表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
終わる世界と、聖者の食卓 〜この世で一番戒律の厳しい修道院なのに聖者が飯をたかってくる〜  作者: 藍津改


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/7

第一話 聖者が飯をたかってくる

悪役令嬢婚約破棄ものを嗜んでみたいと思い、戒律の厳しい修道院のことを考えていたら、そっちのコメディも面白そうだなあと思って、書いていたら、戒律の厳しさがエスカレートして世界が終わりそう。男主人公の無自覚チートが鼻についたらすみません、どうにもならず。悪役令嬢のほうがチートなので許してください。

タイトルなどにコメディを書こうとしていた名残があります。全7話。

終焉の灯修道院(ルーメン・フィニス)の食堂は、朝昼夜を問わず煤けた匂いがする。


石造りの壁は厚く、窓は小さい。灯明がぽつりぽつりと燻っているだけで、昼間でも薄暗い。天井の梁は煤で黒ずみ、壁の漆喰はところどころ剥がれて、下地の石積みが見えている。窓の外は辺境特有のくすんだ空だ。紫がかった灰色。瘴気に濾過されて、光が鈍い。今朝の空は、少し橙がかっていた。


気の滅入る景色だが、それでもここは修道院で最も人が集まる場所だった。長い木製の卓が三列、奥まで伸びている。椅子は質素な造りで、座面はすり減って歪に凹んでいる。何十年もの間、何百人もの浄士(じょうし)が座り続けた証だ。


飯を食って、僅かな休息を分かち合う。前線から戻った浄士が泥と血にまみれたまま席に着き、冷めた雑炊をかっ込みながら笑う。その後ろから誰かが汚いと文句を言って聖句と清浄魔法を飛ばす。死線をくぐり抜けた安堵と疲労が入り混じった空気。それが此処の日常だった。


そんな場所で俺は毎日食事をとる。口に入ればいい、というのが俺の食事に対する基本方針である。味の違いはよくわからない。塩が多いか少ないかはなんとなくわかるが、その程度だ。同僚には呆れられることもある。「フォルティス家の三男殿は舌が鍛鉄でできている」と言われたこともあった。褒め言葉ではないだろうが、俺としては特に問題を感じていない。鉄槌を振るっている分には、味覚は必要ない。


辺境の食事は大抵まずい——らしい。俺には判別がつかないのだが、若手が項垂れている様子を見るに、まずいのだろう。補給船が遅れれば干し肉の塩漬けが続くし、早めに届いたところで野菜は半分傷んでいる。聖別で腐敗の進行は抑えられるが、食感が戻るわけではない。


「……少し失礼します」


静かな声が聞こえて、俺は顔を上げた。


隣に人が座っていた。


いつから、とは言わない——気づいていなかった自分が恥ずかしい。正確には、気づいていなかったというより、自然に座っていた、という感じだった。気配がなさすぎる。座る動作も、息遣いも、衣擦れの音すら聞こえなかった。食堂のざわめきに紛れたとしても、隣に人が座ったことくらい普通は気づく。だが、この人にはそれがない。まるで最初からそこにいたかのように、自然に。


濃い煙水晶の丸眼鏡。頭部を全て包む布帽子。藍色の導師服は仕立てが良く、辺境の品とは質が違う。その裾から覗く手には、木の節のような淡い紋様があった。そして嫩枝杖(どんしじょう)が、すいと自立している。あの不恰好で器用な杖は、修道院で二つとない。


聖者様だった。


無言で卓に食材を並べていた。根菜が三種。形の整った蕪と、干からびた人参と、名前のわからない紫の芋。干した木の実が一掴み。それから小さな香草の束。俺の昼食の皿の隣に、整然と。手際がいい。慣れた動作だ。つまり、これはもう何度もやっていることなのだ。毎回同じ配置。根菜が左、乾物が右、香草が手前。


「……なんだ」


「聖別をお願いしてもよいですか」


声は穏やかだった。他意のない、静かな要請。修道院内で上官から聖別の依頼が来ることはある。聖水の製造、武器への聖別、魔法鞄の再聖別。どれも俺の日常業務だ。だがそれは通常、正式な依頼書を通して行われるものであって、食堂の席で昼飯を食っている最中に隣で行われるものではない。


