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  作者: 久世 紬生
独白
4/5

少年の葛藤

少年は逃げるように、森の中を駆けた。

駆け抜けて行くたびに、木々の葉が悲鳴を上げるように揺れた。

まるで、少年を恐れているかのようだった。



少年に名前などなかった。

それはそうだ。

裕福な生まれどころか、住む家すらない有様だった。

親の顔など覚えていない。

誰かに育てられることも、愛情を注がれたこともなかった。

少年は飢えていた。

ただひたすらに、満たされぬ空腹に抗い続けていた。

まともな服は着れなかった。

ボロボロになった、ただの布をまとうのが精一杯だった。

周りの子どもたちは、立派な服を着て、美味しい肉をお腹いっぱいに食べて、満たされて眠る。

羨ましい、妬ましい、虚しい。

そういった気持ちが、いつしか少年の中には渦巻き始めていた。


村人は冷たかった。

僕の姿を見れば、嘲笑うものばかりだった。

まるで、格好の獲物を見つけた獣のような、獰猛な瞳だった。


ある日、足を怪我して泣いていた少女を見つけた。

少年は、想定外の事態にたじろいだ。

そして、彼女を背負って、送り届けることにした。

昼に羊飼いの仕事をしているときに、彼女がパン屋へと入るところを見た。

きっと、あの場所こそが彼女の帰るべき場所なのだ。

僕とは、大違いだ……と少年は内心嘲った。


そして、彼女を送り届けた僕に待ち受けていたのは、獰猛な獣からの視線だった。

彼女の親たちが、僕を睨んでいる。

彼女を送り届けたあと、彼女の両親は少女をパン屋の中へ入れた。

僕は、裏口に立たされたまま、彼女の両親たちからの厳しい叱責を受けた。


「汚い手でウチの娘に触れないで!あの娘になにかあったらどうするの!」

「人間にでもなったつもりか?獣のくせに……」


少年は愕然とした。

少年にとって、今の行動とは善意の塊だったのだ。

それがなんだ!その仕打ちは!

少年は怒りに燃えた。

いや、怒りにその身を焦がされたような気分だった。

なぜ!なぜ!僕が!

少年は今すぐにでも、飛びかかりたい気持ちだったが、実際に行動に移すことはなかった。

少年の理性は、少なくとも……誰かよりはマシだったのは言うまでもない。


屈辱的な気分を味わった少年は、森へ向かった。

少年は、森の小川で顔を洗った。

別に、深い意味はないのだ。

ただ……。

そこまで考えたところで、少年は考えることを放棄した。

小川に映し出された自分の姿が、まるで獣のように思えて仕方なかった。

大粒の雨が、小川と抱き合っていた。



ある日、少年は狼を見た。

本物の『獣』とやらに会ったのだ。

少年は震え上がった。

未知と、多大なる威厳にあてられて少年は身動きが取れなくなった。

まるで、心臓を掴まれたかのような感覚だった。


少年の瞳をじっと見つめた狼の群れは、少年に危害を加えることなく去って行った。

少年は尻もちをついた。

その鋭く尖った金色の瞳は、確かに『獣』の姿を捉えていた。


ある日、少年は村の外れにある古小屋を訪れていた。

ここには、住む家のない者たちが集まって雨風を凌ぐ。

だが、ここでは飢えは凌げない。

物乞いをするか、それとも森へと入り、無謀にも大自然へと進みゆくのか。

どのみち、待ち受けているのは地獄と知りながら、彼らは生きるのだ。

ただ、無情にも日は昇り、月が追い立てて、僕らを追放していくその様を……。

少年はただ眺めることだけしか出来なかった。



そんな日々の中、事件は起こった。

山から下りてきた『獣』が再び、僕らの前に姿を現したのだ。

正直なことを言うと、僕は油断していた。

彼らは、理性がある。

だから、僕らを襲うことはない。

そう、夢を見ていたのだ。


だが、そんな夢から醒める瞬間はすぐに訪れた。


「や、やめっ!た、助けっ」


彼の言葉はそこまでで途切れた。

彼は、消えたのだ。

僕らの目の前で、『獣』は牙を剥いた。

気づけば僕は、無我夢中で逃げていた。

死にたくない!死んで、たまるものか!

