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変われ、世界。

作者: 夢見
掲載日:2025/11/27

 雲が揺蕩う。群青色の空に赤い光が差し込んできた。そんな光が雲にぶつかると、ステンドグラスのように淡く光を反射していた。

 どこまでも綺麗な空は一体どこへ繋がっているのだろうか

 ……分からない。


「お〜い、ボケっとしてると遅れるぞ」


「分かってるって」


 ——分かってないけど。

 まあいいか。俺は優をの後をゆっくりと着いていく。スポーツをしていた彼の肩幅はとても大きい。この前の試合は負けちゃったけど、リーダーとして頑張ってた。


 俺たちは赤が空を支配する中、工場に向かって足を進める。

 住宅街の中にひっそりとある俺たちの工場——もちろん俺が所有している訳じゃなく、勝手に廃墟を使ってるだけ。


「なあ、明智。お前はこれが成功すると思うか?」と優は聞いた。


 俺は少しだけ考え、自分たちに向かって言う。


「成功する。絶対成功させるんだろ、今更弱気になってどうすんだ、リーダー」


「そうだよな。円陣でも組むか?」


「そういうのは嫌いなんだよ」


「釣れないなぁ」


 そういった彼は頭の上で腕を組んだ。青い空はぐんぐん赤く染まっていく……彼女は俺たちをどこから見ているのだろうか。どことなくアンタレスから真っ直ぐ見下ろしている気がする。

 ちらっと空を見たが、当たり前にオリオン座が上りかけていた。

 はは、さそり座は夏か。


 ひっそりと息をひそめるように歩いていると、入り組んだ道の中で目的地に着いた。

 おじさんが唯一残した工場だ。まあおじさんは機械系の人間でもないただのサラリーマンだったわけだが。俺たちはその跡を継いだ……いや、勝手に受け取った気になっているだけなのかもしれない。


 俺は制服の中に突っ込んでいたカギを取り出し、シャッターに差し込む。カチリと音がなり、あっさりとカギは開かれた。

 ガラガラと音を鳴らしながらシャッターは優によって開かれる。彼の背中が凹っと盛り上がった。


「はあさっみ。エアコンつけねえ?」


「ちょっとだけ我慢してくれよ。この前電気代でばれかけたんだから」


「まじかよ」


 優は手をさすった。学校指定のコートを着ているがここは寒い。窓は締め切られどこからの侵入も拒むこの部屋は、二重の意味で寒々としていた。

 おじさんはこんな部屋でどれくらいの時間を過ごしたのだろうか……残像がゆっくりと浮かび上がってくるような気配が背中を撫でたが、霊感はないみたいだ。残像はすぐになくなった。


 俺たちは机にカバンを放り投げ、昨日の作業を再開する。


 丸っこいフォルムをした鉄の塊。しかし、上部にはコックピットがあり、ガラスのような透明なハッチで覆われている。中に入ると一枚のディスプレイが前面を覆い、タッチパネル式のようだ。

 下部には宇宙船の着陸装置のような足と内部検査用? のハッチが一つついている。全貌はまだまだ分からない。設計を学んでおいてよかった……。


 優は俺の下で買ってきた装置を取り付け。俺はコックピットのディスプレイをにUSBを差し込む。ふ、今日は一回で刺さった。


 ノートパソコンを操作していると、コードの波が襲ってきた。一個ずつ確実につぶしていく。

 カタカタ。

 キリキリ。

 トタンの工場に俺たちの音が静かに積もっていく。そろそろ埃でむせちまう。計画通りにいけば今日中には完成……見つけた。


「見つけた! 見つけたぞ!!」


「まじか!?」


「まじまじ!」


 下から優がはい出てきた。俺は彼にパソコンの画面を見せる。

 画面には一筋の光が横一文字に差し込む――おじさんが残した敵をすべて倒し終わったことを表していた。

 ごめんな、おじさん。俺たちも変えたいものがあるんだ。


 俺はキーボードを叩きながら次のステップに進む。

 ふう、焦るなよ俺。ここですべておじゃんにはしたくない。


 俺はぽきぽきと首を鳴らす――上から優がじっと俺の作業が終わるのを待つ。じりじりと。カーテンの隙間から入ってくる色は黒くなり、だんだんと時間が過ぎていく。ちらっと時計を見ると夜の十一時――まずいな。親に知られたら。


 落ち着け、俺。

 カタカタ。

 カタカタ。

……[システム正常動作]

