長年縛り付けていた鎖を壊したかのように。背中の強張りが解け、不自然なほど真っ直ぐだった肩の線が下がり、浅かった呼吸が深く長くなった。大きく息を吐く音が、調合室の石壁に響いた。体の中の澱んだ空気を残らず入れ替えるような、長くて熱い吐息だった。


何かを言いかけて——言葉にならなかったように見えた。


唇だけが何かの形を作って、声は出なかった。声にするのを酷く躊躇っているようだった。


……何だ。


俺には、聖者様の身に何が起きているのか、全くわからなかった。ただ、口元が——一瞬だけ——歓喜とも安堵ともつかないものに変わったように見えた。それはすぐに抑え込まれ、また穏やかな顔に戻った——が、完全には戻りきれていなかった。口元がわずかに震えている。


目元がわからないから、表情が読めない。だが、何かが溢れかけている——それだけはわかった。


長い沈黙があった。調合室の灯火の炎がちりちりと音を立てている。壁の影が揺れている。瓶の中の白銀色の液体が、静かにきらめいている。


それから聖者様は、丁寧に、しかし切実な声でこう言った。


「……赤もありますか」


「は?」


「赤いお酒です。果実味の強い、少し重めのものがあれば——」


声はまだ丁寧だった。聖者の口調だった。だが、その下にある何かが——堰を切ろうとしている。土手の向こうで水位が上がっている。今にも溢れそうな何か。声の端がわずかに裏返った。唇が震えている。必死に取り繕っているが、次第に取り繕いきれなくなってきていて。


俺は完全に置いていかれていた。酒を一口飲んだだけで、なぜこうなるのか。酒乱だったのか。酒を一滴でも飲ませたら駄目な人だったのか。そんなことを知るわけがないじゃないか。不幸な事故であった。


「……棚の奥に、支給品の赤があります」


俺が指差すや否や、聖者様は自ら棚を漁り、赤葡萄酒を引っ張り出してきた。棚の奥に押し込まれていた瓶を、他の瓶を退けながら引き抜く。硝子が触れ合う甲高い音がした。埃をかぶった瓶を両手で抱えて、作業台の上に置く。短刀で栓を抜く手つきが、さっきまでの繊細さとは打って変わって大胆だった。手が震えている——期待で。栓が抜ける音がした。黒みがかった深赤色の液体が、瓶の口で揺れている。辺境向けの支給品だから、味も香りも粗い赤葡萄酒。


「聖別を——お願いしてもよいですか」


「……務めですから」


そう、請われて力を使うのは正しい修道だ。俺は言われるままに赤葡萄酒を聖別した。「センプレア・サクラ——」掌から光が沁み込み、深赤色の液体が微かに透き通っていく。黒みがかった赤から、鮮やかな紅玉色に。光が層を成して沈み、液面が冷たくなる。白葡萄酒のときと同じ反応だ。ならば、同じ品質にはなっていることだろう。


聖者様が瓶に手を伸ばした。指先が震えている。瓶を手に取り、口元に運ぶまでの動作が——切実だった。飲まなければいけない、というより、飲まずにはいられない、という動きだった。なんと喇叭飲みだった。一口目。目を閉じた。二口目。口元が緩んだ。三口目で、瓶を傾ける角度が大胆になった。


四口目あたりから、聖者というには無理が入り始めた。


その後の光景は、控えめに言って想像を超えていた。


    *


「ひっく……十八年ですよ……十八年間、まともな飲み物すら……」


「……そうですか。もう控えたほうが……」


「いいえ飲みます。あなたが止めても飲みます。ああ……神は俺を見捨てていなかった……!」


調合室の床に座り込んだ聖者様が、泣きながら支給品の酒を浴びるようにして泥酔していた。


穏やかで丁寧だった物腰は灰も残さず崩れ去り、一人称は最初から「俺」だっただろうか? 声は大きく、身振りは派手で、空になった瓶を頭上で振り回しながら笑ったりまた泣いたりしている。藍色の導師服の裾に酒の染みが点々とついている。あれほど清潔に保たれていた服が、調合室の埃と酒にまみれていた。味も素っ気もない薬品と言ってもいい酒をよくそれだけ流し込めるものだ。


