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美代の恋

作者: Emica

蒲公英様主催「ささのは企画」に参加しています。

「登場人物が紙縒こよりを縒る描写を入れる」ことが条件です。


 男は裂いた手ぬぐいを指に絡ませ、くるりくるりと回す。

 布地に描かれた波の模様は、打ち跳ねながら消えてゆき一本の紐になった。藍と白が交り合うさまは、見る目に涼しげに映る。

 それを鼻緒にして、挿げ替えていく男の指先がひび割れていることに、お駒は気付いた。力仕事をする男の指だ。なのに手の甲は女のもののように滑らかに見える。そして男の容姿も、細面で目尻のきゅっと吊った、どこか女性的な感じがするものだった。

 商売人のひとり娘である、お駒の周りにはいない質の男だった。


「ほら、履いてごらんよ」


 男が声を掛けたのはお駒ではなく、その隣のお美代の方だった。

 お駒と同じく、男に目を奪われていたのだろう。返事を詰まらせながらも、言われた通りに男が修繕してくれた草履に足を通そうとした。

 急いだせいだろうか、一瞬、ぐらりと体が傾ぐ。お美代の細い指が男の袖を掴み――すぐに離した。

 男はそれには頓着せず、お美代の傍らに跪いて鼻緒の締め具合を確かめた。


「うちに帰るくらいまでなら保つだろ」

「はい。ありがとうございました」


 お美代が頭を下げる。お駒も慌てて同じように礼をした。

 男は猫のような吊った目をほんの少し細めただけで、なにも言わずに立ち去った。




 ☆☆☆




 お駒が三吉屋の離れを訪れるようになったのは、昨年の立夏を過ぎた頃のことだった。


 ――うちのお美代の遊び相手として、来てもらえないだろうか


 その十日ほど前、お駒の家にやってきた三吉屋の主人は、隣に座った父親ではなくお駒自身に向かってそう言った。まだ数えで十三のお駒に、そんな丁寧な言葉で話しかける人は初めてだった。

 けれどそんなことより、お駒は話の内容に驚き、小生意気な口調で質問を返したい衝動をかろうじで抑えた。


 遊び相手というのは子守奉公のことですか。私が働きに出ないといけないほど、うちの店は危ないんでしょうか。


 お駒の両親は木島屋という小間物屋を営んでいる。夫婦の他には、番頭に手代と丁稚がひとりずついるだけの小さな店だが、華やかな色合いの小物が並び置かれ、それに見合った若く可愛らしい娘たちがいつも出入りしていた。

 繁盛しているとお駒は思っていたし、日々の食べるものや身なり、暮らし向きが悪いと感じたことはなかった。

 三吉屋が同じ生業で、しかも近隣では一番の大店だということをお駒は知っていた。隣町に出た折に母親が連れて行ってくれていたのだ。

 木島屋よりはるかに広い店先には豪奢な品物が並び飾られ、「店ごと買い占めたい」と隣で品定めをしていた客に溜息を吐かせていた。木島屋が相手にしているような娘客ではなく、仕立てのいい着物を着こなした、いかにも豪商のお内儀さんらしき女だった。

 身代に差があることは分かる。けど、跡取り娘を伝で働かせないといけないくらい、木島屋は傾いているんだろうか。

 お駒が悶々としている横で、父親はなにか思い出したように「あぁ」と声をあげてから、話を繋いだ。


「お美代さんというのは、確か」


 三吉屋はそれに軽く頷くと、またお駒に向かって話しかけてきた。


「うちのお美代は生まれたときから病がちでね、ろくすっぽ外に出れずに育ったから友達がいないんだ。でも性根はいい子だから、お駒ちゃんとなら」

「あのっ」


 大人の言葉を最後まで聞かず、お駒は口を挟んだ。次の言葉を発する前に「こらっ」と父の叱責が飛んだが、構わず続けた。


「私が働いてちょっとでも木島屋の助けになるんなら、子守奉公でもなんでも一所懸命やります」


 どうぞよろしくお願いします。

 深々と下げた頭の上に、三吉屋の朗らかな笑い声が降ってくるのには、ほんの少し時間がかかった。


「お美代は十六、お駒ちゃんより年上だよ」





「おとっつぁんから、その話を聞いたときは本当におかしくて」


 細長く切った半紙を撚っていた手を止め、お美代はくつくつと笑った。

 いつもは真っ白な頬がほんのりと紅色に染まっている。今日は元気そうだなと思うと、自分がおっちょこちょいなことを笑い話にされても、お駒は止めてと言うことができなくなってしまう。

