第二話 聖者様の到着
その日は風が強かった。
修道院の旗が千切れそうなほどはためいていて、瘴気混じりの砂埃が中庭の石畳を舐めていた。浄滅教団の紋が風に煽られ音を立てている。黄昏辺境区の風は内地のそれとは違う。瘴気を含んだ塵が肌を刺す。長く吸い込めば喉がやられる。前線帰りの浄士は鍛えられているが、新参者が風の強い日に外に出て、咳き込みながら宿舎に戻ってくるのはよくある光景だった。
空の色がいつもより暗い。紫がかった灰色が、風に煽られて低く垂れ込めている。瘴気が濃い日の空だ。こういう日は魔物の活動が活発になる。天蓋が罅割れているせいだと蒼眼派は訳知り顔に言う。この頃は辺境の上空でも空蝕蛾が地上近くまで降下してくる目撃例が増えている。三年前にそんなことはなかった。夜間の見張りで、光を吸い込む影のようなものが空を横切るのを見た浄士もいる。幸いにして戦う羽目に陥ったことはない。
古参は「空が泣く日」——天蓋が裂け、光を吸う蛾の群れが降り注ぐ大災害——を口にすることもある。戦い方がわからないから、そろそろ調べておいた方がいいのかもしれない。誰か天翼人に書簡を送って知見をもらってはくれないだろうか。
そんな、哨戒部隊が緊張を強いられる日だった。
午後の訓練を終え、訓練場の出口に向かっているところで、同僚に肩を叩かれた。
訓練は盾と鉄槌の連携だった。二人一組で片方が盾を構えて前進し、もう一人が背後から聖句で結界を張りつつ隙間を叩く。実戦を想定した重い訓練で、足元の石畳が汗で黒く濡れていた。今日は若手の連携がぎこちなかった。盾を構えるタイミングが遅い。結界と攻撃の切り替えに迷いがある。「迷ったら盾を出せ。攻撃は後で取り返せるが、護りを怠れば取り返しがつかない」と言ったが、若手の顔はまだ強張っていた。言葉で伝わることには限界がある。体で覚えるしかない。
瘴気の濃い日は訓練も長引く。動きにくいからだ。だからこそ前線に出る前に、少しでも体を動かしておくほうがいい。体が覚えていることが、瘴気帯では判断の一歩分になる。
「おい、聖者様が来るぞ。正門だ」
「……そうか」
俺は盾の砂を払いながら、特に急ぐ気もなく正門に身体を向けた。訓練で盾の表面には細かい傷が増えている。護りの聖句の刻印が深く馴染んだ盾だ。赴任以来使い続けているが、まだまだ現役だった。傷の一つ一つに記憶がある。右下の大きな溝は、半年前の大型魔物の爪を逸らした時のものだ。左上の焦げは、濃い瘴気を帯びた咆哮を受け止めた時の痕跡。使い込むほどに盾は強くなる——聖句が繰り返し染み込み、刻印と金属が一体になっていく。後でまた、よく手入れをしなければ。
正門の方角から、人だかりの気配が感じられる。
白盾派の幹部が出迎えの列を作っていた。普段は厳めしい顔つきで指示を出すだけの古参たちが、背筋を正し、導師服の襟を何度も直している。上官の一人は鎧の留め金を点検している。胸当ての金具を外しては嵌め直し、また外す。手持ち無沙汰を装っているが、指先が落ち着かない。別の浄僧は、額の汗を何度も拭いていた。瘴気の濃い日に汗をかいているのは、気温のせいではない。緊張しているのだ。前線で魔物と戦い続けている男たちが、一人の来訪者のために緊張している。聖者様の訪問というのは、それほどの意味がある。
副長格の浄士が列の先頭に立ち、大声で周囲に指示を飛ばしていた。「並びを崩すな」「正面を見ていろ」その声も微かに震えている。彼は部下を何十人も指揮してきた男だ。魔物の群れに突撃するときも声は揺れなかった。それが今は——一人の聖者様を迎えるだけで、こうなる。
