シーン 1:実と虚の邂逅
「う~ん・・・」
何だろう、今日は目覚めが異常に酷い。
気持ち悪い。
頭が痛い。
吐き気がする。
そして・・・ここは?
まだ意識の朦朧とする中、辺りを見回す。そこは、よく見慣れた場所だった。
教科書や参考書ではなく、マンガや小説がその大半を占めてしまっている本棚に、意外にもきちんとジャンルごとに分けて整理されているCD棚。
そして勉強机の隅に、人に見られたら恥ずかしいことこの上ないから必死で拒否したのに、無理やり本人に置かれた留学中の妹の写真。
部屋の片隅立てかけられている、先輩たちと夢中になってセッションし続け使い込まれたギター。
そのどれもが、これ以上ないほどに見覚えがあった。
「・・・て、僕の部屋だから当たり前だよ」
まだボーっとする頭で考える。
記憶の混濁は相当なものなのか、パッと思い出せはせず、順を追って糸を引くように少しずつ。
「えっと、昨日は・・・」
いつ眠ったのかはおろか、いつ部屋に戻ったのか・・・いや、いつ家に帰ってきたのかさえはっきりしない。
それでも、どうしてか必死になって昨日あったことを思いだす。
「そうだ、確か・・・!」
昨日学校であったこと。
そして、自分の身に起こったこと。
全てが思い出されるも、あまりに現実離れしていた。それはまるで、三文小説に出てくるような内容で。
「自殺はともかく、それが『実際に起こる少し前に見えた』なんて、いくらなんでもなあ・・・夢オチだよね」
そう一笑に附して軽く頭を掻き、ただよってきたいつもの朝食の匂いに誘われるかのように階下へと降りていく。
それはまるで、どこか頭に引っかかる一抹の不安を振り払うかのように。
階段を降りていくとそこにはやはり、いつものようにそれほど料理上手ではないけれどどこか落ち着く母さんの料理の心地良い香りが漂い、リビングではテレビの中の笑顔で暗いニュースをさもつまらなそうに語るニュースキャスターの声が響いている。
そのニュースを、ソファーに腰を下ろしていた父さんが食い入るように見ていた。
『今回の会合でも具体的な対策案はあがらず、水井グループの危機はますます・・・』
不況はほとんど回復したと言うけれど、やはりそうでない所もあるのか耳に入ったニュースは完全に人ごとではあるが、少々不憫なものだった。
もし家がお金持ちだったら、なんてよく思うものだが、それはそれで大変なのかもしれない。
だがそういえば、水井グループは父さんが働いている会社の大口の取引先の1つらしく、よく接待で帰りが遅くなっていた。だから父さんはこのニュースを見て、少し汗を垂らしていたのだろう。
「父さん、おはよう」
「お、麻人。おはよう、もう具合はいいのか?」
具合?
何のことか分からないが、僕が朝の挨拶をすると父さんはパッと僕の方を振り向き、先ほどまでとは別人のような柔らかい表情を浮かべた。僕はそのまま父さんの横に腰を掛ける。
「父さん・・・この水井グループって、かなり昔からある元財閥で父さんの会社とも取引してるんだよね?大丈夫なの?」
そして何故か僕は、普段は父さんの仕事のことにあまり触れたりしないのだが、この時は妙に気になって尋ねてしまう。
父さんは少し驚いたような顔を見せたが、真摯に答えてくれた。
「もう高校生だからな、こういったことが気にもなって当然だな。特にお前は・・・」
どうしてか父さんは、そこで一瞬だけ言葉を濁らせた。
「いや、すまん。水井グループの話だったな。お前の言う通り、うちの会社の取引先の元財閥なんだが、まあ古くからある財閥らしく権力争いが未だ酷くて内部での争いはずっと続いていて、また事業が時代の流れについていっていけていないとかで業績がかなり悪化し、父さんの会社からもいいかげんに取引を打ち切ろうという提案がしょっちゅう上がっているくらいなんだ」
「そんなに・・・元財閥っていうと、ものすごいお金があるイメージなんだけど」
「そうだな、世間ではそんなイメージだろうが・・・特に水井グループは特殊でな」
「特殊?」
父さんの言葉に、首を傾げた。特殊とはいったいどういうことだろう?