現実感がない。


俺は壁に背を預け、腕を組み——静かに焦っていた。いや盛大に。聖者様を酔い潰してしまった。代用聖水の品質確認だろうと一口差し上げただけのつもりが、赤葡萄酒まで持ち出されてこの有様だ。上官に見つかったら、俺は間違いなく処分される。「聖者様を酔い潰した浄士」として、この修道院の歴史に不名誉な一行が刻まれるだろう。降格か。前線の更に奥の前線——最前線送りか。いや、最前線は今の持ち場とそこまで変わらない。それ以上の処分は——考えたくない。


だがここで聖者様を放り出すわけにもいかない。酔った人間を放置すれば、廊下に出て行って他の浄士に見つかるのは時間の問題だ。聖者様の醜態が修道院中に広まったら——面目が潰れる。それは避けたい。普段のこの人の働きは確かなのだから、それはこれからも大いに続けてもらいたい。


——聖者様。いや、こんな迷惑な酔っ払いを「聖者様」と呼び続けるのも馬鹿らしくなってきたな。酔っ払いで十分だ。


「聖者様、お願いですからどうかお静かに——」


「誰が来てもいいですよ! どうせ皆いつも俺を遠巻きに見るだけですからね!」


声が大きい。調合室の壁に反響して、小屋の外にまで漏れかねない。石壁が声を増幅している。俺は無意識に扉の方向を確認した。閉まっている。だが、この声量なら石壁を通して漏れる。


「——ああもうくそったれだ! くそくそくそ!! 十八年間ずーっと樹液ばっか啜らされて——なんで俺だけ飯食えねえんだよ! まともな飯どころか水すら飲めねえ、ケツの穴から聖水でもひり出せってか、ああ!? ふざけんな! こちとらずっと腹ん中に樹液しか入ってねえんだぞ! 小便まで樹液の匂いがするんだ、知ってるか!? あーーもうやだ! くそ! もう辛い死にてぇって言ったら——教団の爺どもが偉そうに『聖者の務めです』だとよ! お前らがやってみろ! 樹液だけで生きてみろってんだ! このクソ体質がよぉ!」


耳を疑った。


聖者様の口から、聞くに堪えない言葉が止め処なく飛び出していた。上品で穏やかだったあの声が、港町の船乗りの喧嘩と変わりない。いや船乗りでももう少し選ぶだろう、あの語彙は。品の欠片もない。破片すらない。修道院の食堂で同じことを口にしたら、粥を啜っていた浄僧が全員聖水を吹き出す。白盾派の上官なら血管が三本まとめて切れて倒れる。


「……おい。やめろ酔っ払い。聖者様がそんな言葉を——」


つい、敬意が払えなくなった。そんなことを咎めるでもなく、酔っ払いは更に言い返す。


「うるっせえな! 聖者だって小便はするんだよ! 糞もする! 当たり前だろうが! 何から何までお上品とか頭涌いてんのか? あーー気持ちいい、やっと言えた! ずっと言ってやりたかった!」


酔っ払いは空の酒瓶を天に掲げ、晴れやかな笑顔で叫んだ。晴れやかすぎる。これを聖堂の壇上でやったら破門では済まない。


そして——その勢いのまま、頭の布帽子をむしり取り、調合室の床に叩きつけた。


「あっつい! こんなもん被ってられっか!」


髪がこぼれ落ちた。


根元の深い夜空のような藍色から、毛先に向かって澄んだ白銀へとなめらかに変わっていく色の移ろい——帽子の中に押し込められていた長い髪が、解き放たれるように背中へと流れ落ちていった。明け染め。朝の空が、地平線の白銀から天頂の藍へと染まっていく、あの色の流れを逆さにしたような。灯火の弱い光を受けて、白銀の毛先が星屑のようにきらめいている。背の中程まで優に届く長さだ。


俺は息を呑んだ。聞いたことも見たこともない色彩だった。


だが、酔っ払いはそれどころではなかった。酔いで上気した頬を興奮で更に赤く染め、もう一本の赤葡萄酒を棚から引っ張り出し、さっき叩きつけた帽子を軽く蹴って机の上に器用に跳ね上げると、瓶を胸に抱いて壁にもたれかかった。


「……頼むから声を落とせ。廊下に——」


「あー……」


酔っ払いは一瞬だけ我に返った顔をした。酔いの底から、かろうじて理性の残滓が浮かび上がったように見えた。


そして——赤葡萄酒の瓶を、すっ、と俺の前に差し出した。


「……これ、聖別してくれたら、善処します」


善処。


聖者様の口から出た言葉とは思えない、交渉人のものである。この酒を聖別してくれたら大人しくする、と、そう言っているのだ。まさか頼みを断られることはないだろうという強かな笑みが薄く張り付いている。


