バス停
突然だった。
目の前で起こった出来事に、僕は驚くことさえできなかった。
「わっ」と言って友達が僕を驚かしてから実際に僕が「びっくりしたあ」と声をもらすまでの間の気持ち、いや気持ちすら無いほど心が無な状態が、ずっと続いているような、そんな感じ。
僕と同じ停留所でバスを降りたひとは他にもたくさんいて、でも、もちろん僕以外は皆何事もなかったかのように各々の目的地の方角に散っていったわけで。停留所の前でなおも立ち続けているのは、僕一人。
いや別に、急性の腹痛が僕を襲ったわけでもなければ、バスから降りた一歩目で犬のフンを踏んでしまったわけでもない。僕の友達の家に、この前行った家族旅行のお土産を渡しにいくのをお母さんに頼まれて、バスに乗った。で、僕が降りるバス停で、僕より先に降りようとした高校生くらいの女子生徒が、降りる直前に運転席の方を振り返ってはっきりと一言、
「ありがとうございました」
と言った、それだけ。うん確かにそれだけ。なのに僕は彼女が発した見えないビームみたいなものを受けちゃったみたいで、現在進行形で動けずにいる。この前、友達の家でやった戦闘ゲームを思い出した。サンダーなんとか、みたいな名前の雷のビームを食らってビリビリしている怪獣と、いまの僕がぴったり重なる。
僕は今どんな気持ちなんだ?誰か教えて下さい。そこのあなた、そうですあなたです、僕に僕の気持ちを教えて下さい。と訴えるも相手は気づきもせず逃げてしまった。まあ相手がカラスなのだから仕方がない。
うーん、と僕はいまだに動揺しつつも、自分の気持ちを考えた。彼女に対する尊敬か?いや、それだけならこんなに複雑な気持ちにはならないはず、じゃあなんだ。妬みか、嫉妬か。そんなはずがない。
この前、中学校の国語の授業で習った、「一般化」という方法を使ってみることにする。習ったことを生かす僕、偉い。ってのはともかく、「目の前でとある女性がバスの運転手に『ありがとうございました』と言ったのを見た」、これを一般化すると「目の前で他人の美行を目撃した」となる。他人の美行。そうか、分かったぞ。彼女は言えたのに、僕には言えなかったこと、それがビームの正体だったんだ。僕は自分が恥ずかしくて、でも彼女が凄い、かっこいいとも思って、いろんな感情がぐるぐると僕をめぐって、僕は目が回っていたんだ。
それに気づいた僕は口をポカンと開けてバカみたいな顔で虚空を見つめていたせいで、バス停に並び始めた数人に気が付かなかった。隣のおばさんに明らかに怪訝な視線を向けられたので、あわてて逃げる。ごめんなさい並んでるわけじゃないんです。
角をいくつか曲がって、真っ昼間なのに日当たりが悪く人気の少ない道に出て、電柱のそばで立ち止まった。さっきまでのあわあわとした動揺は消え、かわりに僕に襲いかかってきたのは罪悪感である。運転手への感謝を伝えずに黙ってバスを降りた自分が、酷い無礼者に思えた。
そう、考えてみれば、運転手のお陰で僕はいまここにいる、ここまで来れた。僕は車内でボーっと突っ立ってるだけで目的地に運ばれたのに対し、運転手はどこへ行きたいというのもなしに、乗客のためだけにハンドルを握る。僕は黙って運賃を払い、黙ってバスを降りる。不遜だ。失敬だ。傲慢だ。
そんな中3の僕がギリギリ知ってる言葉達で自分を戒めていたら、黒を基調とした自分の服装がとても不快に感じられた。まるで犯罪者じゃないか。ごめんなさい運転手さん、運転手さま。
そんな無駄に大げさで滑稽なことを心の中に思うことで自分の中の罪悪感を薄めようとする自分に気が付いたことで、僕はいよいよ本当に落ち込んでしまったようだった。冗談を考えるような呑気な場面じゃない。不謹慎。
以前から周囲の大人に「考えすぎ」「極端」という言葉をよくかけられていた僕は、今も悪い自分が出ているのかなあと思う。でも今は、自分だけの問題じゃない。ひとに感謝を伝えられず悩むこと自体を否定することは、お門違いと言わざるをえない。ちゃんと反省して、次に繋げるために自分がすべきことを考えること、これ以上に賢明な選択肢があるだろうか。
運転手さんがどんな人だったかは覚えていないが、ひとまず自分の中でさきほどの運転手さんになりきり脳内実験を行うことで、運転手さんの気持ちを推し量ることにした。
そして僕は、ひとつの結論にたどり着く。
運転手さんは、虚しいのではないだろうか?
