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わたしたちがほしいもの

作者: オードリー

ようするに、わたし達は、お金で何でも手に入ることを知っている。


ただ、欲張りなわたし達は、お金では決して買えないものが世の中に存在するのではないかと心のどこかで信じている。


わたし達は、もっと温かいものを求めている。


それが、何なのかは、まだ分からない。



ベッドに寝転んで、少女漫画を読み耽っていると、携帯のバイブ音が鳴った。


もちろん、電話に出る気はない。


漫画の展開は、まさに佳境を迎えていた。


主人公は、好きな相手に他の女の子が抱きついているところに遭遇してしまった。


しかも、その子は、彼の初恋相手ではないか。


折角上手くいきかけていただけにショックは倍増である。


主人公の切ない横顔に釘つけになっていると、また携帯が鳴った。


両親からの連絡は、家の電話にかかってくるはずである。


夜の11時に携帯に電話してくる人間は、一人しか知らない。


わたしは、渋々漫画を置くと、携帯の通話ボタンを押した。


至福の時間を邪魔された私の口調も相当無愛想だったと思うけれど、電話の向こうの声は、もっと不機嫌だった。


「今から行くから、鍵開けといて。」


育は、それだけ言うと、私の返事を待たずに一方的に電話を切ってしまった。


相変わらずの身勝手ぶりに呆れながらも、机の上のリモコンで、玄関のロックを解除したわたしは、再び漫画の世界に戻っていった。


1時間ほど経っただろうか。


ニンニクとオリーブオイルの香ばしい匂いが漂ってきた。


お腹が空いていることに気がついたので、ベットから出ると、ふらふらした足取りでキッチンへ向かった。


「今日は、何作っているの?」


キッチンを覗くと、育の背中が見えたので、声を掛けた。


我が物顔で、冷蔵庫を開ける育の姿に見慣れてから、随分経つ。


勝手知ったる他人の家というが、わたしの家のキッチンのことは、育の方がよく知っている。


「美味しそうなあさりがあったから、和風ボンゴレビアンコと水菜サラダ。デザートは、豆乳プリンの黒蜜がけ。」


育は、ボンゴレの上にかける香りづけの紫蘇を刻みながら、答えた。


「今日の昼ごはん、あさりの酒蒸しだったの。今日、伊代さんが張り切って築地の朝市で買ってきてくれたんだけど、お父さん達がやっぱり帰れなくなったから、わたしの分だけ作ってくれたの。」