その気持ちだけで、走り続けた。

裸足で駆けて行くものだから、足の裏は傷だらけで痛くてしょうがなかった。

だけど、足を止めてしまえば……。

僕は、気力が続く限り走り続けた。


村の中心部へ着いた。

もう夜だからか、人々は眠っているだろうと思っていたが、人々は灯りをつけて起きていた。

家という家から、笑い声が聞こえて来るような不思議な感覚を覚えた。


だが、少年は勇気を振り絞って、ある家のドアを叩いた。

そこはかつて、少年が屈辱を味わったあのパン屋のドアだった。

少年がそのことを思い出した時には、時既に遅し。

あの厳つくも冷徹な瞳が、僕を貫いていた。


結局、少年の必死の訴えは聞き入れて貰えなかった。

それどころか、「狼の方が、お前よりマシだ」と言い放った。

少年は、怒りが自分を蝕んでいく瞬間を悟った。

それと時を同じくして、少年は狼に同情した。

この男には、狼の持つあの爛々とした瞳が分からないのだ。

こんな男に、自らの尊厳と、狼の威厳が踏みにじられたことがたまらなく悔しく、そして憎く想った。



それから、少年は血で濡れた古小屋へ向かった。

もう、ここは自分の居場所ではない気がしたのだ。

少年は、せめてもの弔いにと、村の門のそばにあった篝火(かがりび)から火を盗み出し、古小屋に火をつけた。

大きな音と熱を放ちながら、焼け落ちていく様を見て、少年は大きな声を上げた。

それはまるで、狼の遠吠えのようだった。



少年は、森への入って行った。

胸の内は、恐怖心でいっぱいだった。

気を抜いたら、もう、立ち向かえないような気がした。

なぜだか、明かりもないのに森の中ははっきりと見えた。

森のさざめきが耳をくすぐる。

木々のあちこちから、様々な匂いが漂ってきた。

少年はまるで、歓迎されているような気分になった。



少年は、鬱蒼とした森の中で生活した。

逃げ回る小さな生き物を素手で捕らえた。

嵐の日には、小さな洞窟で震えて眠った。

服はどんどんと擦り切れていった。

少年は日を追うごとに、その姿を取り戻していった。



そして、ある日。

少女と出会った。

少女は美しかった。

触れれば折れてしまいそうな細腕と、儚げな表情をした彼女を見て、少年は胸が高鳴った。

そして、我に返った。

少年の今の姿は、とてもではないが見れたものではない。

きっと、彼女は俺を醜いと罵り、逃げ出すだろう。


そう、思っていたのだ。



少年の想像とは違い、少女は彼をまっすぐ見つめた。

そして、表情をコロコロと変えた。

好奇心が滲み出たような顔。

不思議そうな顔。

そして、心配そうな顔。

どれもこれもが、自分に向けられた表情だと理解するのには時間がかかった。


そして、彼女は少年に問うた。

「大丈夫?怪我しているけど……」


少年は驚愕した。

それと同時に、目の前の少女を幻か何かと疑った。

だが少女は幻ではなかった。


内心は、とてつもなく嬉しかった。

本当なら、はしゃぎまわって喜びたいほどに。

だが、少年は拒絶されることを恐れた。


「大丈夫。慣れてるから」


口から飛び出たのは、そんなぶっきらぼうな言葉だった。

少年はガックリと項垂れたかった。

こんな言葉しか出せない自分を恥ずかしく思った。