よく考えてみれば、もちろんさっきの僕みたいに終始無言でバスを利用する人間はたくさんいる。だから、毎度毎度、運転手さんが悲しんだり嘆いたりしているとは考えにくい。とすると、運転手さんが感じるのはもっと空虚な感情、すなわち虚しさではないだろうか。
なんだか自分まで虚しい気持ちになってきた。
「寒っ」
まるで僕の気持ちを反映しているかのように空気が冷たく感じられて、僕は思わず呟いた。いや、熟考する僕が虚しさでどこかに消えてしまったことで、我に返っただけかもしれないが。
僕はもやもやした気持ちを背負いながらも、ひとまず友達の家まで行くことにした。陸上部で同級生でもある彼は、お土産を楽しみにしていると言っていた。
彼の家に行くときにいつも目印としている看板を見つけた。ここからだと歩いて5分ほど。何も考えたくなくて、走って家に向かい、その勢いでインターホンを押した。
出てきたのは、彼のお父さんだった。
「おお、広渡くん。久しぶりじゃないか。今彩斗は塾に行ってていないんだけど…」
「大丈夫です。これを渡しに来ただけですので」
そう言って僕は、お菓子の入った紙袋を差し出した。
「お!これはどうもありがとう。そういえば熱海に旅行に行くって聞いてたな。温泉、入ったの?」
「はい」
僕は自分が思いつく最もシンプルな答えを出した。さっきのことで、心のどこかがずっと落ち着かない。いますぐこの場から去りたい。
「そうか、ふーん」
幸い旅行について、それ以上は訊かれなかった。
なんとなく沈黙が流れて、僕は「じゃあ失礼します」と言った。
「うん、ご両親によろしく伝えといてね」
「はい、失礼しました」
僕は軽く一礼し、逃げるようにその場を去る。その勢いでダッシュし続けている途中で僕は気が付いた。自分でも気づかないうちに、バス停に向かっていた。それはもちろん家に帰るためというのもある。でも、それだけではない。
使命感。
僕はさっきから自分が感じていたモノの正体に気づいて、はっとした。僕も同じように、彼女と同じように、「ありがとうございました」を言わなければ。
そしてその使命感は、その前に感じた虚しさによるものだった。運転手さんが虚しいのに加えて、日本全体が虚しいのではないだろうか。思いやりをもった人が激減した、冷たい世の中になっているのではないか。僕がそれを変えないと。若者の心を動かさないと。
確かによく考えてみれば、以前に高齢の方が運転手さんに感謝の言葉を言う場面には遭遇したことがあった。それが若者になったとたんに仰天したのは、そういう律儀なことをするのは老人であると、僕が決めつけていたからではないか。でも違った。固定概念だった。
たしかに他人の目がある中で「ありがとうございました」を声に出すのは、勇気のいることだろう。でも、言わなければ運転手さんに伝わらない。「勇気のいること」なんてしない方がクールだ、という思い込み。事実、さっきまでの僕もそう思い込んでいた。でもそれは違う。僕が彼女に抱いた「かっこいい」という気持ちが、それを証明していた。
バス停には怖そうなおじさんが一人いるだけだった。僕はおじさんの隣に並んだ。
と、並んでから10秒もしないうちに、車道の遠くにバスの輪郭が見えた。僕のどきどきは、僕とバスとの距離に反比例するように増していった。おじさんに続いて、僕も気持ちの整理がつかないまま、バスに乗り込んだ。
運賃を小銭を入れる所に入れる。運転手の50代くらいのおじさんは、仕事モード、という感じの真剣な顔で、僕に軽く会釈した。
車内にいたのは僕の他に3人。僕は一番後ろの長い椅子の左端に腰を下ろした。
ちょ、ちょっと待ってくれ。
僕は焦っていた。降りるバス停まではのこり5つ。心の準備ができていない。
だ、誰か下車ボタンを押してくれ。そう願った。少しでも心の準備をする時間が欲しい。でも、最初の2つのバス停では、誰も下りず誰も止まらず、ドアは一度も開かなかった。モニターに表示されるバス停名がコロコロと変わる。