「それで、拗ねてたんだ。これも盛り付けて。きれいに盛り付けろよ。」


育は、肩をすくめると、二人分のパスタ皿をわたしに手渡した。


「拗ねてたんじゃないよ。漫画読んでたから、電話に出なかっただけ。」


「でた。腐女子。」


「腐女子じゃないよ。わたしは、別にボーイズラブが好きなわけじゃないもん。」


むっとして言い返すと、育は、鼻で笑った。


「俺にとっちゃ、どっちだって大差ないけど。ほら、食べよう。」


パスタは、茹でたてが一番である。


差し出されたフォークを黙って受け取った。


わたしは、昔から早食いだ。


美味しい物は、あっという間に食べてしまう。


雑誌やら新聞やらを横目で読みながら、ゆっくり食事をする育よりずっと早く食べ終わる。


パスタとスープをぺろりと平らげたわたしは、デザートの豆乳プリンに舌鼓を打ちながら、ふと育の横顔を見ると、頬が赤く腫れているのに気がついた。


「ほっぺた、藤枝さんに叩かれたの?」


返事はなかった。


育の視線は、相変わらず新聞に向けられたままだったので、深く追求しなかった。


デザートを食べ終え、食後の玄米茶を啜っていると、育がやっと口を開いた。


「お前さ、俺からの電話には出ろよ。そういう約束だろ。」


「ごめん。なるべく出るから。」


「なるべくじゃなくて、かならず。」


「合鍵作ればいいじゃん。作ってもいいって言っているのに。」


「そんなことしてたら、ばれた時に犯罪者扱いされるだろう。」


「はいはい。」


気のない返事を返すと、育が怖い顔で睨んできた。


「お前が、そんな態度なら、もうノートもプリントも貸さない。」


無情な通告を聞かされたわたしは、大いに動揺した。


わたしは、あまり学校に行かず、定期試験だけ受けている。


ようするに不登校である。


育の貸してくれるノートやプリントがなければ、かなり困ることになる。


「ごめんなさい。以後は、気をつけます。」


平謝りすると、育は、ふんと鼻を鳴らした。


「皿、洗っといてね。」


育は、テーブルの上にノートとプリントを置くと、居間から出ていった。


玄関のドアの音ではなく、階段を上る音が聞こえたので、自分の部屋へ行ったのだろう。


赤の他人の家に自分の部屋を持っているというのも妙な話だが、わたしの家には、育の部屋がある。


もちろん、海外を飛び回っているわたしの両親は、そのことを知らない。


育とわたしの間で行われた半年前の取引以来、わたしが育のノートやプリントを貸してもらうかわり、育に空き部屋を貸している。


育は、三日に一度くらい、わたしの家の庭と大和田家の庭の境にある壊れた引き戸を通って、わたしの家にやってくる。


立派な大和田家に育の部屋はちゃんとあるのだけれど、どうしてわたしの家にも部屋をほしがったのは、よく知らない。


全く知らないとはいわないけれど、あまり知らない。


わたしの知っていることといえば、育が小さい頃に育のお母さんが出て行ってしまったことと大和田のお祖母さんがとても厳しい人だということだけ。


近所の人なら誰でも知っているような事実であって、育が、そのことをどう思っているのかはよく分からないし、問いだたす気もない。


育もわたしが少女漫画漬けのひきこもりになっていても、特に何も言ってこない。


家族のように近くで生活を送っていても本心には触れない。


それが、わたし達の暗黙の了解である。


再び手に取った漫画を読み終えて、眠りに落ちたのは、朝の4時半頃だった。


身を引こうとした主人公の元へ駆けつけたヒーローの告白場面を三度読みなおした後、やっと眠ることができた。


漫画の登場人物達の出てくる夢を見るので、眠るのは、怖くなった。


お昼頃、お手伝いの伊代さんが、掃除機をかける音で目が覚めた。


寝巻姿のまま、居間に下りていくと、伊代さんが、お茶を淹れてくれた。


「昨日は、ちゃんとお夕飯を召しあがったようで、安心しました。」


櫻田伊代さんは、忙しい両親に代わって、物心つかない頃から身の回りの世話をしてくれている。


伊代さんは、最近めっきり皺の増えた丸い顔に人の良い笑みを浮かべた。


「育が作ってくれたの。デザートも。」


「そうじゃないかと思いました。冷蔵庫の残り物が、きれいさっぱりなくなっていましたからね。何を作っていただいたのですか。」


「ボンゴレ。デザートは、豆乳プリン。」


「美味しゅうございましたか。」


「うん。」


頷くと、伊代さんは、薄茶色の優しい瞳を細めた。


「お父さん達から連絡きたの。」


「先程、帰国は、来週になるとお電話をいただきました。」


伊代さんは、わたしのことを気遣ってくれているのか、躊躇いがちな口調で答えた。


「そっか。」


わたしは、小さく息を吐き出した。


「それから、秋穂さん。学校の方からもお電話をいただきました。出席日数が不足しているので、そろそろ登校していただきたいとのお話でした。」


「明日行くよ。」


伊代さんは、少しほっとした顔になった。


次の日。

 

