勇者一行の縁の下の魔法使い
瓦礫が、呻くように軋んだ。
耳鳴りみたいな音と共に瓦礫が視界を塗りつぶしていく。魔王城は、まるで生き物のように崩れ始めていた。いや、違う。これは終わりだ。完全な、崩壊だ。
「ソルトッ!!」
誰かの叫び声が聞こえた気がした。でも、それが誰のものなのか判別する余裕なんてない。
足元が揺れる。天井から砕けたコンクリートが降り注ぎ、空気は粉塵で白く濁る。呼吸するたびに、喉の奥が焼けるみたいに痛んだ。
「走れッ!! 出口まで一直線だ!!」
オレは叫ぶ。自分の声すら、うまく聞き取れないくらいの轟音の中で。
前を走る仲間の背中を追いかける。誰かが転びそうになり、別の誰かが腕を掴んで引き上げる。そんな光景が、断片的に目に入る。
止まるな。
止まったら、終わる。
崩壊は待ってくれない。容赦なく、すべてを飲み込んでいく。
「こっちだ!!」
分岐路で声が飛ぶ。オレは反射的にそちらへ身体を滑り込ませた。背後で、さっきまで自分たちがいた通路が、まるで紙みたいに折れ曲がって潰れる。
心臓が、嫌な音を立てた。
あと数秒遅れていたら__なんて、考える余裕はなかった。
走る。ひたすら走る。
肺が悲鳴を上げる。脚がもつれそうになる。それでも、前に進むしかない。
ようやく見えた光。出口だ。
「あと少しだ!!」
誰かが叫ぶ。
その瞬間、背後で爆ぜるような音が響いた。衝撃が背中を押し、思わず前につんのめる。
転びそうになりながら、なんとか踏みとどまる。
そして。
外へ、飛び出した。
眩しい光が、視界を焼く。新鮮な空気が肺に流れ込んできて、むせ返るように咳き込んだ。
「……は、ぁ……っ……」
膝に手をつき、荒く息を吐く。
背後で、基地が完全に崩れ落ちる音がした。振り返ると、巨大な瓦礫の山が、かつてそこにあったものを完全に覆い隠していた。
終わった。
魔王軍は、もう__
「……全員、いるか」
オレは顔を上げる。
ひとり、ふたりと、仲間たちの姿を確認していく。誰も大きな怪我はしていないようだった。多少の擦り傷や汚れはあるが、命に関わるようなものはない。
奇跡だ。
あの崩壊の中で、全員無事なんて。
「……よかった……」
誰かが安堵の声を漏らす。
その空気に、オレも少しだけ肩の力を抜いた__そのとき。
「……シュガー?」
彼女の姿が、目に入った。
少し離れた場所で、彼女は立っていた。
崩れた基地の方を、じっと見つめたまま。
風に髪が揺れている。その横顔は、どこか現実から切り離されたみたいに静かだった。
「シュガー」
オレは歩み寄る。
足元の砂利が、やけに大きな音を立てた。
「大丈夫か?」
声をかける。
彼女は、すぐには反応しなかった。
ほんの一瞬の間があってから、ゆっくりと振り返る。
「……あ、ソルト」
そして、笑った。
いつも通りの、柔らかい笑顔で。
「大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
「本当か?」
オレは眉をひそめる。
確かに怪我はなさそうだ。でも___
「顔色、あんまり良くないぞ」
「…そうかな」
シュガーは自分の頬に手を当てて、くすっと笑った。
「ほら、元気だよ」
軽く手を振る。その仕草も、声の調子も、全部いつも通り。
なのに。
どこか、違う。
言葉にできない違和感が、胸の奥に引っかかったまま離れない。
「……無理すんなよ」
「してないってば」
そう言って、シュガーはまた笑う。
その笑顔を見ていると、これ以上何も言えなくなる。
でも。
ほんの少しだけ、ほんのわずかに。
その笑顔が、遠く感じた。
魔王軍壊滅の報は、瞬く間に街中へ広がった。
街は祝祭に包まれ、人々は歓声を上げ、英雄の帰還を歓迎した。
オレたちは、その中心にいた。
色とりどりの花びらが舞い、紙吹雪が空を埋め尽くす。どこを見ても笑顔と歓声で溢れていた。