その僕の様子を見て、父さんは続けた。
「これは一般には知られていないから他言無用だぞ。水井グループは、後継者が誰か伏せる伝統があるんだ」
「え、普通は逆じゃないの?早いうちからほかの権力者たちとかと交流持たせていくと思うんだけど」
「その通り、普通ならな。」
父さんのその言葉は、少し重みを感じた。
「業界では、素性を隠して一般人の経験を味わわせ、その感覚を身に着けさせることが目的でそれを事業に生かすためではないかと噂されている・・・それが事実だったら、とんでもなくふざけた話だ」
父さんが怒るのももっともだ。
だって、その後は?
その経験が身に着いた後、本人の人間関係はどうなる?
友達は?
楽しいと思えたことは?
これからの人生は?
もし・・・好きあった相手がいて恋人同士となっていたなら?
すべてーーー捨てさせられるのではないか?
『今年の自殺者の人数において、小学生、中学生、高校生を合わせた割合がついに・・・』
そんな考えで頭がいっぱいになっている中、次のニュースが耳に届いた。
年々増加しているという自殺者数。数字だけ見ると、やはり健康に問題を抱えている人や借金を抱えている人等に比べると少ない僕ら学生の自殺者数だけど。
それは、昨日までなら大して気には留めなかっただろう。
しかしあんな夢を見てしまっていたものだからどうも人ごとに思えなくなっていた僕は、それまでの水井グループの話から、昨日の件と共に意識をこちらへと引き戻された。
「やっぱりたとえあれが夢でも、どこかで僕と同じくらいの歳の人が自殺しているんだろうな・・・」
少し命というものについて考えてみることも必要なのかな、と思った。
ましてや、おそらく僕は何不自由なく暮らせているという恵みに溢れているのだから。
『犯罪の低年齢層化がいっそう増しています。これを防ぐためにはどうしたらいいのでしょう?』
キャスターがそうやってゲストの偉そうな学者さんに尋ねる。
そしてその人はやっぱり偉そうに答えた。その内容の、なんと馬鹿馬鹿しいことか。
そんな簡単に何とか出来るものなら問題になんかなるか、と言ってやりたいくらいだった。
「ふわ・・・」
しばらくはそんなニュースが続きそうだったので、朝から憂鬱になりたくは無いし、洗面所に行って顔を洗ってまたリビングに戻ってきたのだが。
「早く母さんを安心させてこい」
と、父さんが僕の背中を軽く小突いて言ったこともあり、そのままリビングを通り抜けて台所へと。
「おはよう、母さん」
僕はいつも通り朝食の準備をしている母さんに朝の挨拶をする。
母さんは、いつものように笑顔で返してはこなかった。
代わりにひどく驚いたような、それでいて心配しているような表情を僕に向ける。
「麻人、大丈夫なの!?」
「は?何が?」
母さんの第一声に、僕は何のことだか分からず尋ね返す。
その声はきっと間の抜けたものだっただろう。
「だって昨日帰ってきたと思ったら、青い顔したまま食事もとらずに部屋に行ったでしょう?」
「えっ・・・!?」
その母さんの言葉で、昨日のことが夢などではなく紛れも無い現実だったということが分かった。
「そんな、じゃあ・・・」
ドクン。
心臓が高鳴る。
ドクン。
もう一度。
ドクン。
さっきよりも強く。
・・・ドクン!
