あたし、都合のいい女はやめましたので
ガストンニュ領に行けば病が治る――王国にそんな噂が流れはじめたのは今から三年ほど前のことだ。領主であるオーガストと会話をすれば、どんな大怪我も、不治の病も、たちまち治る。そんな噂を聞きつけた人々がひっきりなしに領地を訪れるため、この三年のうちに、領地はそれまでと比べ物にならないほどの発展を遂げていた。
「オーガスト様は私達の――我が国の救世主ね」
街の人々が誇らしげにオーガストを褒め称える。そんな様子を、一人の少女が嬉しそうに眺めていた。
「アンジュ、手を貸してくれ」
「あっ、はい! オーガスト様」
アンジュは急いでオーガストのもとに駆け寄ると、彼がそれまで話をしていた人――患者へと向き直った。
「この男性は心臓が悪いらしいんだ。俺の話を聞きつけて、一カ月もかけてガストンニュ領に来てくれたんだよ」
「まあ、それは……大変だったでしょう?」
患者の顔色は非常に悪く、長旅の影響もあってかやつれて見える。アンジュは患者の体を支えると、そっと目をつぶった。
「だが、俺のところに来たからにはもう大丈夫だ。すぐによくなるよ」
「本当ですか、救世主様? よかった…本当によかった!」
患者が瞳を輝かせる。アンジュは表情を変えないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと己の手のひらに力を込めた。
(この患者さんは……一日での完治は無理かも。数日は通ってもらわないと)
アンジュの額にじっとりと汗が滲む。
救世主オーガスト――人々は彼をそう呼ぶ。特別な力を持ち、慈悲深い立派な領主だと。
けれど、本当はオーガスト自身にはなんら特別な力はない。彼が治癒の力を使うときにはいつも一人の少女――アンジュが側にいる。アンジュこそが、人々の傷や病を癒す特別な力を持っていた。
アンジュがはじめて力に目覚めたのは今から三年ほど前、十五歳の時のことだ。同じ孤児院で暮らしていた男の子が病気になり、アンジュが救った。一度能力が開花した後は、怪我でも病気でもどんな症状も治すことができると発覚し、その話は瞬く間に領主であるオーガストに届けられた。
そして、その時からアンジュの生活はガラリと変わった。
着心地の良い衣服が届けられ、それまでの数倍まともに食事ができるようになった。孤児院から出た後に暮らすための家まで用意してもらえた。それから数日後、オーガストがアンジュの元へとやってきた。
『俺にはアンジュが必要なんだ。これからは君の力を俺のために使ってほしい』
オーガストがアンジュにひざまずく。
アンジュにとって、オーガストはまるで白馬に乗った王子様のように輝いて見えた。太陽にきらめく紅い髪に、鮮やかな緑色の瞳、精悍な顔つきにたくましい体。なにより自分を苦しい生活から救い出してくれた救世主であり、アンジュを必要としてくれる人。彼の要請を断るなんて微塵も考えもしなかった。
そうして、アンジュの力はオーガストのものとなり、アンジュは領主の屋敷の隣にある診療所で治癒を開始した。
アンジュが治癒した人々は皆、オーガストに助けてもらったと勘違いをしていた。……というより、そうなるようにオーガストが仕向けていた、というのが正しい。彼はアンジュに対し、力を使ったと悟られないよう振る舞うことを常に求めていたし、言葉巧みに人々を誘導していたから。
けれど、アンジュはそれでかまわなかった。オーガストが褒められると、まるで自分のことのように嬉しくなったし、人々を救うたびにオーガストはアンジュに愛を囁いてくれた。
『アンジュ、俺は君を愛している』
『アンジュのおかげで、君と正式に一緒になれる日がまた近づいたよ』
『君は最高だ。俺は君が側にいてくれなければ生きていけない』
好きな人に愛され、必要とされて、アンジュはとても幸せだった。領地が栄えれば栄えるほどオーガストは喜んでくれるし、自分を大切にしてくれる。結婚の約束だってしてくれたし、彼のために頑張るのは当然のことだ。
(だけど最近は治療の時にしか会いに来てくださらないのよね)
夕方、診療所には既にオーガストの姿はない。アンジュは大きく伸びをしてからため息を吐く。
オーガストには領主としての仕事があるし、アンジュにばかり構えないことはわかっている。けれど、事務的なやり取りばかりでは少しだけ寂しくなってしまう。
以前のように抱きしめてほしいし、頭を撫でて口づけてほしい。……愛していると言ってほしい。それとも、会いたいと思っているのはアンジュだけなのだろうか?
