「田舎聖女」と王宮でいじめられているはずなのに、王太子殿下の甘やかしが過保護すぎてノーダメージです。──嫌がらせを利用して式典を成功させたら、王太子様が皆様をソッコーで最果てへ島流しにしてしまいました
指先から、ほんの少しだけ魔力を紡ぎ出す。
井戸の底に溜まった泥水へ、小さな光の粒子が溶け込んでいく。
一瞬の後、濁っていた水がガラスのように透き通り、爽やかな冷気を放ち始めた。
「よし、これで今日の分の水仕事は終わりね」
カナリアは額の汗を拭い、木製のバケツを引き上げた。
ここは王国の最果て、魔獣の咆哮が夜な夜な響く辺境の荒野だ。
彼女が所属する小さな教会は、雨漏りがひどく、冬は凍えるほど寒く、夏は干上がった地面から熱風が吹き付ける。
そんな過酷な場所で、カナリアは三年間、毎日ひたすら奉仕活動を続けてきた。
彼女には、死者を生き返らせるような大奇跡は起こせない。
しかし、水の浄化や、お年寄りの関節痛を和らげる基礎的な「治癒」と「浄化」の魔法を、完璧な精密さで、何時間でも発動し続けることができる。
それが彼女の、誰にも負けない唯一無二の技術だった。
「ああ、もっと広い世界を見てみたいなぁ。まともな予算があって、本物の紙でできた綺麗な魔導書がたくさん並んでいるような場所で、思いっきり勉強してみたい……」
バケツを運びながら、カナリアはぼんやりとそんな夢を描いていた。
冷たい風が教会の崩れかけた石壁をすり抜けていく。
だが、その退屈で過酷な日常は、ある日の夕暮れに突然終わりを告げた。
「おい! 誰か、誰かいないか! 殿下が……ジュード殿下が、呪いと毒に侵されている!」
教会の古びた扉が激しく叩き開かれ、完全武装した隣国アルスター公国の騎士たちがなだれ込んできた。
彼らが抱えていたのは、黒い血を吐き、意識を失って苦しむ青年だった。
彼の名はジュード。
隣国の王太子であり、大陸全土にその武名を知られる高潔な支配者だ。
しかし今の彼は、全身に黒い血管のような紋様が浮かび上がり、呼吸も途切れがちだった。
「こ、これは……『黒蛇の呪毒』ですね」
カナリアはすぐに青年の前にひざまずいた。
「王都の最高神殿に仕える高位聖女様たちも、全員が匙を投げられたのだ!
派手な『大奇跡』をかければかけるほど、この呪いは激しく暴走して殿下の体を蝕む……。 頼む、何か手立てはないだろうか…!」
騎士の悲痛な叫びを聞きながら、カナリアはジュードの額にそっと手を当てた。
…熱い。
だが、彼の内側で渦巻く魔力は、非常に強靭で、かつ悲しいほどに傷ついていた。
「大奇跡がダメなら、細かく分解していけばいいだけです」
カナリアの判断は早かった。
彼女は両手をジュードの胸元に当て、極めて微弱な、しかし寸分の狂いもない精密さで「基礎解毒」と「魔力循環」の術式を発動した。
イメージは、絡まり合った糸を一本ずつ丁寧に解いていく作業だ。
一度に大量の魔力を流し込めば、呪いの防衛本能が働いてジュードの心臓を止めてしまう。
だから、カナリアは髪の毛よりも細い魔力回路を彼の体内に通し、毒素を分子レベルでミリ単位で中和していった。
一時間、二時間…カナリアは休まず術式を発動し続け、端からジュードの呪いを解いていった。
そして、夜が明ける頃。
カナリアは一歩も動かず、呼吸すら制御しながら魔法を維持し続けた。
彼女の指先は酷使によって震えていたが、魔力の制御は最後まで完璧だった。
ジュードの荒かった呼吸が、次第に穏やかになっていく。
全身に浮かんでいた黒い紋様が、水に溶けるように消え去った。
「……う、ん……」
ジュリアン──いや、ジュードが、ゆっくりと長い睫毛を揺らし、目を開けた。
その瞳は、吸い込まれそうなほど深いサファイアのような蒼色で、カナリアを見つめた。
彼はぼんやりとした視線で、自分の胸元に置かれたカナリアの両手を見て、それから彼女の顔を見上げた。
「君が……私を?」
「気がつかれましたか、王太子殿下」
カナリアは少しだけ安堵の笑みを浮かべた。
その瞬間、張り詰めていた緊張が解け、カナリアの体が大きくぐらついた。
徹夜の治療による極限の魔力枯渇だ。
倒れそうになった彼女の体を、しっかりとした温かい両腕が受け止めた。
「おい、大丈夫か!」
ジュードは驚くべき筋力で、病み上がりとは思えないほど力強くカナリアを抱きしめていた。