俺たち一般の浄士は、遠巻きに眺めるだけだ。正門近くに数十人の浄士が集まり、口々に期待を囁きながら、門の向こうを凝視している。訓練着のままの者もいれば、わざわざ着替えてきた者もいる。髪を手櫛で整えている若手がいた。聖者様に会うのだという実感が、修道院全体に広がっていた。
ざわめきの中から断片的に聞こえてくる。「船着き場まで迎えを出す話があったらしいが、固辞されたそうだ」「瘴気帯を一人で歩いて来るつもりらしい」——慢心ではなかろうが、護衛も無しにか。
正門が開いた。
重い木と鉄の軋みが、風の音に混じって響く。門扉は二人がかりで押し開けるもので、蝶番が錆びた音を立てた。蝶番の油切れは何度も報告されているが、修繕の手は回っていない。門の向こうには辺境の荒涼とした風景が広がっている——灰色の大地に、疎らに枯れた低木が点在し、地平線には紫がかった瘴気の霞が垂れ込めている。だが、門をくぐってきたのは荒涼とは対極の存在だった。
一人の男が、足を踏み入れた。
歳のころがわからない。細身の体格から若く見えるが、立ち姿にはそぐわない落ち着きがある。背は高くもなく低くもないが、姿勢の良さが実際の背丈以上に見せている。一歩一歩が丁寧で、石畳を踏む足音すらほとんど聞こえない。風が吹いているのに、服の裾に乱れはなく、風が避けているようにさえ見える。
まず、彼の携える杖に目が留まった。
嫩枝杖。浄士なら誰でも名前くらいは知っている。神託樹から折り取られたと伝えられる唯一の分け枝であり、教典にも記されている聖遺物だ。あの聖者がそれを携えているという話は、赴任の知らせと共に届いていた。
ただの木の枝をそのまま削り出した、というより若木を引っこ抜いてきたような不恰好な杖だった。節くれだった木肌がそのまま残り、意匠のかけらもない。あまりに質素で、武器として使うにはあまりに頼りない。あれが教団の聖遺物だと言われても、見た目だけでは信じがたい。だが——
先端近くに、淡い緑の新芽があった。あの杖は生きているのだ。
導師服の藍色が目に入った。装飾は控えめだが、遠目にも布地の質が辺境のそれとは明らかに違うとわかった。染めの深さが違う。辺境の修道服は使い込むと白っぽくなるが、あの藍色は瘴気まじりの風に晒されても揺るがない色だ。俺だって貴族の端くれだったから、布地の格くらいは遠目でも見分けがつく。布地に聖別が施してあるのかもしれない。中央から来た人間の装いだった。
あとは頭部をすっぽりと覆う簡素な布帽子と、色の付いた丸眼鏡だった。
帽子は飾り気のないもので、頭部を完全に覆い隠している。丸眼鏡は色味の強い煙水晶が嵌っていて、奥が見えない。髪の色も目の色もわからない。顔の大半が隠されているから、姿は見えているのに得体が知れない。
威圧感はない。覇気もない。それなのに、彼を中心にして周囲の空気が自然と整列していくような——奇妙な感覚があった。水面に落ちた一滴の雫が、波紋を広げるように。彼がそこに立っているだけで、周囲の秩序がわずかに変わる。矛盾した印象だった。
出迎えの幹部が跪くように頭を下げ、歓迎の辞を述べた。距離があり、風が強く、言葉は聞き取れなかった。だが、聖者様が口を開いたとき——声は聞こえなくても——出迎えの幹部たちの表情がふっと緩んだのが見えた。
厳めしい古参の浄僧が、まるで安堵したかのような顔をしていた。長年戦場に立ってきた男がああいう顔をするのは、そう見るものではない。前線で魔物と向き合い、部下を何人も見送ってきた男が——何を言われたのかはわからない。だが、声を聞いた者の顔が一様に和らぐ。そういう種類の人間がいるのだと、遠目に見て理解した。
「……凄いな。立ってるだけで空気が変わる」
隣で若手が呟いた。声が掠れていた。感嘆とも畏怖ともつかない声だ。