1か月ぶりに着る制服は、やけに窮屈に感じた。


胸元のリボンが息苦しかったので、外していくことにした。


学校というのは、三日行かないと、行けなくなってしまう。


去年の夏休みの終わりに三日休んでしまった後、ずるずると休んでいる。


わたしの通う学校は、家からバスで20分ほどところにある。


伊代さんが車で送ってくれると申し出てくれたけれど、目立ちたくないので断った。


幼稚園から大学までエスカレーター式の学校は、ブルジョワかつリベラルな校風なので、わたしのような生徒でも寄付金を積めば、進級させてもらえる。


教室に入っていくと、数人のクラスメイトが、こちらを振り返ったけれど、ほとんどの人は、時々登校する生徒など気にも留めていないようだった。


中等部の三年生になると、外部の高校へ進学するための受験勉強に忙しくなって、学校を休みがちになる人もいるので、わたしの不在も目立たないのだろう。


高等部へエスカレーターで進む生徒達は、受験勉強もなく、のんびりとおしゃべりを楽しんでいた。


一際盛り上がる集団に必ず育がいることは驚くことではない。


医者の息子だけに頭の回転も速く、会話上手な育の周りには、自然と人が集まる。


育のすらりと伸びた手足や整った顔立ちに憧れる女の子も少なくない。


育自身もわたしといる時とは別人のように明るいオーラを放っている。


快活な優等生である大和田育は、誰に対しても気さくな態度で話しかける。


育のぶっきらぼうな物言いを知っている人は、あまりいないと思う。


実際、育とわたしは、学校ではほとんど話さない。


育は、わたしに話しかけないし、わたしも育と話すことはほとんどない。


学校で話すことにお互いメリットを感じていないのだ。


もちろん、必要な場合は、言葉も交わすけれど、それ以上は話さない。


同級生達も育とわたしが隣同士でもお互いに無関心なことを知っている。


育がわたしの家に頻繁にやってくることを知っている人はもちろんいない。


家でも仲が良いわけではないのだけれど。


退屈な授業をうわの空で受けた後の帰り道でばったりと大和田藤枝に出会った。


藤枝さんは、育のお祖母さんである。物腰しとやかな着物美人は、わたしを見ると、人形のように無機質な笑顔をこちらに向けた。


目元の皺までわざとらしい。


「こんにちは、秋穂さん。今日は、お体の調子が良いようですね。」


不登校というのも体裁が悪いので、両親は、わたしが、体が弱いことにしている。


「はい。お陰様で。」


手短に答えて、逃げようとしたら、呼び止められた。


「昨日、育がお宅へ伺いましたか?」


「はい。」


分かりきっていることをわざわざ隠す必要もないので、あっさり認めると、藤枝さんは、一瞬苦い顔をしたが、すぐに元の作り笑いに戻った。


藤枝さんは、秋穂がわたしの家に時々やってくることを薄々察していて快く思っていないようだけれど、直接文句を言ってくることはない。


わたしのことを気に入っているからではなく、わたしが、深町製薬の娘だからだろう。


だけど、さすがに泊まっていくこともあると知ったら、激怒するかもしれない。


「いつも育がご迷惑をおかけします。もう少し控えるよう言い聞かせます。」


「はあ」と気のない返事をすると、藤枝さんは、さすがむっとしたようだった。


「とにかく非常識なことは、もうさせません。」


きっぱりと言い放った藤枝さんは、一礼をして、立ち去った。


藤枝さんと話すと疲れる。


悪い人ではないのだろうが、あんな風につんけんされるのはかなわない。



お風呂に入った後、居間のソファーの上で漫画を読んでいると、制服姿の育がやってきた。


