氷の魔女と影の毒牙
濃い霧が森を包み、木々の隙間から漂う微かな魔力が肌を撫でた。アリシアンは、ダークウッドの入り口に立っていた。ギルドで受け取った依頼を胸に、再びこの魔の森に足を踏み入れる。
「……静かすぎるわね。あの時の喧騒が嘘みたい」
だが、その静寂は異常だった。森の地面には、粘液を引きずるように這いずるスライムたちの姿があった。魔晶石の影響を受けたそれらは、まるで病的な光を放っていた。赤、緑、紫。色彩を帯びた粘体が、ぐちゅりと音を立てて動いている。
「数が……多すぎる。これも、影の魔晶石の影響……?」
スライムの一匹が跳ね、アリシアンの脚へ飛びかかる。
「……やれやれ、じゃあ火遊びでもしてあげるわ」
彼女の指先が空をなぞる。
「ディメンション・ゲート」
空間が裂け、紅の輝きと共に漆黒のハルバードが現れる。愛用のブラッド・ハーヴェスターを片手に、アリシアンは構えた。スライムたちが一斉に蠢く。
「フレイム・ヴォルテックス」
大地に魔力を刻み、螺旋状の炎が舞い上がる。火柱がスライムを焼き払うと同時に、跳ね飛んだ粘液が樹皮を焦がした。それでも、なおも襲いかかる異形の群れ。アリシアンは獣のように動き、薙ぎ、斬り、跳ぶ。火と鋼の舞踏が繰り広げられ、スライムたちは次々に消し飛んでいった。
やがて戦いが終わり、地面には焼け焦げた残骸だけが残る。アリシアンは息を整え、汗を拭いながらブラッド・ハーヴェスターを担いだ。
「……いい朝の運動ね。けど……これは、ほんの入り口って感じ」
ダークウッドの奥深くへと進むアリシアンは、森全体に満ちる殺気を敏感に感じ取っていた。そして、広場に差し掛かったその時。戦いの音が聞こえた。金属音、魔法の閃光、獣の咆哮。木の影から覗き込むと、そこにはひとりの女性魔法使いがいた。相対するのは、群狼の一団。空を舞うフォレスト・ウィスプの群れ、地面を這う巨大蜘蛛ヴェノム・クロウラー。緑色の霧が辺りを覆っている。それはウィスプの幻覚魔法イリュージョン・ミスト。
淡く美しいが、それが敵意を帯びていると知れば、見惚れている暇はない。そしてクロウラーの巨体が地を這うたび、地鳴りが響く。その八本の脚と赤く濁った複眼。吐き出す毒液が大地を焼いた。
「なかなか、やるわね……」
アリシアンは木陰から魔法使いの姿を見つめた。
淡い銀髪を風になびかせ、冷たい表情で氷の魔法を放つその姿は、まるで戦場に咲いた氷花だった。
「アイシクル・ストーム!」
凛とした声が響き、無数の氷の槍が空を裂く。ウィスプたちを次々と凍らせ、光の粒となって砕け散らせる。アリシアンの目が細められる。
「……あの冷静な詠唱、ただの旅人じゃない。だけど、数が多すぎる」
まさにその通りだった。ウィスプが放った幻影に一瞬、魔法使いの動きが鈍る。そこを狙ったかのように、ヴェノム・クロウラーが毒液を吐き出した。緑色の液体が彼女の左腕に直撃する。
「……くっ!」
悲鳴を飲み込みながら膝をつく魔法使い。毒は瞬く間に麻痺を引き起こし、彼女の四肢の自由を奪っていった。その瞳が、死を悟ったように閉じられる。
「――っ!」
アリシアンが動いた。木陰から一気に飛び出し、ブラッド・ハーヴェスターを構える。
一閃。
漆黒の刃が光を裂き、ヴェノム・クロウラーの胴体を真っ二つにした。体液が地面に飛び散り、巨大な蜘蛛の脚が痙攣しながら崩れ落ちる。
「こっちは焼き払ってあげるわ……!」
フレイム・ヴォルテックス。炎の渦が広場を包み、残ったウィスプたちを纏めて焼き尽くす。淡い緑の光が悲鳴をあげるように消えていった。
広場が静けさを取り戻した頃。アリシアンはブラッド・ハーヴェスターを肩に担ぎ、魔法使いの元へと歩み寄った。
「……生きてる?」
声をかけると、銀髪の魔法使いは震えるまぶたを上げた。
「……あなた……が、助けて……?」
麻痺のせいで声は弱々しかったが、確かな意志を感じた。アリシアンは頷き、片腕を支えにしながらそっと立たせる。
「このままじゃ歩けないわ。手を貸してあげる」
「……す、すみません……助けて……くれて」
「礼は元気になってからでいいわ。さ、帰りましょう。あなたも、まだ死ぬには若そうだし」
その言葉に、魔法使いは小さく微笑んだ。
ルヴェンディアへの帰路。アリシアンは傍らで寄りかかる魔法使いの体温を感じながら、ふと目を細めた。
「ダークウッドの群狼……あの動き、明らかにおかしかった。やっぱり、影の魔晶石が本当に眠ってるのかもしれない」
そして、自分が斬った『悪』の空白に何が入り込んだのか。それを確かめる必要があると、アリシアンは強く感じていた。彼女の瞳は、再び戦場を見据える光を宿していた。
そして、謎の魔法使いとの新たな物語が、今、始まる。