(ううん、そんなことないはずよ)
あれほどまでに自分を必要としてくれているのだ。きっとオーガストも同じ気持ちだろう。ほんの少しだけでも会いたい――アンジュは急いでオーガストの屋敷へと向かった。
屋敷に着くと、使用人たちがアンジュを温かく出迎えてくれた。
「旦那様は執務室にいらっしゃいますよ。呼んでまいりましょうか?」
「ううん、あたしが行く。どうせなら驚いた顔が見たいし、喜ばせたいじゃない?」
三年前から何度となく訪れた勝手知ったる屋敷の中を、アンジュは軽い足取りで進んでいく。オーガストの執務室に着くと、タイミングを見計らうため、アンジュは扉にそっと耳を当てた。
「――本当に、アンジュ様の力は凄まじいですね」
と、男性が言うのが聞こえてくる。オーガストの幼馴染の声だ。彼はオーガストの仕事を手伝っており、アンジュともよくやり取りをしているためすぐにわかる。
(あたしの話だ)
もっとよく聞きたい――アンジュはドキドキと胸を高鳴らせつつ、耳を扉に強く押し当てた。
「力は、な。俺にとっては本当に都合のいい女だよ」
(……え?)
アンジュが思わず息を呑む。聞き間違いだろうか? ……いや、自分がオーガストの声を聞き間違えるはずがない。アンジュは自分を落ち着かせるため、必死で深呼吸をした。
「そんなふうに言うなよ。領地がここまで発展したのはアンジュ様のおかげだろう?」
「アンジュのおかげ? 違うよ、全部俺のおかげだ。治癒をしているのがアンジュだなんて、俺たち以外は知らないことだし、あいつの平凡な容姿じゃここまで話題にならなかった。俺だからここまでやれたんだ。まあ、アンジュの能力が開花したのは幸運だったけど」
ハハハ、とオーガストが上機嫌に笑う。あまりのショックに、アンジュは膝から崩れ落ちてしまった。
(オーガスト様がそんなことを思っていたなんて)
信じられない。……信じたくない。
アンジュは涙をこらえながら、ぐっと拳を握った。
「そうだ! 聞いてくれよ! 最近公爵家とも縁ができたんだ。俺は本当に幸運の女神様に愛されているんだと思うよ」
「公爵家と縁? なんだよそれ」
「あちらの末娘を娶ることが決まったんだ。まあ、ここまで領地を発展させたんだ。実績を鑑みれば妥当だけど」
オーガストの高笑いが聞こえてくる。アンジュは思わず耳を覆った。
「だけどお前、アンジュ様は? 結婚の約束をしていたんじゃ……」
「アンジュと結婚? バカを言うな。あんな平民と、この俺が結婚するわけがないだろう?」
アンジュの瞳から涙がポロポロとこぼれ落ちる。胸が張り裂けそうなほど強く痛んだ。
「それはあんまりだろう? アンジュ様はお前のことを信じているんだぞ? あんなに献身的に尽くしてくれたのに……」
「俺、あいつに向かって『結婚』なんて直接的な言葉は出してないよ? まあ、一緒になりたいとは言ったけど。……ハハ、本当に都合のいい女だよな。アンジュは俺に心底惚れてるから、結婚をちらつかせるだけで舞い上がって何でもしてくれるし、非常に扱いやすかったよ。……おい、そんな顔をするな。これから先もあいつには俺のために働いてもらわなきゃならないから、愛人としてそれなりの生活は送らせてやるつもりだよ。それであいつも満足だろう?」