少女の反応は、よく分からないものだった。


「えっ……。それって……」


この言葉と沈黙の意味は、少年には理解し難かった。

いや、理解したくはなかったのかもしれない。


暫くの沈黙の後、少女は再び口を開いた。

少年は喜んだ。

まだ彼女と話すことができる事が、嬉しくて仕方がなかった。


「痛くはないのですか?」


恐る恐る尋ねるように、彼女は言った。

少年は、考えた。

放棄していた思考を取り戻した。


「怪我()、痛くは……ない」


またしてもぶっきらぼうな言葉になってしまった。

だが、少年は言葉遣いよりも、内容を後悔した。

ああ、遂に嘘をついてしまった。

本当は、傷口が燃えるように痛い。

まるで全身に矢が刺さったかのようにも思えた。


だが、彼女の手前、見栄を張った。

くだらない見栄だった。

少年は内心嘲った。

こんな馬鹿な見栄ばかり張っているから、誰も救えず、誰にも愛されなかったのだ。

少年は、忸怩たる思いを自覚した。


だが、そんな少年の鬱屈とした思考を吹き飛ばす出来事があった。

彼女がいきなり、僕の腕を掴み駆け出したのだ。

僕は理解できなかった。


そして、彼女はお世辞にも早いとは言えなかった。

だが、気力の続く限り、彼女は走り続けたし、僕の腕を話すことはなかった。

僕の腕を離せば、もっと早く走ることが出来たはずなのに。

そう思う反面、彼女が決して僕の腕を離そうとしなかったことに心底安堵した。

まるで、この世界には彼女と僕だけしかいないような気がしたのだ。


少年は、気力も体力も尽きて、気を失った少女を片手で支えた。

少年は、これ以上にないほど、誇らしげな表情をしていた。



少年は、彼女を大樹のもとへと運んだ。

そして、静かにその近くに座り込んだ。

既に夜は更けて、あたりは暗闇に支配されていた。

だが、少年の目には何もかもが鮮明に見えていた。

この夜は、間違いなく彼のものだった。


すぅ、すぅと小さな寝息をたてる少女を眺めて少年は、自身の頬が緩むのを感じた。

だがしかし、少年はこの感情が一体何なのか、分からなかった。



そして、少年が彼女を眺めているうちに、彼女は起きた。

少年は、勇気を振り絞って声をかけた。


「起きた?」


結局、出てきたのはそれだけだった。

起きたかどうかなんて、見ればすぐに分かるじゃないか。

なんて馬鹿な発言をしたんだ、と少年はまたしても後悔した。


だが、彼女はあたりをキョロキョロと見渡すばかりで全然こちらに気づかなかった。

どうやら、彼女は僕が見えていないらしい。


「君は?今何処にいるの?」


その声は震えていて、今にも消えてしまいそうだった。

儚げな美しい顔が、不安の色を帯びていく。

少年は、彼女の支えになろうと考えた。


「大丈夫。ここにいる。ここに……」

どうしてだか、自分も不安げな声であることを少年は自覚した。


「ねぇ、君は……」と、少女はそこまで述べて沈黙した。

途端に少年の心には、不安が満ちていった。

呆れられてしまったのだろうか。

それても、愛想を尽かされたのだろうか。

もしかすると、僕の醜さを知って、嫌悪感を抱いたのだろうか。

不安は少年の心を、どんどんと貪り食らった。