周囲の浄士たちが、ちらちらとこちらを見ている。好奇心と、いくらかの面白がりの視線。またやっている——という空気。もはや食堂の恒例行事になっているのだ。


「……もちろんだ。それが俺の務めだからな」


口の中でそう呟いて、俺は感謝の聖句に続けて聖別の聖句を唱え始めた。「ムンドゥス・ドーノ——」感謝の祈り。「センプレア・サクラ——」聖別の祈り。掌から微かな光がこぼれ、並べられた食材に静かに沁みていく。根菜の表面が僅かに色づき、干し木の実の皮に光沢が戻る。香草の葉に微かに張りが出た気がした。いつも通りの、何の変哲もない日常動作だ。


どうしてこうなっているのだろうか。


一介の前線浄士である俺が、聖者様の食材をこうして毎食のように聖別している。普通に考えれば、とんでもない話だ。聖者様と一般の浄士の間には、雲の上と地面ほどの距離があったものだ。結界の維持や高度な儀式を行う聖者様と、前線で魔物の血と瘴気にまみれて鉄槌を振るう浄士。住む世界が違うはずだ。


それが今、肩を並べて食堂の席で——


いや、一息に理解するのは難しい。数ヶ月前のことから順繰りに思い出していかなければ考えが纏まらない。

——きっとそれは、聖者ヴィレア・シグナトゥスが赴任してくる数日前から始まっていたのだろう。


    *


夜明け前。空気が冷たく、吐く息が白い。修道院の最も奥まった区画。


俺は聖水の泉に立っていた。


終焉の灯修道院の聖水製造拠点は、本堂の北側に位置する薄暗い石敷きの区画だ。「泉」とは名ばかりで、実際には大きな石桶がいくつも並んだ作業場である。十ほどの石桶が列を成し、天井から吊り下げられた鉄管から注がれる水を受けている。水源は裏山の湧水だ。それ自体は普通の水だが、浄士や浄僧(じょうそう)の聖別を受けることで聖水に変わる。


巨大な石桶に満たされた水を、俺達は一桶ずつ聖別していく。夜が明ける頃には最初の便が前線に送り出される。陽が暮れても作業は続き、翌日の分を仕込む者もいれば、夜半にようやく最初の桶に手をかざす者もいる。日夜途絶えぬ営みだった。工房と呼ぶべきだろう。聖水の工房。


聖水は前線の命綱だ。瘴気を祓い、傷を癒し、結界の触媒となり、武器に力を乗せる。最前線では聖水の一瓶が一人の命と等価になることすらある。水を運ぶにも労力が要るから品質は大切だ、劣化などで一滴たりとも無駄にはさせたくない。だからこそ、丁寧にやる必要がある。


早朝から数人の浄士が黙々と桶を満たしている。水の跳ねる音と、低く響く詠唱の声だけが、石の壁に反射してこだまする。冷たい空気の中で、誰もが集中している。聖水作りは、生命のかかった修道の一つだ。


俺もその一人として、いつものように手を水面にかざして僅かに触れる。冷たい。水温は低く、指先が痺れる。だが手を引っ込めるわけにはいかない。


「センプレア・サクラ、汝に世界の輝きを灯せ——」


聖別の聖句を唱える。教団の教えによれば「センプレア」は「永遠なる充填」を、「サクラ」は「聖なる」を意味する原語だとされている。覚知者(かくちしゃ)たちが太古に形式化した「神の言葉の断片」と入門時に教わるものの、言葉の真なる意味や、原語がなぜこれほどの力を宿すのか、本当のところは誰にもわからない。前線の浄士にとっては与えられた道具でしかない。古参の浄僧は「理屈ではなく信じろ」と言う。実際、理屈で唱えても光は弱い。祈りとして唱えて、初めて掌から光が滲む。体に染み付いた言葉だ。入門から八年、前線に出て四年。唱える回数だけは確かに積み重なっている。若い頃は緊張しながら唱えていたが、今では呼吸するのと変わらない。祈りの言葉が喉から出て、掌を通って水面に触れる。その流れは自然だ。