アンジュは胸を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。オーガストの笑い声が頭の中で響き続けている。
(あたしは――都合のいい女)
愛されていると思っていた。必要とされていると思っていた。けれど、オーガストが必要としていたのはアンジュ自身ではない。治癒の能力――彼にとって都合のいいコマとして動くことだった。
(ひどい)
……それでも、このまま何も知らないふりをして、オーガストの側にいることもできる。愛されていると勘違いをしながら、彼の役に立てることを誇りに思って生きていくことも可能だ。
(――そんなの無理)
耐えられない。アンジュはオーガストの屋敷を出ると、そのまま急いで街を出た。
行く宛も、頼れる人も、お金だってほとんど持ってなかった。生まれ育った街を出ることだって、アンジュにとってははじめての経験だ。それでも、もう一秒だって、こんなところにいたくはない。
暗闇の中をアンジュは走った。夜道はとても恐ろしかった。けれど、立ち止まると、涙が止まらなくなってしまう。己の体を掻きむしって、どこかに捨て置いてしまいたくなる。
(嫌だ! 嫌だ!)
何もかも、なかったことにしたかった。オーガストにとって都合のいい力を持っている自分を。何も知らずに、それを誇ってきた自分自身を。全部を消してしまいたかった。
(あたしは今、どこにいるんだろう?)
数日間移動を続け、アンジュはガストンニュ領に引けを取らないほど大きな街にたどり着いた。ようやくこれで一息つける――そう思ったものの、心も体もボロボロで、見るに耐えない状態なのだろう。人々がアンジュから距離を取っているのがわかる。
(そうよね。どうせあたしは都合のいい――なんの価値もない女だもの)
これが当然の扱いなのだ。
もうどうでもいい。どこに行っても変わらない。こんな行動には何の意味もなかった――そう思ったその時だ ドンッ!という大きな音が聞こえ、アンジュは思わず顔を上げた。
「ミゲル様!」
「ミゲルお兄ちゃん!」
人々が慌てふためき、泣き叫ぶ声が聞こえる。人だかりの側には大きな馬車が一台。馬が興奮したように鳴いており、まだ完全には停車していない。状況から判断するに、どうやら人と馬車がぶつかってしまったようだ。
「血が止まらない!」
「そんな! ミゲル様……!」
「どうしよう! 誰か、神様……!」
よほどひどい状況なのだろう。絶望に満ちた声が聞こえてくる。
(あたしには関係ない)
誰がどうなろうと、アンジュの知ったことか。もう二度と、治癒の能力など使いたくない。誰かの都合のいいコマになるのはゴメンだ。けれど――
「ミゲル様!」
「ボク達をかばったから、ミゲルお兄ちゃんが!」
「嫌だ! 嫌だよ!」
子どもたちの泣き声が聞こえてくる。
本当にこれでいいのだろうか? 後悔しないだろうか?