「お風呂入ったの?」


育は、頭にタオルを巻いたままのわたしを一瞥して尋ねた。


「うん。」


「俺もシャワー借りる。」


育は、藤枝さん的にいう「非常識」な宣言をすると、さっさと浴室へ行ってしまった。


藤枝さんだって、よもや、自分の孫が隣の家で浴室を借りているとは思わないだろう。


15分ほどして、育は、トレーナーにジャージ姿というラフな格好で居間に戻ってきた。


育は、当たり前のように冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターのボトルを取り出した。


ボトルのふたには「俺の」とマジックで書いてある。


「飯食った?」


わたしは、首を横に振った。


「俺もまだ。てか、くそまずいイタリアン連れてかれた。ホント最悪。あんな、にわとりのエサみたいなもの食べられる奴の気がしれない。」


「へえ。」


てきとうな相槌を打つと、育は、呆れたようにわたしを眺めた。


「今日、学校来てただろ。昼の弁当、何だった?」


「そぼろごはんとたまご焼きときんぴら。干しあんずも入ってた。」


わたしは、伊代さんの作ってくれたお弁当のおかずを思い浮かべた。


そぼろとたまごがふんわりしていて、優しい伊代さんみたいな味がした。


「俺は、学食のカレーだった。じゃあ、うどんにでもするか。ぶっかけうどん。鎌倉の自然薯があっただろう。贅沢にうどんの上からかけちまおう。わかめも乗っけようか。」


育は、自分の思いつきが気にいったのか、上機嫌でキッチンへ入っていった。


しばらく経った頃、急に漫画を奪われたかと思ったら、育が、漫画の台詞を読み上げた。


「『きっとどこかで見ていてくれるわ。わたしも精いっぱい私の白鳥を踊る』・・・なんじゃこりゃ。頭わいてるのか。」


育は、思いっきり馬鹿にした口調で言った。


「やめてよ。いいとこなんだから、邪魔しないで。」


わたしは、ソファーのわきに立っている育を見上げて、抗議した。


「バレエなんて、どこが面白いんだ?昔観に行ったことあるけど、30分も意識もたなかったぞ。」


「別にバレエが好きなわけじゃないよ。返して。」


起きあがったわたしは、育から鼻息荒く漫画を奪い返した。


育は、おっかねえと呟くと、肩を竦めた。


すりおろされた自然薯は、ねっとりとした触感と素朴な風味が、讃岐うどんと絶妙な組み合わせだった。


つるつると食べていると、育が、真面目な顔つきで、わたしの方を向いた。


「俺の貸した英語のプリントの答えを書き直しただろう。」


「うん。」


「英語は、勉強してるんだな。」


「別に。気がついたから、直しただけだよ。」


「まだ、待ってるのか。」


驚いて顔を上げると、育も少し困惑した表情を浮かべていた。


うっかり口走ってしまったことを後悔しているような顔つきだった。


「悪い。今のなし。」


「うん。」


気にしていない口調で答えると、育は、どんぶりに視線を戻した。


微妙な沈黙の後、再び育が口を開いた。


「お前、高校は、そのまま進学するの?」


「進級試験を無事に通過できれば。」


「問題集貸してやる。」


育は、わたしの頭を軽く叩いた。


触れられたところが、なんだか温かかった。


わたしだって、育が趣味だけで、わたしの家で夕飯を作っているわけではないことには気づいている。


幼い頃から夕飯を食べるのを不在がちな両親が帰ってくるまで待っていた癖のせいで、わたしが、誰かとでなければ、夕飯を食べられないことを知っていて、一緒に食べてくれることも分かっている。


