星喰みの巫女は方舟を降りる ~最優先婚約を破棄されたので、この世代宇宙船ごと本物の星へ連れて行きます。なお偽りの楽園に苦情は受け付けません~
「聖アルヴィス方舟の次期船長として、私はお前との《航路婚約》を破棄する」
大広間に響いた声を、私は伏し目がちに受け止めた。
シャンデリアの光が、金髪碧眼のユリアン王子を華やかに照らしている。彼の隣には、薔薇色の髪をした美しい令嬢——星読み聖女ミレーユが、勝ち誇った笑みを浮かべて寄り添っていた。
「星も読めぬ、辛気臭い巫女。お前のような女が、次期船長の隣に立つなど笑止だ」
貴族たちのざわめきと、押し殺した笑い声。侮蔑の視線が、地味な祈祷装束を着た私に集まる。
私は——ロゼリア・アステリオンは、静かに顔を上げた。
(星も読めぬ、ね)
心の中だけで、そっと呟く。
(あなたたちは、舷窓の外に本物の星がないことにすら、気づいていないのに)
そう。この『剣と魔法の異世界』の真実を知るのは、この場でただ一人、私だけだ。
前世の記憶——軌道エンジニアだった私の目には、この世界が『魔法』ではなく『機械』として映っている。
この聖アルヴィス方舟は、星々の海を渡る巨大な世代宇宙船。『聖なる結界樹』とは生命維持コアそのもの。そして代々の巫女が捧げる『祈祷』とは——迷信の皮を被った、船を制御する操船コマンドだ。
「何とか申したらどうだ。反論もできぬか」
ユリアンが嘲る。私は淡々と答えた。
「……いいえ。承知いたしました」
「なんだと?」
拍子抜けした顔。周囲がざわめく。喚くと思ったのだろう。縋ると思ったのだろう。
残念ですが、と私は内心で息をつく。
「巫女の座も剥奪する。これからは我が聖女ミレーユが、新式魔法で永遠の楽園航行を約束してくれる。お前の古臭い祈りなど、もう不要なのだ」
ミレーユが甘い声で微笑んだ。
「ロゼリア様、長い間お疲れさまでした。あとは私にお任せくださいませ」
私に向けられたその瞳の奥に、確かに嘲笑が光っている。
(新式魔法、ね)
私は静かに一礼した。
(結界樹はもう祈祷など要らない——ですって? ……あなた、あの炉に何をしているか、本当に分かっているの?)
「では、失礼いたします。……皆様、どうぞ楽園を、心ゆくまで」
私は踵を返す。
背後で、貴族たちの歓声が上がる。ミレーユの華やかさに酔いしれる、偽りの楽園の住人たち。
その夜。
祈祷役を解かれた私のもとに、炉心が——生命維持コアが、警告を発した。
◇
自室に戻った私を待っていたのは、静かな警告音だった。
耳ではなく——巫女の血に刻まれた感覚が、それを拾う。炉心の異常震動。外殻の劣化。数百年前に目的地の星をとっくに通り過ぎ、ただ闇の中を漂い続ける方舟の、悲鳴のような軋み。
窓辺に、白髪の老家令が佇んでいた。
「お嬢様」
セルウィン・ノックス。私が幼い頃から仕えてくれた、忠臣。
「巫女の座を追われても、あなた様が動じぬことは分かっておりました。ですが……その顔は、何かをお決めになった顔でございますね」
私は微笑んだ。
「セルウィン。あなたが毎晩、意味も分からず記録し続けてくれた、あの『落書き』を」
「はい。すべて保管しております。一枚残らず」
炉心に刻み続けた、無数の文様。社交界の誰もが『無駄な祈りの落書き』と嗤ったそれ。
「あれは落書きではないの。数十年がかりで組んだ、緊急航路プログラム。この方舟を救うために刻み続けた、私の……執念よ」
前世の記憶を持つ私が、この方舟を救うために刻み続けた執念の結晶。
「もういい」
