第2話 神様と、もう一つの世界
俺の名前は佐伯悠真。二十七歳。
ついこの間まで、都内の広告代理店で営業をしていた。
朝から終電まで働き、休日も取引先からの電話に追われる日々。
数字と納期に追い詰められ、気づけば笑うことも減っていた。
決定的だったのは、三年付き合った彼女に「仕事ばかりで、あなたが何を考えてるのか分からない」と言われ、別れを告げられたことだ。
その瞬間、糸が切れたように、俺は会社に退職届を出していた。
上司は驚き、同僚は呆れた顔をしたが、不思議と後悔はなかった。
むしろ、胸の奥に溜まっていた鉛のような重さが、すっと消えていくのを感じた。
行くあてもなく、気づけば地元の山間の村に戻っていた。
人口は減り、見知った顔も年老いている。
駅前の商店街はシャッターが目立ち、夜になれば虫の声しか聞こえない。
そんな中、村の人に「せっかくだから社の管理を頼む」と言われ、断る理由もなく引き受けた。
その社は、村の外れの小高い丘の上にあった。
木造の拝殿は年季が入り、屋根には苔がびっしりと生えている。
石段はところどころ欠け、落ち葉が積もっていた。
初めて掃除に訪れた日、俺は竹箒を手に、境内の落ち葉を集めていた。
そのとき――拝殿の奥から、風鈴のような澄んだ音が響いた。
顔を上げると、拝殿の影から麦わら帽子をかぶった老人が現れた。
白い髭に皺だらけの顔、しかし背筋はまっすぐで、目は妙に澄んでいる。
「おーい、そこの若いの」
低くもよく通る声だった。
俺は思わず箒を止め、「こんにちは」と返す。
老人はにこりと笑い、「この社の神様だよ」と言った。
あまりにさらりと言われ、思わず笑ってしまった。
「神様、ですか」
「そう。信じるか信じないかは好きにすればいい。ただ、あんたに頼みたいことがあってな」
そう言いながらも、その日は特に用件を告げず、天気や村の昔話をして帰っていった。
それからも、社に行くたびにその老人と顔を合わせた。
天気の話、村の昔話、そして時折混じる「もう一つの世界」の話。
剣と魔法があること、空を飛ぶ船があること、珍しい食べ物や香辛料の話――。
まるで昔話を聞いているようで、不思議と心地よかった。
ある日、実家で母親と夕飯を食べながら、何気なく話題にした。
「そういえば、社でよく会う麦わら帽子の爺さんがいてさ。やけに話が面白いんだよ」
母は箸を止め、首をかしげた。
「そんな人、この辺に住んでないよ。麦わら帽子なんて、最近じゃ誰もかぶらないし」
その言葉に、背筋が少しだけ冷えた。
あの老人は一体――。
社で会うようになってから一週間ほど経った頃、老人はいつものように石段に腰を下ろし、にやりと笑った。
「もう一つの世界を見てみないか?」
「もう一つの……?」
「わしが管理している異世界だ。剣と魔法があってな、飯はうまいが物流がひどく遅い」
俺が黙っていると、老人はさらに楽しそうに続けた。
「向こうの連中に現代の便利さをひとつ味わわせてやれ。きっと目を丸くして大騒ぎになるぞ。
ほれ、この魔道具を使えば、あんたの世界と異世界をひょいっと繋げられる。面白くなるに決まっておるわい」
そう言って差し出されたのは、手のひらサイズの黒い板と、背負える四角い箱だった。
「黒い板は注文用の端末だ。異世界の者が魔石を入れて注文すると、あんたの端末に届く。
そしてその箱――“配達ボックス”を通して、料理や物品を世界の間でやり取りできる」
箱の蓋を開けると、底が水面のように揺らめいている。
「ただし制限がある。大きすぎる物や重すぎる物は運べない。生き物も不可だ」
「……なるほど」
「それと、呼び出されてから二十四時間以内に戻らなければならない。時間が来れば強制的に帰還だ」
俺は少し考え、頷いた。
「……面白そうですね。やります」
数日後、社に顔を出すと、神様が開口一番こう言った。
「悠真、カツ丼を五つ、すぐに買ってきてくれんか」
「カツ丼……五つ?」
「うむ、ちょっとした用事でな」
理由は聞かされなかったが、俺は近くの町まで車を走らせ、出来立てのカツ丼を五つ買い込んだ。
社に戻り、袋を神様の前に置いた瞬間――端末が小さく震えた。
画面には「注文受付」の文字と共に、差出人「ダンジョン内・セーフエリア」の表示。
「……これって」
神様は愉快そうに笑った。
「ほらな、向こうで誰かが注文端末を拾ったんじゃよ。しかもカツ丼を五つ、だ」
「……まさか、これって」
「初仕事だな。気をつけて行ってこい」
次の瞬間、視界が白く染まり、足元の感覚がふっと消えた。
気づけば、石造りの部屋の中央に立っていた。
目の前には、鎧やローブを身にまとった五人の女性。
全員がこちらを警戒するように見つめている。
「ルーベルイーツでーす!」
できるだけ明るく声をかけ、背中の箱を開けた――。