何も言わない。


何も聞かない。


お互い深い部分には、触れない。


でも、どこかで育の存在が、わたしを支えてくれているような気がした。


ずっとそばにいてほしいと思うのは、きっと間違いなのだろう。


そんなことを考えてしまう自分が、少しだけ怖くて、今だけなのだと自分に言い聞かせた。



ある日、育が私の家を出入りしていることが、藤枝さんにばれた。


例の引き戸からわたしの家の敷地へ入っていく育を見かけた藤枝さんは、血相を変えて、わたしの家にやってきた。


夜中の12時を過ぎていたものだから、さらに事態は、まずくなった。


藤枝さんは、わたしの両親で連絡した後、育がわたしの家に出入りすることを一切禁じた。


わたしの両親も監督不足だと伊代さんのことをひどく責め立てたようだったので、わたしは、何も言えなかった。


ただ、もう育を家に入れないことを約束する代わりに伊代さんの解雇を止めるのが、精いっぱいだった。


不幸中の幸いは、育の部屋の存在が、見つからなかったことだ。


見つかれば、余計ややこしいことになっていただろう。


当然、わたしと育の秘密の取引も自然解消になった。


わたしの家にあった育の私物は、学校の育のロッカーに押し込んでおいた。


わたしのロッカーには、進級試験のための問題集が投げ込まれていた。それでお終いだった。



育とわたしの接点は、本当に何もなくなった。


たまに登校すれば、クラスで育を見かけたけれど、元々学校では話さないわたし達は、相変わらず学校では口も利かなかった。


気付けば、附属高校への進級試験は、終わっていた。


育がくれた問題集で勉強したおかげで、わたしもなんとか合格できた。


わたしの通う私立の学校は、幼稚園から中等部まで内部生だけで、高等部から外部生を募集する。


付属の大学がわりと有名大学なので、高等部の偏差値は、そこそこ高いらしい。


偏差値の高い外部生の手前、中等部まではのんびりと勝手ばかりさせてくれるが、高等部に進学すると、学業面でもそれなりに高いレベルを要求されるようになる。


もちろん、出席日数も厳しくなるので、そうそう不登校にもなっていられない。



入学式の朝、赤から紺に変わったリボンを結んだわたしは、久しぶりに鏡に映った自分を眺めた。


冴えない顔色は、相変わらず健在である。


長い間切っていなかった髪の毛は、もっさりとしていた。


昨夜読んだ漫画に登場した大きな瞳と細い足を持つ主人公とは、大違いだ。


しかし、現実なんて、こんなものである。


校長の話は、恐ろしく長かった。


欠伸に回数が、両手の指を越える頃、やっと入学式が終わった。


ぞろぞろとホールを出ていく生徒達の列に続いて、クラス分けの表が貼ってある掲示板へ向かうと、もうすでに黒山の人だかりができていた。


結局、まばらになるまで待ってから、やっと自分のクラスを確認できた。


教室を行くと、ほとんどの生徒が、席に着いていた。


見たことがある顔ぶれは、少なかったけれど、そちらの方が都合いい気がした。


クラス変え早々、不登校だと囁かれるのは、あまり気持ちの良いものではない。


ふと、後方に目をやると、派手な男の子達やきれいな女の子達が一つの席の周りに集まっているのが、見えた。


黄色い声で楽しそうにおしゃべりしている様子は、入学式らしく華やかな光景だった。


到底縁のない世界から背を向けると、わたしは、前から2番目の席に腰を下ろした。


集団の中心に育がいたことは、気にしないことにした。


同じクラスになったって、どうせお互い無関心なのだから。


担任は、初めて見る古典担当の教師で、物静かな初老の男性だった。


4月からの流れをざっと説明した担任は、委員決めを始めた。


最初に決めるのは、大体クラス委員である。


決め方は、立候補がいなければ、推薦を募る形式である。


推薦された人が断れば、くじ引きになるのだけれど、あまりそういうことは起こりにくい。


クラス委員が、大学の学部選びに有利なことをほとんどの生徒が知っているからである。


まず、立候補を募ったが、誰も手を挙げようとしなかった。


続いて、推薦だが、こちらも誰も挙がらない。


どうやら、高等部からの初対面同士では、気を使っているようだった。


このまま、推薦が出なければ、くじ引きである。


そんなことになって、万一クラス委員になってしまったらと考えると、背中に嫌な汗が伝った。


怖い。


誰でもいいから、手を挙げて。


わたしは、祈るような気持ちでぎゅっと目を瞑った。


「俺、立候補します。」


突然、女の子達が、騒がしくなった。


育が委員に立候補すると分かった途端、女の子達は、こぞって立候補を始めた。


当然、女子のクラス委員は、立候補の中から選ばれた。


「美味しそうなお弁当だね。一緒に食べてもいいかな?」


急に声を掛けられて、顔を上げると、長い黒髪の女の子が、わたしを見下ろしていた。


すらりとした体型は、大人っぽく、大きな瞳は、陽気に輝いていた。


わたしが頷くと、女の子は、空いている椅子を引き寄せた。


「わたし、立花静。あなたは?」


「深町秋穂。」


人見知りの激しいわたしは、消えそうな声で答えた。


すると、女の子は、大きな瞳をさらに大きく見開いた。


「もしかして、深町製薬のおじょうさまって、あなたのこと?」


あからさまに聞かれたのは、初めてだったので、わたしは、内心どぎまぎしながら頷いた。


「ひええ。お金持ちが多い学校だとは聞いていたけれど、同じクラスにそんな大物がいるとはね。」


静の反応は、何の含みなくて、正直に思ったことを言っているようだったので、好感を持てた。


むしろ、静のおやじ臭いリアクションが、可笑しくてくすりと笑ってしまった。


わたしが笑ったのに気がついた静は、にやりと微笑んだ。


「どうりで美味しそうなお弁当を食べていると思った。鶏飯とさといもの煮物。旬の小アジは、南蛮漬け。今年は、暖かいから、時期がずれたのよね。自然色のたくあんは、自家製と見た。」