桶の水が澄んでいく。ただの水が、澄んだ水に変わる。いや、透明だったものがさらに深い透明さを帯びる、というべきか。光の通り方が変わるのだ。朝の光がまだ届かない薄暗い区画の中で、聖水だけが微かにきらめく。水面に浮かぶ気泡が消え、内側から静かな輝きが満ちていく。水から立ち上る冷気が掌を撫でた。


丁寧にやるだけだ。いつも通り。


「ムンドゥス・ドーノ——」


感謝の聖句を最後に添える。世界の恵みに感謝を捧げる祈り。前線の仲間がこの聖水を使う。討伐に赴く浄士の腰の瓶に、治癒施設の棚に、結界術の触媒として。朝露が消えるように効果が薄れてしまっては、作った意味がない。もう一桶。もう一桶。一つずつ、丁寧に。手を抜く理由がない。


「……お前の聖水は長持ちするよな」


隣に立っていた先輩浄士が、独り言のように言った。四十代の、前線経験の長い古参だ。寡黙な男で、世間話のためにこんなことを言う人柄ではない。石桶から手を引き抜いて、疲労の色が濃い目で俺の手元を覗いた。額の汗を手の甲で拭っている。朝からもう何桶も聖別していたのだろう。彼の桶の水は普通に澄んでいるが、俺の桶のそれとは——何かが違う、と言われれば、そうかもしれない。俺にはよくわからない。


「……丁寧にやっているだけだ」


「そうだが」と彼は言って、小さく首を振り、また無言で自分の作業に戻った。


特に気にすることでもない。聖別の出来はそのときの集中度と体調に左右されるものだ。丁寧にやればおのずと質も上がる。それだけのことだと俺は思っている。特別な才能があるわけでもなし、高度な技法を使っているわけでもない。ただ一桶ずつ、手を抜かないだけだ。


フォルティス家は代々浄滅教団(じょうめつきょうだん)に浄士や浄僧を輩出してきた「教団仕えの家」だ。普人(テルム)の家系としては手堅い部類で、歴代の当主は後方指揮官か、さもなくば中央の由緒ある聖水泉の管理者だった。三男の俺は家督を継ぐ見込みもなく、幼い頃から前線前提の教団入りが既定路線だった。十四歳で入門し、聖盾公国(せいじゅんこうこく)内の修道院で基礎訓練を受けた。


叙任式のことは今でも覚えている。修道院の祭壇の前で片膝をつき、「センフォルティス・ユーロ、我が剣は世界と共にあり」——誓約の聖句を唱えた。「我が剣」は伝説の星の剣に由来する教団の古い定型句で、俺自身の得物は鉄槌だ。だが誓約の言葉は武器を問わない。唱えた瞬間に何が変わったのかは、実感としては掴めなかった。体が軽くなったとか、光が見えたとか、そういう劇的なことは何も起きなかった。だが——あの日から、聖句を唱えるとき掌が温かくなるようになった。気のせいかもしれない。


十八歳でこの終焉の灯修道院に赴任してから四年。華やかさはない。ただ堅実に、与えられた務めを果たす。それがフォルティスの流儀だ。


聖水の次は武器だった。長屋に戻り、鉄槌「朝凪」を棚から下ろす。


朝凪はフォルティス家が餞別にと俺に与えた特注の鉄槌だ。華美な装飾はない。柄は堅牢な樫の木で、頭部は聖盾公国の高位神職が聖別を施した純鉄。打撃面の反対側には短い刃がついている。鎧ごと叩き割った後、瘴気の核を抉り出すための造りだ。実用一辺倒の無骨な造りは、すっかり俺の手の形に馴染んでいた。柄を握ると、掌に吸い付くように収まる。角質の分厚くなった掌の窪みが、柄の膨らみにぴったりと嵌る。


感謝の聖句を乗せ、柄を撫で下ろすように聖別していく。刃と柄に祈りを込める。昨日の訓練で残った微かな瘴気の残滓を浄化し、次の出撃に備える。


ずっしりとした存在感。以前はそうでもなかったが、そろそろ他の浄士が持てないほどになっているのではないか。鉄に聖句が染み込んで、馴染んだ持ち主以外には扱いにくくなる。中央の古老から聞いた話だ。先日、若手が興味本位で柄を握ったが、すぐに手を離していた。「重いですね」と苦笑された。よく使い込んでいるという、褒め言葉だと受け取っている。


