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夏の青亭  作者: 青波零也
5/6

二〇〇三年八月十五日

 ――見上げれば、いつか見たような、悲しいほどに青い空。

 

 何となく、そこにいるような気がして、ふらりと足を運んでみた中央公園。

 そこに、案の定、小林巽がいた。

 木陰のベンチに腰掛けて、うな垂れた小林の白い頬に、途中コンビニで買ってきた袋を押し付ける。

「ひゃっ、て、兄さん! びびらせんじゃねえよ!」

「悪いねえ。ほら、お詫び」

 買っておいたすいかアイスの袋を渡すと、小林は、俺をちぐはぐな色の瞳でやぶ睨みした後「ありがと」と言って袋を破いた。まだあまり溶けていないことを確かめて、俺も、小林の横に座ってすいかアイスの袋を開ける。初めてこいつと出会った時と、同じように。

 すいかアイスの先端を齧って、チョコレートの種を噛み締めて。赤と緑のアイスを見つめたまま何も言わない小林に、まず、伝えるべきことを伝える。

「捜査、打ち切られたんだ」

 小林が、はっと顔を上げた。それを横目に見ながらも、構わず続ける。

「例の事件。捜査本部畳んで、上からは、もう関わるなの一点張り。個人的に事件追っかけてた俺も睨まれちゃって、困ったもんだよ」

 小林の目が、虚空を彷徨った。助けを求めるかのように。その意味を測りかねて首を傾げていると、小林は掠れ声で言った。

「ごめん、兄さん」

「何でコバヤシが謝るのさ」

「兄さんの復讐は、永遠に果たせない」

 永遠に。そんな大げさな言葉は、俺のつまらない執着にはさっぱり似合わなかったけれど。それでも、小林が何を言わんとしているのかは、伝わった。

「犯人は、もう、この世にいないってことか」

 小林は答えなかったが、重い沈黙が肯定を示していることくらいは、俺にもわかった。

 何となく、そんな予感はしていた。

 捜査打ち切り。俺が知っている中でも、酷く中途半端な形のまま、上から命じられるままに捜査を放り投げる事例が、稀にある。今回がまさしくそれだ。

 だが、この事件を追っているうちに――そして、この『元神様』を名乗るガキと喋っているうちに、何となく、そのからくりがわかったような気がした。

 この世界には、普通の人間には知覚できない「何か」が、確かに存在している。あいつは、結局俺にはわからないままの「何か」に殺されたのだ。そして、その「何か」はきっと、俺の知らないうちに裁かれてしまったに違いない。例えば、目の前のガキのような、現実から一歩ずれた存在に。

 きりきり響く頭痛は、頬張ったアイスのせいだろうか。それとも。

 わからないまま、冷たい塊を飲み込んで、真っ先に心に浮かんだ言葉を吐き出す。

「やるせないねえ」

 その瞬間、小林はぱっと顔を上げて俺を睨んできた。今にも噛み付かんばかりの形相で、しゃがれ声を上げる。

「あんたは、それでいいのか?」

「よくないよ。でも」

 もう一口。全くすいかの味なんかしないアイスを齧って、呟く。

「どうしようもないだろ」

 元より、この事件は手の届くものじゃなかった。あいつが殺され、あの時現場にいた檜山を疑い続け、しかし真実はとうに闇の奥に葬られ、気づけば真犯人は消えていた。そんな事件を前に、俺にできることは何もない。まさしく「どうしようもない」。

 それに、仮に手が届いたところで、何になったというのだろう。

 そう、あいつが殺された瞬間から、わかりきったことだった。

 俺は、あいつを救えなかった。結局は、それだけの話。

 小林はこちらを見つめたまま、ぎり、と歯を鳴らしたが、すぐに視線を逸らして、溶けかけたすいかアイスを先端から半ばまで齧り取った。いっぱいにアイスを頬張った状態で、口を動かす。

「兄さんは、事件のこと、ずっと背負っていくんだな」

「そうね。消化できない限りは、ずっと」

 消化なんて、できるとは思えなかった。だから、一生背負っていかなきゃならないだろう。この頭痛も、眠れない夜も、あいつの最後の「おやすみ」も。

 小林は、何とも言えない横顔で、アイスを咀嚼していた。何を言うべきなのか、迷っているように見えた。だから、その間は、誰のためでもなく、自分自身に言い聞かせるつもりで、俺にとっての事件の顛末を言葉にしていく。

「八月十一日、行方不明になっていたタチバナ・ノブヒコが、この町で発見された。ヒヤマ同様に、過去の記憶を全て喪失している状態で。ただ、見つかった状況は詳しく伝わっていない。意図的に隠されていたのかもしれない」