……これは脅迫ではないだろうか。


いや、厳密に言えば取引だ。聖別と引き換えに静寂を差し出すという。そしてこの状況で断ったら何が起こるかは、さっきまでの惨状が雄弁に物語っている。あの罵声が再開される。この声量が廊下に漏れたら終わりだ。


「……務めだからな」


俺は瓶を受け取った。脅迫に屈したわけではない。聖別は浄士の務めだ。頼まれれば応じる。それだけのことだ。そう自分に言い聞かせた。


栓を抜き、手をかざす。焦るな。こういうときこそ丁寧にやる。雑に聖別して品質が落ちたら、それはそれで何を言われるかわからない。


「センプレア・サクラ——」


掌から光が沁み込んでいく。深赤色の液体が微かに透き通り、


「ひゅう!」


口笛。酔っ払いが口笛を吹いた。集中が揺らぎかけた。危うく聖句の流れが途切れるところだった。


「いいですねぇ、いい光だ——!」


ぱちぱちぱち、と拍手まで始まった。酔って上気した顔で、調合室の床に座り込んだまま、満面の笑みで手を叩いている。聖別の最中に拍手を送られたのは人生で初めてだ。


「……黙ってろ。途切れた」


諦めて聖句を止め、低く釘を刺した。聖別は集中が命だ。雑念が入れば光の密度が落ちる。酔っ払いは「はーい」と気の抜けた返事をしたが、口元はにやにやしたままだった。


意識を引き戻す。掌に集中し直す。光が再び安定し、くすんで褐色がかったものから鮮やかな紅玉色に変わっていく。光が層を成して沈み、液面が安定する。一本目と変わらない、安定した出来だ。丁寧にやった。焦らず、手を抜かず。速やかに、だが確実に。


聖別を終えた瓶を差し出すと、酔っ払いは両手で受け取り、瓶に頬ずりした。


「……ありがとうございます」


声だけは丁寧だった。行動は丁寧ではなかった。埃の被った瓶に頬ずりしている時点で善処の気配はない。


案の定、新しく聖別された酒瓶に口をつけ三分の一ほども空けた頃——


「——失礼。少し品がなかった。ではですね……上品に……上品に……よし、ここは美しく神聖語でいきましょう」


少しどころではなかったし、それは違う、と言いかけたが間に合わなかった。


酔っ払いは赤葡萄酒の瓶を改めて胸に抱き締め直すと——聖堂で祈りを捧げる聖人の姿勢そのままに——厳かに天井を仰ぐ。聖句と寸分違わぬ荘厳な抑揚で、朗々と唱え始めた。


「——ステルクス・ムンディ、ヴィータ・メア・エクスクレメントゥム。 フルクトゥス・テッラエ・ノン・ミヒ——ポディケム・メウム、アクア・サクラ・エクスプリーメ。 ウリーナ・メア・スクース・アルボリス。 センプレア・ステルクス、ポディケム・サクラ!——パトレス・エクレシアストゥム、スゲーテ・スクーム!」


流暢な神聖語だった。巡礼・外交活動を経て日常会話レベルまで習得しているという話は聞いていたが、なるほど確かに慣れている。発音も滑らかで、調合室の石壁に反響するその声は、知らない者が聞けば至極敬虔な祈りとして聞こえるだろう。


そして俺は、目の前の光景に、言葉を失った。


酔いに上気した頬が、灯火の光を受けて淡く色づいている。ずっと抑え込んでいた鬱屈を吐き出した後の、嵐の後の晴天のような、感極まって明るい顔。解き放たれた明け染めの髪が、詠唱のわずかな身動きに揺れるたびに、白銀の毛先が灯火の光を拾ってきらめいている。調合室の薄暗い光の中で、その色彩と表情だけが鮮烈だった。杖を傍らに立て、酒瓶を胸に抱いて詠唱する姿は——聖画に描かれた殉教者のようだった。壁にもたれかかり、天を仰いで祈る聖人の構図そのものだ。


——いっそ清らかだった。


この上なく冒涜的なことを言っているはずなのに。声の響きが澄みすぎている。姿が美しすぎる。聖堂の壁画に彫られていてもおかしくない佇まいで、排泄物と尻の話をしている。喜びに輝く瞳と、酒に染まった頬と、明け染めの髪の息を呑む美しさが——口にしている内容と、完全に、致命的に、噛み合っていない。