朝凪の手入れを終え、次は白塗りの金属盾だ。教団から支給された標準品だが、表面に多くの爪痕や打撃の凹みが刻まれている。瘴気による腐食を防ぐために定期的に油をすり込み、恩寵の祈りを込める。分厚い革鎧も同様だ。縁がすり切れ、補修の縫い目が幾重にも重なっている。血と汗と、かすかな獣の脂の匂い。前線に立つ者の匂いだ。これらの手入れを怠れば、いざという時に防具が瘴気に食い破られる。一つ一つの道具に己の命が懸かっている。盾と鎧の聖別も済ませた。それから魔法鞄の再聖別。辺境では瘴気の影響で空間拡張が不安定になりやすい。鞄の中に押し込めた物資が虚空に消え去ることもある。冗談ではなく、そういう事故は過去に何度もあった。前線の薬、食料、予備の聖水。それらが一瞬で消えれば、部隊は干上がる。前線の命綱を預かっている、という自覚はある。だから聖別は念入りにやる。一つとして疎かにはできない。


一通りの業務を終えて、俺は訓練場に向かった。


訓練場は修道院の裏手にある開けた区画だ。石畳の広場で、周囲を低い壁が囲んでいる。壁の一部は魔物の爪痕で崩れていて、それがまだ修繕されていない。前線が近いことを物語っている。


訓練場には、昨日の訓練で残った瘴気の痕跡が澱のように沈んでいた。黒い靄のような残滓が地面の窪みに溜まり、石畳の隙間にこびりついている。触れると指先がぴりぴりと痺れる。放っておくと壁や地面に染み込み、若手が体調を崩す原因になる。前線から持ち帰った瘴気が修道院の内側に蓄積すれば、結界の弱体化にも繋がる。


「センティア・ファクト——」


浄化の聖句を唱える。清められたる地よ。足元から広がった波紋が、澱んだ空気を押し出していく。黒い靄が少しずつ薄れ、朝の冷たく清浄な空気に置き換わっていく。一歩進む。聖句を唱える。また一歩。訓練場を端から端まで歩きながら、一区画ずつ清めていった。


戦闘後の後始末もまた、修道の一部だ。魔物を斃すことだけが浄士の務めではない。場を清め、地を浄め、次の戦いに備える。地味な仕事だが、誰かがやらなければならない。そして、俺はこういう地味な仕事が嫌いではない。


浄化の聖句を唱え終えたとき、誰に聞こえるでもなく感謝の聖句を呟いた。朝の習慣だ。「ムンドゥス・ドーノ——」。手の甲に朝日が当たる。穏やかな光だった。辺境の空はくすんでいるが、朝日だけは美しい。光の線が石畳の上を滑り、訓練場を横切っていった。


遠くから鎮魂の鐘楼の音が聞こえた。夜明けの鐘だ。低く、重い音。石の響きは空に吸われていくように、すぐ薄れた。今日もまた、同じ朝が始まる。


    *


訓練場を一周し終えたとき、隅に一人の若い浄徒(じょうと)が立っていた。


歳の頃は十六か十七。今日が初めての前線出撃だという少年だ。名前は聞いたが忘れた。顔は覚えている。蒼白な顔で新品の鉄錫杖を握りしめている。杖は支給されたばかりのもので、金属の表面に使用の痕跡がない。鏡のように光っている。すぐに傷だらけになるだろうが、今はまだ新品だ。


手が震えていた。杖の先がかちかちと石畳を叩いている。膝も微かに笑っている。目は虚ろで、焦点が合っていなかった。朝の冷気のせいだけではない。


無理もない。初めての前線は、誰にとっても恐ろしいものだ。俺もそうだった。四年前、初めて結界の外に出たときのことは今でも覚えている。門を一歩踏み出した瞬間、肺に泥水が流れ込むような圧迫感があった。空気の重さが変わる。呼吸が詰まる。肌がちりちりと針で刺されるように焼ける感覚。瘴気だ。