「すげぇな……」
誰かが呟く。
それに、周囲も同意するように頷いた。
確かに、すごい光景だと思う。
でも。
彼女の姿がない。
「……シュガーは?」
気づけば、口にしていた。
「来てないのか?」
「うん」
オレは短く答える。
「誘ったんだけどさ。表彰式も、パレードも」
「なんで来ないんだ?」
「……さあな」
本当は理由を聞いている。
でも、それをそのまま言葉にするのが、なぜか躊躇われた。
__私はなんにもしてないから。
彼女はそう言って、笑っていた。
なんにもしてない、なんて。
そんなわけがないのに。
あいつがいなかったら、ここまで来れなかった場面なんて、いくらでもあった。
それなのに。
「……変なやつだよな」
小さく呟く。
胸の奥に、またあの違和感が広がる。
祝いの音楽が鳴り響く中で、それだけが妙に浮いていた。
夕方。
喧騒から逃げるように、オレは一人で街を離れた。
理由は、自分でもよくわからない。
ただ、あの場所にいるべきじゃない気がした。
足が向いたのは、高台だった。
街を一望できる、小さな丘。
そして。
「……やっぱりここか」
そこに、彼女はいた。
風に髪を揺らしながら、遠くの景色を見ている。
夕日が、彼女の輪郭を淡く染めていた。
「こんなとこにいたのか」
声をかける。
「……あ、ソルト」
シュガーは振り返る。
そして、笑う。
「パレード、どうだった?」
「すごかったよ。人も多くてさ」
「そっか」
彼女は小さく頷く。
「よかったね」
どこか、他人事みたいな言い方だった。
オレは彼女の隣に立つ。
同じ景色を見る。
街並みが、夕日に照らされて輝いていた。
「……シュガーも来ればよかったのに」
「いいの」
即答だった。
「私はなんにもしてないし。今回だって、ソルトたちが頑張ったから解決したんだよ」
「そんなこと__」
言いかけて、止まる。
彼女の声は、やけに穏やかで。
否定する言葉が、場違いに感じた。
「……そうかもな」
結局、そう返すしかなかった。
沈黙が落ちる。
風の音だけが、静かに流れていく。
その中で。
オレは、どうしても拭えない違和感を抱えたまま、彼女の横顔を見ていた。
_風が、静かに吹いていた。
草の先を撫でるその音が、やけに大きく感じる。街の喧騒は遠く、ここだけが切り離されたように静かだった。
彼女は、ずっと景色を見ている。
まるで、その一瞬一瞬を、丁寧に焼き付けるみたいに。
「……なあ」
オレは口を開いた。
「ん?」
「さっきさ、なんにもしてないって言ってたけど」
言葉を選ぶ。
「そんなことないだろ」
彼女は、少しだけ目を細めた。
「……そうかな」
「そうだよ。お前がいなかったら__」
「ソルト」
遮られる。
柔らかい声だった。
「いいの」
その一言で、それ以上は言えなくなった。
「……私がどう思ってるか、だから」
そう言って、彼女は微笑む。
穏やかで、優しい笑顔。
だけど、どこか遠い。
手を伸ばせば届く距離にいるのに、何か越えられない境界があるみたいに。
オレは視線を逸らした。
空が、ゆっくりと色を変えていく。夕焼けが濃くなり、金色から橙へ、そして赤へと沈んでいく。
「……そういえばさ」
思い出したように、オレは言った。
「シュガーって、魔王のかけた魔法のせい3000年生きてるんだろ?」
「うん。まぁ…魔法というより不死の呪いだね。」
あっさりと頷く。
「じゃあさ」
軽く笑うつもりで、言った。
「オレの老後もちゃんと見送ってくれよな」
冗談のはずだった。
重くならないように、軽く、軽く。
でも。
「あはは」
彼女の笑いは、少しだけ遅れてから返ってきた。
「そうだね」
風が吹く。
「ちゃんと見ているさ」
その声は、静かだった。
静かすぎて、逆に耳に残る。
「……なんだよ、それ」
オレは苦笑する。
