痴漢の濡れ衣を着せられ、裁判で執行猶予付き有罪判決を食らった……
これから語るのは、俺が実際に体験した出来事だ。
三年前、俺の人生はまるで嵐に巻き込まれたかのように、一瞬にして崩壊した。あの日もいつものように電車で通勤していたはずだった。
だが、突然、見知らぬ女の叫び声が車内に響き渡った。「痴漢!」という言葉が耳に飛び込み、気づけば俺は駅のホームで取り押さえられていた。
何もしていない。やっていない。そう訴えても誰も耳を貸さなかった。
警察に連行され、取調室で何時間も責め立てられた。だが俺は一貫して否認した。しかし、現実は非情だった。刑事裁判にかけられた俺は、結局、執行猶予付きの有罪判決を受けることになった。
法廷でその言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。
判決が下ったその日、妻は家を出た。すぐに離婚届が届き、俺は独りになった。勤めていたメンテナンス会社からは懲戒解雇。年収八百万の生活は一瞬で崩れ去り、無職の烙印を押された四十代の男がそこにいた。
何もかもが嫌になった。戦う気力さえなくなり、告訴を断念した。俺は住んでいたマンションを引き払い、上京することを決意した。
たとえ冤罪でも、一度前科がついた人間がまともな職に就けるはずがない。だが、東京なら何かあるかもしれない。そう信じていた。
だが、それは甘い幻想に過ぎなかった。職を探しても、履歴書の「前科者」という現実がすべてを打ち砕いた。どこへ行っても門前払い。半年も経たないうちに貯金は底を尽きかけていた。
そして、追い打ちをかけるように、元職場の同僚から耳を疑うような話を聞かされた。
元妻は、俺と離婚するために痴漢冤罪を利用した。慰謝料を払いたくなくて、離婚前から不倫していた事実を隠し、俺が捕まるや否や速やかに離婚に踏み切ったのだ。
腸が煮えくり返った。怒りで手が震え、壁に拳を叩きつけた。だが、怒ったところでどうなる? 俺はもうすべてを失った後だった。
それからの俺は荒み切っていた。未来なんてどうでもよかった。そんなある夏の夜、どうしても酔いたくなり、場末の居酒屋に入った。
酒をあおりながら無為な時間を過ごしていると、隣に座った同年代の男となんとなく言葉を交わすようになった。酔いに任せて話しているうちに、彼がふとこんなことを言った。
「俺の地元の友人がさ、清掃会社を立ち上げたんだけど、従業員が集まらなくて困ってるんだよ」
その言葉が、俺の運命を変えた。
教えてもらった連絡先に半ば賭けるような気持ちで電話をかけると、話はとんとん拍子に進んだ。面接も形式的なものだった。そして数日後、仙台市宮城野区で清掃員として新たな人生を歩み始めることになった。
捨てる神あれば拾う神あり。そう思わずにはいられなかった。
会社は幸町にある低層の雑居ビルの一角にあった。看板も目立たず、外観は年季の入ったコンクリート造りの建物。古びた鉄製の階段を上り、錆びついた扉を開けると、そこに俺の職場がある。
一方、俺の住まいは安養寺の片隅に建つ二階建ての木造アパートだ。築四十五年は軽く超えているだろう。外壁の塗装は剥がれ、ところどころにひびが走っている。
玄関のドアは立て付けが悪く、夜中に帰宅するとギィ…と湿った音を立てて開く。だが、そんなボロさもこの部屋を選んだ理由の一つだった。
風呂とトイレ付きの一K。家賃は管理費込みで二万。破格の安さだ。職場までの距離は二・五キロほどで、徒歩なら三十分といったところ。自転車なら十五分もかからない。東京で暮らしていた頃を思えば、これほど恵まれた環境はない。
手取りは十五万に届かない程度。贅沢をしなければ、毎月数万は貯蓄に回せる。生活は質素だが、困窮というほどではない。
勤務シフトは特殊で、土日はフルタイム。午前八時から午後六時まで働き、休憩は一時間。平日は企業の始業前と就業後の二部構成だ。
朝は早朝の暗いうちに出勤し、夜はオフィスが静まり返った頃にもう一度働く。休日は火曜と水曜で固定されていた。
パートが急に休んだ時や、シフトに穴が開いた時は、当然のように俺が入ることになる。それでも不満はなかった。
清掃の仕事は単調だが、意外にも性に合っていた。雑巾を絞り、モップをかけ、廊下の隅々まで磨き上げる。終わった後の達成感は、悪くない。
誰にも邪魔されず、一人黙々と手を動かす時間が、俺には心地よかった。