私は静かに言った。窓の外には、貴族たちが信じる偽りの星空が瞬いている。虚像投影の、まやかしの光。
「この偽りの楽園に忠誠を尽くすのは、今日で終わり」
セルウィンの目が、わずかに見開かれた。
「私、方舟を降ります。本物の星を、この手で見つけるために」
沈黙が落ちる。
そして老家令は、深く頭を垂れた。
「……では、荷造りを」
「理由も問わないの?」
「私には星のことは分かりませぬ。ですが、あなた様が無駄なことをなさる方でないことだけは、この老骨が保証いたします」
私は祈祷装束の袖に指を滑らせ、巫女の紋章に触れた。
代々の巫女に受け継がれてきた、真の権限。誰も意味を理解しないまま迷信化していた、その正体を私だけが知っている。
「……ありがとう。それでは——真の巫女権限、管理者コード、起動」
指先が淡く光る。
瞬間、部屋の空気が変わった。壁が、床が、天井が。石造りに見えていたそれらの奥から、無数の光の線が浮かび上がる。船の全システムが、私の前に開かれていく。
(さあ、久しぶりね。……ずっと待っていたわ)
前世で見慣れた、機械の言語。
私は闇の中を漂う一隻の船の、真の姿と向き合った。
◇
下層区画は、暗かった。
上層の貴族たちが酔いしれる楽園の光は、ここには届かない。劣化した外殻の隙間から冷気が漏れ、住民たちは寄り添うように暮らしている。
その暗がりに、隻眼の巨躯が立っていた。
「巫女殿」
ガレス・ヴォルグレイヴ。船団警備隊長にして竜甲騎士。左目を縦断する古い傷跡。社交界では『冷酷な竜殺し』と恐れられる男。
彼の傍らには、金属の鱗を持つ巨大な獣——『竜』が身を伏せている。私の目には、それが外殻補修用の自律機械獣であることが分かる。ガレスの無骨な手が、その頭を撫でていた。まるで子どものような、柔らかい仕草で。
「隊長。あなたに、お話があります」
「知っている」
彼は短く言った。
「あんたが巫女を解かれた夜から、炉の音が変わった。あんたの祈りが……本物だったと、俺は前から気づいていた」
私は少し驚いた。
「気づいていた?」
「言葉にするのは、苦手だ」
彼は視線を逸らす。無愛想に。だが私は知っている。この男が、隊長報酬を切り崩してまで、この下層区画の住民を密かに支え続けていたことを。一言も語らないまま。
住民の子が、彼の腰にしがみついていた。その手には、手製の木彫りの人形。
「ガレス様は、いつもおいらたちを守ってくれる!」
子どもが無邪気に笑う。ガレスは気まずそうに咳払いした。
(……ああ、なるほど。『冷酷な竜殺し』。とんだ誤解だ)
私は淡々と、しかし確かに告げた。
「この方舟は、とっくに星を通り過ぎています。ミレーユの新式魔法は、炉心の安全装置を切って出力を偽装するインチキ。楽園の光は、劣化を隠す虚像。……このままでは、遠からず炉が暴走する」
ガレスの隻眼が、鋭く光った。
「証拠は」
「私が管理者権限で読み取りました。そして——本当に近くに、居住可能な惑星があります。数千年、誰も外を見ようとしなかっただけ」
私は手を差し出した。
「私は方舟を降ります。本物の星へ、この船ごと連れて行くために。……力を貸してくれますか」
沈黙。竜の機械音だけが低く響く。
やがてガレスは、腰の小さなお守りを握った。竜の鱗を削って作ったもの。それを、ゆっくりと握りしめて。
「巫女殿。俺は星の読み方は知らん」
無骨な、けれど揺るがぬ声で。
「だが、あんたの読む星なら、信じられる」
彼の大きな手が、私の手を包んだ。
こうして、静かな反逆が始まった。
◇
破綻は、あっけなく訪れた。
大広間。ミレーユの『新式魔法』の披露の最中に、それは起きた。
