【後日譚2】聖女様、夫は返していただきました
「奥方様が嫁がれて、ほんにようございました」
雪降る辺境伯邸にて。
家令のジェンキンスがシーツを畳みながらぽつりとこぼし、窓辺で目覚ましの茶を飲んでいたステラはふと顔を上げた。
「なにが?」
まだ寝ぼけつつ首を傾げれば、ジェンキンスは替えのシーツの端をきゅ、とベッドの隙間に押し込む。
白んだ朝日の中で、紅茶の湯気がふわりと揺れた。
「旦那様が聖騎士に任命された日のことです」
そう言ってジェンキンスは、ぽつぽつと語り出す。
「旦那様はその事実を我々に告げるなり、すぐさま部屋へと篭られました」
ステラがほう、と相槌を打つと、彼はゆっくりと頷いて続けた。
「しかし、その直後の事です。部屋からただならぬ音が聞こえ駆けつけたところ、室内は見るも無惨な有り様...。破壊の限りを尽くされた旦那様が、息も整えず、剣を手に立ち尽くしておられました」
シーツはずたずたに破れて羽毛が溢れ、薙ぎ倒されたクローゼットの扉は無惨にひしゃげ、床一面には鏡台の鋭い破片が飛び散っていた。
その中で荒く息を吐き出しながら、指が軋むほど剣を握り締めたセリウスが立ち尽くす姿は、家令一同が思わず腰を引いたほどである。
ぐっ、とシーツを引っ張って整えながら、ジェンキンスは眉を少し顰めた。
「あれは実に痛ましかった...。その凄惨さたるや、今ここにある家具は全て新しく買い揃えたほどです」
彼の言う通り、室内の家具は全てが真新しい。
てっきり妻を迎える為に買い揃えたのだと思い気にもしなかったが、そんな事があったとは。
ステラは「ふうん」と一つこぼすと、紅茶を傾けて息をついた。
生粋の騎士であり、辺境伯としての矜持を何より重んじているあいつの事だ。
“聖女に侍るお飾りの騎士”への任命は、あの日怒鳴った彼の言葉通りに、酷く耐え難いものだったのだろう。
「その後も、聖騎士のお勤めから戻る旦那様は何もおっしゃることはなく...。日に日に表情が翳られ、我々も“なんとお声をかけするべきか”と窺うだけの日々を過ごしておりました」
ジェンキンスは静かに言うと、整ったシーツを撫でてこちらを振り向く。
「しかし、今の旦那様は生き生きとしておられる。奥方様に接する姿は、まるで恋する少年のようです」
急ににっこりと微笑みかけられ、ステラは思わずごくっと紅茶を飲み込んだ。
「い、いや。あいつは単に遠慮がないだけだろ」
そう言って目を逸らせば、ジェンキンスはくすくすと肩を震わせる。
幼い頃から主人を見てきた彼にとっては、セリウスの変化はどう見ても明らか。長年側にいる家令や部下に対しても、今ほど楽しげに軽口を叩くことなどなかったのだから。
「いいえ。貴女がただのご令嬢でしたら、こうは打ち解けられなかったでしょう。その勇ましさと臆面のないお言葉が、きっと旦那様の本心を引き出したのですよ」
ジェンキンスが片目を瞑ると、ステラはやれやれと昇る紅茶の湯気に視線を上げた。
「一発怒鳴られなきゃ女と打ち解けられんとは、難儀なやつだな」
家を任されるジェンキンスには最初にセリウスとの素の会話を聞かれてしまい、慌てて繕ったもののすっかりこの口調はバレている。なので彼の前では言葉を取り繕うことはやめていた。
「にしても、本心ねえ...」
ステラは小さく呟いて、いつかのセリウスの様子を思い出した。
————
あの日、聖女による断罪と大茶番を終えて馬車の扉を閉めた瞬間のこと。
「んっ、ふふっ...あはは!!見たかあの王の顔!」
「ああ、見たとも。くく...っ、姫殿下のあの狼狽え様と来たら傑作だった」
走り出す馬車がガタゴトと揺れる中、ステラは我慢が弾けたように腹を抱えて笑う。向かい合うセリウスも同じく背を丸めて震わせ、口元を抑えた。
「しかし、君があれほどしおらしく泣けるとはな」
笑いを堪えすぎて目尻に浮いた涙を掬い、セリウスが顔を上げる。
「演技派だろう?頬の内側を死ぬ気で噛んでやった」
ほら見ろ、と口の端を引っ張って笑ったステラに、セリウスは思わず吹き出してまたかがみ込む。
ステラもあはは!ともう一つ笑うと、満足そうに頭を背にもたれかけた。