「――どいてください!」
気づいたら体が動いていた。人々が驚き戸惑う中、アンジュは横たわっている男性――ミゲルの側に座り、状況を確認する。
(呼吸が――心臓が止まっている)
だが、今ならまだ間に合う。アンジュはミゲルの心臓に手を当て、力を注ぎ込んだ。
「おい、ミゲル様に触るな」
「ミゲル様に何を……!」
アンジュを止めようとする人間、引き剥がそうとする人間もいたが「邪魔をしないで!」と睨みつける。そうしているうちに、段々と傷口が小さくなり、出血が収まっていくのに気づいたのだろう。祈るような表情でアンジュを見つめはじめた。
「うぅ……」
ミゲルが小さく唸り声を上げる。なんとか一命をとりとめたようだ。けれど、まだ油断はできない。アンジュが手を休めれば、一瞬で亡くなってしまうだろう。
どのぐらいそうしていただろうか? 空腹と疲れでアンジュの意識が朦朧とする中、ミゲルがゆっくりと体を起こした。
「ミゲル様!」
「よかった! 本当によかった!」
耳元で嬉しそうな人々の声が聞こえてくる。
「僕は一体……」
(よかった)
もう大丈夫だろう――そう思いながら、アンジュは意識を手放した。
***
『アンジュ!』
オーガストがアンジュを抱きしめる。温かい――たくましい腕に支えられ、アンジュの瞳から涙がこぼれ落ちた。
『今まで一体どこに行ってたんだ? 探したんだぞ?』
頬にキスされ、胸いっぱいに甘い気持ちが広がっていく。
(ああ、夢だな)
これは夢だ――わかっている。それでも嬉しいと思ってしまう自分が憎らしい。
『俺には君が必要なんだ』
けれど、オーガストがそう口にしたとき、体の奥底からどす黒い感情が湧き上がった。
「それってあなたにとって都合のいい女だから?」
「――気がついた?」
と、知らない男性の声がアンジュに答える。見れば、美しい男性がアンジュの顔をじっと覗き込んでいた。色素の薄い金色の髪に、雪のように真っ白な肌。宝石のように輝く紫色の瞳は吸い込まれそうなほど美しく、まるで天会に暮らす神々や天使のように現実味が薄い。
「な……! え?」
「大丈夫? 僕を治療した後、三日三晩寝込んでいたんだよ」
「治療……? あっ!」
アンジュの意識と記憶がようやくはっきりしてくる。目の前にいるのは馬車に轢かれた男性――ミゲルと呼ばれていた人だ。
「助けてくれてありがとう。君のおかげで命拾いしたよ」
ミゲルがアンジェの手をぎゅっと握る。が、自分の手が真っ黒に汚れていたことを思い出し、アンジュはパッと腕を引いた。
(違う。汚れているのは手だけじゃない)
顔も体も、心だって、どこもかしこも汚れている。だというのに、シミ一つない綺麗なベッドに眠っていた事実が受け入れがたく、アンジュは急いで体を起こした。
「まだ起き上がらないほうがいい。すごく衰弱しているってお医者様が……」
「いいんです! あたし、平気です」
恥ずかしさと申し訳なさのあまり、アンジュの頬が熱くなる。どうしてあのタイミングで気を失ってしまったのだろう? 早くここを立ち去らなければ――ふらふらしながらベッドから這い出たが、アンジュは膝から崩れ落ちそうになってしまった。
「ほら、言っただろう? まだ寝ていたほうがいい」
「……ごめんなさい」
ミゲルに抱きとめられ、アンジュの瞳に涙が滲んだ。
「ごめんなさい。……ごめんなさい。あたし、こんな……こんなふうに優しくしてもらう価値なんてないのに。本当に、ごめんなさい」
「どうして謝るの? それに、君は僕のことを助けてくれた命の恩人だ。価値がないだなんてとんでもない。本当に感謝しているのに」
「だけど……」
苦しい。悔しい。
どうしてそう思うのか自分でもよくわからないけれど、この状況が嫌でたまらなかった。
「とりあえず、元気になるまで、この屋敷から出られないから! ゆっくり心と体を休めてよ! ね!」
ミゲルはそう言うと、ふわりと目を細めて笑った。
それから数日、ミゲルの宣言どおり、アンジュは屋敷を出ることができなかった。数日間食事を抜いた状態で移動を続けた結果、物理的に体が動かなかったし、侍女たちにしっかりと見張られているためだ。