虚像投影の楽園の光が、突如として明滅する。まやかしの星空が歪み、剥がれ落ちていく。その裏側から現れたのは——ひび割れた外殻、警告色に染まる炉心の映像、そして闇。ただ果てしなく続く、星のない虚無の海。
「な……なぜ……っ、楽園が、剥がれて——」
ミレーユの顔から、甘い笑みが消えた。
私は、大広間の入口に立っていた。ガレスとセルウィンを従えて。
「あなたの新式魔法の正体を、暴かせていただきました」
私は淡々と告げる。
「炉心の安全装置を切り、出力を偽装する。楽園の光景はすべて虚像。……あなたは、船の民全員の命を賭け金にして、称賛を買っていたのです」
貴族たちがどよめく。ミレーユを取り囲んでいた者たちが、じりじりと後退していく。
「ちがう、私は……っ、こんなの、知らな——」
その時。
地の底から突き上げるような震動。炉心が、暴走を始めた。安全装置を切られ、長年放置された機関炉が、限界を超えたのだ。
悲鳴。パニック。崩れ落ちる調度品。
「ロゼリア!」
血相を変えて駆け寄ってきたのは、ユリアンだった。金髪碧眼の次期船長。その顔から、傲慢さは跡形もなく消えていた。
「巫女を戻せ、お前しか炉を鎮められない! 頼む、祈ってくれ、いや祈祷を——なんでもいい、この船を救ってくれ!」
私の腕に縋りつく手を、私は静かに見下ろした。
溜めていた息を、ゆっくりと吐く。
「あなたは私を、辛気臭いと切り捨てた」
静かに。怒鳴らず。淡々と。
「星も読めぬと、嘲笑った」
ユリアンの顔が凍りつく。
「ではどうぞ——聖女様の新式魔法で、楽園を続けてくださいませ」
「そ、それは……できない、できないんだ……!」
私は彼の手を、そっと外した。
「……できないなら。頭を下げる相手を、間違えましたね」
ユリアンが崩れ落ちる。ミレーユは既に、支持していた貴族たちに見捨てられ、床に座り込んで震えていた。
静寂の中、私は歩き出す。
暴走する炉心へ向かって。誰にも止められない、確かな足取りで。
「セルウィン。落書きを」
「はっ。全て、ここに」
老家令が、恭しく古びた記録の束を差し出す。数十年分の、緊急航路プログラム。
「ガレス。炉室までの道を」
「任せろ」
隻眼の騎士が、竜を呼ぶ。
偽りの楽園が崩れゆく中、本物の巫女が、船の運命を握り直した。
◇
炉室は、灼熱と轟音に満ちていた。
暴走する機関炉——結界樹が、赤黒い光を放って唸っている。近づくだけで肌が焦げるような熱。だが私は、迷わず中枢へと歩を進めた。
「巫女殿、無茶を——!」
ガレスの声。だが私は前世の知識で、この光景を冷静に読み解いていた。
(安全装置の切断箇所は三つ。出力の暴走曲線はこう。減速に必要な推力は……計算通り)
巫女の紋章が輝く。管理者権限の光が、炉の全システムを私の指先に繋ぐ。
私は祈りを捧げた。
——いや、正確には。操船コマンドを、詠唱した。
代々の巫女が意味も知らず唱え続けてきた、迷信化した祈祷文。その一言一句が、船を制御する命令だと知るのは、私だけ。
「還れ、静まれ、我が声を聞け——」
暴走の唸りが、少しずつ収まっていく。
そして私は、セルウィンが守り続けてくれた記録の束を、炉心のコンソールに接続した。数十年がかりで刻んだ、緊急航路プログラム。前世エンジニアの執念の結晶。
「航路再設定。近傍居住可能惑星への、減速・着陸コース。……応えなさい」
炉が、応えた。
赤黒い光が、やがて穏やかな青へと変わっていく。船全体が、進むべき方向へと、静かに舵を切った。
どれほどの時間が過ぎただろう。
震動が、止んだ。