「うぁっ!?」
思わず胸を押さえてその場にうずくまる。
まるで、僕の中に何かが蠢いているかのような感覚に苛まれて。
「麻人っ!?」
当然、大慌てで駆け寄る母さん。
僕は冷や汗を垂らしながらも笑顔で言う。
「だ、大丈夫だよ、母さん」
「でも・・・」
母さんに心配を掛けたくないから、僕は何事も無かったように立ち上がった。
そして無理やり笑顔を作って。
「なんでもないってば。それより、今日は食欲が無いから朝御飯はいいや、ごめんね」
「麻人・・・本当に大丈夫なの?辛いなら学校は休んでいいのよ?」
母さんは心配性だ、それも仕方ないーーー何せ、僕は小さい頃に『死に掛けた事』があるからだ。
それ以来、母さんだけでなく父さん、そして妹も心配性になってしまった。
また僕も心配を掛けたくないと思って無茶ばかりしているから、それは余計だろう。
確かに今現在、夢と現実がよく分からなくて辛いのは確かだ。けれどもう僕の胸のざわめきも収まったし、冷や汗その他諸々は嘘のように静まっていて、体調には何の異常も無い。
辛いのは精神的に、だ。
何がどうなっているのかさっぱり理解出来ず、心の整理も付いてなく。
「行ってきます!」
それでもそうやって、普段と何も変わらないように元気に家を出る。
それは、母さんに心配をかけないため・・・いや、自分の頭をよぎる不安を払拭するためのものなのかもしれなかった。
学校へと向かう足取りは、いつになく重い。
昨日、人が死んだ。
人の突然の死なんて、テレビの中の遠い出来事だと、そう思っていたのは否定できない。
しかしそれが自分の学校で起きた、夢などではなく。
行き交う同じ高校の生徒たちが話し合っている会話が耳に届くが話題は当然、そのことで。
どうしても聞き耳を立ててしまう・・・聞きたいのか聞きたくないのかは自分でも分からないのにもかかわらず、だ。
聞こえた話によると亡くなったのは、名前は伏せられているが三年生らしい。
今のところ三年生に特に知人はいないので、知り合いではないようだ。
普通ならこれで誉められたものではないにしろ、少しは心が楽になるところだが・・・僕はそうはいかない。
何故なら、実際にその人が亡くなる前に、僕にはその瞬間の光景が見えてしまったからだ。
時間にして約10分前、といったところか。
ただの白昼夢なら良かったのに。だが、見えたのは間違いなく同一人物だった。
僕にそれが見えたとき、皆は寝ぼけているだの何だの言っていたけど・・・その後に実際に起きたんだ。
もう皆パニック状態で僕に見えていたなんて事、誰も覚えていなかったのだろう。
ただ一人、幼馴染の楓を除いては。
彼女は皆がパニックになっている中、僕を見つめていた。
なんで――――――そういう表情で。
でも彼女は何も聞いてこなかった。
たぶん、その時の僕の悲痛な表情を見て、聞くに聞けなかったのだろう。
今日これから、どんな顔をして彼女に会えばいいのだろうか。
僕自身、何がなんだか分からないというのに。
色々と考えながら歩いていて、ふと気付いた。
「・・・あれ?」
妙に静かだ。
いつもより少しだけ時間が早いからか?
いや、それでも駅近くであるこの辺りは人通りも多いし、既に通勤ラッシュの時間にもなっている。
それについさっきまでは同じ高校の生徒だけではなく、他校の生徒たちも大勢いたはずだ。
その喧騒が綺麗さっぱり無くなっている。
それだけではない。何か、違和感があった。
静かなどというレベルでは無く、それをはるかに越えている。
そう、例えるなら――
「あっ!?」
――止まっている。
「人も、車も、鳥でさえも・・・?」
何もかもが、完全に止まっていた。
まるで、蝋人形の館のよう。
わいわいと雑踏が届くのであろう十人十色の表情のまま静止してしまっている通行人。
エンジンの音と渋滞のせいでクラクションの音でうるさいであろう多種多様な車はタイヤの回転さえ一切無く。
空を行く色とりどりの鳥は、羽ばたいている途中でその活動をやめたにもかかわらず糸で上から吊っているかのようにその場から地面に落下することはない。
風に揺られる木々さえも、揺らいだ姿そのままで。
「ど、どうなっているんだ・・・?」
訳が分からない。
きょろきょろと、ただ一人『動く』というごく当たり前のことを、それがまさに異端であるかのように思えてしまう。
そんな風にして突然の予想だにしない出来事に混乱していると、不意に足音が聞こえた。
それは少し高い音。
コツコツ、コツと。
静かで全ての音が失われている中、その音だけが僕の耳に痛烈に届く。
「だ、誰だ!?」
昨日から続く異常な事態に、今度は何が起こるのかと身構えた。