だがしかし、少年の心配とは裏腹に、彼女の声は再び鳴った。

その鈴のように美しい声が、少年の心を弾ませた。


「君の名前、聞かせて貰えないかな」


まるで懇願するかのようだった。

少年はこの時ほど、自らの名前がなかったことを後悔したことはない。

僕にも、名前があれば……。

悲しみと苛立ちに苛まれながらも、少年は答えた。


「名前は……ない」

「えっ」


彼女は純粋に驚いていたように見えた。

決して、僕を馬鹿にしたわけではないことは、少年はしっかりと理解していた。

そして同時に、少年は少女との間に認識の差があることを理解した。


「それは、本当に……?」


少女からは、信じられないという気持ちがありありと感じ取れた。

そして、そこに悪意がないことを少年は理解していた。

きっと、彼女の世界では、『名前』というものはあって当然なのだ。

その当たり前を持たざる僕の方が、特異的なだけなのだ。

少年は、頭では理解していた。

そう、頭では。


「本当。ないものは、ない」


またしても、最低な答え方をした。

少年は、心底自分を嫌った。

だがその直後、転機は訪れた。


「ねぇ、なら私が君の名前を考えても良いかな?」

「……いいよ、別に」


気づけば、少年はそう答えていた。

正直、少年はこれ以上ないほどに彼女を不思議に思った。

なぜ?そこまで……。

だが、やはり考えても考えても答えは見つからなかった。


そうこうしているうちに、彼女は僕の名前を考えてくれたらしい。


「……ランディー。ランディーって名前はどうかな?」

「……ランディー。いいと、思う」


ランディー。

僕の名前。

少年は、今まで感じたことがないほどに満たされた。

どれほど食らっても満たされなかったものが、満たされていくのを感じた。

僕は、いや―ランディーは、その名前を噛みしめるように小さく、そして何度も呟いた。



「ねぇ、ランディー。なぜ貴方はこの森の中にいたの?」


ふと、彼女が口にした。

少年は、答えに困った。

正直に打ち明けようにも、なんと説明すればいいのか、検討もつかなかった。

悩みに悩み抜いて出た答えは、「生きるため。それだけ」だった。


こんなにも、抽象的な回答を彼女は誠実に聞いてくれたようで、「生きるため……。そうなんだね」と小さな声で返してくれた上に、小さく首肯を返してくれた。


そこでふと、思い出した。

僕を、この森へと追いやった奴らの顔だ。

正直な所、憎くて仕方がなかった。

この時、少年は今まで心の奥にしまい込んでいた強烈な悪意が自分の中に溢れるのを感じた。

そして、そんな自分を醜く思った。



彼女も沈黙してから、しばらく経った頃。

僕は悩みの一つを打ち明けるようにした。


「ねぇ、嘘はダメ?」


彼女は、一瞬だけ虚を突かれたような顔をした。

彼女は困ったような顔をして、直ぐに思案顔へと表情を変えた。

そして、まるで誰かに言い聞かせるかのように彼女は語った。


「嘘はね……。ダメなことだよ。人を傷つけてしまうから。大事な人には、ちゃんと言葉にして本当のことを伝えないと。って、言うのは建前で……私は……ダメなことだとは思わないな。時には信じていたい嘘だってあるじゃない?ね?」


