茶話:近道
台所の戸棚を覗き込んだ鬼童 真珠は、ふむ、と息を吐いた。
その細く華奢な背中へ「お嬢さん」と呼び掛けられれば、長く珍しい白銀の髪を揺らして振り返る。
そこには割烹着を着込んだ年配の女が一人、不思議そうな顔をして真珠を見ていた。
「ああ、田中さん」
「何かお探しですか?」
「茶菓子を少しばかり」
ちょ、と右手の親指と人差し指で隙間を作った真珠に、鬼童家のお手伝いさんである田中さんが、あら、と声を上げた。
そうして「ちょっとお嬢さん、失礼しますね」その言葉と共に、真珠同様に戸棚を覗き込む。
あちらの棚もこちらの棚も、と思い当たる場所全て見てみたが、収穫はゼロだ。
「何もない、みたいですね。……これ」
後ろ手を組んでいた真珠は、田中さんの小皺の目立つ目元に剣呑な色を乗せたことに目を瞬く。
心当たりでもあるのか、と問おうとしたところで、台所と廊下を区切る暖簾を潜ってやって来た男が一人。
「お嬢サンに田中サン、何してんスか?」
「佐藤さん」
暖簾を潜ってやって来たのは黒いスーツ姿の若い男で、鬼童家では愛される真珠と双子の兄である鬼童 玄乃の護衛を行っている佐藤だ。
染められた明るい茶の髪に、耳には複数のピアスが並んでおり、到底正当な護衛とは思えないが、それでも真珠は気遣いと心遣いで目上の人間として『佐藤さん』と呼ぶ。
当の本人はそれに気付く様子もないのだが、剣呑な色を目に乗せたままの田中さんの顔を覗き込む。
その瞬間「さーとーうー!!」田中さんが、安っぽい茶髪の頭を乾いた良い音を立てて叩いた。
漫画やアニメなどでは星の見えそうな勢いに、見ていただけの真珠も華奢な肩を跳ねさせる。
「アンタはまた!お嬢さん達の茶菓子にまで手を付けたね!!」
スパンスパン、今度は二回続けて叩かれているが、聞き捨てならない言葉もあった。
真珠が「佐藤さん?」声を掛ければ、佐藤はまるで錆び付いたロボットのように、ぎこちなく時間を掛けて振り向く。
真珠の黒い瞳と目が合った瞬間、佐藤は「申し訳ありませんでしたぁぁ」流れるような動作で、残像すら見えるスピードでその場に座り込み頭を下げた。
それを見下ろす真珠は、やれやれ、と首を左右に振る。
実はこの状況、鬼童家では良くあるものだ。
といっても、佐藤が田中さんに頭を叩かれドヤされている光景を、真珠は初めて見たのだが。
鬼童家の茶菓子はしょっちゅう無くなるのだが、その犯人の八割が佐藤だった。
寧ろ佐藤ではなく、砂糖と改名すべきと思うレベルに、佐藤は甘いものが好きなのだ。
まあ、食べられたくなければ自室で管理するのが一番ということである。
今回はそれを怠った自分も悪いと判断した真珠は、その場にしゃがみ込み、未だ頭を下げ続けている佐藤の肩に触れた。
「自分は、最近出来たケーキ屋さんのチーズタルトが食べたいです」
顔を上げた佐藤が見たのは、それはそれは綺麗な笑顔だったと後に語る。
因みにそのケーキ屋は非常に評判が良く、常に行列が出来ている状態で、尚且つ、チーズタルトは店頭販売のみの一日限定五十個だった。
***
「別に良かったのに」
十数分後、質素な黒いワンピースに汚れ一つない白衣を羽織った真珠は、双子の兄である玄乃と共に外出していた。
あの台所の騒ぎを聞き付けた、他のお手伝いさんやら玄乃が駆け付けたのだ。
勿論全員が佐藤に冷ややかな目を向けていたが。
それもまた、割と日常茶飯事である。
話を聞いた玄乃がそれならば、と茶菓子を買いに行こうと言い、現状に至った。
真珠の隣を歩く玄乃はロングTシャツにサルエルパンツというかなり緩い格好だ。
「俺が真珠と出掛けたかっただけだから、良いんだよ」
年頃の兄妹にしては珍しく仲の良い兄妹である。
兄妹といっても双子であり、お互いがお互いを半身だと見ることもあるので、世間一般の兄妹感覚とは僅かに異なるのかも知れない。
「それより真珠」
「何、兄さん」
「出来れば普通の外出に白衣は止めて欲しい」
真珠が動く度に翻る長い裾。
脹ら脛下まである長い白衣は、街中ではやけに目立ち、浮き上がっている。