私は炉室を出て、大広間の巨大な舷窓へと向かった。ガレスが、セルウィンが、そして生き残った船の民が、後に続く。
舷窓の覆いが、ゆっくりと開く。
——そこに、星があった。
虚像ではない。投影でもない。本物の恒星の光を浴びて、青く輝く惑星が、ゆっくりと近づいてくる。緑の大陸、白い雲、きらめく海。
数千年、誰も外を見ようとしなかった方舟が、初めて本物の星の光を、その舷窓に映した。
「……星だ。本物の、星……!」
誰かが呟いた。
ざわめきが、歓喜に変わっていく。
座り込んだユリアンが、呆然と舷窓を見上げていた。船長継承権を失った彼は、自分が捨てたものの本当の価値を、今ようやく知る。失ってから気づく、遅すぎる後悔に沈みながら。
ミレーユは、もうどこにもいなかった。
船の民が、一人、また一人と、私の前に膝をつく。
「巫女様——いいえ、我らが新たな導き手よ」
真の船長として、新天地の導き手として。彼らは私を迎え入れた。
私は、静かに舷窓の外を見つめた。
(着いたわ。……本物の星に)
前世からの、長い長い旅路の果てに。
◇
着陸は、成功した。
方舟の巨体が、新惑星の大地にゆっくりと降り立つ。数千年ぶりに触れる、本物の地面。舷窓の外には、二つの月と、見たこともない植物の生い茂る草原が広がっていた。
空気は澄み、風は優しかった。
船の民たちが、恐る恐る、けれど歓喜に震えながら、大地に降り立っていく。子どもたちが草原を駆け回り、老人たちが涙ぐんで空を見上げる。偽りの楽園ではない、本物の世界がそこにあった。
私は、丘の上に立っていた。
風が、銀灰色の髪を揺らす。深い藍色の瞳が、初めて本物の地平線を映していた。
「お嬢様」
セルウィンが、静かに歩み寄る。
「あなた様の『落書き』は、この地に我らを導きました。無駄なことをなさる方でない——やはり、私の見立ては正しゅうございました」
「あなたが記録してくれなければ、何もできなかったわ。ありがとう、セルウィン」
老家令は、深々と頭を垂れた。その目に、静かな誇りが滲んでいた。
その時。
偵察に出ていた竜甲騎士の一団が、丘を駆け上がってきた。先頭にはガレス。彼の隻眼が、いつになく緊張していた。
「巫女殿。……妙なものを見つけた」
「妙なもの?」
「あそこだ。地平線の向こう。……船の、残骸だ」
彼が指し示した先。遠い地平線に——
金属の残骸が、風化した姿で横たわっていた。それは紛れもなく、船。私たちの方舟とは別の、しかしよく似た構造の。
「もう一隻の……方舟。私たちより前に、故郷を捨て、闇の海を渡り、ここへ辿り着いた者たちがいた……」
私は息を呑んだ。
(彼らは、どこへ行ったの……? 生きているの? それとも——)
新たな謎が、地平線の彼方で待っている。
物語は、まだ終わらない。むしろ、ここから始まるのだ。
風が吹いた。
ガレスが、私の隣に立つ。無骨な巨躯。竜の鱗のお守りを握った、大きな手。
彼は、しばらく黙っていた。感情を言葉にするのが、致命的に下手な男。
そして——告白の代わりに、いつものように。
ゆっくりと、私に手を差し出した。
「巫女殿」
隻眼が、まっすぐに私を見つめる。夕陽が、二つの月が、その傷跡を柔らかく照らしていた。
「次の星も——あなたと読みたい」
私は、その手を見つめた。
偽りの楽園を降り、本物の星を見つけた私の、次の航路。
私は、そっと微笑んだ。生まれて初めて、心から。
「ええ。喜んで」
彼の手に、私の手を重ねる。
遠い地平線に眠る、もう一隻の方舟。まだ見ぬ星々の海。
新世界での、第二の物語が——今、静かに幕を開けた。