 勝った。これですべての動作確認は終了。優の装置も取付完了だから、残りは起動するだけ。思いっきり体を投げ出したかった。


「やったぞ。これで終われる」


「ふう、ここまで長かったな」


 俺たちは互いのこぶしを合わせた。部活で勝ったときよりもはるかに大きい笑みを浮かべた優は俺に聞く。


「どうする?」


「お前は大丈夫なのか。まだ試運転も何もしてない。そもそもこいつが動くかどうかなんて保証はないぞ。おじさんだって本当に成功したかなんてわからないんだ……もうどの時間軸にもいないのかも」


「明智、お前の思いはそんなものだったのか? 違うだろ。お前がここを見つけて、お前が修理してみようって言ったんじゃないか。二人とも世紀の大犯罪者だぜ」


 彼はニヤリと口角を上げた。自然と俺の口角も上がってくる。

 そうだよな、俺たちは道具を手に入れているんだ。こんなとこで諦めるために将来を棒に振ったわけじゃない。


「そうだな」


「わかってんじゃんか明智!」


 そう言ったはいいものの、いったん家に帰ることになった。一応持っておいた方がいいものはあるし、このまま行って対処できないのが一番まずい。

 と、いうことでここはいったん帰ることにして、明日の一時ちょうどに集合することになった……あと一時間ってとこか。


 シャッターをガラガラと音を立てて閉める。

 いつの間にか外は完全に暗くなり、点々とつく街灯だけが頼りだった。空を見上げると、時間外れのオリオン座が今から天頂に達しようと体を乗り出している。


「また一時間後」


「じゃ」


 優は手を挙げ、小走りで自分の家に向かっていった。俺も同じように走り出す。

 はあ、母さんはまだ起きてるだろうな。韓国ドラマでも見ながら俺の帰りを待っているのだろう……どうやって追い払おうか。

 しとっとした空気が俺の足を優しくなで、前に進めと足を冷やしていた。


◇◇◇


 俺は時計を何度も見ていた。それこそ秒針より。彼なら大丈夫だと思うんだが……今日に限って何かあったりしないよな。

 数分前からパタパタとトタン屋根に雨が打ち付けている。

 もちろん遷移に天気なんて関係ない。けれども今は少しでも願掛けをしておきたかった。


「まじでごめん! 母さんを振り切るのに時間がかかって」


「大丈夫。特に気にしてないから」


「そうか。じゃあ行こうぜ」


 彼はすたすたとコックピットに入り込んだ。俺も彼に続いて体を収める。

 明らかに一人用だからかなりせまっ苦しいが、何とか持ってくれるはず。俺はディスプレイを操作して時間軸を固定した。


 今の世界を基盤として新しい世界を作り出す――これが遷移機械の最たるものだろう。もちろん世界を作りまくられては困るので、警察なり、国際的な機関がその技術を厳しく制限している。ま、ここにあるのはその制限された機会なのだが。


 とにかく俺は時間軸を三年前にセットした。

 ……あの時こうなるなんて思ってなかったな。ふと諦めるの文字が頭によぎったがそんなものは捨ててしまえばいい。


「行くぞ」


「わかってるよ。世界を変えに行くんだろ」


 俺は起動ボタンを押した。

 瞬間、目の前がゆっくりと歪んでいく。どこまでもどこからもひずんでいく世界の中、俺たちのコックピットだけ正常を保っていた。補強も何とか成功したらしい。よかった。

 そう思ったのもつかの間、今度は機体が浮きはじめ、ゆがみに向かって進んでいく。

 

 ――さようなら。


 ……俺たちはしばらく待った。癖で時計を見てしまうが、長針も短針も勝手に蠢くだけで役になんて立たない。

 [時間軸の揺らぎを完了。Aaに到達します]