同感だった。
俺は鉄槌の柄を握り直し、静かに踵を返した。遠巻きの見物はもう十分だ。出迎えの儀式に俺が居る必要はない。今だって俺にしては大いに野次馬根性を発揮した方である。
若手が「浄士カエルムはもう見ないんですか」と聞いてきた。見た。十分に見た。あの聖者様がどういう存在かは、遠目でもよくわかった。近づく必要はない。
「……出撃の準備がある」
短く答えて振り返らなかった。
*
その日の夕方、詰所はいつにも増してざわついていた。
壁の灯火が何本か切れていて、いつもより薄暗い室内で、浄士たちが語り合っている。灯火の芯を替える係は前線に出ていて留守だ。予備の芯も備蓄が少ない。こういう細々とした物資が、辺境では慢性的に足りない。武器の手入れをしている者もいるが、手元は疎かで、話のほうに意識が向いている。到着の興奮がまだ冷めていなかった。
「間近で見た奴の話だと、ただ立っているだけで瘴気が避けて通るらしいぞ」
俺は壁際に座り、他の者達と同じように鉄槌の手入れをしながら聞いていた。
「疑問はなぜ今、ここなのかってことだ」
古参の浄士が腕を組んで言った。彼は前線経験が二十年を超えている。辺境の事情に最も通じている一人だ。顔の左半分に古い傷跡があり、右目は義眼だ。前線の生き証人のような男である。若手の訓練では、この男の経験談が教科書代わりになることも少なくない。
「銀路派で巡礼をこなし、双橋派で諸国との外交の象徴となり、金穂派では民の安寧を導いた。中央の中央にいて然るべきお方が、わざわざこんな辺境に。どんな事情があるんだか……双橋派の思惑か、それとも本人の意志か」
「銀路派の頃は隊商護衛の行軍にも帯同していたらしいぞ。巡礼の道中で瘴気帯を通り抜けることもあって、その都度、周囲の被害が激減したとか。結界を張ったわけでもなく、居合わせただけで」
「……化け物だな、良い意味で」
古参が軽く笑った。だが笑みはすぐに消え、真剣な顔に戻る。
「結界のことだろうな」
別の浄士が、周囲を窺うように声を落とした。
「最近、修道院を覆う広域結界の圧が薄くなっている。お前たちも前線に出ていれば感じるだろう。一年前と今とでは、結界の外縁の厚みが違う。魔物の発生頻度が上がっている。瘴気の濃度も増している。前線の交代が短縮されたのもそのせいだ。あの聖者様の力で結界を補強しようという考えなんだろう」
「瘴気濃度は半年前の一・五倍だ。結界外縁の厚みも三割減。水晶を使った精密な測定でな」
古参が腕を組み直して言った。前線の人間が蒼眼派の数字を引用するのは珍しい。だがそれだけ事態が深刻だということだろう。数字で裏付けられた悪化は、感覚だけの不安よりもずっと重い。
「結界が落ちたら終わりだぞ。この修道院が瘴気に呑まれれば、後方の村落も連鎖的にやられる。辺境区全体の防衛線が崩壊する。言葉遊びじゃなく、文字通りの終わりだ」
誰も反論しなかった。食べかけの干し肉を手に持ったまま、前線組の浄士たちが黙り込んだ。壁に掛かった地図の赤い印が、じわじわと後退している事実を、全員が知っている。
「兵站目的もあるらしいぜ」
若手が口を挟んだ。干し肉を齧りながら身を乗り出している。
「あの杖の樹液から秘薬が作れるとか。今までは中央からの補給に頼っていたが、船が遅れるたびに干上がっていた。自前で秘薬を精製できるようになれば」
「命綱が一本増える、というわけか」
なるほど。結界の補強と兵站の底上げ。白盾派の要請としては理に適っている。聖者様おひとりで、前線の維持に足りなかった要が二つ揃う。上層部が頭を下げて呼び寄せた理由はわかる。
「興味深い体質ですよね」
不意に聞こえた声に、会話が途切れた。