「恥ずかしいです」と一言だけ添えると、ぱちんと手の中の千代紙を鋏で切った。

 お駒の前には色とりどりの千代紙が散らばっている。七夕の宵のための笹飾りを、お美代とふたり作っているのだ。


「でもそれで、お駒ちゃんが優しい子だって分かったから、必ず遊びに来てちょうだいってお願いしたのよ」

「そうでしたか。お駒ちゃんが来てくれるようになって、本当にようございましたね」


 もう幾度となく聞いた話だろうに、それでも三吉屋の女中は優しく相槌をうって、ふたりの間に菓子盆を置いた。中にはお駒が好きな甘納豆が入っている。

 たまに夕餉をもらうときもそうだが、この家の人はお駒の好物を把握し、それを出すように心掛けてくれている。お美代お嬢さんの友人として、とても大切にされていた。

 口元に微笑みを浮かべ、親指と人差し指を擦りながら紙縒りを作るお美代は、ひと目みただけで体の具合が悪いんだろうと分かるほどに細く、色が白い。それが余計に整った目鼻立ちを強調し、お美代をとても美しく見せていた。

 お美代さんはきれいだ、きっと織姫さまみたいに。お駒は手の内の千代紙を器用に折り込み、七夕飾りの織姫の着物にしつらえながらそう考える。

 けれど、お美代の美しさはとても儚いものだということも、お駒は知っていた。


 この子の心の臓では、十まで生きられない。産まれてすぐにそう言われたお美代が、十をとっくに過ぎた今も生きながらえているのは、ひとえに三吉屋が裕福なおかげだった。

 何人もの蘭方医に診せ、幾度も湯治に連れて行き、滋養になるものを山ほど与え続け、どうにかこうにか死の淵ぎりぎりのところで踏みとどまらせてきた。

 それでも二十までは持つまい、体を気遣うばかりで娘らしいことは、なにひとつさせぬままだった。閻魔様でも哀れに思うに違いないと不憫がり、せめておきゃんの真似ごとだけでも一緒にしてくれる子を三吉屋は探した。

 同じくらいの年頃の商家の娘は、そろそろ嫁ぎ始めている。せぬまでも許婚がいる者が多く、誰かと添うことなどないだろうお美代に、余計に寂しい思いをさせてしまうだろう。

 どんな娘ならよいかと皆で頭を悩ませている最中、見知った木島屋の、年下の跡取り娘が店先に現れたのだった。



「可愛らしい、織姫さまと彦星さま」


 お駒が仕上げた紙人形を文机に置くと、お美代の真っ白い手が伸びた。優しく取り上げる手つきは、まるで小さな生き物を抱くようだった。


「お駒ちゃんはなんでも上手に作るわね」

「そんなことないです。おっかさんからは仕様が荒いといつも叱られます」

「そう? 丁寧によくできてるわ」


 お美代は紙縒りをつけようとしたが、ふと手を止めた。隅の小箪笥の抽斗を開けると、一枚の布切れを取り出す。

 それは清々しい青海波柄の手ぬぐいだった。かさがないのは小さく裂いてあるからだろう。


「お美代さん、それは?」


 尋ねても、お美代は答えない。

 手ぬぐいを鋏でさらに細長く切ると、指を絡めくるりくるりと回した。紙縒りを作るときのように指の間で擦りよせるのではなく、少し大きめに回していく。

 布地に描かれた波模様が消えていく様に、お駒は見覚えがあった。


 ひと月ほど前、ふたりで近くの境内まで散歩にでたことがあった。

 その日はいつも早鐘を打っているようなお美代の心の臓が、居眠りをしているように穏やかで、これならお駒とふたりきりで出かけても大丈夫だろうとお美代の母が許してくれたのだ。