「怖いこと言うなよ」
「怖い?」
「なんかさ、全部見透かされてるみたいで」
「そんなことないよ」
彼女は首を横に振る。
「ただ、少し長く生きてるだけ」
“少し”なんて、軽く言う。
3000年を。
その重さを、想像しようとしても、できるはずがなかった。
「……疲れてるのか?」
ふと、口から出た。
「え?」
「いや、なんか……いつもと違うっていうか」
言葉がうまくまとまらない。
でも、引っかかっている何かを、無視できなかった。
「そうかな」
彼女は少しだけ考えてから、
「……そうかもね」
と、曖昧に答えた。
「魔王城でのこともあったし」
「そっか」
オレは頷く。
「じゃあ、今日はもう帰るか?」
そう言いかけた、そのとき。
「……もう少し」
シュガーが、小さく言った。
「え?」
「もう少しだけ、ここにいたいな」
彼女は、視線を景色に戻したまま続ける。
「この街の景色……もう少し、見てたいの」
その言い方が、やけに慎重で。
「……だめかな?」
まるで、許可を求めるみたいに。
「いや、全然いいよ」
オレはすぐに答えた。
「せっかくだしな」
「ありがとう」
彼女は微笑む。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけざわついた。
どうして、そんな言い方をするんだ。
いつもなら、もっと軽く言うはずなのに。
でも、それを口にすることはできなかった。
風が吹く。
夕焼けが、さらに深くなる。
彼女は、静かに言った。
「ねぇ、ソルト」
「ん?」
「綺麗よね。この地は。」
「ああ」
オレは頷く。
「本当に」
「とても素敵で」
彼女の声は、どこか柔らかくて。
「時には、残酷な一面もあるけど」
ほんの少しだけ、影が混じる。
「……私は、そんな所もある、この場所が好き」
その言葉は、まるで告白みたいだった。
場所に対してなのに。
それ以上の意味を含んでいるような。
「そしてね」
彼女は、ゆっくりとこちらを向く。
「ソルト」
「なんだ?」
「ありがとう」
その一言に、オレは少しだけ目を見開いた。
「……急にどうしたんだよ」
「言いたくなったの」
彼女は笑う。
「魔王を止められなかったら、この景色はなかったかもしれない」
遠くの街を見つめながら。
「だから、ありがとう」
もう一度、繰り返す。
「ソルト」
その笑顔は。
あまりにも綺麗で。
同時に、あまりにも儚くて。
今にも消えてしまいそうで。
オレの胸の奥で、何かが大きく揺れた。
「……シュガー」
呼びかける。
でも、その先の言葉が出てこない。
聞きたいことは、山ほどあるはずなのに。
喉の奥で全部引っかかる。
結局、出てきたのは。
「これからさ」
「うん?」
「どうするんだ?」
そんな、当たり障りのない言葉だった。
本当は。
いなくならないかって、聞きたかった。
でも。
怖かった。
もし、それを聞いて。
肯定されたら。
その瞬間、本当に失ってしまう気がして。
「うーん……」
彼女は少しだけ考える。
「考えてなかったな」
「え?」
「でも」
ふっと笑う。
「キミと旅してみたいよね」
軽い調子で。
まるで、未来をぼんやり眺めるみたいに。
「……ああ」
オレは頷く。
「もちろん」
その言葉を聞いて、少しだけ安心した。
でも。
胸のざわつきは、消えなかった。
“してみたいよね”
その言い方が、引っかかる。
約束じゃない。
決定でもない。
ただの、可能性。
ふわりと浮かんで、どこかへ消えてしまいそうな。
「……なあ」
気づけば、口が動いていた。
「明日もさ」
「うん?」
「会えるよな」
自分でも驚くくらい、弱い声だった。
柄じゃない。
こんな言い方。
でも、止められなかった。
シュガーは、少しだけ目を細めた。
そして。
「会えるさ」
そう言ったあと。