出入り口付近の影から、蒼眼派の修道衣を纏った研究者が覗き込んでいた。薄い笑みを浮かべ、同意を求めるように首を傾げている。袖には墨が飛んでおり、手帳を小脇に抱えている。指先に薬品の染みがある。この手の連中は、常に観察と記録を怠らない。
「あの聖者様の身体がいかにして瘴気を退けるのか。それから聖水や秘薬の精製効率にも興味がありますし、体質そのものの記録が取れれば、結界の運用にも応用が——」
前線組の一人が露骨に舌打ちをした。椅子が軋む音。別の浄士が腕を組んだまま冷ややかな目を向ける。場の空気が硬くなった。蒼眼派の連中は、聖者様だろうが何だろうが等しく観察対象にする。それが彼らの信条なのであろうが、白盾派とは反りが合わない。
……けれども、連中がいなければ困るのは事実だ。
結界石の残力を計測するのは蒼眼派の仕事だ。瘴気の濃度を数値化し、前線の交代時期の判断材料を出すのも彼らだ。魔物の行動様式を分析して、哨戒経路の更新を上に進言するのも。計器を読める人間は修道院でも限られている。前線で瘴気に当てられて倒れた浄士の体内蓄積を測定し、復帰の可否を判断できるのだって彼らだ。前線組がいくら彼らを毛嫌いしたところで、連中が一人でも欠ければ、前線の判断精度はがた落ちになる。
いけ好かないが、いなくなっては困る。辺境の人間関係は大抵そういうものだ。
「失礼。お邪魔だったようですね」
研究者は肩をすくめて姿を消した。後には、微かに化学薬品と黴た紙の匂いだけが残った。
「……まあ、そう嫌うな。連中が居なけりゃ、ぜんぶ勘頼りになる」
古参が呟いた。誰に向けた言葉でもない独り言だった。舌打ちをした浄士は、何も答えなかった。答える必要がなかった。皆わかっていることだ。
俺は黙って鉄槌の手入れを続けた。派閥の思惑も、聖者様の体質も、俺の務めの範囲外だ。
自分の務めを果たす。余計なことは考えない。
詰所を出ると、夕暮れの空が広がっていた。紫がかった灰色が、地平線のあたりで黒に溶けていく。遠くで鎮魂の鐘楼の音が聞こえた。夕刻の鐘だ。前線で還らなかった者への祈りを告げる、低い音。石の響きが辺境区の空気を震わせ、すぐに薄れた。毎日聞いている音だが、慣れることはない。慣れてはいけない音だ。
長屋に戻り、明日の哨戒に備えて装備を確認した。鉄槌の柄を撫で、聖句を一つ乗せ直す。盾の留め金を点検する。聖水の小瓶を腰帯に差す。一連の準備は体に染み付いた動作だ。何も考えなくても手が動く。
聖者様が来たことで、何かが変わるのかもしれない。結界は厚くなるだろう。薬の備蓄も増えるだろう。前線の浄士にとっては歓迎すべきことだ。だから——俺は日常を変えずに明日も鉄槌を振るえるのだ。明後日も。
寝台に横になって目を閉じた。暗闇の中に、あの静かな立ち姿がちらついた。気のせいだろう。
*
翌日からのことだ。
聖者様が修道院の日常に現れ始めた。ただし、遠くから覗く存在として。
朝、俺は哨戒から帰還して中庭に面する廊下を渡った。そのとき、遠目に聖者様の姿を見かけた。
中庭で結界の石碑を前にしていた。修道院を護る広域結界の要だ。表面には聖句が縦横に刻まれ、青白い光が微かに脈打っている。ここ数ヶ月、その光は弱まる一方だった。
付き人はない。ただ、回廊の柱の陰や中庭の端に、幾人もの浄士や浄僧の姿があった。皆、聖者様の祈りを妨げまいと遠巻きに息を潜め、俺と同じように足を止めて、ただ見守っていた。
やがて、波紋のように力の漣が広がったのを感じる。石碑の溝を走る光は、一つ息を吸い込んだように強まった。空気の質感が変わる。結界の内側にもうっすらと漂っていた瘴気の気配が、ふっと遠ざかった。弱まりかけていた結界が息を吹き返している。