「こんな状態で屋敷からお出ししたら、旦那さまとミゲル様に叱られてしまいます。アンジュ様はミゲル様の命の恩人です。丁重にもてなすようにと厳命されておりますのに」
脱走を試みるアンジュに向かって、侍女たちはそう言って唇を尖らせた。
彼女たちは目が覚めた時から、湯浴みや食事など、何くれとなく世話をしてくれ、アンジュは申し訳なくてたまらない。自分にはそんな価値ないのに――そう言いたくてたまらなかった。
「早くここから出たいなら、きちんと食事をとらないとね」
ミゲルはそう言って頻繁にアンジュの元を訪れた。朝昼晩の食事の時間はもちろん、お茶菓子などを持参してはアンジュを構いたがる。
「ミゲル様、あの……あたしはもう平気ですから。そろそろここから出してください」
あれから数日、体力は既に完全に回復していた。これ以上ここにいていい理由は存在しないと、アンジュは小さくため息を吐く。
「ダメだよ、まだ。こんなに痩せ細ってるし」
「そういう体質なんです。本当に大丈夫ですから」
「大丈夫じゃないよ。行く宛もないのに。放っておいたらまた、倒れてしまうかもしれないだろう?」
うっ、とアンジュが返答に詰まる。
アンジュが故郷を出た理由自体は教えていないものの、ミゲルからは帰る家がないことを察せられてしまっている。
「いいんですよ、倒れたって。あたしのことなんてどうでも……」
「よくないよ」
ミゲルが真剣な表情でアンジュを見つめる。彼はアンジュの手を握ると、小さくため息を吐いた。
「アンジュは僕の命を助けてくれた恩人だ。どうでもいいだなんて言わず、もっと自分のことを大事にしてほしい」
「恩人だなんて……そんなふうに思わなくていいです。あたしは、あたしにできることをしただけですから。こんな能力、大っ嫌いですし」
言いながら、胸が塞がっていく。
治癒の能力のことを考えると、どうしてもオーガストのことを思い出してしまう。彼にいいように使われていた過去を。自分自身にはなんの価値もないことを……。
「大嫌いな能力を、僕のために使ってくれたんだね」
ミゲルがそう言って優しく微笑む。彼はそっと目を細めると、手のひらに力を込めた。
「アンジュ、君はとても優しい人だよ。ありがとう、僕を助けてくれて。本当にありがとう」
「ミゲル様……」
これまでアンジュは、助けた人から直接お礼を言われたことがない。治癒をしているのはオーガストということになっていたからだ。それが当たり前だったし、残念だと思ったことなんて一度もなかった。けれど、実際にお礼を言われると、何とも言えない複雑な気持ちになってしまう。
「――決めた。アンジュが自分で自分を大事にできないなら、僕が君を大事にするよ」
「え? だけど……」
思わぬ申し出に、アンジュが目を丸くする。
「断っても無駄だよ。僕、一度決めたら結構頑固なんだ」
顔に似合わぬ言葉を口にし、ミゲルがニカッと歯を見せる。嫌なのに、嬉しくないのに――アンジュは思わず笑ってしまった。
***
ミゲルと暮らす日々は、穏やかで温かく、アンジュの心を癒やしてくれた。
『アンジュが自分で自分を大事にできないなら、僕が君を大事にするよ』
その言葉どおりに、ミゲルはアンジュを大事にしてくれた。アンジュが自分を卑下するたびに、違うよと優しく諭してくれる。そうしているうちに、オーガストとの過去がバカバカしくなっていき、どうでもよくなっていく。このままここで穏やかに暮らせたら――そう思うようになるまでに、時間はかからなかった。
(あたしが治癒の能力を使えば、このままこの街に――ミゲル様の側にいてもいい?)
領主の息子であるミゲルにとって、アンジュは有用なコマになるだろう。……かつてオーガストが彼女を都合のいい女として扱ったのと同じように。
(バカみたい)
何度同じ過ちを繰り返せば気が済むのだろう? 都合のいい女でいるのが嫌だから、故郷を飛び出してきたはずなのに。結局自分が頼れるのは、己の価値は、神様から与えられた特別な能力だけなのだろうか?
