第一部 告白 1/15
「……こりゃ、一雨降りそうだね」元さんは店外の晴天を
眺めながら、そう言った。
「そうかぁ? でも、まぁ、元さんがそう言うんなら傘取
りに行かねぇとなぁ」
「そんなことより愁ちゃん? 早く学校行かなくていいの
かい?」
時刻は既に10時をまわっていた。たぶん、間に合って3
限目だ。
「あぁ……もう、行くよ」僕はそんなことを言いながらも、
ラーメンをすすっていた。
「迷子は結構だけど、ここは学校じゃないからね。いいか
げん覚えとくれ」元さんはそう言うと、僕のラーメンをすす
る音よりも豪快なため息をつきながら、店の奥の方へと消え
ていった。
「――ところで、爽ちゃんは元気かい?」
「あぁ、今頃、学校で勉強してるよ。あいつは真面目だか
ら」
「愁ちゃんもそうなってくれるといいんだけどなぁ」元さ
んは仕込みを始めると、いつもの口癖のようにそう言った。
「そしたら、元さんの売り上げが落ちちまうだろ?」
「なめぇき言うな。いまは営業時間外だよ」
あまり冗談を続けるとさすがの元さんにも怒られてしまい
そうなので、そろそろ店を出ることにした。
「ごちそうさん」
「あいよ。ほら、愁ちゃん。口ゆすいでいきなよ?」お金
をカウンターに置いて出ていこうとする僕に元さんが慌てて
水を持って来てくれた。
「いいよ、別に。俺、話す奴いねぇし」自嘲まじりに笑い
ながら元さんを見たが、元さんの表情は石ころみたいに硬かっ
た。元さんはこういうことを冗談に流してはくれなかった。
「じゃ、おれ行くわ。美味かったよ?」
「なめぇきいだってんだよ。……爽ちゃんはいいのかい?」
「いいよ、どのみち会ったら怒られるし」
「あの子には心配かけないでやってくれよ。今度は一緒
に夜においで」元さんはそう言うとまた店の奥の方へと消え
ていった。なかなか、元さんから「ありがとう」は聞けなかっ
た。それもそうだ。元さんのお店の本当の営業時間は17時
からなのだから。
僕はそのまま家に戻って傘を取ると、学校へ向かった。ちょ
うど3限目が終わって放課の頃だった。
「あ、兄さん」
「……お、爽香か」誰もいない下駄箱を通ると、元さんの
気にかけていた子に出くわした。
「ん、もぉ~、ま~たラーメン食べてきたの~?」
「あぁ、腹へってな」
「元さん、元気だった?」
「おぅ。爽香のことも気にかけてたぞ」
「そっか。でも、朝からラーメンはよしてね?」
「あぁ、でも、元さんのラーメン美味いからなぁ」でも、
これは恐らく嘘だった。僕は元さんのラーメンじゃなくて、
本当は元さんが好きなのだ。僕を叱ってくれる大人は元さん
ぐらいしかいなかったから。本当は僕に対して爽香もめった
に怒らない。
「あ、兄さん? 次、技術だから早くしないと?」
「おう。先、行ってろ。すぐ行くから」うん、とだけ短く
言うと爽香は走っていった。彼女は内股なので、後ろ姿を見
るとこけないかいつも不安だった。
ところで、僕は彼女に嘘をついてしまった。教室に鞄を置
くといつものように屋上へと向かってしまった。
僕はバスケ部以外に話す相手が特にいなかった。たぶん、
噂のせいなのだろう。みんな僕を避けていた。
初等部の頃がふいに懐かしくなる。あの頃はまだ何もかも
が普通だった。僕はいつも普通に憧れているのに、結局、普
通にはなれなかった。だから、僕はこうして屋上で寝そべっ
て雲を見上げては理解もできないのに、『パリの憂鬱』(1)の
「異人さん」(2)だとか、『異邦人』(3)だとかを読んでいた。
著者のこともそれが書かれた時代背景も僕はまるで知らない
から、ただ上辺をなぞることしかできなかったけれど、その
凹凸に触れるのが好きだった。僕はどこかこの疎外感の楽し
み方を知りたかったのかもしれない。
でも、これは喫煙と同じだった。
(1)ボードレール(1951)『巴里の憂鬱』
三好達治訳、新潮社
(2)散文詩『巴里の憂鬱』全50編の内の1篇。
ボードレール(1951)『巴里の憂鬱』
三好達治訳、新潮社
(3)アルベール・カミュ(1954)『異邦人』
窪田啓作訳、新潮社