*
その後も、数日にわたって聖者様の姿を遠くから見かけることがあった。
哨戒に出れば、結界の変化を肌で感じた。いつもなら境界線を越えた瞬間に泥を吸うような重圧があるのに、薄紙を破る程度の抵抗に減っている。「呼吸が楽になった」と、若手が空を見上げた。なるほど。これが白盾派が彼を呼び寄せた理由か。
中庭の結界石の前。毎朝、同じ時間に。杖を突き、目を閉じ、無言で結界を補強している。
そうしてふと気づいたのだが、聖者様がいつも立っている場所の周辺だけ、石畳の隙間から雑草が噴き出すように伸びていた。瘴気まじりの辺境の土壌で、こんなに青い葉が茂るのを見るのは珍しい。三日月型の小さな葉が、朝露を含んだように瑞々しく光っている。名前のわからない草だ。修道院の中庭にはもともと雑草さえ生えにくい。瘴気が土壌の養分を奪っているからだ。それなのに、彼の足元だけが、別の季節を生きているかのようだった。
よく見れば、光の粒のような微かなものが足元で揺れている。辺境で精霊が活性化するのは稀だ。瘴気が濃すぎて、寄りつかないのが普通だから。だから——光の加減か。朝陽に照らされた砂埃が光っているだけかもしれない。
昼過ぎの精製室の窓越し。窓硝子は結露していて、藍色の影がぼんやりと動いているだけだった。何かを調合しているらしい。一人きりで、黙々と。手伝いを申し出た者がいたという噂もあるが、丁重に断られたとか。
夜の回廊を一人で歩く後ろ姿。布帽子が灯明の光を映して、石の壁に長い影を落としていた。すれ違う浄士たちは足を止め、深く頭を下げる。俺も同じようにした。無言のまま、顔を上げたときには、もう後ろ姿しか見えなかった。聖者様も丁寧に会釈を返しているのだと聞いたが、そこには常に、一定の距離があった。丁寧さの裏にある壁。近づかせない穏やかさ。距離を取るのが上手い人間を、俺は初めて見たわけではない。だが、こういう種類の壁は、自分を守るためではなく、相手を遠ざけないために立てられたものに見えた。
どれも遠くから。決して近づくことのない距離から。
彼が俺たち前線の浄士と直接関わる場面はなかった。幹部たちと軍議をすることは勿論あるようだが、俺のような下級浄士が入れる場ではない。
「……食堂には来ないらしいな」
ある日の帰還途中、隣を歩いていた同僚が呟いた。夕暮れの回廊で、足音が二人分だけ石壁に反響している。
「到着してから一度も食堂に来ていない。食事は全て自室で摂っているそうだ」
「摂っている、のか? 樹液と聖水だけらしいと」
「ああ、それは聞いた。人前で食事をしないという噂も。食事時間になると自室に籠もっているらしい。幹部の一人が食事を勧めたら、丁寧に断られたとか」
食事を摂らない聖者様。人前で食事をしない理由。体質の問題。
引っかかりは覚えた。食堂というのは修道院の日常の中心だ。飯を共にすることで、同僚の顔色を見て、疲労の具合を知り、その日の戦果や危険な兆候を情報交換する。前線に出る者同士の、言葉にならない連帯を確認する場所でもある。どんなに悲惨な防衛戦の帰りでも、どれだけ心身が疲弊していても、食堂に来れば誰かがいる。戦死者の空席を見て皆が押し黙る日もあるが、それでも残った者たちで飯を食う。それだけで、明日も戦線を支えようという気が起こる。干し肉の塩気が強すぎると文句を言い合い、雑炊の薄さを笑い、壁の灯火が一つ切れたことに誰かが気づく。そうした些細なことの積み重ねが、魔物と隣り合わせの辺境の日常を支えているのだ。