「……ああ。俺様が、隠したんだ」

 そうやって圧力をかけることも、俺たちの仕事だから、と小林は言った。確か、前に言っていたな。神や悪魔や幽霊なんかの、『現実でない』存在を観測する連中がいる、と。そういう連中は、何だかんだで俺たち一般市民には見えない場所で、この世界を牛耳っているのかもしれなかった。

「じゃあ、犯人もお前が?」

「違う。犯人は、ノブが」

 言いかけて、小林は言葉を飲み込む。多分、それは余計な言葉だったんだろう。だが、その一言で、こいつがどうしてこの事件に――この事件に関わってしまった橘信彦に執着しているのかが、わかった気がした。

 この事件は、犯人の死でしか終わることができなかった。そして、俺に明言することはなかったが、小林は最初からそれを知っていたに違いない。ならば、答えは一つ。

「コバヤシ。お前は、タチバナ・ノブヒコに、手を汚させたくなかったんだな」

「……っ!」

 こちらを見た小林は、どうしてわかったんだ、という顔をしていた。

 だが、ここまで来れば、嫌でも理解せざるを得ないじゃないか。

「わかるさ。俺も、今になって、やっとわかったから」

 あの日、すぐ隣の部屋で、干からびた姿で死んでいたあいつ。

 そんなあいつを、悲壮な横顔で見下ろしていた檜山。

 呆然とする俺の姿を見て、ただ一言だけ「ごめん」と呟いた檜山。

 その背中から伸びていた、青い鳥の翼を思い出す。

 一年前に小林と出会った日、空を横切った橘信彦が背負っていたのと、同じ翼を。

「ヒヤマは、俺を、助けたんだな」

 今となっては、檜山があの場所に現れなければ、俺も一緒に殺されていた、という確信があった。そうしてくれた方が幾分楽だったのかもしれないけれど、そうは言わない。言ってはいけない。死んでいったあいつのためにも、俺を助けてくれた檜山のためにも。

 今、この瞬間だけは、そんな風に思うことができた。

「兄さん……」

「どうやってヒヤマが俺の家に現れたのか、どうして俺だけ助かって、あいつは助からなかったのか。わからないことだらけだけど、さ。でも、それだけは確かなんじゃないかな、って。勘違いかもしれないけど」

 小林は、唇を噛んで俯いた。それから、小声で言った。

「きっと、勘違いなんかじゃねえよ」

「そっか」

 だが、それもこれも、全て過ぎ去ってしまった話で。俺がその事実をどう思ったところで、過去は変わらない。檜山の記憶も戻らなければ、あいつだって生き返りはしない。だから、あの日の出来事がわかったところで、俺が背負っていくものが変わるわけでもない。

 増えることもなく、減ることもない思い出を抱えて、俺は、何とか痛みをやり過ごしていくんだろう。これまでがそうであったように、そして、これからもそうであるように。

 けれど、小林は俺じゃない。アイスの棒を見つめて、唇を噛んだままのそいつは、俺と同じくらいでかいくせに、一年前に見た時よりもずっと小さくしぼんで見えた。

「小林は、大丈夫なの?」

「別に、辛くない」

「んな辛そうな顔してて、説得力ないよ」

「辛くねえって……!」

 真っ赤な顔を上げて声を荒げかけた小林の、青と緑の目から涙が落ちた。それを、一拍遅れて理解したのだろう、小林は片手で目頭を押さえて、掠れた声で言った。

「……辛えよ、辛くねえなんて、嘘だ」

「嘘は苦手だって、言ってたもんな。本当に、下手くそだ」

 俺がわざと茶化してやると、はは、と乾いた声で小林は笑う。俯いたまま、とめどなく溢れてくる涙を拭いながら。

「ただ、あいつらに、幸せになって欲しいって、願っただけなのにな。想い出を、忘れないでいてほしかったのにな。どうして、上手くいかねえんだろうなあ……!」

 小林は、きっと空を仰いで、「畜生!」と吼えた。

 その咆哮に応じて、空気を震わせる気配。何も知らなければ、その震える音色の不気味さにたじろいでいたかもしれないけれど。

 別に、今更、恐れる必要なんてなかった。それが、こいつなりの「悲しみ」の表現だってことくらいは、伝わったから。

 だから、小林の感情が収まるのを待ってから、ハンカチを白い手に押し付ける。

「拭きなよ」

「…………」

「色男が台無しでしょうが、ほら」

 俺の手からひったくるようにしてハンカチを奪った小林は、乱暴に涙を拭って、ついでに鼻までかみやがった。後で洗って返せよこの野郎、などと思っていると、小林が不意に真っ赤になった目で俺を睨んできた。

