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公園で落とし物を拾ったんだが、心が弱いので、悪魔が囁いた

 九月の月曜の夜だった。


 いつものように夜間清掃の仕事を終え、会社から自宅へと向かっていた。夜風はまだ夏の名残を残していたが、どこか湿気を孕んでいて、秋の訪れを感じさせた。空には雲が広がり、街灯の光がぼんやりと滲んでいる。


 いつもの道を歩く。近道になるので、『軽費老人ホーム(A)あけの星荘一七〇m』という看板が立つ丁字路付近で脇道へ入り、手すり付きの狭い階段を下りた。そこから大堤公園を南から北へと抜けていく。


 公園内の通路に足を踏み入れた途端、森特有の匂いが鼻を突いた。湿った土と木々の青臭さが混じり合い、冷え始めた夜気とともに肌にまとわりつく。


 公園の中ほどには、小川が大堤沼へと流れ込んでおり、そこには短いセメント橋が架かっていた。橋の手前まで来たとき、足元に違和感を覚えた。


 何かが落ちている。


 近づいてみると、それは分厚い封筒だった。雨に濡れた形跡もなく、ごく最近落とされたもののように見えた。不審に思いながら拾い上げると、予想外の重みが手に伝わる。封を開け、中を覗き込んだ瞬間、思わず息をのんだ。


 一万円札がぎっしり詰まっていた。


 帯封こそないが、ざっと見積もっても百万円以上はあるだろう。指先が僅かに震えた。驚きとともに、どうするべきかと迷いが生じる。


 このまま警察に届けるべきか。それとも、何も見なかったことにして元の場所へ戻すべきか——。


 額が額だけに、さすがに交番では対応しきれないだろう。となれば、警察署まで行くことになる。しかし、それが厄介だった。


 俺には前科がある。冤罪とはいえ、一度警察の手を煩わせた身だ。


 もしこの金に何かいわくがあった場合、俺が何かと因縁をつけられる可能性は十分にある。警察という組織がどういうものかは、嫌というほど思い知らされてきた。痛くもない腹を探られたくはない。


 だが、すでに封筒を開け、中身を見てしまった。札束にも封筒にも、俺の指紋がべったりとついているだろう。気づかなかったことにするのは難しい。


 夜も遅い。仕事終わりで疲れ切った身体で、警察署まで出向く気力はなかった。どうするかは明日考えればいい。そう結論づけると、封筒を鞄にしまい、そのまま自宅へと向かった。


 金だと気づいた瞬間に感じた、全身がざわめきに包まれる感覚。


 胸の奥底から這い上がってくるような、何とも形容しがたい気持ちの悪さ。まるで自分の身体が自分のものではなくなったかのような、心だけが浮遊しているような感覚。


 目の前で突然ありえないことが起きた時に襲ってくる、あの異様な感覚だ。


 思い出した。あの時と同じだ。

 痴漢の濡れ衣を着せられ、警察に連れて行かれた時のことを。


 極度の興奮状態というのは、こういうものを言うのだろう。おそらく俺は今、目を見開き、異様な表情を浮かべ、まとわりつくような空気を放っていたに違いない。誰も寄せつけない、近寄りがたい何かを。


 そんな感覚に支配されたまま、自宅に辿り着いた。


 薄暗い部屋の中、狭いテーブルの上に封筒を置き、じっと見つめる。悪い感情が、ふつふつと芽生え始めた。


 どうせ、拾ったところを見ていた人間はいない。

 猫糞したところで、誰が気づく?


 もし持ち主が本当にこの金を探しているのなら、警察に届け出るだろう。だが、帯封のない百万以上はありそうな金。恐らく曰くつきだ。


 落とし主が現れなければ、この金は自動的に拾い主のものになる。それなら、もう俺の手の中に収まったも同然じゃないか。


 それに、俺が一体何をしたというんだ?

 痴漢の濡れ衣を着せられ、理不尽に前科者となり、人生を台無しにされた。

 不倫していた元妻は、慰謝料も払わず、のうのうと間男と再婚した。


 二十年近く築き上げてきた信用も、仕事も、すべて失った。

 そんな俺が、今さら何を正しく生きようとしたところで、報われることなんてあるのか?


 現実を見ろ。

 手取り十五万にも届かない、赤貧生活。小型冷蔵庫と布団、最低限の家具しかない、がらんとした1Kの部屋。娯楽もなければ、余裕もない。日々の暮らしに追われ、ただ生きるためだけに働く。


 こんな生活を送るために、俺は人生を捧げてきたのか?

 神様が憐れんで、慰めるために与えてくれた幸運が、この金なんじゃないか?

 だったら、手に入れて何が悪い?


 そう思うと、急に金が俺のもののように思えてきた。神が与えた救済だ。何かの間違いで落ちていたのを、俺が拾っただけ。それをどうしようが俺の勝手だ。


 だが……。

 頭の片隅では、そんな考えが間違っていることを理解していた。悪いことだとわかっている。わかっているのに、言い訳が次々と浮かんでくる。


――俺は被害者なんだ――

 これくらいの幸運があったっていいはずだ。

 こんな目に遭わされたんだから、少しくらい報われてもいいじゃないか。


 そんな考えが膨らみ続け、まるで自分の悪しき行いを正当化しようとするかのように、理屈をこね回し始める。悪いと知りながら、その気持ちを覆い隠し、押し込めようとするように、邪な考えが増幅していく。


 貧すれば鈍する——まさに、その言葉通りだった。

明日は21時10分投稿予定です。

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