第129話:楓と黒き魔獣
「キュッキュキュー!」
アリスの肩の上から飛び下りたピースが楓に駆け寄ろうとした。
「おいおい、何をやってくれてんだぁ?」
その時、楓の背後から何者かの声が聞こえてきた。
「……あんた、よくもカエデを怖い目に遭わせてくれたわね! ザッシュ!」
ティアナの怒声が、姿を現したザッシュ目掛けて放たれた。
「おーおー、怖いねー。だがなあ、いいのか? お前たちよりも俺の方が、そこの女に近いんだぜ? なんならこのまま叩き斬ってやってもいいんだがなあ! ぎゃはははは!」
ザッシュは既に短剣を手にしている。
さらに彼の戦闘スタイルを知っているティアナとヴィオンは、速度で勝るザッシュよりも速く動き楓を助けることが難しいことも十分承知していた。
だからこそ、動けない。
特にティアナは楓を連れ去った謎の真っ黒な何かを目にしている。
その正体が何か分からなければ、むしろ楓をさらなる危険に晒してしまうかもしれない。
「んん? ……どうしてそこの従魔が生きているんだ? 殺したはずだがなあ?」
ザッシュは視線の先にいたピースを睨みつけながら、そう口にした。
現状、ピースがザッシュに続いて楓に近い場所にいる。
魔法を使えば楓を助けられるかもしれないが、それは一種のギャンブルになってしまう。
自分の行動が主である楓を危険に晒すかもしれないとなれば、ピースも動きようがなかった。
「……まあ、いいか。どうせここで死ぬんだからなあ!」
楓がいる限り、自分は安全だ。攻撃されることはない。
(……そう思っているんでしょうね)
ザッシュが今どのように考えているのかを、楓は心の中でそう思っていた。
事実、楓の考えは的中していた。
だからこそ、いずれチャンスが巡ってくるとも考えている。
ザッシュの従魔――否、従属の首輪で無理やり従わされていたシャドウイーターは、自由の身になっている。
この場に残ってくれているのは、従属の首輪を破壊してくれた楓に報いるためだ。
見た目にはきつく縛られているように見える楓だが、実際にはゆるゆるであり、すぐに手足が抜けるようになっている。
どうにかしてこの事実をティアナたちに伝えられないか、楓はそんなことを考えていた。
(ザッシュは今、私の後ろにいる。だから、合図を送ろうにも彼に見られてしまう。どうにかして、私の前に立ってもらわないと)
今の立ち位置はザッシュ、楓、ピース、そしてティアナたち。
「……ピース、下がってちょうだい」
「キュギャ!?」
「お願い、下がって」
楓がピースに声を掛けた。
最初こそ驚きの声を上げたピースだったが、再び楓が下がるよう言ってきたため、彼は仕方なくティアナたちのところまで後退っていく。
これはティアナたちからしても、予想外だった。
ピースが近くにいれば、最悪の場合でもギリギリ楓を助けられるかもしれないと思っていたからだ。
(どうしてピースを下げさせたの、カエデ? 何か意味があるの? 何を考えているの?)
ティアナは思考を加速させるが、楓が何を考えているのか、すぐには理解できない。
「くくくく! ぎゃはははは! なんだ、女ぁ? 自分が助かりたいから、斬られたくないから、わざわざ従魔を下げさせたのか? まあ、そうだよなあ? 何より自分のことが可愛いもんなあ!」
楓の行動を見たザッシュは、楽しそうに笑いながら歩き出す。
前を見ているため音でしか判断できないが、徐々に足音が楓の背後に近づいてくる。
そして足音は楓の横を通り過ぎ、そのまま彼女の前に出た。
(いまだ!)
ザッシュは楓に背中を向けている。
ならばと楓は縛られているふりをしていた両腕を持ち上げると、ティアナたちに縛られていないとアピールした。
ついでに縄に擬態していたシャドウイーターも動き出し、自分は敵ではないとこちらもアピールをしている。
(……そうか! カエデのサブスキル〈翻訳〉で、あの魔獣と話をつけたのね!)
楓とシャドウイーターのアピールもあり、ティアナはようやく楓の考えを理解できた。
「……ヴィオン」
「……分かっている」
楓の動きはヴィオンにも見えており、彼もすぐに彼女の考えを理解した。
そしてピースは一度シャドウイーターと話をしている。
シャドウイーターの状況を理解し、楓なら助けてくれるかもしれないと伝えたのもピースだった。
だからこそ、シャドウイーターが敵ではないと信じていた。
「……はっはーん? そういうことねー?」
しかし、唯一この状況をはっきりとは理解していない人物がいた――アリスだ。
彼女が楓の状況を見て導き出した答えは――縄解けてるならあいつぶん殴ってよくない? ――である。
「ぶっ飛ばーす!」
「ちょっと、アリス!?」
「こいつ、正気か!」
地面を蹴り、一直線にザッシュへと迫るアリス。
まさかの行動に驚きの声を上げたティアナ。
そして、驚愕しながらも短剣を構えたザッシュ。
「バカめ! その女を殺せ、シャドウイーター!」
ザッシュは突っ込んできたアリスを迎撃しながら、シャドウイーターにそう命令を下した。
従属の首輪をしているのだから、シャドウイーターは逆らえない。
どれだけ足に自信があったとしても、楓を縛っているシャドウイーターの攻撃よりも早く助け出すことなど不可能だった。
「……バカなのはあなたよ、ザッシュ!」
しかし、背後から聞こえてきた声に、ザッシュは困惑しながら横目に声の方を見る。
「……な、なんで生きている! どうして従わない! シャドウイーター!!」
そこにいたのは、縛られていたはずの楓が自由になっている姿と、そんな彼女の隣で影のように揺れているシャドウイーターの姿だった。