信じていたい嘘。

その言葉が、嫌というほどに少年の心を掴んで離さなかった。


「……うん。そうだね。嘘つきには人の心がないって、この前言われたんだ。ねぇ、僕は……嘘つきで、人間じゃないのかな?」


これは、本当の話だ。

あのパン屋の男に言われた言葉だった。

きっと、こんな話をしたら彼女は困ってしまう。

そんなことは、分かりきっていたというのに聞かずにはいられなかった。


そして、彼女はしばらく黙り込んでしまった。


沈黙が嫌というほどにこびりついた空間に、彼女が言葉を投げ入れた。


「そんなことは……ないと、思う。だって、君は……」


彼女は、そこまで述べたが、次の言葉は出て来なかった。

その代わりに、彼女は胸元の、丁度心臓部に手を当てた。

少年には、まるで少女が何かを願っているように見えた。

少年は素直に疑問をぶつけた。


「何をしているの?」


「生きていることを感じているの。ここには、人のすべてが詰まっているから」

「そう、なんだ。じゃあ、そこに触れれば、人の心は手に入れられる?」

「ええ。そうね」


少年は考えた。

あの、少女の心臓部に触れることが出来れば、彼女の全てが分かるのではないだろうか。

少年は不思議な気持ちを抱えた。



その後、彼女は胸に手を当てて、空を見上げた。

まるで何かに導かれるようにして、手を伸ばしていた。

少年も、空を見上げた。

あの輝くものの中には、彼女がその手の中に収めたいと思うほどのものがあるのだろうか、と思った。



月が雲から抜け出した直後、少年は言った。

「僕が道を案内するから、足元ちゃんと見ててね」


そう言うと、少年は歩み始めた。

彼女が僕を見えていないことは知っていたから、ゆっくりと歩いた。

もっと早く歩くこともできたが、そうしてしまうにはあまりに惜しい時間だった。

空には明るさなど、微塵も戻って来てはいなかった。

それでも少年は進む。

鬱蒼とした森の木々が、彼を慰めるように揺れた。


少年の足音を頼りに、彼女が慎重に後ろに付いていっているのが分かった。

少年は疑問に思った。

バキ、バキと小枝の折れる音が聞こえる。

足はきっと傷だらけなはずなのに、不思議と痛みはなかった。

今日はやけに、あれほど大きく感じた森が、小さな世界に思えた。



ガサガサと、少年が木々の枝や植物に触れる音が響いていく。

少年は不安と寂しさでいっぱいだった。

この先、彼女に会うことはもう叶わないだろう。

だけども、このまま彼女を森の中に引き留めることは憚られた。

嫌われたくなかった。


少年は、見えぬ少女の背中を思った。

自分よりも小柄な彼女が、少年の腕を掴んで走り出したあの光景が焼き付いて離れなかった。

どうか、この時間が……僕の全てになってくれれば、と思わずにはいられなかった。


そして、あるところで少年の歩む音は止まった。

少年は、ついにたどり着いてしまった。

森の木々の先には、あの村がある。

だが、もうあの先には僕の居場所はない。

最後に、僕が焼き払ってしまったのだから。

少年は、未練がましい気持ちと向き合った。

いっそのこと、道に迷ったと言い訳しようかとも思案した。

だけども、彼女は建前だけともいえども、嘘は駄目だと言った。

もし、信じていたい嘘というものがあるならば、この先には村ではなくて森が続いているという……そんな嘘だと思う。

少年は、願った。

だが、現状は変わらない。

いや、それどころか朝日は迫って来ていた。

あの日差しが、僕らを焼き払う。

いっそのこと、僕らの醜さだけを焼き払ってくれればいいのに、と嘆いた。

そして、少年は……断腸の思いで口を開いた。


「ここから先は、僕は入れないよ」


背後に感じる彼女の驚くような反応が手に取るように分かった。

分かってしまった。

この時初めて、少年はこの鋭すぎる感覚を嘆いた。

少女は、震える声で彼の名を呼んだ。


「ランディー。どうして、そう思うの?」


ランディーは胸が締め付けられる思いだった。

そして、少年は……その思いから目を背けたくて、また嘘をついた。


「……。僕は、人じゃないよ。君は、優しい人だから、尚更傷つけたくないんだ。信じて欲しい。どうか……お願いだ」


だけど、全てが嘘だったわけじゃない。

ミアが優しい人だと信じて疑わなかったし、傷つけたくないのも本心だ。


少年の悲痛な心の叫びを聞いた彼女は、ゆったりと彼の方角へ歩み寄った。

そして、手を伸ばした。

しかし、無情にも伸ばした手がなにかに触れることはなかった。


「ねぇ、ランディー。それって……」

彼女は、辺りを見渡した。

だが、彼女の前にはもうランディーはいない。

ランディーは静かに彼女の後ろへ移動した。

バキバキと音を立ててしまわないように、慎重に。

まるで悪人になったような気分だった。


少年は、せめてもの思い出に、彼女の愛しい姿を目に焼き付けたかった。

優しげなその背中を、儚げだけど意志の宿るその瞳を。

そして、少年はあることを思いついた。


「ねぇ、最後に名前を教えて。大事な、ものなんでしょう?」

「ミア。私の名前はミア。『私のもの』って意味なんだって」

「名前、意味があるんだね。ただの呼び名じゃないのか……。すごい特別な気分だ」


不思議と、少年は笑顔になった。

名前を通じて、彼女と繋がりあえた気がした。

少女から、『ミア』へと。

まるで、彼女が特別な存在であるかのように思えた。

他の有象無象の奴らとは、一線を画する特別な存在。

少年は、この特別な感情を胸にしまった。

そして、苦渋の決断をした。


「残念だ。本当に、残念だけど……お別れみたいだ。ありがとう、ミア」

「ランディー?ランディー!どこにいるの?返事をして!」


ランディーは、静かに森の中へ戻って行った。

ランディーの頬には、大河が流れていた。

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