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夏の青亭  作者: 青波零也
6/6

二〇〇四年七月三十一日

「私は、あなたの記憶と引き換えに、あなたの願いを叶えることができます」

 

 かつて、俺の友達――つい数年前まで『神様』だったと言い張る変人だ――は、「もしもの話は好きじゃないけれど」と言い置いて、こう語った。

「もしも、目の前に本物の神様が現れて、己の記憶と引き換えに『時間を巻き戻す』『死者を蘇らせる』以外のどんな願いでも叶えてくれると言ったらどうする?」

 ――と。

 ちょっと違ったかもしれない。俺はその元神様と違って完全記憶能力を持っているわけじゃないから、奴の言葉の全てを覚えていられるわけじゃない。ただ、何もかもが終わってしまった今になっても、それは頭の片隅に引っかかっていた。

 そんな神様がいたとしたら、一目見てみたいとは思っていた。ちなみにその話をしてくれた元神様はというと、俺様にはそんな能力はないと威張っていた。まあ、世の中そんなものだろう。

 俺は神も仏も信じない。常に疑い続けている、という表現の方が正しいのはわかっているけれど、どうせその辺りのニュアンスは、それこそ元神様くらいにしか伝わらないだろう。

 ただ、神も仏も信じないからといって、目に見えているもの、つまり俺自身の感覚を全て疑ってかかるのは疲れるものだ。何より、自分が狂っていることを前提にものを考えるのは厳密には不可能だ。

 だから、俺は、改めて目の前に立っているものに意識を向ける。遺憾ながら、眼鏡を外して目を擦ったところで、夏の空色をぎゅっと濃縮したような髪を地面すれすれまで伸ばし、白い裸体を雑踏の中に晒す女の子の姿は、俺の視界から消えてはくれなかった。

 つい立ち止まってしまう俺の体に、後ろから来た誰かがぶつかる。耳に響く露骨な舌打ち、その直後、短い謝罪の言葉と逃げるように去っていく気配。何か悪いことした気もするが、この格好もこういう時には便利だと思うことにしている。大体は、相手が勝手に勘違いして逃げていってくれるから。

 そうやって通行人の邪魔になっている俺に対し、裸の女の子はその異様な姿に反して誰にも認識されず、そして誰の邪魔にもなっていなかった。その場を通ってゆく人は、誰もが女の子の体の上を素通りしていたから。俺が手を伸ばしたところで、女の子のやわらかそうな体には触れられないだろう。

 そんな、幻めいた女の子は、きっと俺にしか聞こえないのだろう声で繰り返す。

「私は、あなたの記憶と引き換えに、あなたの願いを叶えることができます」

 合成音声のような、淡々とした声音。明らかにそれが「人」じゃないことは、俺にだってわかる。

 俺は神も仏も信じない。信じないけれど、そういうものが「存在する」ことは何となく知っている。物心ついた頃から色んなものが見えてるんだから仕方ない。

「私の力では、時を戻すことや、死者を蘇らせることはできません。あなたの望み全てを叶えることはできません。しかし、あなたの望みの一つは叶えることができます」

 ひたり、と。裸足で一歩を踏み出した女の子が、髪と同じ色をした夏空の目で俺を真っ向から見据えてくる。

 神様なら別に心を覗くくらいのことはできるだろう、と思っていたから、言葉の内容には大して驚きはない。ただ、こんな格好をするようになってから、それこそあの元神様以外に目を見て話してくれる相手なんていなかったから、無性に気恥ずかしい。

「どうか、叶えさせてください」

 女の子の表情は、一貫して無表情。全裸なのに色っぽさを感じられないのは、多分、何もかもが作り物めいているからだ。人形、もしくはよくできたロボット。そんな感じ。

 とにかく、そんな女の子が、他でもない俺の言葉を待っている。じっと。微動だにせず。瞬きすらせずに、俺を見つめている。その事実に息苦しさすら覚えながら、俺はちいさく口を開く。