「本当は、色男なんて思ってもいねえくせに」

「バレたか」

「少しは否定してくれよ!」

「俺も嘘は苦手だからねえ」

「ちょっと俺様どう思われてるの、答え聞きたくないけど!」

 聞きたくないなら聞かなければよかろう。ちなみに俺なら絶対に聞かない。

 小林は、しばし俺の評価を聞くべきか聞かざるべきか迷った挙句、結局聞かないことを選んだらしい。大げさに溜息をついてぺろぺろとアイスの棒を舐めていたが、ふと、何かに気づいたように顔を上げた。

「でも、どうして俺様がここにいるってわかったんだ?」

 別に、居場所を言ったわけでもないだろ、と小林は首を傾げる。そして、別に俺もいつもこの公園を通っているわけじゃない。ただ。

「そんな気配がしたから」

「気配?」

「冷たい風に乗って、薄荷の香りがしたんだ。お前に会う時、いつも感じてた気配」

 なんてね、と。つい誤魔化してしまうが、小林は目をまじまじと見開いて俺を見ていた。だから、正面から見られるのは慣れていないんだから、やめてくれないかな。

 しばし、じっとこちらを見つめていた小林は、やがて、ぽつりと問うてきた。

「兄さんって、霊感強いって言われね?」

「よく言われる」

「それでも、神も仏も幽霊も信じねえのな」

「俺はこれで刑事だからね。俺がそういうものを認めちまったら、何が正しいのかもわからなくなる。だから、仮に俺の目にそう見えたところで、疑うことを止められないんだ」

 神や仏、悪魔や幽霊の存在が世間的に認められてない以上、それらが「ある」ことを前提に物事を考えることは、立場上許されない。そういうものが仮に、そう、今回のように「本当にある」ものだとしても、俺は何もかもを疑ってかからなきゃならない。

 小林は、そんな俺をしばし呆然と見ていた。そんなに変なことを言っただろうか、と思っていると、突然溜息混じりに言った。

「兄さん、とことん生きづらい奴だよな」

「は?」

「これから先も生きづらいぜ、きっとな」

「……うるさいよ」

 実のところ、生きづらい、というのは、過去にあいつも言ってた言葉だった。

 そうだ、俺にはこの世界は生きづらい。

 俺の何もかもを理解してくれたあいつや、こんな俺でも友人だと言ってくれた檜山がいなくなってしまった今は、尚更。

 それでも。

「まあ、生きづらくったって、案外何とかなるもんだ。それを言ったら、お前だって相当生きづらそうだけどな」

「は、そりゃ否定できねえけどさ」

 小林も、泣きはらした目でにっと笑う。

「ま、俺様が落ち込んでても意味ねえやな。過ぎちまったもんは過ぎちまったもん、これからのことはこれからのことだ!」

 なあ、と笑いかけてくる小林に、俺が笑顔を返してやることはできない。笑い方なんて、そう簡単に思い出せるもんでもなかったから。

 ただ、いつになく安らかな心持ちだったことは、伝わってくれればいいと思う。

 小林が、俺の薄っぺらい表情から、一体何を読み取ったのかはわからない。ただ、満足げに一つ頷いて立ち上がった。

「じゃ、俺様はそろそろ行くな。まだ、後始末が色々あっからさ」

「そうか」

「アイスありがとな。美味かった」

「ああ。今度、ハーゲンダッツで返してくれよ。クッキーアンドクリームがいいな」

「俺様、こっち来てから超貧乏なんで勘弁してくれませんかね!」

 冗談だよ、と返した俺は、青い空の下に立つ『元神様』を見上げる。

 あの日見た夏の蜻蛉は、これから奴なりの日常に戻っていく。俺と同じように。

 間違いなく、奴の日常は、俺の過ごしていく日常とは少しずれた場所にある。今回のように、俺の目には見えないものを見て、俺が関われないものに関わっていく、そんな日常なんだろう。そいつは、想像することしかできなかったけれど。

 ――それでも。また、こうして出会う日だって来るはずだ。

 こいつが、この世界に生きていれば。

 そして、俺が、生きることを諦めなければ。

 そんなことを思いながら、離れてゆく小林の背中を見つめていると、「そうだ」と突然小林が俺を振り向いた。

「また、忘れるところだったじゃねえか」

「何もかも忘れない、完全記憶能力者じゃなかったのお前」

「失念はするんだよ! とにかく、兄さんの名前、いい加減教えてくれよ」

「いい加減、って、黙ってたつもりはないんだけどな」

 ただ、いつも機会を逃してしまっていただけで。

 唇を尖らせる小林に応えるため、一つ、咳払いをして。

「じゃ、今更だけど、自己紹介といきますか」

 いつだって、自己紹介というのは気恥ずかしいものだが――。

 

「俺は、」

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