彼の胸の鼓動が、カナリアの耳元でドクドクと力強く打っている。
その温もりと、包み込まれるような安心感に、カナリアの胸がトクンと小さく跳ねた。
「魔力を使いすぎただけです。少し休めば……」
「すまない。私のために、君ほどの術師が命を削るような真似を……」
ジュードは、カナリアの泥と油で汚れた小さな手を両手でそっと包み込んだ。
その手は、王族のものとは思えないほどゴツゴツとしていたが、驚くほど温かかった。
彼は、カナリアの指先にある無数のペンだこと、魔法を維持し続けたために赤く腫れた肌を、愛おしむように見つめた。
「君のこの手が、私を暗闇から救い出してくれたのだな…君の名を聞いても良いか?」
ジュードのサファイアの瞳に、まっすぐな熱が宿っていた。
彼と目が合った瞬間、カナリアは顔がカッと熱くなるのを感じた。
辺境の地で、自分の「地味な労働」をこれほど真剣に、敬意を持って見つめてくれた人間は、これまで一人もいなかったからだ。
「名乗るほどでもありませんが…私はカナリアといいます」
「カナリア…美しいあなたにぴったりの名だな。カナリア、突然だが…私の妻になってほしい」
「はい……? え?」
「君のような、誠実で卓越した技術を持つ者を、私は生涯かけて守りたい。我が国へ来てくれないか、カナリア」
ジュードのプロポーズは、あまりにも唐突で、そして真剣だった。
カナリアは混乱したが、彼の背後に広がる騎士たちの「お願いします!」という懇願の視線、そして「王宮に行けば最新の魔導書が読める」という自身の個人的な野望が合致し、顔を真っ赤にしたまま小さく頷いたのだった。
「は、はい…私、でよければ…」
それから数ヶ月後。
隣国アルスター公国の王宮で、カナリアはお妃教育の日々を送っていた。
王宮の暮らしは、カナリアにとって夢のようだった。
お風呂には温かいお湯がいつでも溢れ、部屋は暖かく、そして何より、王宮図書館には見たこともないほど貴重な魔導書がぎっしりと並んでいた。
お妃教育のための歴史や作法の勉強も、カナリアにとっては「新しい知識を学べる最高のエンターテインメント」でしかなかったため、彼女は楽しそうにすべての課題をこなしていった。
そんな彼女を、ジュードは公務の合間を縫って頻繁に訪ねてきた。
「カナリア、今日の勉強は疲れていないか?」
執務室の扉を開け、ジュードが入ってくる。
彼はカナリアがテーブルに山積みの本に囲まれて、目を輝かせているのを見て、ふっと優しく目を細めた。
「ジュード様! はい、全然疲れていません。この国の古代の治癒魔法の歴史が本当に面白くて……!ここの年代の~」
嬉しそうに語るカナリアの隣に、ジュードは腰を下ろした。
彼は自然な動作で、カナリアの少し癖のある髪に手を伸ばし、優しく撫でた。
「君は本当に学ぶことが好きなのだな。王宮での生活に窮屈さを感じていないか、いつも心配していたのだが……杞憂だったようだ」
「窮屈だなんて、とんでもありません。毎日温かいご飯が食べられて、雨漏りもしない部屋で本が読めるなんて、私にとっては楽園です」
カナリアが笑顔で答えると、ジュードは少しだけ寂しそうな、それでいて深い愛情の籠もった笑みを浮かべた。
彼はカナリアの細い腰を引き寄せ、そっと額を重ねた。
「君がそう言ってくれるのは嬉しいが、私はもっと君を甘やかしたいのだ。……私を頼ってくれてもいいのだぞ?」
ジュードの息遣いが近くで感じられ、彼の整った顔立ちが目の前に迫る。
カナリアの鼓動が激しく波打った。
彼に触れられるたびに、辺境で一人で闘っていた頃の硬い殻が、少しずつ溶けていくような感覚があった。
「ジュード様が、毎日こうして会いに来てくださるだけで……私は、その、とても十分に満たされていますから」
カナリアが俯きながら小声で言うと、ジュードは嬉しそうに胸の奥で低く笑い、彼女の頬に優しくキスを落とした。
しかし、二人の甘い時間を遮るように、王宮内では冷ややかな嵐が吹き荒れ始めていた。
その嵐とは、密かに王太子妃の座を狙っていた公爵令嬢ベアトリクスと、その取り巻きの令嬢たちである。
彼女たちは、辺境出身のカナリアを「しがない田舎聖女」と見下し、彼女を王宮から追い出すための陰湿な計画を立てていた。
最初のいじめは、王宮のサンルームで開催されたお茶会だった。