ただでさえ、日本では珍しい白銀の髪なのだから、と玄乃は思う。
勿論玄乃にとっては何があっても愛おしい妹であり、髪の色が少し人と違う程度でどうこう思わない、が、周りは違うということだ。
ちらちらと感じる視線に、付いて来て良かった、と思っている玄乃の心中を汲み取らない真珠は、うーん、と唸る。
首を左右に傾けた後には「考えておくね」と保留の答えを寄越した。
即答でイエスがなければ、それはつまりノーだと思う玄乃はそっと肩を落とす。
そうこうしていると、真珠は真っ直ぐ前に進もうとした玄乃の袖を掴む。
控えめながらに確かな意思表示だ。
男にしては長い睫毛が生え揃った瞼を動かし、その目を開いたり閉じたり、玄乃は足を止めた。
「兄さん、雅堂は此方から行った方が近道になる」
雅堂とは真珠が愛して止まない老舗和菓子店である。
あそこの何々が美味しい、と良く口にするので玄乃も時折足を向けていた。
そしてそこへ向かう道の途中、くい、と小枝のような指が指し示したのは細い小道だ。
雑居ビルの間ということもあり、薄暗い。
それを見た玄乃は、形の良い眉をあからさまに歪めてみせる。
「……真珠、知ってるか?」
しかし直ぐに眉の位置を戻した玄乃は、諭すような声音でそう言った。
***
抜け道、近道、普段と違う道は目新しく楽しいものがあるだろう。
しかし、外れ道というものは危険が多い。
山道獣道の怖さは良く知られるところだが、現代社会の街中にも怖い近道は存在する。
少しだけ前の話だ。
ある商店街の近くに暗く細い小道があった。
雑居ビルの間の道は駅と大通りを繋ぐのに便利な場所にあり、昔は盛んに行き来があったらしい。
しかし、大通りが明るくなるにつれて、小道の暗闇は色濃くなり、今では寂れてしまったのだ。
電車に間に合いそうにない時などに、ちょくちょくこの道を使う人はいた。
また近所に住む子供達なんかは、好んでその小道を使っていた。
どこか不気味な、それこそ不可思議で非日常的な雰囲気が、寧ろ逆に好奇心をそそったのだろう。
一人なら怖くても、他の子供がいれば互いに騒ぎ、茶化してしまうということは珍しくない。
所謂、赤信号、皆で渡れば怖くない、というやつだろうか。
さて、そんなある年のことだ。
商店街で祭りがあって、子供達が沢山、夜にも関わらず外を出歩いていた。
その日は月のない夜で、大通りのネオンも見えない暗さだ。
それでも、慣れた道とあって子供達は次から次へと小道へ入っていき、そして、それっきり帰って来ることはなかった。
他の子供達から聞いて小道へ探しに行った大人達が見付けたのは、割れた懐中電灯だけ。
世間では集団誘拐と呼ばれ、騒がれたが犯人から連絡があるわけでもなく、そのままだ。
物騒な世の中、ここも怖いところになったね、と人々は噂をした。
ただ近所のお年寄りなどは、元々その場所は昔から『神隠し』の話が絶えない山を切り拓いた場所だと知っていたので、大して驚くことはなかったという。
街の近く、人の近くからは怪異が消えたように見えても、そんなことはない。
――寧ろ近くにこそ、大きな落とし穴のように恐ろしいものが口を開けているのだ。
***
「有難う御座いました」
花が香るような薄らとした、しかし、存在感のある笑みを浮かべた雅堂の若女将が、 緩やかな動作で頭を下げ、真珠と玄乃を見送った。
真珠がぎこちなく頭を下げる横で、玄乃は女性顔負けとも言える中性的な顔を緩める。
そんな二人の寄り添うような背中を見送り、その姿を確認出来なくなった頃、若女将は、白魚のような指先を頬に当てた。
ほう、溢れたのはうっとりとした感嘆の息。
「相変わらず、綺麗な兄妹ねぇ」
実はこの若女将、二人が個別で来る日も顔にも態度にも出さないが、心中穏やかではなく、ただひたすらに嬉しく喜ばしい。
二人揃って来た日は、それはそれは天にも登る気持ち、というやつだ。
そうして若女将の心中を知らない真珠と玄乃は帰路の途中、真珠が近道になるという小道を横目に玄乃が問う。
「良いのか?」と。
白衣の裾とワンピースの裾を揃って翻す真珠は、黒い瞳を細め、緩やかにその丸く小さな頭を左右に振った。