結界というもの自体は、浄士なら誰でも扱う。護印結界のように、一人の身を守るための小さな結界。それが基本だ。だが修道院や砦を丸ごと覆うような——人ひとりの力では到底維持できない規模のものは、広域結界と呼ばれる。この終焉の灯修道院も広域結界に包まれていて、内側にいる限りは瘴気がかなり濾過されている。辺境にはこうした広域結界の張られた拠点が点々と存在する。修道院、前哨砦、補給中継地。瘴気の海に浮かぶ島のようなものだ。戦いの足場であり、唯一の安全地帯でもある。その島と島を繋ぐ細い道を、俺たちは危険を冒しながら往復している。


結界の外に一歩出れば——そこは魔物の領域だ。


あの時、俺の足も震えていた。隣にいた古参の先輩が、無言で俺の肩を強く叩いてくれたから、なんとか膝をつかずに済んだ。その先輩は二年後の防衛戦で帰らぬ人となったが、あの日背中を押してくれた痛いくらいの重みは、今でも肩に残っている。今まで何人の若い浄徒が怯えながら門をくぐり、そして何人が戻ってこなかっただろう。数えるのはとうの昔にやめた。ただ、目の前の震える背中を一つでも多く生きて帰らせたいと、それだけを願う。


魔物。正式には瘴気の魔物と呼ばれる。瘴気が濃い場所で発生し、世界の辺縁からやってくる化けもの。形は様々で、人型のものもいれば獣のようなものもいる。共通するのは紫黒い瘴気を纏い、生き物を襲い、瘴気をさらに広げること。聖句を唱えて斃せば世界が少し清まる。教団に入って最初に教わる、基本中の基本だ。


辺境で最もよく遭遇するのは残映獣だ。古参の浄士は「ほどけの影」と呼ぶ。人の輪郭を保てなくなった瘴気の塊が、かつて生きたものの影を映して動く。赤く濁った光が顔のあるべき場所に灯っていて、朽ちた鎧の残骸を纏った姿で現れることもある。「魔物に殺された者は魔物になる」と辺境では言い伝えられているが、蒼眼派(そうがんは)は「瘴気が形を取っているだけで特定の死者が蘇ったわけではない」と否定する。前線に立つ者としては、どちらでもいい。目の前の敵を斃せばそれでいい。


俺は何も言わずに隣に立った。少年の手の届く距離で足を止める。


「ムンドゥス・テネ——」


護りの聖句を唱える。護りの礎よ。結界が薄く広がった。俺の足元から淡い光の円が広がり、少年を包み込む。目には見えないが、近くにいる者は感じ取れる——瘴気がここには届かない、という静けさを。空気の質が変わり、外から押し寄せる重圧がふっと消える。訓練場の空気が一段と澄んで、少年の周囲だけが穏やかな朝のそれに戻った。


少年の肩が、わずかに下がった。握りしめていた杖から、ほんの少しだけ力が抜けた。震えが完全に止まったわけではないが、呼吸が深くなった。


「……ここは安全だ」


俺はそれだけ言った。言葉でなだめるのは得意ではない。気の利いたことも言えない。「大丈夫だ」とか「恐れるな」とか、そういう台詞は俺の口からは出てこない。嘘になるからだ。大丈夫かどうかはわからないし、恐れないでいるのは不可能だ。


聖句を一つ与えて、隣に立つ。それで伝わることは伝わるはずだ。——俺はここにいる。お前の隣にいる。それだけ。


少年がわずかに頷いた。頬にわずかだが血の気が戻っている。


「出陣前に一つだけ思い出しておけ。ムンドゥス・グラティア——祝福の聖句だ」


短く唱える。「ムンドゥス・グラティア、世界の恵みよ共に歩め——」淡い光が少年の肩と俺の肩に降り注いだ。暖かい光だ。祝福とは大げさな名前だが、実際にはささやかなものだ。周囲の空気がほんの少しだけ澄み、結界では濾過しきれなかった瘴気の塵が遠ざかる。数時間だけ、瘴気への耐性がわずかに高まり、心が持ちこたえやすくなる。銀路派(ぎんろは)の浄士が旅立ちに唱え、白盾派(はくじゅんは)の浄士は出陣に唱える。修道の基本中の基本だ。劇的な効果ではないが、前線での士気を支えてきた祈りだ。