つらつらと並べられた解説は、朝、伊代さんが言っていたことと全く同じだった。


「よく分かったね。」


感心したように呟くと、静は、ちょっと得意げな顔をした。


「趣味は、食べ歩きよ。」


「どうして、そんなに細いの。」


ほっそりとした手足に内心見惚れていたわたしは、思わず驚嘆の声を上げた。


「ありがとう。」


静は、屈託ない笑顔を浮かべた。ひどく眩しい笑顔にどぎまぎして、俯いた時だった。


「立花って、海原雄山かよ。」


背後から発せられた声にどきりとした。学校では、いつも遠くにある声が、すぐ後ろにあった。


「何それ。嫌味?」


静は、あからさまに迷惑そうな顔つきで、わたしの後ろに立っている人物を見上げている。


「嫌味じゃないよ。単純にすごいなと思っただけ。」


育は、さらりと答えた。


「あなたが言うと、嫌味っぽく聞こえる。」


「何それ。俺のイメージ悪くない?」


育のわざとらしく情けない声に合わせて、育の周りの男の子達がどっと笑った。


居たたまれないわたしは、黙ったまま、俯いた。


「このちっちゃい子は、名前なんていうの?」


急に見知らぬ男の子が、わたしの前に顔を出した。


浅黒く、彫りの深い目鼻立ちをした男の子は、俯いているわたしを横からじっと覗きこんだ。


「深町です。」


蚊の鳴くような声で答えると、男の子は、にかっと笑った。


「へえ。深町さんね。よし。クラスの女の子の名前は、全員覚えたぞ。」


「ホント、見境ない奴だな。ほら、食券買いに行こうぜ。」


育に促され、男の子達は、ぞろぞろと教室から出て行った。


静みたいに綺麗な子のそばにいれば、こういうことも度々あるのかもしれない。


育とも同じクラスになってしまったから、ちゃんと普通の態度を取れるよう努力しなければと思った。


高等部に進んでから毎日学校に通うようになったのは、出席日数が厳しくなったこともあったが、静がいたからだと思う。


竹を割ったような静のことをわたしは、どんどん好きになった。


静自身もわたしの深いところに入ってきてくれた。


毎日、前日の晩御飯のメニューを聞いてくる静にわたしは、一人では夕飯を食べられないことを打ち明けた。


静は、聞き終わった後、わたしをじっと見つめた。


「よし、分かった。お手伝いさんがいない週三回は、一緒に晩御飯を食べよう。わたしが、秋穂の家かわたしの家で、一緒にご飯を作ろう。」


静の提案は、真っ当で優しいものだったので、わたしは、少し泣いてしまった。


実際は、静の家に行ったことはない。


静の家族に迷惑をかけたくなかったし、わたしも居心地が悪いような気がしたから。


それでも、静は、時々わたしの家に来てくれた。


「大丈夫。その内、一人で食べられるようになるよ。」


静は、わたしの頭を優しく撫でた。


触れたところは温かくて、わたしは、前にもそんな手に触れてもらったことを思い出した。


そんな私達にも、理解の及ばないところはある。


静は、わたしの少女漫画好きをいつも批難した。


「ちょっと、秋穂。そんな物ばっかり読んでたら、恋できなくなるよ。漫画の中に出てくる男の子って、かなり胡散臭いでしょう。私、胡散臭い奴って、嫌いなのよ。大体、優しい男こそ、土壇場で豹変するものよ。」


