ミアの孤独
翌日、ミアは一人で少年の墓を訪れていた。
森に近い村の外れにポツンと佇む真新しい石碑には、何一つ記されてはいなかった。
彼の名前さえも。
村長は語った。
結局、誰に訪ねても彼の名前は分からないままだったという。
そのため、石碑には彼の名前は刻まれなかった、と。
ミアは気の毒に想った。
結局、最初から最後まで、その名を呼ばれることなくいなくなってしまったとことが、ミアには悲しくて仕方なかった。
ミアは手向けの花とともに、彼へ祈りを捧げた。
せめてもの救いが、彼へあれば、と。
ミアが祈りを捧げ終え、立ち去ろうとした直後。
森の中に、何かが蠢いた。
ミアは恐る恐る、何かの方へと振り向いた。
ミアは内心、恐怖でいっぱいだったが、同時に好奇心にも支配されていた。
ミアは、森へ入って行くことにした。
鬱蒼とした森へと入ったミアは、その選択を後悔した。
結局、何も見つけられなかったばかりか、道に迷ってしまって帰ることが出来なくなってしまった。
もうじき夕暮れだ。
完全に日が暮れたら、その時は覚悟を決めるべきであろう、とミアが思った直後。
ミアの背後で何かが蠢いた。
咄嗟にミアは背後を振り向いた。
そして、ミアは驚愕した。
少年。
確かに、それは少年だった。
泥だらけで、身体には傷が多く存在した。
ミアは、彼の足元を見て悟った。
裸足だったのだ。
森へ裸足で入る者など、基本的にはいない。
木の枝や、落ち葉などを裸足で踏んでしまうと足を怪我する可能性があるからだ。
どこかで靴を失くしてしまったのだろうか。
そう考えたミアは、少年に話しかけた。
「大丈夫?怪我しているけど……」
ミアはそう言った直後、あっ、と気づいた。
怪我をしていて、大丈夫だと言う人がいるのだろうか、と。
仮に大丈夫だと言ったのなら、無理をしているか意地を張っているだけなのではないか、と。
そんなミアの心配をよそに、少年は静かに答えた。
「大丈夫。慣れてるから」
「えっ……。それって……」
ミアは、沈黙した。
怪我に慣れる、ということはミアにとっては理解が追いつかないことだった。
調査団と行動してる以上、怪我をすることはある。
そもそも、日常を過ごしていたって怪我をすることはある。
怪我をすれば、当然のことながら痛い。
それに慣れるということが、ミアには信じられなかった。
だからミアは、こう告げた。
「痛くないのですか?」
少年は少し戸惑いながらこう答えた。
「怪我は、痛くは……ない」
ミアは少年の答えに違和感を覚えた。
だが、違和感の正体を考えることは出来なかった。
彼の後ろに、狼の姿が見えたのだ。
ふと、ミアはなぜ調査団がここへ来たのかを思い出した。
この村には、狼がいたのだ。
ミアは咄嗟に少年の手を引いて逃げ出した。
ミアは恐怖心でいっぱいだった。
ただがむしゃらに森の中を駆けていった。
しかし、ミアの体力も無尽蔵な訳ではない。
いよいよ体力も走る気力も尽きて、地面に倒れ込んでしまった。
ミアが次に目を覚ました時には、既に夕暮れを通り過ぎて宵闇の中だった。
何も見えない。
そのことが、ミアの恐怖心をより掻き立てた。
「起きた?」
森の中へと静かに響く声に、ミアは驚き、肩を跳ねさせた。
姿は見えないが、それは確かに少年の声だった。
「君は?今何処にいるの?」
ミアは不安で仕方なかった。
ここでは、誰の助けも望めそうにない。
それに今は暗闇の中だ。
下手に大声を出そうものなら、狼に狙われるかもしれない。
そう思ったミアの声は既に震えきっていた。
ミアの不安そうな声に、少年もあてられたのか、少年も苦しそうな声で返した。
「大丈夫。ここにいる。ここに……」
その声は、まるで誰かに言い聞かせているようだった。
ミアは不安で堪らなかったが、少年がいる手前、取り乱すわけにはいかないと、気を取り直した。
「ねぇ、君は……」
そこまで、言ってミアは思い出した。
彼の名前を知らない、ということに。
ミアは、何時もと違い、挨拶を忘れていた。
ベイカー夫妻の娘の名前は、カーラだった。
ケリー団長は彼女の名前を聞くことはしなかった。
ケリー団長にとっては、カーラはただの『パン屋の娘』ぐらいの認識だったのかもしれない。
そのことが、ミアには寂しく、そして憤ろしく想った。
ふと、そのことが頭に過ぎった。
理由は、いまいち分からなかった。
だけれども、ミアは理由を考えるよりも先に、彼の名前を聞くことを優先した。
「君の名前、聞かせて貰えないかな」
少年は沈黙した。
長く、長く。
それはまるで永遠にも感じられる程に長かった。
やがて、少年は沈黙を破った。
「名前は……ない」
「えっ」
ミアは思わず反射的に答えていた。
正直な所を言うと想定外だった。
だから、ミアはもう一度尋ねた。
「それは、本当に……?」
少年は、沈黙することなく答えた。
「本当。ないものは、ない」
ミアは動揺していた。
ミアにとっては、想定外が重なり続けている現状を憂いた。
自分の持っていた前提がことごとく、ひっくり返されていくのを感じた。
端的に言うならば、恐れていた。
彼女は、恐れから目を背けるべく、勇気を振り絞った。
「ねぇ、なら私が君の名前を考えても良いかな?」
「……いいよ、別に」
彼女には、これが拒絶の意味を示すのか、それとも不器用な肯定だったのか分からなかった。
「……ランディー。ランディーって名前はどうかな?」
