第一部 告白 8/15
それから一週間がたった。私は未だに愁にお礼が言えてい
なかった。あいつが学校にこなかったわけじゃない。ただ、
私が声をかけるタイミングをずっとつかみかねていたのだ。
このままだと、きっと、また一年が過ぎてしまう。私がすっ
かり途方に暮れていると、それを見かねた母さんが話しかけ
てきた。ちょうど、夕食を終えて私が紅茶を飲んでいるとき
だった。
「ね、彩香? あれからなにも話してくれないじゃない?
お礼はちゃんと言えたのかしら?」
「いや……その」
「もう、そのうち話す口実もなくなっちゃうわよ?」
「そ、そんなのわかってる」
ただ、私がこのとき考えていたのは自分の臆病さについて
ではなかった。母さんのことだ。あの日も、あれからも母さん
は愁のことを口にしなかった。でも、気がついているはずだ。
私の好きな相手が愁だということを。それなのに、どうして、
母さんはこうも自然にしていられるのだろう。私にはそれが
分からなかった。
母さんはPTAの役員だ。親父がでかいとこの医者だから、そ
のなかでもそれなりに権威があるらしい。
どんな内容が話されているのかはだいたい母さんから聞い
ていた。私はそれを聞いたときに、ずいぶんと排他的な会合
だと思ったので、ただの異常な潔癖性集団ではないかって、
言ってやったことがあった。
母さんは笑っていた。一部についてはそれを認めているよ
うだった。私はそのなかにいる母さんが嫌で、何度も辞める
ように迫った。でも、母さんは私を守るためだと言って、辞
めてはくれなかった。私を守りたいのなら、それこそ、本当
に辞めて欲しかったのだが。
ところで、愁は学校創設以来稀にみる問題児とされていた。
当然、会合で愁はその潔癖にかけられて、駆除された。私が
そう思いたいのかは別にしても、愁は同年代から避けられて
いるというよりは、むしろ、その親たちから避けられている
のだ。
元々あいつは友達が多かった。敵も多かったが。結局、潔
癖性の会合集やそれに従順なその他の親たちが愁とは関わら
ないように同年代の子を仕向けていたのだ。こどもの可愛さ
ゆえに、こどもを失わないために。
いまや愁は教師からも避けられている。愁は学校にはいる
が、なきものとされていた。さしずめ、あいつはさまよう亡
霊だ。誰にも見えていない。もし、母さんの娘がその亡霊に
とりつかれたとしたら(そいつらはきっとそう思うにちがい
ない)、母さんは果たしてどうなるのだろうか。
その権威は一気に失墜し、それまで従っていた者たちが手
のひらを返したように、今度は母さんの墓を掘るにちがいな
いだろう。私はそれが怖かったのだ。
紅茶に浮かび上がる波紋を見て、私はいまはっきりとそれ
を実感した。あいつにかけようとした声が震えていたのは、
それが墓堀りの合図になりはしないかという意識も働いてい
るからだ。
「母さんはそれでいいのか? 私が言ったとしても」
とれそうな留め具を見たら、母さんならどうするだろう。
私はその答えを知りたかった。
「……そうね、どうしようかしら」
母さんは席をたった。私は一瞬、逃げたと思った。でも、
母さんはあいつらとは違う。そこにあるものをちゃんと
見る人間だ。私は母さんを信じて、じっとその場で答えを待っ
た。食器を洗う水道の音がやけに大きく聞こえる。でも、いま
水はなにも洗い流していなかった。この音がずっと続いてくれ
ないかと願った。この水が止まったら、きっとそこに答えがみ
えるだろうから。
蛇口が閉まった。
「……お母さんね、彩香のことが大好きなの。自分の思う
ように行動させてあげたい。でも、あなたを庇いきれなかっ
たときは、そのときはお母さんを恨まないでちょうだいね」
最後の言葉に母さんのいつもの笑みが戻った。これが母さ
んの答えだ。
私は明日、愁にお礼を言いに行くことに決めた。