 突然目の前のディスプレイが真っ黒な画面に白文字で告げ、俺たちはあの工場にいた。


「着いたか?」隣で優がボソッとつぶやく。見る限り到達したのだろうが、念のため大気を調べると、窒素78%。酸素20%――地球だった。

 コックピットのハッチを開け、外に出ると、うっすらとした光が窓から漏れ輝いていた。


「どうやら朝みたいだな」と優が言う。


「そうだな」


 工場の中は静まり返り、おじさんが残したこの遷移機械もない。三年で出来上がるとも思えないのだが……俺たちの時間軸に別の機械が来たのだろうか。

 いやいや、そんなこと今はどうだっていい。

 さっきまで揺らいでいた時計は、はっきりと午前九時二十二分三十秒を指示していた。

 彼女まであと四十分ちょい。


「成功したみたいだ。それじゃあ彼女のもとに走って向かうか?」


 そりゃそうだろ。何のためにここまで飛んできたんだ。「行くぞ」


 俺たちはシャッターを開けて小走りで彼女のもとに走り出す。

 彼女だったらもうちょっと遅く歩いてよ! なんて言ったのだろうか……もうわからない。

 燦燦と照り付けるくそみたいな太陽が俺たちをあざ笑っていた。


 この坂道を降りると彼女がいる交差点だ。そうあの交差点――彼女が車に轢かれて死んだ交差点。たまたま太陽がカーブミラーに反射して運転手の視界を奪った。あそこは住宅に囲まれているから暗くなっている、いきなり明るくなるとどうなるか……チッ。


 じりじりとした太陽が、冬の澄んだ空気を通り抜け、今日も人が通るのを待っている。


「なあ明智、俺たちはやれるんだよな。いやいやいや、俺が弱気になってどうすんだ、やるぞ!」


 ふう、運命をぶち壊してやる。

 俺たちは交差点の両側に立った。これならどちらから彼女が来ても大丈夫なはずだ。

 きょろきょろと周りを見回すと、遊びに出ている子供や、犬を連れて散歩している人がちらちらと通り過ぎて行った――今日は休日か。また時計を確認すると、九時五十五分をまっすぐに指し示し、俺もピンと気を張った。


 向かい側にいる優も同じように探しているが、まだ見当たらないみたいだ……一体いつ来るんだ。もう時間になるんだぞ。どこにいるんだ、どこに。


 あ、  いた。

 彼女は俺に向かって歩いていた。

 楽しげにステップを踏み、長い髪を後ろで止め、白い線の上だけを歩く。マフラーの隙間からのぞく耳はちらっと赤くなっていた。

 はー、はーー、は。まだ待て。


 今すぐにでも駆け出したい気持ちを抑え、彼女が交差点を渡る瞬間を待つ。

 どうやら優も気が付いたみたいだ。計画では優が彼女を助けることになっている。もちろんあいつの方が運動神経がいいからな。


 チ、チ、チ。

 秒針が時刻を刻む。

 彼女は横断歩道に足を踏み入れる。

 向かい側から乗用車が一台。

 優が走り出した。

 ガッ。

 行け、いけ、いけいけいけ!!


 ……乗用車が彼女をとらえた瞬間、優は彼女と一緒に飛んできた。しかし乗用車は全く気が付かないまま通り過ぎていく。今すぐにでも殴ってやりたいが、この世界では何も知らない。


 俺は彼女に手を差し出して言った。


「大丈夫か、赤崎 しのめ」


 キョトンとした彼女は俺の手を取る。こうやって体温を感じることはいつぶりだろうか。もっと、もっと話したい。


「ありがとう。あのままだったら轢かれてたかもしれないなあ」


 彼女は車が通り過ぎた先を見ながら言った。

 はあ、轢かれ《《てた》》、じゃなく、轢かれ《《た》》んだ。しのめはこっちが呆れてしまいそうなほどボーっとしている。いいように言えばおっとりしているんだろうか。


「優もかっこいいね。あんなとこで出てくれるなんて誰にでもできないよ」


 彼女は優の肩に手を置いた。


「あ、ああ、気にすんなよ。それよりも」


 優は俺に目配せをした。もちろん俺だって言いたくはない、言いたくないけれどこれからには必要なこと。

 じっとりとした汗が体を這い、季節外れな水滴がぽたりと垂れた。


……「あのさ、しのめ」


「ん?」


「君に言わないといけないことがあるんだ。驚かないで聞いてほしいんだけど、君は……その、死んだ。さっきの車で轢かれて君は死んだ」


 しのめは目をわざとらしく見開き、眉をぴくっと震わせた。


「冗談やめてよ。さすがの私でも人が死んだなんて冗談笑わないよ。ねえ優?」


 優は何も言わない。言えない。その姿を見てしのめは真剣な顔になった。丸く整えられた眉がうつむき加減になる。

 本当は言わない方がいいんじゃないか……彼女の瞳は不安げに揺らいでいた。


「しのめ、これは本当のことなんだ。君を助けるために、君が助かった世界を作り出すために俺たちは遷移機械を使った」


「でも、それは使えないはず」


「なぜか知らないけれどおじさんが作っていた。少しだけ故障していたけれど、僕たちだけでも直せそうだったから修理したんだ。もちろん個人で作れるなんて警察は思っちゃいない……僕らは君のために来た」