「明日にゃ間違いなく口内炎だ、ますます泣けるな。けど、お前もかなり演技派だったな?あんな顔ができるなんて思わなかった!」
思い切り茶化して笑えば、俯いていたセリウスは一層くつくつと震えて笑う。そしてしばらくの震えが収まると、ゆっくりと顔を上げた。
目の前で令嬢らしい淑やかさを脱ぎ去ったステラは、まだ口元に笑いを堪えて呟く。
「ふふっ、“俺も誓おう”なんて馬鹿みたいな演技をよくもあんなに...」
頬を綻ばせ、窓枠に肘をついて遠ざかる王城を眺めるステラの横顔は無邪気そのもの。
セリウスはその姿をじっと見つめて、ゆっくりと彼女に向かって口を開いた。
「...演技ではない。君が捕らえられたあの瞬間、俺は本当に恐怖を感じていた」
いきなり真面目な声色で告げられ、ステラは「へっ」と間抜けな声を上げてセリウスを見る。
セリウスはその様子に、ふ、と小さく微笑んだ。
「君を殺させてなるものかと、気付けば必死で台詞を叫んでいた。あらかじめ決めた言葉とはいえ、本心だった」
「このまま君が助からなければ、聖女を殺してやろうと思っていた程だ」
一層熱のこもった声で告げられ、言葉を迷う。
掬うように左手を取られ、ステラは慌ててごくんと息を飲み込んだ。
「な、なんだよ急に。お前、最近変だぞ。なんか演技が抜けなくなってないか」
いつしかセリウスは日常ですら甘い空気を纏うようになったと薄々気づいてはいたが、ここまで露骨なことはなかった。
ステラは逃げ場のない背もたれへずずっと後退りするものの、その手はしっかりと彼に握られたまま。
セリウスはステラの慌てた様子にくすりと微笑んで、流れる黒髪の内から狼狽えるエメラルドの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「...君に初めて見えた夜」
「己の不甲斐なさを正面から突きつけられ、耐え込めてきたものを全て吐き出した瞬間、騎士としての自分を取り戻した気がした」
セリウスは真摯に言葉を紡ぎながら、あの夜の事を思い出す。
解き放たれた鮮烈な赤い髪と、獲物を追い詰めるようなエメラルドの瞳。
嘲笑うステラに心の深くまで見透かすように突き刺され。もはや燃え尽きかけた身の内を、無理矢理嵐の中へと引き摺り出されて。
「閨を共にする頃には、...火がついていた」
触れて声ひとつ漏らさぬ、強情で不遜な女。
挑発的なその態度が、火を大きく燃え上がらせた。
——そして気づいた。
全てを諦め切ったはずの自分が、今までに無いほど高揚し、消えた闘志すら感じている。
その自由を差し出したのが、目の前の女。
慰めるでもなく、癒すでもなく、火をつけた女。
彼女と共謀する内に、ふとそれを思い知った時には、...もう遅かった。
隣に立つこの“妻”が、どうしようもなく眩しく見えていたのだ。
内面を飾らず、派手に笑い、怒鳴り、すべてをこちらに曝け出す豪胆な彼女が、聖騎士を脱する目的以上の———炎の源となっていた。
「改めて誓おう。君を心から愛している。望み通り、俺は君のものとなろう」
セリウスは持ち上げたステラの薬指へと、そっと口付けを落とす。
薄い唇から体温が落ちたその瞬間、熱はぶわっとステラをみるみる真っ赤に染め上げた。
「っ、...なっ...、いや、...じょ、冗談もたいがいに...」
ステラはいきなりの事に固まったまま、途切れ途切れの言葉しか返せなくなってしまう。
な、なんだ、なんでいきなりこんなことを言うんだこいつは。
上がり続ける肌の熱に混乱したまま、ステラは必死に視線を逸らそうとするばかり。
しかしセリウスは端正な顔をわざと近づけて、ステラへと甘く微笑んだ。
「冗談で女を口説く趣味はない」
握った手のひらに、するりと指を絡める。
「ようやく“本当の夫婦”になれるな、辺境伯夫人」
「なっ...、なっ...、なっ...」
そしてひたすら甘い空気の中で「さあ口付けを」とばかりにセリウスに迫られ。
屋敷に着いた瞬間に
「やめろなんなんだお前は!!!!」
と慌てて馬車から飛び出したところを、出迎えたジェンキンスに受け止められたのである。
