甘き夜、秘密の部屋で
ルヴェンディアの空は、茜色の絹を広げたように染まっていた。街路の石畳に夕陽が反射し、灯りがともり始める中、アリシアンはマントを翻して歩いていた。向かう先は、街でも屈指の宿屋ゴールデン・ハーヴェン。
広い中庭に面した三階建ての木造建築で、緋色の屋根と白い外壁、そして魔晶石の灯りが温かく光っていた。格式ある客室と贅沢な食事、そして行き届いたサービスで知られ、貴族から高ランクの傭兵まで幅広く愛されていた。アリシアンが扉を開けた瞬間、ロビーが一気に明るくなる。
「アリシアンさん、おかえりなさい!」
「お怪我はありませんでしたか?」
「今夜は焼きリンゴを仕込みましたよ!」
従業員たちが一斉に声をかけてくる。アリシアンはそのひとつひとつに微笑を返した。
「ふふっ、みんな優しいわね……戻ってきた実感があるわ」
その時、階段を軽やかに降りてきた女性が、アリシアンに駆け寄った。
「……アリシアン!」
腰まである金の巻き髪、長身にぴったりとした赤のドレス。宿屋ゴールデン・ハーヴェンのオーナーにして経営者、イザベラ・ヴェルモントである。「おかえり……ずっと、あなたのこと考えてたわ」アリシアンは、妖艶な笑みを浮かべて彼女の腰に手を回す。
「それは嬉しいわ……わたしの可愛い宿主さま。
今夜は、たっぷり……“甘く”してあげる」
イザベラの頬がわずかに染まり、艶やかに笑った。
二人は、恋人関係にある。だがそれを公にはしていない。していないつもりだった。だが、アリシアンが泊まる『特別室』はイザベラの手で防音工事がなされていたものの、夜な夜な漏れ出る官能的な声と、家具の軋む音によって、従業員たちの耳には全てが届いていた。
「……それで隠してるつもりなんだから、もう可愛いよねぇ」
「防音の意味なかったよね。嬉しそうだったけど」
後ろで従業員たちがニヤニヤと囁き合っていた。
「ごめんなさいね、今日はちょっとまだやることがあるの」
「ええ、分かってるわ。でも……今夜ね」
アリシアンはイザベラの耳元に唇を寄せ、囁くように語った。イザベラは甘く笑い、頷いた。
夕食の時間。アリシアンは食堂の隅の席で料理を口にしていた。今夜のメニューは、香草で焼いた仔羊のグリル、蜂蜜とバターで煮込んだ根菜のソテー、そして焼きリンゴのデザートに、軽めの赤ワイン。
「ふぅ……美味しいわね。戦いの後は、やっぱり甘いものに限るわ」
店内は穏やかに賑わい、音楽と笑い声が重なる。だが、アリシアンの心は、すでに『あの人』に向いていた。
食後、アリシアンは特別室へと戻る。上質なシーツと深紅のカーテン、魔晶石の柔らかな灯りに照らされた空間。アリシアンはマントを脱ぎ、鎧を外す。露わになる滑らかな肌と、鍛えられた肢体。浴室に湯を張る準備をしていると。
「……ただいま」
部屋の扉が静かに開かれ、イザベラが姿を現した。赤いドレスの肩が落ち、彼女の胸元がわずかに揺れている。
「……待ってたわよ」
アリシアンはイザベラに近づき、そっと抱き寄せた。胸が触れ合い、唇が重なる。熱くも、優しいキス。互いの体温が重なり、長い一日が溶けていく。
浴室。蒸気の立ちこめる湯の中、アリシアンとイザベラは肩を並べて入っていた。
「ふふっ……まだ仕事の疲れが残ってるんじゃない?」
「あなたの手があれば、何だって溶けてしまいそうよ……」
アリシアンがイザベラの肩を撫で、背中を洗う。
イザベラはくすぐったそうに身を寄せ、アリシアンの太ももに手を添えた。
「……今夜は、どれだけ声を抑えられるかしらね?」
「ふふ……無理よ。あの防音壁、次の予算で二重にしておくべきね」
ふたりは軽くキスを交わし、笑い合う。恋人だけに許された、穏やかな時間が流れていた。
湯上がり、ベッドへと移動した二人は、何も言わずにシーツに身を沈めた。イザベラの胸に顔を埋めるアリシアン。逆にアリシアンの腹筋をなぞるイザベラ。息が混じり合い、キスは深く、長くなる。アリシアンの指がイザベラの頬を撫で、髪を梳き、耳元に囁く。
「愛してるわ、イザベラ……ずっと、あなただけよ」
「……わたしも。誰よりも、あなただけ」
言葉の先に、熱が生まれる。ベッドの上で、ふたりはゆっくりと求め合った。濃密なキス、甘く長い指先、体をなぞる愛情の証。情事の絶頂。けれど、それは決して荒々しいものではなく、愛しさと甘さ、静かな喘ぎの中で重ね合う、満ち足りた夜だった。
灯りが落ちた特別室。シーツの中、イザベラがアリシアンの胸元に顔を寄せ、静かに囁いた。
「ねえ……こうしていられる時間、ずっと続けばいいのにね」
アリシアンは彼女の髪を優しく撫でながら、柔らかく笑った。
「ふふ……ここが私の帰る場所よ。あなたがいる限り、ずっと」
イザベラは安心したように目を閉じ、アリシアンの腕にそっと身を預けた。二人はやがて、静かな眠りへと包まれていった。外では夜風が窓を揺らしていたが、部屋の中はただ、穏やかな愛に満たされていた。