ほんの少しだけ、間を置いて。
「……きっと」
その“きっと”が、やけに重く響いた。
夕日が、沈んでいく。
光が、少しずつ消えていく。
その中で。
彼女の輪郭が、夜に溶けていくように見えた。
手を伸ばせば、届く距離にいるのに。
どうしてか。
一歩が、踏み出せなかった。
追いかければよかった。
引き止めればよかった。
そんなことは、後からならいくらでも言える。
でも、このときのオレには。
その勇気が、なかった。勇者のくせに。
ただ。
彼女の背中を、見ていることしかできなかった。
夜は、あまりにも静かだった。
昼間の喧騒が嘘みたいに、街は穏やかな眠りに沈んでいる。遠くで灯る明かりが、星みたいに瞬いていた。
あのあと、どんな風に別れたのか。
思い出そうとしても、うまく思い出せない。
ただ、気づいたら一人で歩いていて。
気づいたら、部屋の中にいた。
「……なんだよ、それ」
ぽつりと、呟く。
靴も脱がずに床に座り込んでいたことに気づき、ゆっくりと背中を壁に預けた。
頭の中で、さっきの会話が何度も繰り返される。
__もう少しだけ、ここにいたいな。
__この景色、見てたいの。
__ありがとう。
__キミと旅してみたいよね。
__会えるさ、きっと。
「……っ」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
違和感。
最初は小さな棘みたいだったそれが、今ははっきりと形を持っていた。
何かがおかしい。
あいつは、あんな言い方をするやつだったか?
もっと、自由で。
もっと、気まぐれで。
もっと、わがままで。
未来のことだって、軽く笑い飛ばすようなやつだったはずだ。
なのに今日は。
一つ一つの言葉が、やけに丁寧で。
まるで__。
「……別れみたいな」
口に出した瞬間、息が止まる。
「いや……違うだろ」
首を振る。
そんなはずがない。
ただ、疲れていただけだ。
魔王軍のこともあったし、3000年生きてるなんて普通じゃないし。
少しくらい、弱ることだってある。
それだけだ。
そう、思おうとする。
でも。
「……きっと、ってなんだよ」
あの一言が、頭から離れない。
“会えるさ”じゃなくて、“会えるさ、きっと”。
その曖昧さが、どうしても引っかかる。
「……明日、会いに行くか」
ぽつりと呟く。
そうだ。
直接会って、ちゃんと聞けばいい。
今日の違和感も、全部。
本人に聞けば、きっと笑って答えてくれる。
いつもの調子で。
何も問題なんてなかったみたいに。
「……それでいい」
そう思った。
そう思いたかった。
なのに。
胸の奥のざわつきは、消えなかった。
朝は、あっけないほど普通に訪れた。
鳥の鳴き声。
差し込む光。
いつもと何も変わらない、日常の風景。
「……っ」
目を覚ました瞬間、昨日のことが一気に蘇る。
胸がざわつく。
嫌な予感が、現実になる前触れみたいに、じわじわと広がっていく。
「……行くか」
オレはすぐに立ち上がった。
顔を洗う時間すら惜しい気がした。
ただ、早く会わないといけない。
そんな焦りに突き動かされる。
彼女がいるはずの場所へ向かう。
足取りは自然と速くなっていた。
心臓が、妙にうるさい。
嫌な予感なんて、外れてくれればいい。
笑い話になればいい。
そう願いながら。
でも。
その願いは、簡単に裏切られる。
___教会の扉が、静かに閉じられた。
外の光が細く遮られ、内部は柔らかな薄闇に包まれる。高い天井に響く足音は、やけに小さく、それでいて確かに存在を主張していた。
花の香りが、満ちている。
甘くて、少しだけ苦い匂い。
その中心に、白い棺が置かれていた。
「……シュガー」
名前を呼んでも、もう返事はない。
わかっている。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