「あら、カナリア様。辺境の貧しい教会では、このような高貴なお茶を飲む機会はございませんでしたでしょう?」
ベアトリクスが、嫌味な笑みを浮かべながらカナリアの前に一杯のお茶を置いた。
テーブルの隣には、美しいが、どことなく不自然な赤黒い色をした花が活けられている。
ベアトリクスと、その取り巻きの令嬢たちは口元を扇子で隠し、クスクスと笑っていた。
カナリアは、その花の香りを吸い込んだ瞬間、ある花が思い浮かんだ。
(これは『グレイヴ草』の亜種ね。微毒性があって、香りを嗅ぎ続けると頭痛がして、口にすると激しい腹痛を引き起こすもの。辺境の森の裏手によく生えていたわ…でも、しっかり乾燥させると万能な生薬になるのよね)
ベアトリクスたちは、カナリアが体調を崩して無様に席を外すのを楽しみに、ニヤニヤと見つめている。
しかし、カナリアは落ち着いた動作で目の前に置かれたカップを取り、答えた。
「このお花、とても良い香りですね、ベアトリクス様。でもこのお花、実は乾燥させると、良い生薬になるんですよ。でも…少し乾燥が足りないようですので、私が『乾燥』の基本魔法をかけておきますね」
カナリアは指先をすっと花に向け、微弱な温風の魔法をかけた。
一瞬で花が程よく乾燥し、上品な香りの茶葉のような状態に変化する。
カナリアはそれをちぎり、自分のお茶の中に浮かべた。
「しかもお茶に入れると、お茶の余分な苦味が和らいでとっても美味しくなるんです。辺境では風邪の予防によく飲まれていました。皆様もいかがですか?」
カナリアは優雅にお茶を一口すする。
ベアトリクスたちは、完全に言葉を失って固まった。
毒草を平然と目の前でアレンジし、嬉しそうに飲むカナリアの姿は、彼女たちの想像する「田舎者の令嬢」の姿からあまりにもかけ離れていた。
「な……な、何ですのそれは……!? 汚らしい!」
「え? 体にとても良いものですよ? ベアトリクス様もお一ついかがですか?」
「きゃあっ!そんな汚い物…要りませんわ!」
カナリアが親切心から差し出すと、ベアトリクスは悲鳴を上げて席を立ち、逃げるように去っていった。
カナリアは首を傾げた。
「王宮のいじめって、なんだかすごく温室育ちで温かいのね……。辺境だったら、濁った泥水を飲まされて本物の魔獣の生血を浴びせられるくらいのことは普通に起きるのに…」
彼女の基準は、王宮の令嬢たちの想定を遥かに超えていた。
しかし、決定的な事件が起きた。
王宮の神聖な大聖堂で執り行われる、「大結界の維持儀式」の日である。
この儀式は、王宮を取り囲む結界の魔力を更新するため、王太子妃となる者が聖水を捧げて祈る重要な国事だ。
ベアトリクスは、この儀式の直前、神殿の神官を買収し、カナリアが捧げるべき「最高純度の聖水」を、「魔力阻害成分が入ったドブ水」にすり替えさせた。
儀式の最中に結界が点滅し、魔力が暴走すれば、カナリアは「結界を汚した無能の聖女」として、その場で糾弾され、国外追放される…はずだった。
大聖堂には、ジュードを始めとする王族、そして多くの貴族たちが列席していた。
厳かな音楽が響く中、カナリアは祭壇の前に立った。
目の前の銀の器に入った聖水に、手を差し伸べる。
(……おかしいわね。この水、魔力の循環が完全に遮断されている。それに、妙な腐敗臭がするわ。辺境の干上がった泥水と同じ匂いね)
カナリアは瞬時に罠だと気づいた。
すり替えを指示したベアトリクスは、貴族席の最前列で、勝利を確信した醜い笑みを浮かべている。
しかし、カナリアは慌てない。
(辺境のドブ水に比べれば、まだ不純物が少ない方だわ。これなら簡単ね)
カナリアは目を閉じ、基本呪式「高速浄化」を発動した。
大袈裟な詠唱も、派手な動作も必要ない。
ただ、長年の奉仕活動で培った「水分子を完璧に整える」イメージを、銀の器の中へ送り込む。
その瞬間。
器の中のドブ水が、青白くまばゆい光を放ち始めた。
不純物は魔力によって一瞬で完全に分解され、大聖堂の天井へと昇る清浄な霧へと変わった。
器の中には、かつてないほど高い純度の、神聖な「極上聖水」が満ちていた。
カナリアがそのまま手をかざすと、大聖堂の四方に張り巡らされた大結界が、これまでにないほど強固な黄金の光となって王宮全体を包み込んだ。
「おお……! なんという神聖な光だ!」
神官たちが驚愕の声を上げ、その場にひざまずいた。