————
そんなあらましを思い出して少し赤くなったステラは、紅茶をずずっと啜って照れを誤魔化す。
「い、いや、でも、あたしは別にあいつの事をなんとも思ってるわけじゃないし!盛り上がってんのはあいつだし!急におかしくなられて迷惑してんだよこっちは!」
口を尖らせて並べ立てるステラに、ジェンキンスは「左様ですか」と穏やかに口元を綻ばせる。
するといきなりガチャッと扉が開かれてセリウスが姿を現し、ステラはカップを放り投げそうになった。
「わっ!?ばっ、お前!ノックぐらいしろよ!!」
浮いたカップを受け止めて慌てるステラに、セリウスはにまりと微笑む。
「そんな事をしたら君が驚かないだろう」
「よしわかった、ツラ貸せ。一発殴る」
ぐっと拳に力を込めるステラにも彼は嬉しそうな顔をするばかり。歩み寄ると慣れた様子で振り上げられた拳を受け止め、額にキスを一つ落とした。
「寝ぼけているのか?やけに精度が低いな」
「ッッッころす!!」
「日に日に罵倒が幼稚になるな。可愛らしいことだ」
取られた腕を押さえられたまま、さらに頭までさらりと撫でられてしまう。ステラはますます顔を赤くして怒鳴り声を上げた。
「こんの...ッ!!」
が、やわやわと長い指で何度も撫でられる感触が邪魔をして、全く頭が回らない。
「この...ぶっころ...ボケナス...あほクソやろーが.........」
おかげで幼稚な罵倒の繋ぎ合わせにしかならず、勢いすら次第に落ちて視線が下がっていく。
「物騒な物言いは相変わらずだな」
セリウスはくくく、と笑うと、撫でていた指でステラの顎を軽く持ち上げた。
「...どうやら、まだ躾が足りないらしい」
意地悪く金の瞳を細められた途端、ステラはひくっと引き攣ってぎゅっと口をつぐむ。
こ、これは良くない流れだ。ステラの脳裏にいつだかの“君の知らない全て”を教え込まれた夜が蘇る。
次第にじわじわと汗を浮かべて茹で上がっていくステラに、セリウスは心底楽しげに唇の端を上げた。
やれやれ、とジェンキンスがシーツを抱えて扉へと足を向けたその時。
「...ジェンキンス...!」
絞り出すような声に呼び止められてはた、と足を止める。
「...あ、朝メシは、まだか...!?」
振り返れば、ステラが全力で彼の胸を押しのけてぷるぷると震えていた。セリウスに顎を取られたまま顔だけは必死にこちらに向けて、本気の助けを求める懇願。
「...頼むから、嘘でも出来てると言ってくれ...!」
その表情の情けなさたるや、まるで首根っこを摘み上げられた猫のよう。
「ブフォッ」
ジェンキンスは柄にもなく、勢い良く吹き出した。
「...失礼。もうご用意しておりますよ。旦那様も程々に」
何事もなく取り繕って微笑むと、セリウスは「仕方がない」と残念そうに肩を落とす。
顎を手放されたステラは、っはあ〜〜〜!と緊張を吐き出すように息を長くついて、ティーテーブルへと突っ伏した。
顔を伏せたまま真っ赤になって湯気を立ち上らせる彼女の姿は、甘さに慣れぬ新妻そのもの。
まったく、これでまだ夫を「何とも思っていない」だなどと言ってのけるのだから強情な奥方様である。
「どうした、立ち上がらないのか?空腹なのだろう」
茹で上がったステラにわざとらしく手を差し出すセリウスは、妻をからかう事が楽しくてたまらないといった様子。
「...後の手合わせで絶対泣かす...」
牙を剥き出して唸るステラがセリウスの手を取ると、彼は余裕の笑みを彼女に向けた。
「さて、昨夜泣いていたのは誰だったかな」
「だ ま れ ッッッ!!!!」
ぶわっと毛を逆立てて絶叫する奥方に、ジェンキンスは生温かく目を細める。
(旦那様、良い奥方様を貰われましたね)
荒み切った主人の心を気に掛けながら、何もできない日々は終わった。
今はもう、心の奥まで噛み付いて奮い立たせる“火”が側にある。
そんな内心を告げる事なく、彼はくるりと背を向ける。扉を閉めたジェンキンスは、鼻歌と共に寝室を後にするのだった。
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