俺は神聖語を自在に操れるわけではない。聖句と基本の祈りの定型句を覚えている程度だ。だが——「ステルクス」は聖句には出てこない単語だが、浄化の聖句を学ぶ際に「排除すべきもの」の例として教本の隅に載っていた。確か、排泄物——糞の意だ。「エクスクレメントゥム」も同じ系統の語だ。「ウリーナ」は——小便か。「スクース・アルボリス」——「アルボリス」は「樹の」だから——樹液。小便が樹液の匂い。さっき共通語で叫んでいたのと同じだ。「ポディケム」は知らないが、文脈が文脈だけに想像がつく。「アクア・サクラ」は聖水、「エクスプリーメ」は「絞り出す」——。そして最後の「パトレス・エクレシアストゥム」——「パトレス」は「父たち」、「エクレシアストゥム」は教団の。教団の長老たちに向かって「スゲーテ」——吸え、とでも言ったのか。教団の偉い方々に樹液を吸えと。


…………。


今のは。さっき共通語の罵声を、一言残らず神聖語に翻訳してしまったのか。しかも音数が増えている。共通語では言い切れなかった分まで足している。あの清らかな佇まいで。あの澄んだ声で。


神聖語で言えば上品になると思うな。


こんなに冒涜的な神聖語は生まれて初めて聞いた。そもそも神聖語でこれだけの罵倒語彙を持っていること自体がおかしい。聖句と同じ旋律で糞と尻と小便の話をするな。祈りの作法で教団の長老を罵倒するな。しかも聖別の聖句「センプレア・サクラ」の構造をそのまま流用して、「永遠に糞で充たす」「聖なる尻」などとしている。冒涜の技術が高すぎる。これを聖堂で唱えたら、銀路派であれ双橋派であれ金穂派であれ、どの宗派の高位神職であっても間違いなく卒倒する。卒倒する前に異端審問が始まるが、解紡結社だってこいつが同じ禁教の一味と疑われたら嫌がるだろう。だが——あの姿を見たら、一瞬だけ祈りだと信じてしまうかもしれない。それくらい、美しかった。


「……やめろ。共通語のほうがまだましだ」


「えー」


不満そうな声を上げたが、酔っ払いの口元には——酔いで崩れた、屈託のない笑みが浮かんでいた。


「聖者様はもう少し落ち着いて……」


「『聖者様』って名前じゃないんですよ」


「少々深酒がすぎるかと……」


「『聖者様』『聖者様』って——俺にはちゃんと名前があるんですよ! でも誰も呼ばないんですよ!」


「……落ち着いてくれ……」


ただ正直なところ、酔っ払いの相手はそろそろ切り上げたい。こういう手合いの扱いには覚えがある。フォルティス家に居た頃——家督とは無縁の末席ながら、社交の場に駆り出されることはあった。酔った客人の繰り言を、角が立たない程度に受け流す。相手の言葉を丁重に拾い上げつつ、中身には一切踏み込まない。あの受け流し術のことを、また思い出すことになろうとは。俺は半ば無意識に、貴族の三男坊時代の口調に切り替えていた。


「もちろん名前は存じ上げております。ヴィレア・シグナトゥス様」


「ヴィレアでいいです。ヴィレアって呼んで」


「では僭越ながら、ヴィレア様と」


「ヴィ レ ア! 変に丁寧にしなくていいから。こんな酔っ払い道端のゴミだから」


ヴィレアはそう言い放った後、ぶすくれた顔で口を結び——黙り込んだ。空の瓶を胸に抱いたまま、壁にもたれて、こちらを見ようともしない。さっきまでの饒舌が嘘のような沈黙だった。慇懃無礼が気に食わなかったらしい。酔っ払いの癖に、そういうところは気にするのか。


「ヴィレア様に置かれましては、慣れぬ辺境にてお疲れのご様子。我ら一同の不徳の致すところでございましょう。とはいえヴィレア様、そろそろお休みになられたほうがよろしいですよ」