ジュリアンも、誇らしげな笑顔でカナリアを見つめている。
カナリアはゆっくりと振り返り、驚きのあまり顎が外れそうになっているベアトリクスに向かって、静かに微笑んだ。
「素晴らしいサポートに感謝いたします、ベアトリクス様」
「え……? 何、何を言っていますの……!?」
ベアトリクスが激しく動揺する。
「この器に入っていたお水は、あらかじめ『最も不純物が反応しやすいように不安定化された水』でした。
そのおかげで、私の浄化魔法の効率が通常の三倍以上に跳ね上がり、結界の強度が最大値に達したのです。このような高度な仕込みができるのは、王宮の知識にあふれたベアトリクス様ならではの配慮ですね…ありがとうございます」
「な……ななな、何のことですの! 私はそんな指示は……!」
ベアトリクスが叫んだその時、大聖堂の入り口から、ジュード直属の近衛兵たちに連行された神官が入ってきた。
「殿下! 先ほど、儀式用の聖水をすり替えるよう指示を出したとされる神官を拘束いたしました。彼の懐から、ベアトリクス公爵令嬢の家紋が入った金貨袋と、魔力阻害薬の空き瓶が発見されました!」
近衛兵の報告に、大聖堂全体が騒然となった。
ベアトリクスの顔から一瞬にして血の気が引き、彼女は床にへたり込んだ。
「ち、違うわ……私は、ただ、あの田舎女に恥をかかせようと……!」
「ベアトリクス・公爵令嬢」
ジュードの冷徹な声が大聖堂に響き渡った。
彼のサファイアの瞳には、一切の容赦がない、絶対的な支配者の氷のような冷たい怒りが宿っていた。
「国家の命綱である大結界の儀式を妨害しようとした罪は重い。それは我が国に対する明らかな反逆行為だ。……ベアトリクス、お前とその実家から爵位を剥奪し、全財産を没収する。そしてお前自身には、一生涯、我が国の最果ての神殿での『無給・無休の贖罪奉仕活動』を命じる」
「最果ての神殿……!? そんな、あんな不毛の地で、雑用をしろと言うのですか! 私は公爵令嬢ですわよ!」
ベアトリクスは泣き叫んだが、近衛兵たちに冷酷に引きずられていった。
カナリアは、その様子を見送りながら、少しだけ気の毒そうに呟いた。
「最果ての神殿かぁ……。あそこ、冬は本当に風が強くて寒いし、井戸の水も凍っちゃうのよね。ベアトリクス様、お肌が荒れなければいいのだけれど…」
「カナリア」
ジュードが歩み寄り、彼女の肩を優しく抱き寄せた。
彼の瞳には、先ほどの氷の冷たさは微塵もなく、ただカナリアだけを映し出す甘い温もりに満ちていた。
「もう心配はいらない。君のその素晴らしい技術と、誰よりも美しい心が、この国を救ってくれた。……本当に誇りに思う」
「ジュード様……」
大聖堂の光の中で、ジュードはカナリアの薬指に、きらりと光る美しいサファイアの指輪をはめた。
「これからも、私の隣で、その美しい光を見せてほしい」
カナリアは顔を真っ赤にしながら、彼の胸にそっと顔を埋めた。
後ろの方で神官や、近衛兵が拍手で二人を祝ってくれていた。
その拍手が聞こえなくなるぐらい、彼の温かい鼓動が自分のものと重なるように、優しく響いていた。
それから数ヶ月後。
王宮の最上階にある、日当たりの良い広大な図書室で、カナリアは新しい魔導書をめくっていた。
窓の外には、黄金の結界に守られた、穏やかで美しい王都の街並みが広がっている。
「カナリア、少し休憩しよう」
ジュードが、温かいお茶の入ったカップを持って入ってきた。
彼はカナリアの隣のソファに腰掛け、彼女の頭を自分の肩に預けさせた。
「はい、ジュード様。……あ、このお茶、グレイヴ草は入っていませんよね?」
カナリアが悪戯っぽく笑うと、ジュードは苦笑しながら、彼女の額に優しく口づけした。
「入れるわけがないだろう。君の胃腸がどれだけ頑丈だとしても、私の愛しい妻にそんな粗末なものは飲ませないさ」
「ふふ、冗談ですよ。……私、今本当に幸せです!」
カナリアは、ジュードの温かい手をぎゅっと握り返した。
退屈で過酷だった辺境の日常は、もう遠い。
しかし、あそこで培った技術と、そして何より、自分を誰よりも愛してくれる人が、今ここにいる。
「私もだ、カナリア。君が私の世界に来てくれたことに、毎日感謝している」
ジュードは優しく微笑み、カナリアの唇に、甘くて深い誓いのキスを重ねた。
窓から差し込む午後の光が、二人の影を優しく包み込んでいた。
【完】