 しのめは俺と優を交互に見た。俺の声が鼓膜を揺らし、彼女の脳を揺らしているけれどもまだ振動が止まっていないみたいだ。彼女は自分の体を上から順に触る。頭。胸。腹。足。どこも欠けてなんかない。

 しばらく待っていると彼女はもう一度目を見開き、ショートヘアーをサラッと揺らして俺たちに言った。


「なんで来たの? もしばれたら死刑なんだよ。今すぐ帰って、今すぐ……」


「ごめん、それは無理」


「どうして!」


「どっちみち俺たちは彼女を助けようと動くから。ここでくそみたいな連鎖を止めてやらないといけない。しのめ、早くここを離れよう。まだ君が生きている世界になっていない。このままいけばまた……」


 俺はしのめの腕をつかんだ。世界は俺たちじゃなく彼女を殺しにかかってくる。元の時間軸に戻るために。揺らぎを正常化するために。

――だからこんな突拍子もない展開が起こって優が叫ぶのも必然。


「早く行け!!」


 いつの間にか少し離れた場所で優はもみ合っていた。もみ合っている男の目はどろりとゆがみ、胸ポケットからちらりと金属が反射する光が見える。

 いつもなら助けに行っていただろうが、俺はしのめの腕をきつくつかんで走り出した。


 俺は背後に向かって叫ぶ。


「絶対勝てよ。俺としのめはポイントで待ってる!!」


「わぁかってるよッ! こいつ、ざけんな!!」


 すまん。

「ねえ、ねえ。どうして助けないの!! 私は行くからッ!」としのめは腕を振りほどこうともがいている。

 ここで離せるかよ。

 引っ張るようにして彼女を動かし、目的のポイントに向かって引きずってでも連れていく。


 少したつと彼女も暴れなくなった。


「しのめ、あいつはきっと死なない。俺たちだってただでやられに来たわけじゃないんだ。ほら、あいつも格闘術とか習ったんだぜ」


 俺は制服を開き、中の防刃チョッキをちらっと見せた。


「突き攻撃には弱いけど、ある程度なら何とかなる。そんなことよりしのめの安全が最優先だ」


「そんなことって……」


 今彼女がどんな顔をしているのかわからなかったけれど、大体想像はつく。非情な奴だって思われてんだろうな。まあいいや。俺たちは彼女のために動くって決めたんだから。


 交差点を警戒し。曲がり角を警戒し。隣を横切るランナー、子供、すべての人を警戒した。そんなことをしているとポイントは近づいてきた。住宅街に似合わない見上げるような建物――津波避難タワー。金属同士が絡まりあうように互いを守りあっていた。


「しのめ」


「わかってるよ。でも、どうしてここなの?」


「ここならトラックが突っ込んでくることもない。出入り口も一つだけだから籠城するには一番適している。それにここは航空機の行き来もないから、完全に安全だ」


 彼女はまだ不安げに瞳をちらちらとさせるが、俺は彼女とともにタワーに足を踏み出した。

 ゴンゴンとした反響音が耳に鈍くやってくる。さっき走ったせいか、ケプラーの防刃チョッキの中は蒸れ、ひたひたと俺の体温を奪っていく。太陽は俺の真上にあるんだろう――俺たちをどこまでも見下ろすように。


 隣のしのめは黙り込んでいた。

 俺も優が心配だ……あいつなら、きっと何とか。

 今更、神様なんて信じていないのに俺は祈った――世界を変えさせてくれと。このゴミみたいな世界をぶち壊させろ、と。


「明智くん、着いたよ」


「ああ」


 最上階には段ボールが散乱し、中身は防災用の食料や電池。よかった、ここでなら数日は籠城できる。適当に何個か積み上げ、ドアを施錠した。優は一定のリズムでドアを叩くから見間違えることはない。


 やっと落ち着ける。マットを取り出してきて座った。じめっとした空気が部屋を包み込んでいる。


「ねえ明智くん」


「どうした?」


「どうして私なんかを助けに来たの? その、さ、最近はあんまり話してなかったじゃん」


「何となく」


「そっか……ちょっとだけお話ししない? この雰囲気のままだったら私潰れちゃいそうだよ」


 彼女はにかっと笑みを浮かべた。そうだったな、あの時は話してなかった。そのせいでずっと後悔をし続けているけど。

 しのめは俺の鬱々も吹き飛ばすように明るく話し出す。少しだけ語尾は震えていた。


「ほら、私たちって三人でよくやってたじゃん。たまにぶち怒られてたけど。まあそれはそれとして……中学校の時『恋人!』とかいうのが流行ったじゃん。馬鹿々々しいとは思ったけど、何となく気恥ずかしくて」