「え? 街の人に治癒を?」
「はい。お世話になったお礼をしなければ、と思いまして。それまでこの街に滞在できたら、と」
それでも、ここに――ミゲルの側にいてもいい理由がほしい。尋ねながら、アンジュの胸がドキドキと鳴る。
「そんなことしなくていいよ」
「え? でも……」
断られるなんて想像もしていなかった。病気や怪我が簡単に治れば、誰だって嬉しいに違いない。領地も潤い、絶対に助かるはずなのに。
「そもそも、アンジュが先に僕のことを助けてくれたんだ。だから『お世話になった』だなんて考えなくていいんだよ」
「だけど、その後倒れて、かえって看病の手間を掛けてしまいましたし」
「アンジュがいなかったら僕は死んでいた。君を看病するのはあたり前のことだよ。まったく気にしなくていい。第一、君は君の能力を嫌っているだろう?」
「そう、だけど……だけど! あたしにはこれしかないんだもの」
「そんなこと――っ!」
ミゲルが唐突に顔を歪める。
「ミゲル様!?」
彼は胸を押さえながらうずくまり、浅い呼吸を繰り返していた。
「もしかして、事故の後遺症ですか!?」
ミゲルからの返事はない。けれど、表情がアンジュの推測が正しいことを物語っている。アンジュは彼の背中に手を当て、治癒の力を注ぎ込んだ。
「どうして言ってくれなかったんですか? あたし、もっとちゃんと治せるのに! あたし……あたしは――あたしにはそれができるのに」
優しくしてもらって、大事にしてもらって、それなのに何の役にも立てないなんて悲しすぎる。アンジュの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「アンジュ――そんなこと、しなくていいんだよ」
ミゲルがアンジュの髪をそっと撫でる。
「そんなことをしなくても――特別な能力があってもなくても、アンジュはアンジュだ。だからさっきみたいに『これしかない』だなんて悲しいことは言わないでほしい。僕はアンジュの素敵なところをたくさん知っている。――素直で、とても純粋で、誰かを疑うことなんて考えもしなくて、だからこそすごく傷つきやすいってこと。不器用で、寂しがりやで、それから困っている誰かを放っておけない優しい人なんだって」
「ミゲル様……」
オーガストに『都合のいい女』と言われた時から、アンジュは自分を完全に見失っていた。彼から贈られてきた空っぽの『愛している』の言葉を思い出し、一体どうして、自分のどこに愛される要素があったのだろうと自問自答を繰り返してきた。
けれど、ミゲルの言うことが本当ならば――少しは自分に自信を持ってもいいのだろうか?
「僕は君のことが好きだから……君にも自分自身を好きでいてほしい。誰かの都合で動くんじゃなく、君自身の意思で、好きなように生きていいんだよ」
「好きなように……」
言葉が、ぬくもりが、アンジュの心に優しく染み込んでいく。
「そうですね。だったらあたしは、ミゲル様が――ミゲル様の大事な人を助けられたら嬉しいから、自分の能力を使いたいです。どうか、あたしにやらせてください」
もう一度。今度は誰かのためでなく、きちんと自分の意思で。
アンジュの気持ちが伝わったのだろう。ミゲルは「わかった」と嬉しそうに笑った。
それから、アンジュのもとに毎日たくさんの人が訪れるようになった。長い間病に苦しんでいた人、怪我に苦しんでいた人、医者では治すことが難しい人々が。
やること自体は故郷にいた時とほとんど変わらない。大きく変わったのは、患者から直接お礼を言ってもらえるようになったことだ。それだけでアンジュはとても嬉しかったが、何より嬉しかったのは、ミゲルの幸せそうな表情を見られることだった。
「皆がアンジュの素晴らしさを知ってくれて、僕はすごく嬉しいんだ」
自分が褒められているかのように満面の笑みを浮かべるミゲルに、なんだかくすぐったいような気持ちになる。まるでかつての自分を――オーガストが褒められるのを見て喜んでいた自分を見ているかのようで、そこにどんな気持ちが潜んでいるのかを想像してしまって、何だかとても恥ずかしい。