少年の握りしめた手から、少しだけ力が抜けた。


それでいい。


戦場で震えるなとは言えない。魔物を恐れない者は前線では長く持たない。恐怖は正しい。恐怖を感じない人間は、危機を感知できずに死ぬ。だが、恐怖に呑まれる必要はない。俺の護りの聖句が届く範囲は、安全だ。それだけを信じろ。


……と言いたいところだが、口にするとどうにも説教臭くなる。だから黙っておく。隣に立っているだけでいい。俺にはそれしかできないし、それだけでいい。


少年が顔を上げた。俺と目が合った。何か言いかけたが、結局「……ありがとうございます」とだけ言って、出撃の列に向かった。背中がまだ少し強張っていたが、足取りは先ほどより確かだった。


それでいい。帰ってこい。


    *


昼前、詰所に戻ると浄士たちが集まってざわついていた。


詰所は修道院の一階にある広い部屋で、前線から戻った浄士たちの休息と情報交換の場だ。壁に掛けられた管轄区域の地図には、赤い印が打たれている。前線の位置を示す印で、月日が経つごとにすこしずつ修道院に近づいている。その事実に言及する者はいない。武器の手入れ道具が壁際の棚に並び、使い込まれた研ぎ石が何個も転がっている。


食べかけの配給食が机の上に放置されている。飯の時間なんてあって無いようなものだから、食堂に行く時間を作れない場合はここで簡単な飯を食う。いつもは疲労の色が濃い無言の空間だが、今日に限っては妙にざわついていた。


「聖者様が来るらしい」


誰かが言った。それだけで俺には十分だったが、話はそこで終わらなかった。


「銀路派で巡礼して、双橋派(そうきょうは)で外交して、金穂派(きんすいは)で民生支援。宗派を渡り歩いた異色の経歴で、今度は白盾派の要請か」


「辺境まで聖者様が来るって珍しいな。広域結界が弱くなってるからか?」


「出自の噂は一切ない。銀路派からの紹介状だけ持ってきた、という話しか伝わってこない。どこで生まれて、どんな家の出なのか、誰も知らないんだ」


浄士たちが口々に言いながら飯を食っている。前線帰りが修道服の袖で口を拭い、補給担当は書き物をしながら聞き耳を立てている。


俺は自分の椀を手に取った。干し肉の入った雑炊だった。薄い。干し肉の味が湯に溶けてしまっている。塩気はある。まあ、口に入ればいい。


「今も銀路派に籍があるらしい。けど、ここまでの経歴の持ち主は他に聞かない。複数の宗派を渡り歩くこと自体が異例だからな」


「違いない。普通は一つの宗派で身を立てるものだ」


そうだ。赤誓派(せきせいは)なら重装歩兵として前衛で魔物を粉砕し、蒼眼派なら書庫や工房に籠って理を解き明かす。金穂派なら後方の農地や街の結界管理、白盾派なら拠点防衛が好まれる。


「宗派の壁を越えるなんて、よほど何かの才能に秀でているか——あるいは、どの宗派も持て余したかだな」


「すごいんだろうさ、来る前から評判だぞ。聖者様の近くにいるだけで瘴気が薄くなるとか」


「それは流石に話を盛りすぎだろう。歩く浄化炉じゃあるまいし」


「いや、銀路派の連中が口を揃えて言ってたらしい。出所は確かだと思うぜ。巡礼の道中で魔物の被害が半減したとか、荒れた結界が安定したとか」


浄士たちの会話は熱を帯びていく。聖者様は一人じゃないが、辺境への訪問自体が稀だからな。この修道院に赴任してから四年、俺はそのように高貴なお方を間近で見たことがない。祭事の際に遠くから姿を拝んだことはあったかもしれないが、それだけだ。前線の俺たちとは別世界の人間だと思っている。こんなところに長居して怪我でもされればこの世の損失でしかない。


「食事を一切摂らないらしいぞ」


その一言に、俺は匙を止めた。


「……食事を?」


「ああ。樹液と聖水だけで生きているとか。体質の問題らしいが、詳しくは知らん」


「樹液って、あの嫩枝杖の? そうか、樹液の聖者様のことだったのか」


「聖水も頂かれるそうだが、それ以外は体が受け付けないんだと」


珍しい話だ、とは思った。樹液と聖水だけ。それで体がもつものなのだろうか。聖者様と呼ばれるお人は一般の浄士とは違うのだろうが、それにしても——食事を摂らないということは、下っ端の屯す詰め所はおろか、食堂にも来ないということだ。食堂は修道院の日常の中心で、同僚の浄士たちが粗末な飯をかっ込みながら生きている実感を分かち合う場所なんだがな。