そう、僕以外に全てが静止している中で聞こえる音。
それに警戒を覚えるのは当然だろう。
しかし、透き通る声と共に視界に入ったのは全く意外な存在だった。
「・・・そんなに、恐がらないで」
「え・・・?」
それは、小柄な女の子。大体、12,3歳といったところか。
瞳は未だ幼さの残る、それでいて深く神秘的な魅力をたたえており、腰まで届く、吸い込まれそうな艶やかな黒い髪。
透けるような肌理の細かい白い肌。
けれどどこか、普通ではない感覚を覚えた。
「き、キミは・・・?」
「あら、思ったより冷静ね」
そりゃ、昨日からこう色々続いてきたら、恐いけれども多少は冷静にもなれる。
女の子は、そうは言うもやはり若干腰の引けている僕をクスクス笑いながら答えた。
「私は、パンドラ。よろしく、麻人」
女の子はニコッと笑ってそう名乗る。
おそらく僕の妹とほとんど歳が変わらないのだろう、その笑顔はそう見えた。
純真無垢な、まだ大人へと成長を遂げる過程にある少女の笑顔。
何故か、少しホッとしたのと同時に何かを感じた。
それの正体は分からないけれど。
「パンドラって・・・あの?」
「そう、神話に出てくる禁断の箱を開けてしまったパンドラよ」
「そのパンドラと同じ名前なんだね。珍しい・・・のかな?」
「違うわ。私がそのパンドラなの」
「・・・は?」
意味が分からない。
あれはたかが神話じゃないか、所詮は人間によって作られた空想に過ぎない。
そうか、この子はよっぽど神話が好きな子なんだ。
だから、一番好きな登場人物であるパンドラを名乗ってるんだな・・・僕は、そう勝手に解釈した。
「・・・何か勘違いしているみたいだけど、まあいいわ」
そうため息をついたパンドラ、その姿は何故か不釣合いなほど大人っぽく見えた。
そんな彼女に尋ねる。
「ねえパンドラ、これ、どうなってるのかな?」
そう言って、止まってしまっている・・・まるで写真にでも撮られた世界に入り込んでしまったのかと錯覚してしまうかのような辺りを指差す。
・・・ん?どうしてそれを彼女に尋ねたのだろう?
彼女の雰囲気で、何かを知っているように思ったのか?
いや、そうではない。
自然と、どうしてか彼女に尋ねるのが必然に思えたからだ。
「時間を止めたのよ」
「・・・はあ?」
あっさりと答えた彼女のあまりに突拍子の無い言葉に、思わず声が裏返る。
「虚数時間を生きる私が、麻人と話をするにはこれしかないの」
「虚数時間・・・?」
パンドラが口にしたものは、あれだろうか。
実時間と垂直に交わるという、理論上の時間。
物理学のお偉いさんが勝手に決めた意味の分からない、計算の都合上作られたという現実離れしたもの。
「虚数時間が実時間と交差するのはほんの一瞬、それは人間の感覚では0と変わりない。私は箱を開けた罪で残念ながら実時間では生きられなくなり、虚数時間を彷徨う存在になってしまった」
「・・・はぁ」
やばい。
この子、何かやばい。関わらない方がいい。
だけど頭ではある意味で冷静にそう考えているのだけども、何故か足が言うことを聞かなかった。
いやそれはむしろ無意識に、この子から離れることを拒んでいるかのように。
「それでね、この前に実時間と交差したとき、麻人に一目惚れしたの」
「・・・はい?」
急に声のトーンをそれまでの大人びたものから見た目相応の可愛らしいものに変えたパンドラ。
そして今度はそこから上目遣いで続ける。
「だから、麻人とお話したくてこの一瞬を止めちゃった、テヘ♪」
テヘ、じゃなく。
しかも舌をちょっと出してなんともいたずらっぽい笑顔で言われても。
「何ですと?」
思わず、普段使わないような言葉遣いになった。
それだけ今僕の置かれている現状と、パンドラの表情にその言葉は落差が激しすぎた。
「あ、別に付き合って欲しいとかじゃないのよ?」
そして今度は少し顔を赤らめて慌てて手を自分の前でぶんぶん振る。
何なんだ、全く訳が分からない。
「ただ、そんな麻人に『チャンス』をあげようと思って」
「チャンス?」
すると今度はまるで諭すかのような表情と声のトーンに変わるパンドラ。
コロコロとその様子を変えるパンドラの言わんとすることの意味が全くもって分からない。
「誰だって好きな人が苦しんだり、死んだりしたら嫌でしょ?それは私も同じ」
「そりゃあ、ねぇ・・・」
「だから、麻人に救いのチャンスをあげたの。その事を話しておこうと思ってね」
「救いの、チャンス?それを僕にくれた?」
僕が未だにパンドラの意図が分からない様子でそう尋ねると、彼女はクス・・・と子悪魔のような笑みを浮かべ囁くように。
「そう・・・昨日、何か変わったことは無かった?」
「・・・・・・っ!?」
知っている!?