(恋愛はもう、懲り懲りのはずなのに)
誰かを好きになることは、止めようと思って止められるものではないらしい。もちろん、アンジュがミゲルに好意を抱いているからこそ勝手に期待をしてしまうだけで、ミゲルには全くその気はないのかもしれないけれど。
『アンジュと結婚? バカを言うな。あんな平民と、この俺が結婚するわけがないだろう?』
――もしかして、と思うたびに、アンジュの脳裏にオーガストの言葉が冷たく響く。
そもそも、ミゲルは領主の息子だ。彼とアンジュが一緒になる未来なんて存在しない。オーガストの件で、嫌というほどわかっているはずなのに――。
「今度ね、父上から屋敷をもらうことになったんだ」
出会ってから数カ月が経ったある時、ミゲルがおもむろにそう話を切り出した。診療所から屋敷への帰り道のことだ。
「よかったですね! それってどんな……」
「君の新しい家にどうかと思って」
「……え?」
ミゲルがじっとアンジュを見つめる。
この数カ月間、新しい家を探そうとするアンジュに『このままここにいるといい』と押し留めてきたのは、他ならぬミゲル自身だった。それなのに、ミゲルがもらう新しい家にアンジュをとは――
「結婚しよう」
ミゲルがアンジュを抱きしめる。アンジュの瞳に涙が滲んだ。
「だけどあたし、平民で……」
「そんなの関係ないよ。既に父上の許可はもらった。領民たちも、絶対皆祝福してくれる。あとは君の気持ちだけ。アンジュが僕を好きになってくれたら――」
「ようやく見つけた」
と、ドスの利いた声が背後から響く。振り返ると、そこにはひどくやつれた様子のオーガストが立っていた。かつてのハキハキとしたオーラはなく、目にはくっきりと隈が刻まれている。一気に体重が落ちたのか、頬がこけて顔色まで悪い。
「オーガスト、様?」
「帰るぞ、アンジュ」
オーガストがアンジュの腕を強く引く。嫌だ、と言うまもなく、ミゲルがオーガストを引き剥がした。
「僕の婚約者に何か?」
「婚約者、だと?」
オーガストはそう言うと、ハハハと大きく高笑いをした。
「バカなことを言うな。アンジュの力は俺のものだ。一生、俺だけのものだ。そうだろう、アンジュ?」
ギロリと血走った目で睨みつけられ、アンジュはビクリと体を震わせる。ミゲルはアンジュを背後に隠し、オーガストを鋭く睨み返した。
「あなたはガストンニュ領のオーガスト様――ですね」
「だったら何だ? 君には関係ないだろう?」
「ありますよ。アンジュを連れ戻そうとしているのは彼女の力――治癒の力のためなのでしょう?」
「それ以外に何がある?」
オーガストはダン!と地面を踏み鳴らすと、ワシワシと己の髪を掻き乱す。――表情に全く余裕がない。アンジュはヒッと息を呑んだ。
「『それ以外に何がある?』……よくもそんなひどいことを。ガストンニュ領の噂は聞いてますよ。どんな病気でも治癒できる救世主オーガストの噂も。――しかし、最近では小さなかすり傷一つ治せなくなってしまったそうですね。それなのに、法外な治療費をむしり取っているそうで、裏切られた!詐欺だと人々が騒いでいるのだとか」
「なっ……! 違う、悪いのは俺じゃない! 勝手にいなくなったアンジュだ! アンジュさえ戻ってくればすべて上手くいく! だからこうして、わざわざ連れ戻しに来てやったんだろう!?」
オーガストはアンジュに向かって声を荒げたが、ややして無理やり笑みを作ると、アンジュの前に跪いた。
「なあ、アンジュ。お前は俺を愛しているだろう? だから戻ってこい。戻ってこいよ!」
「……は?」
どの口が、そんなふざけたことを言っているのか? 返事をするのもアホらしく、アンジュは眉間にシワを寄せつつ、ふいと顔を背けた。
「アンジュ! そんな……そんな冷たい態度を取らないでくれ。俺とお前の仲だろう? 頼むよ。俺はお前を心から愛している……お前だって知っているだろう? な?」
「知らないわ」