「別に恋なんかしなくていいよ。面倒だもん。」


「恋に憧れている子に限って、そう言うのよ。ロマンチックもたいがいにしとけー。」


静は、わたしの頭をがっしりと掴むと、ぶんぶんと振った。


「いいじゃん。ロマンチック。」


そう言ったのは、わたしと静に最近よく話しかけてくる男の子だ。


入学式に話しかけてきた子で、名前は、杉原新という。


杉原君は、静のことが気になっているのか、しばしばわたし達の会話に加わりたがる。


育と同じくらい身長があって、なかなか男前な杉原君と静は、結構お似合いじゃないかと内心思っている。


だれど、当の静は、あまりつれない。


というか、静は、最近、大学生の彼氏と別れたばりで男の子対して、異様に冷たい。


「ロマンチックなのは、男だけで充分よ。女が現実見なくちゃ。両方ともロマンチックじゃ、ただのバカップルじゃない。」


「いいじゃん。バカップルでも、幸せならさ。ねえ、深町さん。」


突然、話題をふられたわたしは、困ってしまった。


正直言うと、わたしは、杉原君とうまく話せない。


すごく優しいから、嫌いではないのだけど、なぜか上手く話せない。


単に女の子として扱われるのに慣れていないせいかもしれないけれど。


「ごめん、分からないや。」


迷った挙句、素っ気ない答えを返すと、杉原君は、気を悪くするどころか、にこにこと笑った。


「おお、かわいい反応。」


たとえば、こういう台詞を真顔で言えるところが苦手かもしれない。


なんだか、顔を熱くなってくるし、どう返せばいいのか分からず、もぞもぞしていた時だった。


「新。置いてくぞ。」


育が杉原君のことを呼んだ。


杉原君は、おおと返事をした。


「深町さんと立花さんも一緒に行こうよ。どうせ、皆理科室に行くんだし。」


静の答えは、決まっているのに懲りずに聞く杉原君の考えていることは、よく分からない。


「嫌よ。わたし、大和田のこと、苦手なんだもん。」


杉原君は、そうと軽く笑って、育の方へ行ってしまった。


「静は、大和田君のこと、好きじゃないの?」


「好きじゃないわ。」


「なんで?」


「だって、睨んでくるのよ。」


「睨む?大和田君が?」


静の口から出た意外な言葉にわたしは、驚いた声を出した。


「そうよ。たまにこっちを陰気な目で見るのよ。全然、話したことないけれど、あんな目つきで見られたら、何か恨みでもあるのかなと思うじゃない。」


腹立たしげに言った静の横顔は、少しぼやけて見えた。




「深町さん。なんか、顔赤くない?大丈夫?」


アルコールランプのゆらゆら揺れる火をぼんやりと見つめていると、同じ班の杉原君に話しかけられた。


言われてみると、少し頭がぼんやりした。


「ちょっと、頭重いかも。保健室行くから、先生に言っておいて。」


「もちろん。俺も行こうか?」


杉原君の申し出を丁重に断ったわたしは、保健室へ向かった。


体温計で計ってみると、案の定、38度5分あった。


保健室の先生は、帰った方がいいと言うので、家に電話すると、伊代さんが、迎えに来てくれることになった。


心配症の伊代さんは、すっ飛んできてくれたおかげで、わたしは、30分後には、家のベットで寝かされていた。


「高等部に進学されてからは、毎日登校なさっていましたから、疲れが出たんでしょうね。今夜は、ぐっすりお休みになってください。後で、静さんがお見舞いにいらしてくださるとおっしゃっていましたから、お粥は、静さんと召しあがってくださいね。お薬も忘れずに飲んでくださいよ。」