パンドラは、昨日僕の身に起こったことを知っている!?
そういえば、僕は自分の名前を教えていない・・・しかし、彼女は初めから僕を『麻人』と名前で呼んでいた。
「ふふ、驚いているわね。そんな顔も素敵だわ」
悦に浸るようにそう言ったパンドラ。
僕は凍りついたかのように、いやまるで魔法でも掛けられたかのように一心に彼女を見つめていた。
パンドラはそんな僕の瞳をまっすぐ見ながら。
「いい?ここからはよく聞いてね・・・私が麻人に与えたチャンスは『少し先の不吉な未来が垣間見える』というものなの」
「!?」
まさにその通りであった。
僕自身が不吉な目にあったわけではないが、同じ高校の人が亡くなったところをこの目で見たのだから、不吉なことであると言えるだろう。
「ふふ・・・でも、必ずしも見えた未来が絶対とは限らないわ」
「・・・どういうこと?」
「未来は無限の可能性の上に成り立っている。見えたものはそのうちで最も起こりうる可能性が高い一つに過ぎない。麻人の行動次第でどうとでも変わりうるのよ」
「と、言うと・・・」
「そう。不吉を回避することも出来る。ただ、タイムリミットは僅か10分だけどね」
「10分・・・」
その10分で未来を変える。
絶望的な不吉を、当たり前すぎて気付かないほどの幸福へと。
それは簡単なのか、それとも悲しいほどに難しいことなのか。
今は、まだ分からないけれど。
「・・・・・・」
僕がそう黙ってしまったのを見ると、パンドラはまた笑顔を見せる。
しかしそれは今まで見せたどの顔とも違う・・・温かい、そしてどこか優しい笑顔だった。
―――あれ、僕はこの笑顔を知っている。でも、どこで・・・
「知ってる?私が開けた箱からは人間の全ての苦痛が飛び出したの・・・でも、最後にエスペランサ(希望)が残った」
「それって、つまり・・・」
「・・・麻人がそのエスペランサをどう使うかは私の知りうることではないわ。でも、願わくは麻人の苦痛が和らぎますように・・・・・・」
静かな言葉、まるでそれは切ない願いでもあるかのように紡ぎながら、パンドラは僕に一歩また一歩と近付いてくる。
「また今度二つの時間が交差した時には、麻人が笑っていますように・・・・・・」
もう僕のまさに目の前、吐息をも掛かるほどに近づいていたパンドラはそう呟くと、少し背伸びをして。
「っ!」
一瞬。
一瞬の、触れたか触れないか分からないような・・・それでいて柔らかさの残る口づけとともに、パンドラは姿を消した。
パッパーッ!
激しい車のクラクションが響き渡る。
それと同時にいかつい男の怒声が耳に届いた。
「おい、そこのガキ!死にてぇのか!?」
「え・・・あ、ごめんなさい・・・」
僕は道のど真ん中に立ち尽くしていたのだ。
慌てて歩道へと走り、息をつく。
「今のは、夢・・・?」
そう呟いて、不意に唇をなぞる。
確かに残っている感触。
「夢じゃ、無い・・・」
今あったことは全て現実。
パンドラが与えてくれた希望・・・エスペランサ。
救いの、チャンス。
これをどう生かすかは、僕次第。未来を決めるのは、自分。
不思議と、学校へと向かうその足取りは先ほどとは打って変わって軽くなっていた。
これから次々と起こる悪夢などこれっぽっちも予想だにはせずに。
これから起こる悪夢を、まだ何も知らないのに――――――