第1部 第3話:迷子の約束
忘れ物センターは、薄い埃と洗剤の匂いが半分ずつ。
夜景を吸い込んだガラス戸の向こう、傘と鞄とぬいぐるみが小さな山脈みたいに積まれている。
カウンターに貼られた「持ち主が現れるまで大切に保管します」の紙は、角がめくれて波打っていた。
私が近づく前に、台帳は勝手に開く。
薄紙が空気を飲む音。紙縁のざらつき。
『拾得物は、所有者が現れるまで保管する。
現れぬ場合、所有は保管人に帰す』
(来た。古い条文の癖)
私は余白に付箋を立て、ペンで新しい骨組みを描く。
「——宣言条項。保管人は所有の意思を持たない。
持ち主が現れるまでの代理占有にとどめる」
紙の糊がゆるむように、台帳の罫線が少しだけ柔らかくなった。
そのとき、ぬいぐるみが小さく鳴く。
ビー玉の目が、ほんの少しだけ濡れて見えた。
『……おうち』
「返そう。返すための道筋を、先に敷く」
私は運用規程をめくり、通知手順の段落に指を滑らせる。
「通知の強化。視認性の高い掲示/SNS連携/期間限定の特設コーナー」
葉月広報官に短文を飛ばす。
《“持ち主さがし週間”今夜から。やさしいタグを三つ。写真は指定区画で、個人情報はマスキング》
数十秒で既読。テンプレ画像のURLが返ってくる。
志摩課長が頷き、案内矢印のステッカーを追加で貼った。
空気の目印が、ひとつ、またひとつ増えていく。
———
ほどなくして、息を切らした中年の男性が駆け込んできた。
焦げ茶のコート。襟元に雨粒。
「それ……それは、私の鞄で」
私は本人確認の手順を淡々と進め、最後に鞄を差し出す。
男性は抱きしめるように受け取り、ぎこちない笑顔のまま何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、助かりました」
「規則が、あなたに返しただけです」
言いながら、胸の奥が少しだけ温かくなる。
台帳のページが一枚、白くなった。
所有の主張が、音もなく抜けていく。
『……代理占有で、保管』
台帳の声は、さっきより低く静かだ。
紙の角が、眠る子どもの肩みたいに丸く見える。
(約束を、人に返す——それが、私たちの仕事)
———
引き取りの列が落ち着くと、私はぬいぐるみの前にしゃがんだ。
丸い耳。ほどけかけの糸。
「君の“おうち”も、きっと見つかる」
私はスマホでテンプレを開き、写真の撮り方ガイドを読み上げる。
反射光、背景、手の添え方。
言葉で道を作り、手順で安心を作る。
それは戦場でも、ここでも同じ。
『……まってる』
ぬいぐるみの声は、もしかしたら私の空耳かもしれない。
それでも、いい。
私は台帳に一行を足した。
——“拾得物の人格的価値は尊重される。展示は指定区画のみ、接触は手袋着用”
志摩課長が肩を回し、背後で葉月の通知が連続して鳴った。
“#見つけてください” “#帰り道のタグ” “#ただいまって言いたい”
やさしい単語が、目印になって流れていく。
———
「ユイ」
振り返ると、久遠監査官の短文が届いていた。
『構内、収束傾向。忘れ物、運用変更を正式反映しておけ』
「了解。議事録、確定します」
私は深呼吸をひとつ。
台帳の最後に、静かに書き足す。
——“約束は、人に返すためにある”
その一行で、紙の上の何かが、カチリと噛み合った気がした。
ぬいぐるみの目が、ほんの少しだけ明るく見える。
夜の換気口から、冷たい風が入り、埃の匂いをひとつ持っていった。
私は立ち上がり、バインダーを抱え直す。
次は、線路際の花束。
言い方を変えて、風向きを変える。