第一部 告白 2/15
結局、僕は昼までそこにいた。明日は『悪の華』(4)で
も空に浮かべようかと思っていたところで、誰かがやってき
た。屋上扉のやけに軋む音が、続いて、すぐ近くにある梯子
を軽快に上る音が聞こえた。
「よぉ? 来とったのか」やってきたのはバスケ部の友人の
柊だった。ただ、僕にはそれが容易に想像できていた。
昼食は学校内の購買で買わなければいけないのだが、僕は購
買へ行けなかった。一度、購買へ行って並ぼうとしたら、たち
まち人が退けた。僕にはそれが嫌で、それでいつも柊に頼んで
いたのだ。
「自分、飯だけ喰いに来よんか?しゃあないやっちゃなぁ。
ほれ、自分の好きなカレーホットドッグ」
僕は身を起こすと、飛んできたそれをキャッチした。
「爽香の奴は?」
「あぁ、あのどぐされなら友達と飯食べてんで」
「そっか……なんか怒ってた?」
「別に、な~んも。せやけど、自分あんま自由にしすぎんと
いてや? 中退だけはさせへんぞ」
「ん、わかってんよ」僕はそう言いながら、柊の髪を見て
笑った。
「おまえの髪も十分、自由にしすぎてんぞ?」柊の髪の色
は西洋人のまさにそれだった。
「ハハハ、自分が戻すなら俺も考えるわ」
「バカ言うな。戻さねぇよ。これは、あいつを守るための
まじないなんだから。気高き狼、ってな」
「なんやでそれ。自分、狼のつもりかいな? てっきりヴァ
ンパイヤか思たわ」
彼のにやける顔を見て、僕はその発言があながち間違いで
はないように思えた。確かにここでは日の当たる場所になど
僕はいられないのだから。
僕にはカレーホットドックの他にもう一つだけ、学校での
楽しみがあった。それは、昼食後に体育館でスリーポイント
シュートを打つことだった。
この意味を一度真剣に屋上で考えたことがある。僕はそこ
に本当はなにを見ているのか。恐らく、リングは誰かのここ
ろで網はさしずめ琴線といったところだろう。スリーポイン
トラインより遠くで打っているのは、それだけ、他者との距
離が遠いことを自覚しているから。ボールをできるだけ高く
あげようとしたり、バンクショットを用いなかったのはそう
した方がより網を激しく揺らせたから。要はボールは僕の憂
苦だった。ショットが上手く決まると、僕のその憂苦がまる
で誰かの琴線を激しく揺さぶっているように思えて、僕はそ
こに夢を見ていたのだ。
体育館には二面のバスケットコートがあるが、いつも片面
は国嶋が使っていた。国嶋は初等部で一番仲の良かった子だ
から僕は彼女のことをよく知っている。バスケがとても上手
で、勝ち気なくせにどこか抜けていて、それが僕の感じる彼
女の面白いところだった。中等部に入ってからもお互いにバ
スケは続けたが、男女で練習場所が区切られたことや、クラ
スも別れたことから、話す機会が次第になくなっていった。
それに加えて、僕は問題を起こしてしまっていたから、なん
となく、僕の方でも彼女に話せなくなっていった。
だから、廊下ですれちがっても、僕は彼女を見なかったし、
彼女も僕に話しかけてこようとはしなかった。昼間のこの時
間でさえ、僕と国嶋は決して話すことはなかった。
僕は何も考えずにスリーを打っていたから、やはり、体育
館は常に僕ひとりだった。
僕はもう、この先もずっと国嶋と話すことはないと思って
いた。ところで、その日の午後、僕は彼女に話しかけること
になった。
その日はテスト週間のさなかで部活がなかった。早々に帰
れたのだが、僕はまたしても屋上へ行った。
ここは有蓋校舎だ。僕の頭の上には常に大きな蓋があった。
だから、せめて、僕は屋上にいたかったのかもしれない。
そこには煩雑な蓋がないのだから。
僕は屋上のいつもの位置に寝そべると、ひとり飛行機を眺
めていた。僕が本当に見ているものは果たして何だろうか。
ここにあがってからの癖で、僕は視線が見せる真実を知りた
がった。
では、飛行機に僕はなにを見ているのだろう。僕のすっかり
となくしてしまった雄気だろうか。いや、それもあるだろう
が、いまはただたんにそいつの勇往邁進していく姿に嫉妬し
ているんだ。
手で銃口をつくって、引き金をひいてみた。あいつが落ち
たらこの世界は驚いて口をあけるだろう、ただ、僕がそうし
ても、きっと針穴ひとつあけられない。僕が晴天を見たのは
いつだ。僕の視界にはすっかり憂鬱が蔓延していて、僕の見
る世界はいつも事件だらけだった。
ふいに、その事件に本当の世界が泣き出した。元さんの言
うとおり、雨が降ってきたのだ。
僕は帰ることにした。雨が僕をこの世界に融解してくれた
ら、どんなに幸せだろう。でも、実際にそれをやってみても、
それは、僕をこの世界に余計に際だたせるだけだと知ってい
る。だから、僕はいま必要以上に雨を避けていた。
元さんの予報はだいたいあたる。だから、僕は元さんが雨
だと言えば、仮に晴れでも傘を持つようになった。彼に負け
ない予報士がいるとすれば、それは爽香ぐらいしか僕は知ら
ない。
下駄箱に着いて帰ろうとすると、誰かが外で空を見上げな
がら立っているのが見えた。
夏になると増える光景だ。晴れ曇り関係なく雨が降る季節
だから。こんな晴天に傘を持っているとしたら、よほどの天
気予報士か臆病者くらいだろう。もしくは、世界が濁ってい
て、いつも晴れを晴れと信じられないような人間だろう。
ところで、そこに立っていたのは国嶋だった。僕はなぜだ
か少し安心した。
それから、僕はいつも通りそのまま帰ろうとしたのだが、
鞄以外手ぶらの国嶋の姿がどうにも気になって、結局、僕は
下駄箱へ引き返すことにした。
(4) ボードレール(1991)『悪の華』
安藤元雄訳、集英社