無視。


「これ以上は酒精は御身に差し支えますので、どうかご自愛くださいませ」


完全に無視。


「調合室にご用があったのでしょう? 明日に薬番の者を遣りますから、必要なものがあれば申し付けください」


ふんと顔を背けて、空瓶の口を指先で弾いている。甲高い硝子の音だけが調合室に響いた。


……こいつは。


「……ヴィレア。もう、その瓶を返してくれ」


途端に、ヴィレアが振り向いた。待ってましたとばかりの、にやりとした笑みが浮かんでいる。


「新しいのをくれたら交換しますよ」


「……たちの悪い」


彼はへらへらと笑いながら、手元の嫩枝杖を撫でた。杖の先端の新芽が微かに揺れた。閉め切った調合室に風はないのに。杖が何かを感じ取っているのか。酔いつぶれた主人を心配しているのか。新芽の色が、ほんの少しだけ濃くなったように見えた。


ヴィレアはその新芽に指先でそっと触れて、急に申し訳なさそうな顔になった。


「あぁ、ごめんね。さっきの、樹液がどうとか言ったの……ヴィレアの悪口じゃないからね。ヴィレアの樹液のおかげで生きてこられたんだから。わかってるよね? わかってる? ごめんね?」


杖に向かって酔っ払いが謝りはじめた。しかも半泣きで。新芽がぴくりと揺れた。応答なのか偶然なのかは判断がつかない。


「お前がいなかったら俺死んでたもん……ほんとごめんね……大好きだよ……」


杖を抱きしめた。酔って崩れた顔で、嫩枝杖を圧し折るがごとくぎゅうぎゅうと抱いている。聖者様が杖に向かって大好きだと告白している。今夜の出来事をどこまで正気の沙汰として受け止めていいのか、俺にはもうわからなかった。


だが——杖の新芽は、さっきより少しだけ色が明るくなっていた。気のせいかもしれない。


ヴィレアは杖を撫で続けながら、ふと呟いた。


「……そういえばヴィレアって、本当は杖の名前なんですけどね」


「杖の名前?」


「そう。俺を育ててくれた、この杖の名前」


杖の名前。ヴィレアが——杖の名前。では、この人の名前は何なのだ。酔いのせいで混乱しているのか、それとも——。その問いを口にする前に、ヴィレアは話を続けた。


ヴィレアは杖に頬を寄せて、壁にもたれかかった。酔いのせいで焦点が合っていない。だが、声だけは妙に透き通っていた。酔いの底から、濾過された本音のような言葉が浮かび上がってくる。


——と思ったら、話が飛んだ。名前の話をしていたはずが、唐突に巡礼時代の思い出に切り替わった。


「銀路派は良い人たちでした。巡礼の道中はよかった。毎日歩いて、寝て、起きて。いろんな土地を見て——『ヴィア・ルミノス』って聖句、知ってますか。巡路の聖句。荒野を歩くときに唱えると、足元の瘴気が薄まって安全な道筋がうっすらと光って見えるようになるんです——あれを唱いながら、毎日毎日歩いた。あの光の道標だけが面白かった。でも、隊商の人たちが毎晩焚き火を囲んであたたかい飯を食うのを、俺は馬車や天幕の中から一人で見ているだけで……匂いだけは入ってくるんですよ、焼けた肉の匂いとか、煮込みの匂いとか」


酔って話しているのか、聞かせようとしているのか。俺にはわからなかった。ただ、堰が外れた川の水のように、言葉が止まらない。


「双橋派では晩餐会が多くて。外交だから。でも俺は出席できないんです、食事が摂れないから。祝いの席で聖水と杖だけ並べるわけにもいかないし……だから、いつも隣の部屋で待っていました。壁越しに笑い声が聞こえてました」


壁越しの笑い声。食卓に着けないヴィレア。


「金穂派は一番つらかった。民と一緒に働くから、村の人たちと一緒に飯を食うんです。みんなで一緒に食べましょうって言われて——断るのが。毎回、顔色を見ながら。ごめんなさい体調が体質が、って……」


ヴィレアの声が少し詰まった。酔いが感情をそのまま声にしている。


そしてまた——唐突に、話が跳んだ。


「……借り物の名前で生きてるのって、変でしょうか」


名前の話に戻った。いや、戻ったのか。食事の話も名前の話も、この人の中では繋がっているのかもしれない。だが酔いの中で絡まり合って、出てくる順番がめちゃくちゃになっている。支離滅裂だ。だが支離滅裂な中に、同じ痛みが通底している。


酔った勢いの愚痴だろう。深い意味があるのかないのか。だが、その言葉の端に、長年溜め込まれた何かがこびりついているのは、心の機微には疎い俺にもわかった。これは酔いの戯言ではない。酔いが外してくれた蓋の下から、本当の声が漏れ出ているのだ。重い。軽口のつもりで言っているのかもしれないが、その裏にあるものが軽くない。