棺の中で、彼女は眠っている。
まるで、ただ目を閉じているだけみたいに。
昨日までと何も変わらない顔で。
いや。
違う。
決定的に、違う。
その静けさが、すべてを物語っていた。
呼吸の気配も、体温も、もうどこにもない。
「……なんだよ」
思わず、笑いそうになる。
こんなの、冗談みたいだ。
「寝てるだけだろ」
誰に言うでもなく、呟く。
「ほら、起きろよ。こんなとこで寝てたら、怒られるぞ」
もちろん、返事なんてない。
ただ、花の香りが強くなるだけだった。
「いつもみたいにさ…わがまま、言えよ…」
教会の奥では、静かに祈りが捧げられている。
神父の声が、遠くに響く。
言葉は耳に入っているはずなのに、意味として認識できない。
全部、遠い。
現実感が、まるでない。
「……ソルト」
後ろから声がした。
振り返ると、仲間たちがいた。
みんな、同じ顔をしている。
何も言えない、そんな顔。
「……来てたのか」
「当たり前だろ」
短いやり取り。
それ以上の言葉は、続かなかった。
また、棺へと視線を戻す。
白い布に包まれたその姿は、やけに小さく見えた。
こんなに、細かったか。
こんなに、頼りなかったか。
そんなことを、今さら思う。
「……3000年、だっけ」
ぽつりと、呟く。
彼女が生きてきた時間。
想像もできない長さ。
「長すぎるだろ」
苦笑が漏れる。
「そりゃ、疲れるよな」
誰に言うでもない言葉。
でも、どこかで返事を期待していた。
__そうかもね。
昨日、そう言っていた声が、頭の中で再生される。
疲れてるのか、と聞いたとき。
あのとき、もっと踏み込めばよかったのか。
もっと、ちゃんと。
気づけたんじゃないか。
「……なんでだよ」
視線が、棺の中の彼女に落ちる。
「わかってたんだろ」
死期を。
終わりを。
全部。
「だったらさ」
声が、少しだけ震える。
「言えよ」
誰かに。
オレたちに。
「一人で抱え込むなよ」
拳を握る。
昨日の光景が、鮮明に蘇る。
夕焼け。
風の音。
そして。
あの笑顔。
__会えるさ、きっと。
「……きっと、じゃねぇよ」
かすれた声で吐き出す。
「会えねぇじゃねぇかよ」
喉の奥が、焼けるように痛む。
それでも、言葉は止まらなかった。
「約束しろよ」
視界が滲む。
「ちゃんと、言えよ」
未来を。
明日を。
「……なんで、曖昧にするんだよ」
涙が、落ちる。
静かな教会の中で、その音だけがやけに大きく響いた気がした。
「……シュガー」
名前を呼ぶ。
優しく。
今度こそ、起きるかもしれないと、どこかで思いながら。
でも。
やっぱり、返事はない。
ただ、静かに眠っているだけ。
永遠に、目を開けることはない。
神父の祈りが終わり、人々が順番に棺へと花を手向けていく。
白い花が、少しずつ増えていく。
彼女を覆い隠すみたいに。
オレの番が来た。
手にした花が、やけに軽い。
こんなもので、何が変わるんだ。
そんなことを思いながら。
そっと、棺の中へと置く。
「……なあ」
小さく呟く。
「まださ」
声が震える。
「一緒に旅、してないだろ」
返事はない。
わかってる。
でも、言わずにはいられなかった。
「約束、してないだろ」
“してみたいよね”なんて。
そんな曖昧なままじゃ。
「……ずるいよ」
ぽつりと、こぼれる。
彼女は、ずるい。
全部、わかっていたくせに。
全部、隠して。
あんな風に、笑って。
「……一人で終わらせるなよ」
手を伸ばす。
触れられる距離。
でも、もうその温もりは戻らない。
「……連れてけよ」
弱い声だった。
「置いてくなよ」
教会の鐘が、鳴る。
重く、ゆっくりと。
終わりを告げる音。
その響きの中で。
オレは、ただ立ち尽くしていた。
彼女のいない世界が、確かに始まってしまったことを。
嫌でも、理解させられながら。