 お美代はずいぶんとはしゃいでいた。境内をほっつき歩き、水茶屋で甘いものを食べただけだったが、お駒もとても楽しく過ごした。

 その帰り道、お美代の履物の鼻緒が切れてしまい立ち往生したが、通りすがりの男が自分の手ぬぐいを裂いて修繕してくれたことがあった。

 そうだ、描かれていたのは波の模様だった。


 お美代は手ぬぐいで作った紐を彦星に括りつける。同じように織姫の分も作りだした。


「あの人、どこの人だったんでしょうか」

「あの人って?」

「もう、お美代さん」


 しらばっくれるお美代にきつい口調で返す。お美代は紐の紙縒りをつけ終えてから、「役者さんなんだって」と言った。


「役者さん?」

「大部屋の」


 いつの間に男の素性を調べたのだろうか。お駒が疑問に思っていると「おっかさんがお礼しなきゃって、誰だか調べたの」と答えを言ってくれた。

 役者だったのか。どうりでお駒の周りでは見ないような男のはずだった。

 男にしては色白で、猫のように吊った目が印象的だった。手の甲はそうでもないのに、指先だけが荒れていたのは、役者だけでは食っていけず他の仕事もしているからだろうか。


「吉次さんっていうんだって」


 それっきり、お美代は不格好な紙縒りをつけた織姫と彦星を手に黙りこんだ。




 ☆☆☆




 三吉屋の七夕の宵は盛大なものだった。

 七夕はもともと豊作を願う祭りだったのが、いつのまにか習いごとや裁縫の上達を願うものに変わったという。女子供相手の小間物屋にはちょうどよい行事として、三吉屋では毎年大きく行っていた。

 近隣のどの店よりも高く笹を掲げる。短冊は五色どころか金も銀も煌めき、飾りは数知れず、吹き流しが幾重にも風に揺れていた。宵の日の六日に訪れた客には可愛らしい柄の千代紙を持たせ、大店らしい七夕祭りで客をもてなした。

 その裏の、お美代がいる離れの方では垣根に立てかけた小振りの笹に、可愛らしい飾りを吊るして彩った。

 そんな日なのに、昼過ぎにお駒が訪れたときには、具合が悪いとお美代は横になっていた。邪魔にならないように帰ろうとしたお駒をどうしてもと引き止め、夕方にはなんとか起きだしてきた。

「今日はお素麺を出しましょうね」と女中が夕餉の支度に下がった隙に、お駒はそっと「織姫さまと彦星さまは飾らないのですか」と尋ねた。

 立てた笹に、先に作ったあの織姫と彦星が見当たらなかったのだ。

 お美代は唇の隅をほんの少しだけあげて薄く笑った。いつにもまして青白い顔色では、微笑んでいてもなんだか痛々しく見える。


「そこの抽斗にしまってあるの」


 隅の小箪笥を指してから、立ち上がった。動きながら胸のあたりを擦るのは心の臓が痛いのかもしれない。


「やっぱり横になってた方が」

「大丈夫だから」


 お美代は抽斗から紙人形を取り出すと、開いたままの障子戸の向こう、濡れ縁から庭へ降りようとした。

 ぜいぜいと息が荒いが、お駒が手助けするところはなく、ただおろおろと傍にまつわりつくだけになってしまう。お美代は履物をはくと、存外しっかりとした足取りで庭の片隅に置いた笹に向かっていった。