俺は何と答えるべきかわからなかった。慰めの言葉を持ち合わせていない。気の利いたことは言えない。銀路派の巡礼も、双橋派の外交も、金穂派の民生も、俺は何も知らない。だから、思ったことだけを口にした。


「……変かは知らん。だが、名前は名前だ。お前が名乗っている以上、それはお前の名前だ」


「……そうですよねぇ」


力なく笑った。だが、その笑みには少しだけ—ほんの少しだけ—安堵の色があったように見えた。


改めて、帽子を脱ぎ捨てたままの髪を見た。さっき初めて目にしたときの衝撃が蘇る。根元の深い夜空のような藍色から毛先の白銀へ、あの滑らかな夜明けの色彩。穏やかな表情で、髪だけが灯火の光を拾って静かにきらめいている。さっきまで罵詈雑言を叫び、聖句の構造で冒涜的な神聖語を詠唱していた人物とは思えないほど—清浄だった。


……待て。さっき冒涜的な神聖語を詠唱していたときも、清らかだったな。あれだけ下品なことを叫んでいたのに、佇まいだけは聖画のようだった。そして今、静かになったら静かになったで、やはり清浄だ。罵倒しても清らか、黙っても清浄。どういう功徳を積んできたのだ、この人は。


とまれヴィレアがなぜ帽子で髪を隠していたのかは理解できた。こんなものを衆目に晒して歩くわけにはいかないだろう。目立ちすぎる。辺境の修道院で、この色の髪を見せて歩けば、好奇の目も、畏怖の目も、研究対象としての目も、一身に集まる。隠すのが合理的だ。


さらに、ずり下がった丸眼鏡の隙間から瞳が覗いた。


その瞳は、調合室の灯火の光を映していた。それだけではない。目が合った瞬間、瞳の色が変わった。灯火の橙色を映し、宙を漂う何かの光を拾い、刻々と色彩を変えている。周りの景色をそのまま映し出す鏡のような瞳。色というより、光そのものだ。


だから色付きの眼鏡で隠していたのか。たかが目の色だが異様ではあるし、仕組みを調べたがるものも多いだろう。


この人の秘密は、見た目だけでもこれだけある。


ヴィレアは既に沈黙している。杖と酒瓶を胸に抱くような姿勢で、調合室の床に横倒しになってしまった。


……空だ、あの瓶。


中身は全部飲み干しておいて、空の瓶を宝物のように抱いて眠っている。あまりにも絵面が酷い。だが、年相応の、いや、年齢より幼く見える寝顔だった。取り繕いが完全に解けた顔。ずっと帽子と眼鏡で隠し続けたそれが、酔いの勢いに任せて、ここに晒されている。


「……秘密の多い人だな」


俺は呟いた。返事はない。


だが——このまま調合室の床に放置しておくわけにもいかない。


問題は、部屋の場所だ。ヴィレアの居室がどこにあるのか、俺は知らない。修道院の二階は区画ごとに用途が分かれているが、普通の浄士は聖者様の私室になど近づかない。


仕方ない。本人に聞くしかない。


「……おい。部屋はどこだ」


肩を揺すった。ヴィレアは酒瓶を抱いたまま、うっすらと目を開けた。遮るものなく至近で見るそれに、眦から光が溢れるのかと錯覚をする。


「……へや?」


「お前の部屋だ。ここで寝かせるわけにはいかん」


「……にかい……ひがしのつきあたり……せいせいしつの、となり……」


舌が回っていないが、情報としては十分だった。二階、東翼、精製室の隣。それだけわかればいい。


「わかった。寝てろ」


返事の代わりが、寝息だった。聞き出せたのが奇跡のような際どさだった。あと十秒遅かったら完全に落ちていただろう。


俺はヴィレアを背中に担ぎ上げた。嫩枝杖を忘れないように脇に挟む。帽子は拾って隠しに突っ込んだ。丸眼鏡はまだ顔にかかっていたので、それ以上ずれないように注意する。


体は重くなかった。食事を摂らないという噂が真実味を帯びてくる。樹液と聖水だけで生きてきた体だ。布越しの体温は正常で、脈の打ち方は力強いが、骨格の頼りなさと肉の薄さは気になる。俺が片腕だけで軽々と担ぎ上げられるほどだ。前線で負傷した同僚を担いだことは何度もあるが、大の男でこの軽さは記憶にない。決して軽くはない革鎧の浄士一人を背負って泥濘を走れる俺にとって、この軽さは、まるで空の麻袋か何かを背負っているようで、胸のあたりが妙に冷えた。命の重さが物理的に足りていないような、そんな不気味さがあった。