本当は愛情なんて一ミリもなかったくせに――そう罵倒してやりたい気持ちを必死にこらえ、アンジュはミゲルの背中にそっと抱きついた。
「アンジュ! いい加減にしろ! さっさと俺の言うことを――」
「――そういえば、救世主オーガストの噂を聞きつけた国王陛下が、数日前からお忍びでガストンニュ領を訪れているそうですね」
ミゲルはため息を吐きつつ、オーガストを冷たく睨みつける。その瞬間、オーガストの顔からサッと血の気が引いた。
「陛下が救世主オーガストの噂が嘘だとお知りになったら、一体どう思われるだろう?」
「やめろ!」
「あれだけ噂を大きくしておいて、今更できませんでは――」
やめてくれ!と悲痛な叫び声が木霊する。
「頼む、アンジュ! 戻ってこい! 戻ってきてくれ! 俺にはお前が必要なんだ! お願いだから……」
オーガストはおそらく、生きるか死ぬかの瀬戸際にいるのだろう。彼はアンジュに縋り付くと、涙ながらに懇願する。
「オーガスト様」
アンジュはオーガストの側に膝をつき、彼の肩をぽんと叩いた。期待に満ちた表情を浮かべるオーガストに向かってニコリと微笑むと、アンジュはそっと首を横に振る。
「絶対嫌です。あたし、都合のいい女はやめましたので」
「なっ! アンジュ……!」
声なき声があたり一面に響き渡った。
***
それから数カ月。
「『聖女アンジュへ――君の結婚を心から祝福する』か」
一枚の手紙を手に、ミゲルが優しく微笑む。
それはこの国で最も尊い男性――国王陛下からアンジュに向けて綴られた手紙だ。
オーガストがアンジュを連れ戻しにやってきた数日後、アンジュはミゲルとともに一時的に故郷のガストンニュ領へ戻った。
『真実を隠したままでは、オーガスト様に騙された人々が気の毒だもの』
事の次第を明らかにすると、人々は当然オーガストに対して怒り狂った。オーガストはこの事態を恐れていたのだろう。アンジュを連れ戻すことに失敗した後、逃亡を図ったのだが、ミゲルが捕らえ領地の人間に引き渡した。
そんな中、アンジュは国王陛下に謁見した。彼がお忍びでガストンニュ領を訪れたのは、治してほしい病気があったからだ。無事に治療を終えると、国王はアンジュに心から感謝をし、聖女の称号まで与えてくれた。
そして、散々人々を――国王陛下までもを騙し、私腹を肥やしていたオーガストは当然無罪放免というわけにはいかず、財産と領地を没収。爵位を剥奪されたうえで、現在は王都に投獄され、判決を待っているらしい。
「それにしても、どうしてあたしがガストンニュ領から来たと知っていて、黙っていたんですか? あたしが故郷を逃げ出した理由もとっくにご存知だったみたいですし」
白いウェディングドレスに身を包んだアンジュが、ミゲルに尋ねる。
「それは……怖かったんだ」
「え?」
何が?とアンジュが首を傾げる。ミゲルは頬を染めつつ、そっと下を向いた。
「君がオーガストのもとに戻ってしまうことが。もしも『やっぱりあいつのほうがいい』と言われてしまったらと……」
アンジュがふふっと声を上げて笑う。その表情からは、憂いも悲しみも、自分を否定する様子もまったくうかがえない。ミゲルにはそれが、あまりにも嬉しい。
「アンジュ、君は僕にとって、何よりも大切な女性だよ」
どちらともなく口づけを交わすと、二人は満面の笑みを浮かべるのだった。
本作をお読みいただき、ありがとうございました。
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拙作短編『あくまでわたくしの考えなのだけど。』について、ファンギルド様発行の「華麗にざまぁして、幸せを掴み取ってみせますわ!異世界アンソロジーコミック」 2巻にてコミカライズいただけることになりました。
2025/4/17電子配信開始予定です。
詳細は2025/4/13付活動報告をぜひ御覧ください。
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改めまして、最後までお読みいただき、ありがとうございました。