「この布の紙縒りのことを誰かに聞かれても、どう答えたらいいのか分からなくて。暗くなってから飾ろうと思ってたの」


 辺りはまだ暗くはなかったが、空は朱色を帯びてきていた。部屋の中では血の気のないお美代の顔色も、照らされると和らいで見える。

 微かな風に、笹の葉がさらさらと音をたてて揺れた。


「でも明日の朝、笹を川に流しに行く人には見られてしまうんじゃないですか」

「あ、そうか。困ったわね、なにかいい言い訳を考えないと」


 どうしようかと小首を傾げながら、お美代は笹に紙縒りを括りつける。お駒は他の飾りを手直ししながら、なにかないかと考えたが思いつかなかった。

「うちと近所なら、私が明け方にこっそり外しに来たのに」と悔しがると、お美代は「本当に近所ならよかったのに」と言った。


「そしたら、お駒ちゃんと私は幼なじみだったのにね。おとっつぁんに言われて友達になってもらうようなことはなくて」

「お美代さん」

「――いつも付き合ってくれて、ありがとう。お駒ちゃん」


 お駒は大きく首を振った。

 確かに最初は三吉屋の主人に請われて来たが、今は自分の意志でこの離れを訪れている。

 綺麗で優しいお美代が好きだ。お美代のたったひとりの友達が自分であることを嬉しく思っている。そう告げようとしたとき、垣根越しに男の声が割って入った。


「えらく可愛らしい七夕飾りだなぁ。嬢ちゃんたちで作ったのかい」

「え、えぇ」


 返事をしたお美代がそちらを向いたまま頬を固まらせた。どうしたんだろうと、その視線の先を見たお駒もまた、動けなくなった。

 そこにはあの男が立っていた。猫のように吊った目に、ふたりが映る。男は「たまたま通りかかったんだが」と、一言添えてから続けた。


「あんた、三吉屋のお嬢さんだったんだな。先だっては、鼻緒の修繕くらいで丁寧にお礼をしてもらって申し訳なかったよ」


 男が軽く頭を下げてお礼を言う。けれど、お美代はなにも答えなかった。

 男に気にした様子はなく、続けて「それはなんだい?」と、お美代が手にしている紙人形を指して尋ねた。お駒が口を開いた。


「織姫です」

「そりゃ見ればわかるよ。えらく不格好な紙縒りをつけてるね」

「それは」


 言い訳は思いついていない。しかも紙縒りにした布きれの、元の持ち主に言う言葉など思いつかない。

 お駒は言葉に詰まって、そっと傍らを窺った――お美代は自分とは違った。

 男に言いたい言葉があるのに、言えずにいることが分かった。


 お美代は正直に言えばいい。

 会いたかった、と。

 もう一度あなたに会いたくて、星に願いをこめようとしてたんだと。


「この紙縒り、なんだか見覚えのある柄だな」


 男の言葉が合図となったように、お美代の瞳から涙が零れ落ちた。




 お美代と吉次が駆け落ちしたのは、そのひと月後。

 ――戻ってきたのは、それから十日後のことだった。




 ☆☆☆




「お駒ちゃん」


 離れ座敷に続く襖を開けると、寝床に横になっていたお美代が嬉しそうな声を上げた。

 お駒が挨拶をする間に、枕元に座る吉次の手を借り身を起こす。たったそれだけのことでも息があがっていたが、お美代は口元に笑みを浮かべたままだった。


「来てくれてありがとう、お駒ちゃん」

「ずっとお見舞いに来れなくて、ごめんなさい」


 お駒が申し訳なく顔を伏せる。「そんなこと」と謝罪を止める声は途中から咳に変わった。


「大丈夫かい、お美代」


 半身を折って咳き込むお美代の背中を、吉次が擦ってやる。

 その手の甲は、お駒が前に見たときと同じ、女のように滑らかなものだった。けれどその先、指の腹はもう荒れてはいなかった。


「横になった方がいいんじゃないかい」

「いいえ」


 吉次は「本当に大丈夫かい」と心配そうに言い、乱れた衿やほつれ髪を直した。肩に羽織を着せかけられると、お美代は目元を緩めて「大丈夫」と応える。仲睦まじい光景だった。


『三吉屋の箱入り娘が、ころっと男に騙されちまって』

『駆け落ちしたものの、すぐ戻ってきたんだってな。大方、金をせびるための狂言だろうよ』

『しかも三吉屋は娘にねだられて、男を家に置いてるっていうじゃないか』

『箱に入れといて色狂いにしちまったら世話がない』


 大店の娘の駆け落ちは、口さがない人からすれば鯉の餌のようなものだった。投げ込めば、すぐにぱくぱくと喰いつかれる。その池に娘を飛び込ませたがる親などおらず、お駒は今日までお美代の元を訪れることを両親から禁じられていた。

 吉次さんはお金目当てでお美代さんといるんだろうか。確かめるすべもなく、お駒はずっとやきもきしていた。けれどこうやって、甲斐甲斐しくお美代の世話をしている吉次を見ることができ、やっと安堵の息をつくことができた。