「――まず、一つ」

「はい」

「人前に出る時は、服を着た方がいいよ」

「……はい?」

 こくん、と。女の子が首を傾げる。ちょっとかわいいじゃないか。

「君は気にならないかもしれないが、普通、人間は裸の女の子を見たらそればかり気になっちゃうからな。話を聞いてもらいたければ、まず服を着たほうがいい」

「なるほど。人間と接触する際の知識として追加します」

 こくん、と今度は首を縦に振る。何となく首の動きが、派手なカラーリングも相まって鳥のようにも見えた。インコとか、オウムとか、そんな感じ。

「それで、肝心の『願い』についてだけど――」

 ほとんど口の中で、隣を行き過ぎる知らない誰かさんにも聞こえないくらいの声で。それでも、この人ならざる女の子には届いているだろうと信じて、言葉を続ける。

「俺の友達に、おせっかいな元神様がいてさ。そいつから君の話は聞いてる。散々色んな願いを考えたし、実際に顔を見たら気が変わるかもしれないと思ってた。だけどね」

 そう、何年か前に元神様から話を聞いた時は、一瞬だけ可能性を考えた。

 俺にとっての全てであった、あいつ。何も知らなかった俺のすぐ横で、声を出すこともできずに殺されていたあいつ。あいつを殺した奴を、この手で同じ目に遭わせることができるんじゃないかと。

 だが、その犯人は、ある日、俺の手の届かないところで死んでしまったと聞いた。

 それ以来俺の望みは、あの日まで時間を遡ることも、あいつを蘇らせることもできない以上、ただ一つと言ってもよかった。ただ一つでは、あったのだけれども。

 元より――それこそ、俺の願いが「復讐」であった頃と、結局考えること何一つ変わってはいなかった。

「俺は、記憶を捨ててまで眠ることには意味を感じない。別の人を当たってくれ」

 ――俺は、あの日以来、眠ることができない。

 体や頭が限界を訴えて「落ちる」ことはあるし、薬さえ飲めばその時だけは眠れることもわかっている。医者は「薬に頼ってでも眠らなければ心身が壊れるのも時間の問題だ」と訴えるし、それはそうだと頷きはした。

 だが、眠れば必ず夢を見てしまう。悪夢。夢から覚めた瞬間に衝動的に首を吊りたくなるような、明晰すぎる悪夢。その瞬間を思い出して、つい、左の手首をさすってしまう。その夢の切れ端だけでも思い出すだけで酷い頭痛が走るのだから、厄介極まりないにもほどがある。

 そんな悪夢を忘れて安らかに眠りたいというのは、ささやかかもしれないが、今の俺にとっては一番の望みなのだ。

 それでも。それでも――。

「あなたの願いを叶えるには、何も全ての記憶は必要ではありません。あなたの記憶の一部こそが、あなたの眠りを妨げる要因なのですから。私は、その原因を取り除くことであなたの願いを叶えられます。それでも、あなたは望みを叶えようとは思わないのですか」

 女の子は、淡々と、けれどどこか必死に俺に言い募ってくる。この感じからすると、人の願いを叶えるっていうのは、この子にとって生きるために必要な行為なのだろう。ひとでなしっていうのは、俺とは在り方や存在の維持の方法が違うんだろう。今まで見てきた、他のひとでなし連中と同じように。

 悪いとは思いながらも、これだけはどうしても、譲ることができないから。

「ああ。この記憶はさ、今の俺には辛いだけだけど、それでも大切なものだから」

 泥のように纏わりつく悪夢は、俺の足を掴んで離さない。この色を失った世界の底で、俺の息の根が止まるまで。眠ることを忘れた今なら、それはそう遠い話でもないと思いたい。

 それでも、俺は、俺だけは。あいつと過ごした幸せな日々を、あいつが最後に見せてくれた笑顔を、忘れるわけにはいかないのだ。どんなにそれが今の俺にとっての「悪夢」であろうと、決して。

「そうですか」

 ぽつり、と。女の子が言う。その言葉からは何の感情も読み取ることはできなかった。

「それでは、他を当たります。どうか、お元気で」

「君も、次は願いを叶えられますように」

 女の子は目をぱちくりさせたあと、ほんの少し、ほんの少しだけ微笑んで、地面を蹴った。すると、瞬きのうちに真っ青な鳥の姿になって、青い空へと消えていく。

 そして、虚空に舞う青い羽、一つ。

 けれど、それも俺の手に触れた瞬間に、仄かな熱を掌に残してふっと消えてしまった。

 その瞬間、雑踏のノイズが蘇る。いや、ずっとそこにあったけれど、無意識に認識から排除していただけかもしれない。それらを自覚した瞬間に、嫌ってほどの熱気と強烈な日差しも一緒に思い出してしまう。普段は仕事場に引きこもっているから必要性を感じていなかったが、そろそろ帽子を買うかどうか真面目に検討すべきかもしれない。

 ――ああ、こんなこと考えてしまう辺り、まだ死ねそうにないかな。

 今日は夢も見ずに眠れればいい、そんな叶うはずもない願いを口の中で転がして、ポケットの中の飴の数を確かめつつ、人の流れに合わせて一歩を踏み出した。

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