「次は川山駅北口にとまります」
車内アナウンスと同時にモニターの表示が変わる。次は駅にあるバス停。いつも多くの人がここで降り、多くの人が乗ってくる。案の定、すぐに下車ボタンが押された。
胸がどきどきする。と同時に、バスに乗るだけでこんなにも緊張してしまう自分が恥ずかしい。他の乗客達は皆、手元のスマホや本見ている。自分だけが、何もできずに心の中であわあわしている。浮いてる自分にまた焦る。
何も考えたくなくて、息を止め、体を静止させてみる。すぐに気持ち悪くなって、体をブルブルさせる。そんな事をしているうちに、ドアが開いた。僕以外の全員が降りた。怖そうなおじさんも、高校生くらいの男子学生も、主婦らしきおばさんも、荷物を抱え無言で下車していった。
一方、代わりに乗車してきた人の数は、想像以上。少なくとも10人はいる。僕の座っている長椅子には誰も座らず、隣に誰もいない席に皆が腰かける。
僕の降りるバス停まで残り2つ。僕は両手を祈るように合わせ、それを顎に乗せて縮こまった。
まるで教室のすぐ外で待機する転校生のような緊張した自分に疲れ、僕はつい「いけないこと」を思いつく。
やめよう。
うん、こんな無理をしてまでやることじゃない。僕が「ありがとうございました」を言わなかったところで誰が傷つく?事実、ほとんどの人が言わないじゃないか。
と思いつつ僕は気づいている。ダメダメダメダメ言わなくちゃ。そう囁くもう一人の自分に。
僕はそいつを必死に押しやっているのに、そいつは何度でも僕のところに戻ってくる。ゴムみたいに。
ついには僕は押し返すのをやめ、そいつを抱えることに決めた。抱えたまま黙ってバスを降りる。
できないと思った。
これで人生が決まるような、そんな気がした。言えたら、周りに尊敬される立派な大人になれる。言えなかったら、冷たくありふれた大人になる。人生最大の決断を迫られているような気がした。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥、じゃなくて、言うは一時の恥言わぬは一生の恥だ。僕の良心が、一時の恥を取れと言っていた。
次のバス停に着いた。5人ほどが降りた。誰も、何も言わなかった。座っている人も、誰も手元から視線を離さなかった。
自分が「ありがとうございました」を言ったら、どうなるだろうか。想像してみる。乗客が一斉に顔を上げる。僕に視線を向ける。考えるだけでどきどきする。彼女のときはどうだった?分からない。僕もそのあとすぐに降りたから。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
言わなきゃ言わなきゃ言わなきゃ言わなきゃ。
やだやだやだやだ。
ダメダメダメダメ。
…そして。
僕の降りるバス停に着いた。
でもそこでだ。僕は自分の犯した重大な過ちに気づく。
下車ボタンを押していなかった。
他に下車する人も乗車する人もいなかったらしく、あわててボタンを押そうとした時にはもうバスは過ぎ去り、モニターの画面が変わってしまっていた。
僕は口をポカンと開けたまま、後ろを振り返った。バス停はもう見えなかった。
それで僕は、体からエネルギーを全て奪われてしまったようだった。何も考えず、ぼんやりと虚空を見つめた。
次のバス停に着き、今度はドアが開き数人が降りる。ここからでも、なんとか家までの道のりは分かる。
なのに、降りられなかった。
僕は、一歩も動けなかった。何かが、僕を動けなくしていた。僕はまた、ビームを食らった怪獣となった。
次のバス停も、その次も、またその次も。
どんどん乗客が減っていき、僕の視線はどこか分からない虚空から動かなかった。
行ったことのない方向。聞いたことのないバス停名。見たことのない景色。
色んなものが、僕の前を通り過ぎては消えていく。
気が付くと、僕の他に乗客は一人になっていた。
ずっと上げられなかった顔を上げて僕は驚いた。でもそれは、人の少なさだけにではない。