ただ、それだけだった。深く考える理由はない。俺には関係のない話だ。


「赤誓派は院にほとんど残ってないが、今後どう出てくるか」


「あちらは鉄槌で叩け、が基本方針だからな。蒼眼派の連中は嗅ぎつけてるって話もある。来る前から「興味深い体質だ」と早々に言っていたらしい」


前線組の一人がその言葉に眉をひそめた。蒼眼派の研究者への反感は、辺境の浄士の間では珍しいことではない。世界の理を解き明かすことに生涯を捧げる探究の徒は、人も物も等しく観察対象にする。あの連中には、前線で命を削る者ほど醒めた感情を抱く。聖者であろうと魔物であろうと、彼らにとっては「解き明かすべき謎」でしかない。俺もまた、好んで近づく相手ではないと思っている。


「カエルム、お前はどう思う?」


不意に話を振られた。


「……俺には関係のない話だ」


「冷たいねえ。でもまあ、お前らしいか」


俺は椀の中の薄い雑炊を、黙って飲み干した。


聖者様が来る。それだけのことだ。俺の仕事は変わらない。聖水を作り、武器を磨き、前線に出る。それだけだ。明日も明後日も、今日と同じ朝が来るだろう。


そのとき俺が思っていたことを正確に言えば——まあ、そんなものだった。


詰所の外から、鎮魂の鐘楼の音が聞こえてきた。訓練終了を知らせる昼の鐘だ。石の響きは空に吸われてすぐに薄れる。


世界は少しずつ壊れて狭くなる。結界は年々弱まり、瘴気は濃くなる。ここ数年で、前線の交代は二週間から十日に短縮された。魔物の発生頻度が上がっているのだ。壁に掛かった地図の赤い印は、じわじわと後退している。俺達だけではない。遥か空の高みでは天翼人(セラフィム)蝕蛾(しょくが)を狩っていることくらい知っている。他は知らんが、ともかく世界の縁は至る所から解けていて、間に合うならばと誰かが取り繕っている筈だ。


俺は自分の見える範囲で手一杯だから、他のことは別の奴らに任せるだけなのだ。

■世界 — チルド室に入れた氷のような感じ。魔物をぶっ斃すと少し凍る

 ・魔物 — 溶けた水の感じ

 ・聖水 — 冷却液の感じ。色々なものが凍りやすくなる

 ・聖句 — 神聖魔法。冷蔵庫のマニュアルの感じ

 ・魔法 — 神聖・闇魔法以外の魔法。冷蔵庫を叩いたり揺すったりする感じ


■浄滅教団 — 魔物ぶっ斃し隊。色々あって派閥毎に得意なことをしている

 ・正統派(白盾派)— 最大勢力。防衛線の維持と魔物討伐に専念する前線派

 ・巡礼派(銀路派)— 辺境を渡り歩き各地で魔物を討つ遊行の戦士

 ・殉教派(赤誓派)— 入念な準備で瘴気帯に橋頭堡を確保し、辺境奥深くで魔物を斃す精鋭

 ・探究派(蒼眼派)— 瘴気と魔物の本質を研究する学者集団。聖句の原語解読を進める。真理に最も近い

 ・結盟派(双橋派)— 国々や他宗教との協力関係構築を重視する外交派

 ・興民派(金穂派)— 人々の生活水準向上で全体的な戦力底上げを目指す


■階級

 ・大導師 — 教団全体の統率者

 ・上導師 — 導師の上位。大導師を補佐し、広域の統括を担う

 ・導師 — 地域教区の長など

 ・浄士 — 前線で魔物と戦う

 ・浄僧 — 後方支援・研究・外交を担う

 ・浄徒 — 修行中の見習い

 ・聖人(聖者/聖女) — 直接/間接とわず魔物を斃すことへの寄与が条件。明示的な指揮権なし、影響力は大導師以上

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