なぜ俺がそこまで食堂にこだわるのか——自分でもうまく言葉にはできない。だが、思い返せばフォルティス家では、飯の時間だけは必ず全員が揃った。父は寡黙で、長兄は忙しく、次兄は別の修道院にいることが多かった。だが飯の時間になれば、いる者は全員卓につく。たいした会話もない。父が黙って匙を動かし、長兄が今日の教団の報せを二言三言述べ、俺は黙って食う。それだけだ。華やかな食卓ではなかった。だが、あの卓の上に全員分の皿が並んでいるという事実だけで、俺たちはまだここにいる、ということが確認できた。
辺境に来て、食堂がその代わりになった。前線に出て、帰ってきて、食堂に座る。隣に昨日と同じ顔がある。それだけで、世界はまだ繋がっている、と思える。
初めて前線に出たとき、震える膝を立たせてくれた先輩浄士がいた。その人とは食堂で隣に座ることが多かった。会話は少なかった。干し肉を黙って齧り、雑炊を黙ってすすり、黙って先に席を立つ。ただの日常だった。その先輩が防衛戦で帰らぬ人となった翌日の食堂で、空いた隣の席を見たとき、俺は初めて食堂で何かを失ったことを知った。だからこそ、食堂には来い。空席を増やすな。来られるなら来い。
食堂に来ない人間は、この修道院にはいない。
上官だろうが、古参だろうが、蒼眼派の研究者だろうが、食堂には来る。毎日ではないし、時間をずらすことはあるだろう。上官は昼時を外して人が少ない時間帯に来ることもあるし、蒼眼派の連中は手帳を片手に端っこの卓で手早く済ませることもある。赤誓派の前線帰りは汗臭いまま雑炊をかっ込むし、金穂派の兵站係は帳簿を卓に広げながら干し肉を齧る。やり方は様々だが、全員が食堂の敷居をまたぐ。ここは修道院の全員が同じ席に着く唯一の場所だ。
たとえ副長格であっても——前線の指揮を執る男でも——食堂で腰を落ち着けて雑炊を啜る。酒に手を出すこともある。食堂の卓の前では、階級も派閥も少しだけ緩む。それが食堂のもつ力だ。前線で命を賭け合った仲間と同じものを食い、同じまずさに顔をしかめる。それだけで、俺たちは同じ側にいると確認できる。
そこに来ない、ということは、この修道院の日常から、一歩引いた場所にいるということだ。結界の維持で修道院に貢献していても、日常の中には入ってこない。結界は分厚くなった。瘴気は薄れた。前線の浄士は楽になった。それは事実だ。だが、その恩恵を与えている本人が、修道院の輪の中にはいない。
「……関わりのない話だ」
自分にそう言い聞かせて、俺は長屋への道を急いだ。明日は前線だ。武器の手入れと聖別を済ませなければならない。
聖者様が来た。結界が厚くなった。それはいいことだ。俺の務めは変わらない。鉄槌を振るい、仲間を守り、前線を維持する。
——だが、あの食堂に一度も来ないという話は、少しだけ頭の片隅に残った。
食堂の飯はまずいが、悪い場所ではない。同僚の浄士たちがくだらない話で笑い合い、薄い雑炊をかっ込みながら生きている実感を分かち合う場所だ。灯明の光は弱いが、暗闇ではない。
そこに、聖者様は一度も来ない。
別に、俺が気にすることではないのだが。
■ 戦闘系聖句
・斃撃の聖句— 魔物を斃す基本聖句
・猛撃の聖句— 上位魔物向け強化版
・浄化の聖句— 瘴気の浄化
・断瘴の聖句— 瘴気帯の突破
・護りの聖句— 防御結界の展開
・連陣の聖句— 複数浄士の連携増幅
・覚醒の聖句— 瘴気に侵された者の正気回復
・鎮魂の聖句— 魔物の残骸への鎮めの祈り
■ 儀礼・日常系聖句
・聖別の聖句— 物に聖なる力を宿す
・癒しの聖句— 傷や病の治癒
・祝福の聖句— 出陣・旅立ちの祝福
・誓約の聖句— 浄士叙任時の誓い
・送別の聖句— 死者への弔い
・感謝の聖句— 食物への感謝
■ その他の聖句
・巡路の聖句— 安全な道筋の直感
・共鳴の聖句— 精霊との共鳴強化
・心火の聖句— 士気と結束の鼓舞