「そのせいで話さなくなっていった」


「そうだね。うん。それを見た優が私たちのために遊ぼうって言ってくれて、優の家に向かう途中……私は死んだ、らしいね」


 ただ頷くことしかできない。


「あー、きっと後悔してるよ。その世界の私。だってさ、ほら見てよ、今日はしっかりおしゃれもしたのに……ははは」


 俺は言わなくちゃいけない。もう後悔なんてしたくない。どうやらこの世界は俺に執行猶予を与えてくれるみたいだ。


「俺はしのめのこと」


――ガン。ガガガ。ガン。


 ドアが叩かれた。しのめはまた不安そうにドアから体を遠ざけるが、俺にはわかる。あれは決めておいたリズムだ。俺はドアを施錠している段ボールを取り外してドアを開けた。


「おせえよ」


「うるせ」


 顔をしかめた優は、一気に疲れがやってきたのか俺に体を倒した。ひたりと赤黒い水を垂らす。少しだけ見た感覚だとそこまで深くはなさそうだ。これくらいなら包帯でなんとかなる。


 優に肩を貸しながら、さっきまで座っていたマットに体を下した。タイミングよくしのめが救急箱を持ってきてくれた。

 まずは足を消毒。血を吸い取ると傷口が見えてきた。

 ――予想通り深くない。俺はガーゼにワセリンを塗って傷口にピタッと合わせる。その上から包帯でぐるぐると巻き、完全に固定した。


「大丈夫か?」


「なんとかな。格闘術を習っといてよかった」


 彼は赤く染まったこぶしを突き上げた。タラりと腕を伝って垂れるが、悲壮感なんてまるでない。俺はこいつと来れてよかった。優となら世界にひざまずくことはない。


「かっこつけんな」


「うるせ。こうでもしねえと痛くてかなわねえよ」


 ――ガタン。

 段ボールが蹴飛ばされ、俺たちは入り口を振り向いた。

 さっきの男だ。手には台所包丁。先がちらりと赤く染まり、俺の心にふつふつとたまっていく。


「ちょっと!」


 背後からしのめの声が聞こえた。俺はもう足を踏み出している、止まれない、止まりたくなんてない!


「ふざけんな、世界!」


 なぜだか相手の動きは遅くなっていた。俺に振り下ろされる包丁もはっきりと見える。こいつの目はさらにうつろになり、でくの坊のようにどこまでも動き続けさせられていた。


 俺はそいつの腹を思いっきり叩いた。

 痛みにうめく声。包丁を持つ手が開かれ俺の背中に落ちていく。俺はここで死なないんじゃなかったのかよ、世界さん。理解していても体が動くとは限らない。


 そう理解したふりをして思った。いつの間にか来ていた彼女が包丁をはたくまで、な。


 突き飛ばされた相手はまだ自分の状況を理解できていないようだった。目を丸くして俺たちを見つめ、大切そうに握りしめていた包丁がないことにやっと気が付いたようだ。

 しのめは一瞥もせずにドアを閉め、段ボールをガラガラと倒した。


「ありがとう。でも、君は自分のことだけ……」


 彼女の瞳には涙が浮かんでいた。

 しずくが白い肌にツーっと落ち、ゆがんだ顔に筋を作る。


「馬鹿なの。ねえ、馬鹿なの? 私だって自分の身を守れるんだよ。毎回自分から面倒ごとに突っ込んで。この前だって私のことを突き放したじゃん。『しばらく離れよう』なんてかっこつけて言っちゃってさ。ねえ、ねえ!!」


 恐怖、怒り、そして悲しみ。頭の中に浮かんできたものの、すべて正しいのかわからなかった。

……どうでもいいか。


「ごめん」


「馬鹿ッ!」


 彼女は座り込んでいる俺の腕をつかんで引き上げた。

 俺たちは彼女の力を侮っていたのかもしれない。あの時、あんなあっさり死ぬなんて思っていなかったら。人間が死ぬなんて実感がなかったから。

 でも、それでも彼女は、今生きているんだ。


 俺たちがどこまで世界を敵に回せるのかわからない。けれどもこんなとこで負けてたまるか。

 グワッと視界が持っていかれそうになる。二本の足で地面をつかみ、しのめに聞いた。


「しのめ、俺たちは君を助け出す。君が生きる世界にまでもっていく」


 彼女の返事は決まっていた。


――「世界を揺らがせよう。じゃ、私ができることは何?」


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