伊代さんは、帰る間際にそう言い残して、帰っていった。


静かになった家で、わたしは、目を閉じた。


頭痛がひどくて、漫画を開く気力すらなかったわたしは、押し寄せてくる熱に飲み込まれるように眠りに落ちた。


案の定、怖い夢を見た。


どこまでも続く階段を上る夢。


迷子のわたしは、両親を追って、階段を駆け上がっていたけれど、お父さんとお母さんには、会えない。


どうして、どこにもいないの。


どうして、探しにきてくれないの。


わたしのことを好きじゃないの。


泣きそうになった時、携帯の音が聞こえた。


わたしは、目を覚ました。


ぼんやりとした頭で、携帯を開くと、ドアを開けてという短いメッセージが見えた。


わたしは、リモコンを取ると、ロックを解除して、倒れるようにベッドに戻った。


「秋穂。秋穂。」


名前を何度も呼ばれて、目を開けた。


頭のどこかで静が来るということは覚えていたので、初めは、静だと思った。


でも、わたしを呼ぶ声は、静にしては、低すぎた。


だんだん視界がはっきりしてきたわたしは、わたしを覗きこんでいる相手を見て、びっくりした。


静と似ても似つかない大きな影が、わたしに覆いかぶさるように立っていた。


「育?」


「お前、かなり汗かいているから、着替えろ。濡れたままだと体冷える。着替えたら、呼べ。」


育は、タオルをわたしの頭にかけると、部屋を出て行った。


残されたわたしは、しばらくぼんやりしていたが、本当に寒くなってきたので、着替えることにした。


着替えたわたしが、下に降りて、キッチンを覗くと、育の後ろ姿は、ちゃんとそこにあった。


「何作ってるの?」


「はちみつレモン。伊代さんの作ってくれたお粥を食べる前に飲んだ方が、食欲出るだろう。」


育は、いつものようにレモンを切る手を休めずに答えた。


なんだか嬉しくて、わたしは、キッチンの壁に寄り掛かって、育の後ろ姿を眺めていた。


「寝てろよ。後で持っていってやるから。」


「いいの。居間で育と一緒に食べる。」


「好きにすれば。」


育の声は、ぶっきらぼうな口調で言った。


はちみつレモンを飲んでお粥を食べたわたしは、薬を飲んでベッドに入った。


寝ている間に育が帰ってしまうのが嫌だったので、起きていようとしたけれど、押し寄せてきた睡魔に負けて、意識を手放した。


次に目を覚ましたのは、真夜中だった。


寝返りを打つと、机の所に育が座っているのが目に入った。


天窓から差し込む月明かりに浮かび上がった育の顔は、青白くて、なんだか怖かった。


そんな育と目が合った瞬間、狸寝入りをしようとしたけれど、手遅れだった。


「何やってるんだよ。」


育の声は、くぐもっていて重たかった。


怒っている育を見たくなかったわたしは、返事ができず、ふとんを頭の上まで引っ張り上げて、顔を隠した。


ふとんの中は、真っ暗で何も見えなかったけれど、育が近寄ってくる気配は感じた。


「何やってるんだよ。」


育は、もう一度言った。


ベッドのすぐそばで聞こえたその声は、さっきよりもずっと小さく頼りなかった。


育は、わたしの上にかかっているふとんをそっとどけた。


「ちゃんと飯食え。ちゃんと眠れ。」


久しぶりに間近で見る育の顔は、泣きそうだった。


さらさらした前髪を除けると、不安げな瞳がわたしを見つめていた。


育の母親が出ていった時の目と同じだった。


ふいに今まで不安だった育への気持ちが、はっきりした。


わたしは、ベッドの上に起きあがると、育の頭を両腕で抱きしめた。


育は、拒絶しなかった。


育は、学校でもいつもわたしを気にしていた。


英語のプリントのこと。


学級委員のこと。


気付いていたけれど、気付かない振りをした。


小学校の時、育と一緒にいることで少し嫌がらせを受けたことがあってから、わたしは、学校で育に近づかなくなった。


育もそれを知っていたから、わたしの態度に合わせるようになった。


本当は、全部知っていた。


何を意地張っていたのだろう。


わたしは、誰よりも育の近くにいたし、育も他の誰よりもわたしのそばにいた。


わたしは、ずっと昔から育をこうして抱きしめたかったはずなのに。


「夕飯、ちゃんと食べてるよ。」


「嘘つき。一人じゃ、食べられないくせに。」


ひどく子供ぽい口調だったので、わたしは、少し笑ってしまった。


「嘘じゃないよ。静が一緒に食べてくれるの。」


育の頭が、腕の中でぴくりと動いた。


「静って、立花静?」


「うん。」


「そんなことまで知っているの?」


「話したの。」


ふいに育が顔を上げた。鼻先に現れた色素の薄い瞳は、少し怒りを含んでいた。


「なんで。」


わたしは、思わず首を傾げた。


「さあ。でも、温かいの。手が。」


「何それ。」


「手が、すごく温かい。そうだ。育の手に似てる。」


わたしは、育の手を取ると、頭の上に乗せた。


「育がこうして頭を撫でてくれた時のことを思い出したの。」


「手なら、誰でもいいわけ」


その言葉で、やっと育が怒っている訳が分かった。


育が時々、静を睨んでいたわけも。


わたしは、また育を抱きしめた。


さっきよりもっと強く。


育のことを大切だと思う気持ちが伝わるように。


「静に優しくされたから、わたしは、育に対して素直になれる。わたし、ずっと怖かったの。育がわたしに愛想尽かしたらって。小学校で苛められてから、育を避けていたのは、嫌いになったからじゃないよ。自信が持てなくなったの。わたしは、誰からも好かれない人間で、育もいつかわたしのことが嫌いになるって、考えたら、物凄く怖かった。でも、もう怖くないよ。風邪治ったら、一緒に学校行こう。小さい頃みたいに。」


育は、黙っていたけれど、返事代わりにわたしを強く抱き返した。


「ばあさんが、秋穂に嫌味を言う。」


わたしは、少し笑った。


藤枝さんに嫌味を言われたことを育に話したことはなかったから。


「なんでも知っているんだね。」


「秋穂が辛いのは、嫌だ。」


耳元でぼそりと聞こえた言葉は、胸の淋しい隙間にすとんと落ちてきた。


わたしは、顔を上げると、優しい育を真っ直ぐに見た。


「大丈夫。それにわたし達だって、悪い所があったと思う。育を家に泊めたりするのは、良くないことだった。これからは、外でも一緒にいよう。わたしは、ちゃんと頑張るから。」


「ほどほどに。」


育は、笑ってくれた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 甘酸っぱいですっ!    最高に面白かったです。  今度は、ぜひぜひ続編をかいて下さいー!! 
[一言] こんにちは、きゃっつびーです。 全体的に繊細なイメージを受けました。 物静かに、水面《みなも》を荒れさせないように、けれど心の何処かで温かなものを求めている。 そんなイメージです。  人…
2011/02/03 16:41 退会済み
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