第1部 第2話:但し書きの向こう側
臨時便は動き出した。
それでも、構内には人が滞留したままだ。
ざわめき。ため息。ペットボトルの小さな転がる音。
掲示板の影がざわつき、古いフォントの注意書きが息を吹き返す。
『構内立ち入りは、営業時間内に限る』
——ここを、書き換える。
私は危機管理課の回線を開いた。
駅長、警備会社、志摩課長をスピーカーフォンで束ねる。
三度の電子音が鳴り、久遠監査官の落ち着いた声が乗った。
『条文案は送った。命令は避けろ。まず目的、次に許可。運用条件は最後だ』
「了解。読み上げます」
私は“議事録の声”に切り替える。
ゆっくり、安心する速度で、言葉を積んだ。
「本件、帰宅困難の解消を目的に、構内開放の臨時延長を許可します。
安全監視を増員し、混雑時は一時退避所として運用します。
撮影は指定区画に限ります」
掲示板の影がすっと薄くなる。
改札の扉が音もなく開き、床に寝転んでいた不安が、椅子に座った安堵へ形を変えた。
誰かが「助かった」と言い、別の誰かが静かに泣いた。
『……許可。——ただし、仮眠は二時間まで』
条霊の返事は短い。けれど、柔らかい。
私は合意文を議事録に写し、末尾に小さく付け加える。
——但し書きの適用範囲を、帰宅困難へ準用。
「広報ライン一本化します」
葉月広報官がキーボードを叩く。
「“帰るための開放です”を冒頭に。煽る単語は排除。代わりに具体的手順をトップに置く」
志摩課長がホワイトボードに◎を二つ。
「安全監視の増員、警備会社に回せ。誘導は矢印ステッカーを追加。写真は特設区画だけ——いいな」
私は頷く。
付箋を剝がし、柱の角度を少しだけ変え、もう一度、ホームの空気を吸った。
(言葉を石垣みたいに。崩れない高さで。崩れたら、積み直す)
———
小さなトラブルが連鎖的に消えていく。
迷子の親が案内表示に拾われ、ベビーカーの列が安全な位置へ移動する。
「案内を依頼形にしたの、効いてますね」
私は呟き、志摩課長が短く笑うのを横目で見た。
「言い方で、人は動く。人が動けば、条霊も動く」
(そう。現場は、言葉の通り道でできている)
私は危機管理チャットに、経過報告を一行。
——“臨時延長、定着。事故兆候なし。次、忘れ物センターへ向かいます”
売店の自販機でココアを買う。
ぬるい。けれど、今はそれがいい。
喉を通る糖分に、頭の回転が半歩だけ軽くなる。
———
忘れ物センターの前は、薄い埃と洗剤の匂いが半分ずつ。
ガラス戸の向こう、傘と鞄とぬいぐるみが山のように積まれている。
台帳の角は擦り切れ、紙札の「持ち主が現れるまで」は角がめくれて波打っていた。
私が近づくと、台帳は勝手に開く。
紙が吸う音。紙縁のざらつき。
『拾得物は、所有者が現れるまで保管する。現れぬ場合、所有は保管人に帰す』
(来た。古い条文の癖)
私は余白に付箋を立て、ペンで骨格を描く。
「保管人は所有の意思を持たない。持ち主が現れるまでの代理占有にとどめる」
ぬいぐるみが、小さく鳴いた。
ビー玉の目が、ほんの少しだけ濡れて見える。
『……おうち』
「返そう。返すための道筋を、先に敷く」
私は運用規程に通知の強化を追記し、葉月へ短文を飛ばした。
「“持ち主さがし週間”、今夜から。優しいハッシュタグを三つ。写真は指定区画で、個人情報はマスキング」
台帳の頁が一枚、白くなる。
所有の主張が、音もなく抜けていく。
ほどなくして、中年の男性が息を切らして駆け込んだ。
「それ……それは、私の鞄で」
私は本人確認を終え、鞄を渡す。
抱きしめるみたいに受け取り、何度も頭を下げる人。
「ありがとうございます。本当に、助かりました」
「規則が、あなたに返しただけです」
私は笑い、議事録に一行を残した。
——約束は、人に返すためにある。
———
構内アナウンスが、ようやく今夜の顔になった。
私はホームに戻り、最後にもう一度だけ掲示板を見上げる。
『臨時延長、継続中。安全監視、増員中』
よし。
最初の火は消えた。
次の火種は、もう目の前。
(台帳が“人も忘れ物だ”と言い始める。所有と占有——言い換えの戦い)
私の手の中で、バインダーの金具が小さく鳴った。
その音は、次の議事の合図みたいに聞こえた。