影の兆し、森に蠢くもの
陽光が差し込む特別室のカーテン越しに、朝の風がそよいだ。アリシアンはゆっくりとまぶたを開けた。隣にあったはずの温もりは、もうない。代わりに、枕に残る淡い香水の香りが、彼女の鼻をくすぐった。
「……イザベラ、もう仕事かしら。勤勉ね……」
ふふ、と艶やかな微笑を浮かべながら、アリシアンはベッドを出た。鏡台に髪を解き、備え付けの浴室へと向かう。朝の湯に身を沈める間、彼女の脳裏に昨夜の熱がふっと蘇る。
「……戦場よりも、この部屋の方が、ずっと危険ね」
からかうように呟いた後、アリシアンはタオルを巻き、着替えを済ませる。真紅のマント、黒革のブーツ、そしてブラッド・ハーヴェスターのチャームを胸元に。
「さ、朝食の時間ね」
階下のホールを歩くアリシアンに、イザベラが気づいて振り返った。掃除中の従業員たちがその様子を遠巻きに見守る。
「おはよう、アリシアン。昨夜は、よく眠れた?」
「ええ、とても……でも、あなたがいない朝はちょっとだけ寂しいわ」
「もう……そんなこと言って。夜のあなたはあんなに強気なのに」
ふたりは微笑み合い、視線を交わす。近くでモップを動かしていた従業員のひとりが、ぼそりと呟いた。
「……あれで隠してるつもりなんだから、ほんと可愛いよね」
朝食は、焼き立てのパンにベーコンエッグ、豆と野菜のスープ、ハーブティー。アリシアンはゆっくりとそれを味わいながら、従業員たちと軽く言葉を交わす。
「昨日は見事だったそうですね。あの山賊、何年も手を焼いてたのに」
「ありがとう。夜は、少し騒がしかったかしら?」
「いえいえ、耳栓を配布してますから……あっ、いえ、なんでも!」
顔を真っ赤にして逃げる従業員を見て、アリシアンはくすりと笑う。
その時、厨房の方から声が聞こえた。
「ねえ、聞いた? 街道で馬車が襲われたって」
「え……モンスター? 」
その話に、アリシアンの表情がわずかに引き締まった。
「街道で……?」
食事を終えたアリシアンは、イザベラと従業員たちに見送られながらゴールデン・ハーヴェンを出た。
「気をつけてね、アリシアン。……お願い、無理だけはしないで」
「ええ、大丈夫。あなたのために、無事で帰ってくるわ」
イザベラの瞳を優しく撫でるように見つめ、アリシアンは街路へと歩き出す。ルヴェンディアの朝の通りは活気に満ちていたが、アリシアンの目は鋭く光っていた。そして、通りの先から、血塗れの馬車が数台、速度を上げて街へ駆け込んできた。荷台には、包帯を巻いた男たち。苦悶の声を漏らしながら、彼らは呻いていた。
「……モンスターに……襲われた……!」
「助けてくれ……頼む……っ!」
馬車はそのまま診療所へと走り去り、アリシアンは口を閉じたまま見送った。
「モンスター……? あの辺りは……」
嫌な予感が、胸にざわつく。
ギルドの扉を押し開けると、すぐに反応があった。
「アリシアンっ!」
真っ直ぐに声を上げたのは、例のツンデレ受付嬢セリーヌ
「……来るの、遅いですっ。どれだけ待ってたと思ってるんですか……!」
いつもの調子で言いつつも、目元は明らかにほっとしていた。
「ふふっ、ごめんなさい。朝は甘い時間だったのよ。で? 何が起きてるの?」
セリーヌは表情を引き締めて説明を始めた。
「昨夜半から今朝にかけて、ルヴェンディア近郊でモンスターの襲撃が急増してるんです。街道も村も、被害が相次いでて……負傷者が次々と運ばれてきてます」
「さっき、街で見たわ。血まみれの馬車が数台……納得したわ」
セリーヌは頷き、さらに続ける。
「原因は、たぶん魔晶石です。魔晶石には光と影の二面性があります。アリシアンさんが使ってるのは光の魔晶石。癒しや強化の力を持ちます。でも、影の魔晶石は、モンスターを異常なまでに活性化させるんです。破壊、混乱、暴走……」
「つまり、影の魔晶石の影響で、モンスターが増えてるってことね?」
「はい……しかも、ダークウッドの森の奥深くに、影の魔晶石が眠ってるって噂があって……以前は山賊団が縄張りを張っていたから抑えられていたけど……あなたが殲滅したことで、勢力の空白が生まれて……」
セリーヌは不安げに口を閉ざした。アリシアンは腕を組み、ゆっくりと息を吐く。
「……皮肉ね。『悪』を斬ったら、『異形』が這い出してきたってわけ」
「……ギルドから正式に依頼します。アリシアンさん、モンスター討伐のクエスト、引き受けてくれますか?」
書類を差し出すセリーヌの目には、強い期待と不安が入り混じっていた。アリシアンは、それを見て微笑む。
「ええ、受けるわ。可愛い受付嬢のお願いだもの。断る理由、ないわね」
セリーヌの顔が赤く染まり、ほっとしたように小さく呟く。
「……ありがとう……」
内心では、彼女の無事を何よりも願っていた。アリシアンはマントを翻し、ギルドを出る。ルヴェンディアに迫る影の脅威を断ち切るため。『悪を斬る女神』の、新たなる戦いが始まろうとしていた。