廊下に出ると深夜の静寂がある。灯明が等間隔に並んでいて、石の廊下に長い影を落としている。足音を殺しながら、彼の自室を目指す。背中のヴィレアは穏やかに寝息を立てている。時折、寝言のように「おいしかった……」と呟くのが背中越しに聞こえた。空きっ腹に強い葡萄酒を二本も入れた割には穏やかではあるが。


もし誰かに見咎められたら—「瘴気にあてられてお倒れになった」とでも言い逃れよう。そうだ、精製の作業中に瘴気の残滓を吸い込んで—いや、この理屈は無理があるか。酒の匂いがするし。葡萄酒の匂いは石壁にも染みている。言い逃れようがない。


回廊の角を曲がるとき、遠くで足音がした。反射的に壁の凹みに身を隠した。背中のヴィレアが「んん……」と唸った。黙ってくれ。声には出さなかったが、全身で祈った。足音は遠ざかり、消えた。夜回りの浄僧が別の通路を選んだらしい。


息をついた。酒の匂いはまだ漂っている。急ぐ。


ヴィレアの自室は修道院の二階東翼、精製室の隣。便利な場所だが、人通りが少ない区画でもある。言い換えれば、孤立した場所だ。機能的には理にかなっているが、食堂からは遠い。人の輪からも遠い。


扉の前に着いた。取っ手に手をかける。錠は開いていた。部屋の中に入ると、樹液と古い紙の匂いが満ちていた。小さな部屋だ。寝台と机と棚が一つずつ。棚には調合の情報が書かれた帳面が並んでいる。机の上には聖水の小瓶が一つ。それだけだ。食器はない。皿も匙も、碗もない。


これが、この人の「日常」なのだな。


寝台に横たえた。両靴をすっぽ抜いて揃え、杖を壁に立てかけ、帽子を腰元に置いた。眼鏡はそのままにした。毛布をかけようとしたが、毛布は一枚しかなかった。辺境の修道院は寒い。夜は特に。ヴィレアの部屋に毛布が一枚しかないというのは、不平は言わなかったのだろうか。


俺は自分の上着を脱いで、毛布の上にかけた。それから部屋を出た。


明日は前線だ。こんなところで人生を棒に振るつもりはない。だが、食器のない部屋と、一枚きりの毛布のことが、妙に頭に残った。樹液と聖水しか口にしない人間の、驚くほどの軽さとともに。


——後日、毛布の件についてあっけらかんと種明かしをされることになるのだが、そのときの俺は知る由もなかった。


■種族

普人テルム — 最も数が多い種族。あらゆる環境・職業に適応する万能性を持つ。寿命約70年。

森人エルフ — 長命で自然と精霊への親和性が高い。森林に暮らす。寿命約800年。

古森人ハイエルフ — エルフの中でも最も古い血統。古代の知識と精霊魔法の真髄を伝承する。数は極めて少ない。寿命約1200年。

深森人ダークエルフ— 地下世界に住むエルフの一族。瘴気への耐性が高く、暗視能力に優れるが光に弱い。寿命約600年。

岩人ドワーフ — 山岳地帯に暮らす鍛冶と建築の民。頑健な体と瘴気への耐性を持つ。寿命約300年。

・古岩人 (ハイドワーフ) — ドワーフの中でも特に古い血統。魔法金属の精錬と封印技術の継承者。寿命約500年。

深岩人ダークドワーフ — 地下最深部に住むドワーフ。独自の鍛冶技術を持つ寡黙な戦士鍛冶の民。寿命約250年。

獣人ビーストフォーク — 動物の特徴を持つ多様な種族の総称。狼型・猫型・鷹型・熊型など亜種多数。寿命約60年。

龍人ドラコニアン — 古竜の血を引く稀少種族。強大な魔力を持つが数は極めて少ない。寿命約400年。

草人ハーフリング — 小柄だが器用で知恵に富む。商才・外交に秀で、交易の仲介者として活躍。寿命約100年。

天翼人セラフィム — 背に翼を持つ空の民。浮遊諸島に住み、天蓋の知識に優れる。寿命約200年。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