「もう一人」は右手でつり革をつかんで立ち、左手に鞄を持ち、窓から景色を眺めている。
僕の目の前で「ありがとうございました」を言った、彼女。僕をこんな様子にさせた、根本的な理由となった人。
その彼女が、そこにいた。ガラガラの車内で、なぜか立っていた。
制服姿と髪型で、僕は確信した。さっきは後ろ姿しか見えなかったけど、僕の衝撃があまりにも大きくて、彼女の姿までもが脳裏にはっきりとインプットされていた。一度そうだと思うともう、そうとしか思えなかった。
下車ボタンが押された。押したのは彼女。僕ではないから。
「あ」
僕は思わず、息だけの声を出した。また、やられる。また彼女は言う。絶対言う。僕の目の前で。
彼女から目が離せない。掌に、じっとりと汗がにじむ。
「ご乗車ありがとうございましたー、西森町です」
「ありがとうございました」
「はい、ご乗車ありがとうございましたー」
うっ。
さっきと同じ気持ち。わけもわからず、ただただ鼓動が増していく、説明できない気持ち。
ただそれと同時に、僕は一つの確信を覚えた。
いける。僕も言える。
彼女のあまりに自然な下車劇が、僕に期待を植え付けた。
なのに。
次のバス停で人が乗ってきただけで、僕はたじろいでしまった。乗ってきたのは、おばさん一人だけ、なのに。
あ、やっぱり無理だ、と直感的に思った。
僕は、なんて臆病なんだろう。見る目が一つでもあるだけで、なぜできないんだろう。
鼓動が聞こえるようだった。僕はまた、縮こまった。今度は顔ごと両膝に埋めた。自分の脚と、座席だけが見えた。
「次は、終点、石一駅です」
そのとき急に、雨音がした。にわか雨だ。ボツボツと地面や車に当たる雨粒の音が、どんどん大きくなっていく。僕は、顔をさらに深く埋めた。
着いた。開いたドアは、閉まらなかった。
「これから、車内点検を行います。どなたさまも、お忘れ物のないよう、ご注意ください」
アナウンスとともに、こちらに向かう足音が聞こえた。車内を見回る運転手さんだ。それでも僕は、動けずにいた。
「終点ですよ、お客さん」
もう、顔を上げるしかなかった。運転手さんが、真横にいた。さっきの仕事モードの顔ではなく、優しい笑顔だった。その笑顔に引き込まれるように、僕は言っていた。
「ありがとうございました」
「ああ、起こしてくれて、って事ね。さあさあ、降りて降りて」
「そうじゃなくて」
僕は、ほぼ反射的に言った。
「ん?」
そうじゃなくて、何だ。説明しなきゃ。下車際でないタイミングで言ったために、僕にさらなる試練が降りかかった。
乗せてくれて、です。
喉元まで届いた言葉は、言い出せずに、引っ込んだ。こんなに近い距離で、面と向かって言うなんて、僕にはできなかった。
でも、「そうじゃなくて」と言ったからには、何か答えなきゃ。こめかみの辺りから汗が伝う。僕はいたたまれずに立ち上がる。運転手さんは近くの席に移動し、道を開けてくれた。特に答えを気にしているわけではなさそうだった。
ドアの前まで来た。運転手さんと距離が開いた。
「ありがとうございました!」
理由なんていらない。直感で、そう思った。
その勢いでバスを降りた。運転手さんの返事は待てずに、走り出した。
バス停に並んだ人の視線を感じた。なのに、恥ずかしいとは思わなかった。雨に打たれながら、どこか分からない道を、全力疾走した。
思わず、笑みがこぼれる。届いたかどうかなんて、どうでも良かった。日本を変えられたかどうかなんて、気にしなかった。ただ、「言えた」ことが、とてつもなく嬉しかった。
その後僕は、しばらく走って見つけたバス停から反対方向のバスで家に帰った。シャワーを浴びて、夕食。きらきら光る白米を見て、僕は色んな人を想像した。
稲を育てた農家さん。袋に詰めて、お店まで運んだ人。レジの店員さん。炊いてくれたお母さん。
沢山の人を思い浮かべて、心の中で「ありがとうございます」を言って、僕は手を合わせた。
「いただきます」
はーい、とお母さんがのんきな声で言った。