「……ランディー。いいと、思う」
静かだが、今度は否定的は感情は込められていないように思えた。
それに、彼は小さくなにかを呟いていたが、よく聞き取れなかった。
「ねぇ、ランディー。なぜ貴方はこの森の中にいたの?」
少年は長い沈黙のあと、ボソボソと語った。
「生きるため。それだけ」
「生きるため……。そうなんだね」
彼女は小さく首肯を返した。
後で考えれば、暗闇の中で彼が見えている訳などないということぐらい、直ぐに思い至ることだったのだが。
彼女も沈黙してから、しばらく経った頃。
突然、少年が質問をした。
「ねぇ、嘘はダメ?」
ミアには、質問の真意がいまいち掴めなかった。
どうして彼が、嘘をダメなことかどうか聞いてきたことが純粋に気になったが、その気持ちを抑えて回答した。
「嘘はね……。ダメなことだよ。人を傷つけてしまうから。大事な人には、ちゃんと言葉にして本当のことを伝えないと。って、言うのは建前で……私は……ダメなことだとは思わないな。時には信じていたい嘘だってあるじゃない?ね?」
「……うん。そうだね。嘘つきには人の心がないって、この前言われたんだ。ねぇ、僕は……嘘つきで、人間じゃないのかな?」
ミアはスッ、と息が詰まるような感覚がした。
この感情は、人ならざる者の感情なのだろうか……。
そう思った彼女の罪悪感にも等しい気持ちが刺激されたのかもしれなかった。
彼女は、しばらく黙り込んでしまった。
そして、意を決して話だした。
「そんなことは……ないと、思う。だって、君は……」
彼女は、そこまで述べたが、次の言葉は出て来なかった。
その代わりに、彼女は胸元の、丁度心臓部に手を当てた。
ドク、ドクと鼓動が時を刻む。
これこそが、私の生きてる証。
そう、信じていたい。
「何をしているの?」
「生きていることを感じているの。ここには、人のすべてが詰まっているから」
「そう、なんだ。じゃあ、そこに触れれば、人の心は手に入れられる?」
「ええ。そうね」
彼女は、自らを振り返った。
人の心に触れることは、とても難しいことに思えた。
自分だって、偉そうなことを言ったが、他人のことなど何一つとして分からない。
きっと、自分は優しい顔をしているだけで、本物の優しさなどには辿り着けてなどいないのだろう。
本物の優しさには、どうすれば辿り着けるのか。
この世は、分からないことだらけだ。
そして、それは……とても美しく、儚く、恐ろしいものだと思った。
彼女は、胸に手を当てて、空を見上げた。
満点の星空には、どうしても手を触れられないことなど分かりきっていたのに、手を伸ばさざる得なかった。
きっと、あの星の中には、シアワセが詰まっていると信じてやまない自分がいた。
月が雲から抜け出した直後、少年が言った。
「僕が道を案内するから、足元ちゃんと見ててね」
そう言うと、少年は歩み始めた。
だが、その足取りはさっぱり見えていなかった。
空には明るさなど、微塵も戻って来てはいなかった。
それでも少年は進む。
彼女には、少年の歩みが逞しく、それでいて寂しそうに思えた。
少年の足音を頼りに、彼女は慎重に後ろに付いていった。
わざと、木々の枝をところどころ踏みながら歩いているのだろうか。
バキ、バキと小枝の折れる音が聞こえる。
足はきっと傷だらけだ。
村へ無事に帰ったら、ランディーの手当をしてあげなければ、とミアは思った。
ガサガサと少年が、木々の枝や植物に触れる音が聞こえる。
私が、暗闇の中で道が見えないことを知っている彼が、私に配慮してくれたのかもしれない。
そう思うと、ミアはランディーをとても愛おしく思えた。
見えない彼の背中を、ミアはとても誇らしく、そして美しく思った。
きっと、彼だってこの暗闇が怖いだろうに、それでも歩みを止めないことに、ミアは尊敬した。
そして、あるところで少年の歩む音は止まった。
「ここから先は、僕は入れないよ」
ミアは驚いた。
なぜ、そう思ったのか。
やはり、ミアにはとんと検討もつかなかった。
そんな自分が、ミアにとっては許せなかった。
ミアは、震える声で彼の名を呼んだ。
「ランディー。どうして、そう思うの?」
「……。僕は、人じゃないよ。君は、優しい人だから、尚更傷つけたくないんだ。信じて欲しい。どうか……お願いだ」
少年の悲痛な心の叫びを聞いた彼女は、ゆったりと彼の方角へ歩み寄った。
そして、手を伸ばした。
しかし、無情にも伸ばした手がなにかに触れることはなかった。
「ねぇ、ランディー。それって……」
彼女は、辺りを見渡した。
だが、やはり闇夜のために何も見えなかった。
その代わりに、彼の声が私の後ろから響いた。
「ねぇ、最後に名前を教えて。大事な、ものなんでしょう?」
「ミア。私の名前はミア。『私のもの』って意味なんだって」
「名前、意味があるんだね。ただの呼び名じゃないのか……。すごい特別な気分だ」
不思議と、少年が笑っている姿が目に浮かんだ。
見えていないというのに、鮮明に。
「残念だ。本当に、残念だけど……お別れみたいだ。ありがとう、ミア」
「ランディー?ランディー!どこにいるの?返事をして!」
ミアの叫びも虚しく、ランディーからの返事はなかった。
じきに太陽も顔を出す。
だが、ミアの心には太陽など昇ってはいなかった。
虚しく世界が照らし出されていく。
それは、あまりにも残酷で、孤独なものだった。