「吉次さん。お駒ちゃんは甘納豆が好きなの」

「この間、いただきものがあったね。まだ残っているか、台所で聞いてこよう」


 遠慮するお駒に、吉次は「いいから」と吊った目を細めて笑いかけ、身軽に立ち上がる。

 吉次が座敷から出て行くのを待って、お駒は口を開いた。


「よかった。お美代さんが大切にされてて」

「――そうね。とても大切にされている」


 少しの間の後、まるで逆のことを言っているように、お美代は沈んだ声で返事をした。

 どうしたんだろう、急に体がつらくなったんだろうか。お駒は気遣わしく、顔を覗き込んだ。と、伏し目になっていたお美代の目線が急にあがり、お駒を見据えた。


「ねぇ、お駒ちゃん。お駒ちゃんはどうして私と仲良くしてくれるようになったの」


 なにを言い出すのかとお駒が戸惑い口籠っていると、お美代は重ねて尋ねてきた。


「おとっつぁんにお願いされたから?」

「え、えぇ。でも」

「吉次さんも一緒なの」


 まさか。お駒は目を見開いた。

 自分と同じように、吉次も三吉屋の主人に請われたと言うんだろうか。お美代と仲良くしてくれと。


「最初から全部、おとっつぁんの謀りごとだった」

「最初から?」

「鼻緒が切れたときから」

「そんな」


 そんなわけがない。

 そう思うのに、心のどこかに納得顔で「あぁそうだったのか」と言う者がいる。おかしいと思った、世慣れた風情の吉次が、世間知らずのお美代と駆け落ちするなんて。

 まだ少女のお駒でもそう思うのだ。風のする噂が、「吉次は金目当て」と囁いても無理からぬことだった。そうしてそれは、半分当たっていたのだ。


「……でも、お駒ちゃん。私はとても楽しかったの。町中で偶然出会い、恋仲になって、駆け落ちして。この離れ家からほとんど出たことのない私が、ほんの数日でも長屋で暮らすことがあるなんて思ってもみなかった。おとっつぁんも粋なことを考えてくださったと、感謝しているの」


 ――全部、嘘だったけど

 ぽつりとお美代が言う。それっきり、うつむいて黙り込んでしまった。

 かける言葉が見当たらない。どうしたらいいのか分からず、どこか痛いような心持ちに襲われ、お駒は知らずに胸を押さえた。

 そのとき、かさっと乾いた音がした。

 なんだろうとしばらく考えてから、今朝、懐にそれを入れたことを思い出す。


「お美代さん、これ」


 お駒が取り出したのは、一対の紙人形だった。

 七夕の笹に飾った織姫と彦星。それはあのときのまま、お美代が括りつけた布の紙縒りをつけていた。


「笹を川に流す前に、取り外しておいたんです」

「お駒ちゃんが?」

「えぇ。翌朝、早くに来て」

「どうして」

「あのとき、ほんとに近所に住む幼なじみだったら、私が取り外しておいてあげるのにって言ったでしょう?」

「それで、わざわざ来てくれたの?」


 お駒はこくんと頷いた。

 お美代のか細い指が伸びる。彦星にそうっと触れると、それを取り上げた。


「……ありがとう、お駒ちゃん」


 小さな生き物を扱うように、お美代は大切に両手で押し抱いた。





 ☆☆☆




 お美代が亡くなったのは、節分を過ぎてすぐのことだった。


 お駒は両親に連れられ弔いに訪れたが、三吉屋の三町ほど手前で猫のような吊り目の男を見かけた。

 男は白喪服を身につけることなく、まったく普段の着物のまま歩いていく。

 お駒は驚いて「先に行ってて」と親にいい加減な声をかけると、夜闇に紛れていこうとする男の後を追いかけた。


「吉次さん」


 吉次は振り返ると、いつも通り猫のように吊った目でお駒を見た。けれど口調は、今まで聞いたことがないほどぞんざいだった。


「おや、お駒ちゃん。お美代の通夜に出るのかい」

「吉次さんは出ないんですか」

「あぁ」

「どこに行くんですか」

「どこに行こうか。金なら、たんと頂いたからどこにでも行けるさ」


 やっぱりこの人はお金目当てだったんだ。

 お駒はきゅっと唇を噛むと、もうこれ以上話すことはないと、踵をかえして両親のところに戻ろうとした。


「お駒ちゃん」


 離れかけたお駒を吉次は呼び止める。自分の袂をたぐると、中から取り出したものをお駒に突き出した。


「これをお美代に持たせてやってくれないか。どさくさ紛れに俺が持ってきちまったが、お美代が持ってる方がいいだろう」


 吉次は二体ともお駒に渡そうとしたが、なにを思ったのか、ふと織姫の方を手元に戻した。懐に入れると、吊った目をきゅっと細めて鼻で笑った。


「こんどお美代に会うのは、天の川じゃなくて三途の川だな」


 ――全部、嘘ではない。

 ほんの少し真実が入っていたのを、お美代は知っていただろうかとお駒は考える。

 見送った男の背の向こうには、冬の空にも変わらない天の川が、流れ続けていた。



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